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1400年代後半からの関東の勢力について。
そもそも関東管領とは、鎌倉(古河)公方の補佐として関東に下向したはず。複雑で判りにくいので当時の関東情勢を教えてください。

1・どのようなきっかけで鎌倉(古河)公方と関東管領は権力を争うはめになったのでしょうか?
2・幕府は混乱を収めるために、新たに堀越公方をたてていますが、最初から関東管領のような補佐を任命してはいなかったのでしょうか?
3・山内上杉家の方が扇谷上杉家からみて主筋であるのにこちらも関東管領家を名乗っています。これは自認するところから名乗っているのでしょうか?それとも公式に幕府から認められていたのですか?(関東管領は何人いても良かった?)
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

1.関東公方と関東管領との主導権争いが、決定的な分裂になったきっかけは、享徳の大乱↓ です。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E5%BE%B3% …

2.関東公方として派遣しましたので、当然、関東管領山内上杉家が補佐をする建前です。

3.関東の武士団が認めればよく、幕府の言いなりにならない人物の方が、地元では好まれました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
1・どろどろした、古河公方と関東管領の2代にまつわる因縁を拝見し、また、原因を知ると、どうも管領の方が公方を諌めたのが公方の気に入らなかったようですね。
2・これには驚きました。既に古河公方が居ながら、また新しい公方である堀越公方の管領職までしているのですね(兼任)。まあ、堀越公方に新しい管領をつけると、かえって混乱するのは目に見えますか。
3・なるほど、関東武士は反骨精神旺盛ですから。納得です。反幕府(中央政権)なのですから、そこから派遣された公方に従うのは嫌って訳なのでしょうね。その意味では関東管領ご立派!となったのかも。

関東管領の威厳と言うか、実質の権威は余り無かったのでしょうかね。

詳しい回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/20 07:27

関東管領は原則一人ですが幕府が任命するもので山内上杉に限られていたわけではありません。

初期には他の上杉家から就任している例もあります。
ただ、戦国期になると幕府からの任命はなくなりそれまで山内上杉の家督といったいのようになっていましたが、戦国後期になると後北条氏も関東管領に任命されてそれぞれ正統と名乗って争そいました。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
回答者さまの回答は3の質問についてですね。
それで行くと自認と言ったところでしょうか。混乱に乗じて名乗っていたのでしょうね。あと守護代長尾氏は上杉憲政から譲られて関東管領を名乗っていましたが、あれも「有り」なのでしょうか?自認や譲渡が「有り」ならまさに「なんでも有り」状態ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/19 22:47

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