プロが教えるわが家の防犯対策術!

「くもん」と言う学習塾がありますが
中学、高校に行くにつれ、あまり効果はない、それどころか弊害すらあると言う人がいます
小学校までは計算力などを身に付けるために有効なのですが
中学に入ってからは、その形式のみにとらわれ、その本質を理解できないから、と言うことです
そこで、お聞きしたいのですが
「どうしてこうなるのか」
「この問題の意味、この式の意味は何なのか」
と言う疑問を持たず、また理解しないまま、それに対しての解き方のみを習得した場合、
一般にどのような問題が生じるのでしょうか?
皆様の意見を聞かせて下さい

A 回答 (5件)

Q、一般にどのような問題が生じるのでしょうか?


A、論理的思考力の低下と学力の誤認。学習意欲育成の軽視。

論理的思考力の低下は、あくまでもキャパシティーを抜きには語れないです。
5の力しかない子供が5の全てを習熟訓練に充当した場合。
10の力のある子供が5だけをを習熟訓練に充当した場合。
当然に、前者は論理的思考力の訓練に振り向ける余裕がありません。
当然に、後者は論理的思考力の訓練に振り向ける余裕が残存します。

ところで、小学校までは、習熟訓練の度合い=学力という側面が強いから両者の差は隠蔽されます。
しかし、学力が習熟訓練+論理的思考力の訓練の成果だとすれば、両者の差はいずれ顕著になります。
そういう意味では、私は、公文の問題集で高得点を連発しても、本当の学力は不明と思っています。
これは、私立中学の入試問題を視野に入れれば納得のいく考えじゃないでしょうか?
あれは、計算力+思考力を試してふるい落とすための試験ですね。
公文の問題は、この思考力を試すためのものじゃないと推察しています。

もちろん、学習意欲が最終的な決定因子です。
これは、「なんのためになぜ!」という興味と関心の産物です。
自らの疑問が知の獲得で解決した経験の蓄積が興味と関心の質を決定します。
単純習熟訓練の落とし穴は、この興味と関心の育成を時には犠牲にする傾向にあります。
単純習熟訓練の落とし穴は、この自らの疑問が知の獲得で解決する経験の蓄積に弱い所です。
まあ、ここら辺りが最大の問題かとも思います。
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「弊害」というのは、考え方がヘンかもしれませんよ。


公文式は、やり方を教える手法ですよね。「理由」を教えない訳ではないですが、その辺は弱いというだけでしょう?
「やり方」を知っていて「理由」を知らない、という例で、良く例えられるのに、車が走る仕組みは知らなくても、運転はできる というのがあります。
車の仕組みを知っている方が良いのか、運転の仕方を知っている方が良いのかという話に変えて考えてみるとすぐ分かると思いますが、どっちも知らないよりは知っている方が良いに決まっています。
ただ、「大人にとって」は、車の仕組みを知っていても実生活ではあまり役に立ちませんが、運転を知っていると生活するのに便利です。
子供達にとっては、運転できるかどうか、よりは、仕組みを知る方が、将来の自分の仕事を考えたり、好奇心を持ったり、科学的な視点・知識を身につけたりという、大切なことがある、というのは事実だと思いますが、「運転の仕方」を知らないでいい訳ではありません。

文部科学省が推し進めた「ゆとり教育」は、車の仕組みも教えず、運転の仕方も教えずに、エンストしたときの解決法を考える方法を教える、というのがその本質のように私には思えるのですが、公文式はそれよりはずっといいですよ。「無い知恵の絞り方」なんていう薄っぺらな知恵より、ずっと子供のためになります。

>>それに対しての解き方のみを習得した場合、一般にどのような問題が生じるのでしょうか?

これについての私の知っている解答は、子供が自分で考えて目の前の生涯を解決していこうという自立心でもある「問題解決力」が育たないことが挙げられます。
10年前と現在での子供の学力の違いをいうメディアがありますが、それよりもはるかに問題なのは、次の2点だと私は考えます。
 ・白紙回答(無回答)の割合が、日本の子供は世界の中で突出して多い。この傾向はここ10年で急激に増え、増えつつある。
 ・勉強への取り組み意識が極端に低い(世界的に見ても、過去との比較でも)

ゆとり教育は、「原理・原則」を教える代わりに、知識・技術を与えずに、知恵の運用をせまるやり方、
公文式は、最初に知識・技術を与えて分かる喜びを教え、「原理・原則」や知恵の運用は後からついてくると考えるやり方だと思います。
先の車の例でいうと、「車の仕組み」は一部の技術者になりたい子が知れば言い訳で、みんなには運転の仕方をきちんと教えようというわけです。
車の仕組みとエンストへの対処法だけ教えて、運転方法を簡単に済ませる教育よりよほど良いと思います。
技術者になりたい子には足りないけど、「弊害」というのではないかと思います。これを持って技術者になる子の成長の芽を摘んでいるというのは言い過ぎだと思いますし。

いずれも私見なので、違う見方もいろいろあるかと思いますが。
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数学は,論理的思考を養う手段,であると考えています.


従って,数学は「数」「方程式」に留まらず,
日常生活の論理的な考え方の基礎を形成するものだと考えています.
従って,論理的に考えることが苦手になることを招くと思われます.

勿論,数学の習得は,
まず解き方を覚える,次になぜその解き方なのかを考えて根本の考え方を知る,
そして新たな問題に適切な考え方を選択して適用する,の順番ですから,
公文はとっかかりとしては悪くはないとは思います.
即ち,公文が害をもたらしているのではなく,公文が問題を解くことだけに満足感を与えており,
そこで終わりがちになってしまうが問題であって,そこから更に一歩踏み出すことが必要なのだと思います.
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1番の問題は『応用が利かない』と言う事ではないでしょうか。



数学等は応用が出来なければ実生活で役に立つ事はほとんど無いと思いますので。
結果『役に立たない無駄な知識』となってしまうと思います。
更に無駄なのに競争意識ばかりを煽り立てれば、人格崩壊に繋がってしまう危険性も有ります。(実際そういう人は何人も見ています)
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個人的考えですが。


解き方のみを習得した場合、勉強を楽しいと感じる機会を失うと思います。
私の場合、中学までの勉強はまったく興味もなく楽しくも在りませんでしたが、高校での電子関係などの専門分野から勉強が楽しいと感じるようになりました。
今思えば、中学までの勉強は勉強しなければいけないからしていただけであって、高校での勉強は疑問を解決するための勉強であったように感じます。
結局勉強を楽しむかどうかは本人次第ですが、問いに対して解き方のみ
の単純労働に楽しみをおぼえる人はあまりいないと思います。
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