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私は「無知の知」というと
自分が知らないということを知る、という自覚の意味だと思っていたのですが、
どうもその「知」というのが
>ソクラテスの無知とは、善美のことがら
(徳)についての無知であり、それは「徳のなんであるか」についての無知である
と言ってるサイトがあったのでちょっと分からなくなりました。
これがそのサイトです。ページなかほどにありました。
http://www.eleutheria.com/philosophia/data/667.h … 

ソクラテスのいう「知」とは普遍的な知ではなく徳についてだけを指すのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

ある種のバカでしょうか?


素直であれば、何でも受け入れることも出来ます。
意見、知識、思いやり、思い入れ、情など。
他人への配慮も。

で、質問者さんの「徳」もそなわるでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
回答者さんも「徳」に「真理」が含まれるという点で
間違ってないという立場でしょうか。

ですが、
>>僕は今まで誤解していたが、「無知の知」というのは「善美(徳)について知らない」という意味であるらしい。決して専門的な知識や常識的な知識について知らないという意味ではないという。

って書かれていることを考えると結局このサイトが間違っているということでしょうか?

お礼日時:2008/02/14 09:42

勘違いだと思いますよ?


Wikipediaにも一般的な意味で載っていますし、その記述をした人が勝手にそう思っているだけでしょう。
軽く読んでみましたが、自分の思い込みや決め付けを勝手に普遍の真理と思いこんで語るという、三流哲学屋にありがちな文章でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
Wikiは気になったとき確かめてみました。
私もそれで合ってると思うんですが、ここでの意見も割れていますので
まだ自信がないですね。
Wikiも完全に信頼できる記述というには不安ですし。

お礼日時:2008/02/14 09:37

軽く読んでみたけど、リンク先の方の文章において徳(アレテー)は当然ですが、真理から導かれるということが書いてあります。

だから、別に間違いではないのでは。(中略)の先をよく読んでください。貴方と他の回答者の読解力が足りないのでしょう。

ソクラテスにとって、偽りの徳を語るソフィスト達を攻撃することは、「徳」の無知を指摘することでもあり、「真理」の無知を指摘することでもあります。徳は真理の具体的な事象でしょう。
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この回答へのお礼

>僕は今まで誤解していたが、「無知の知」というのは「善美(徳)について知らない」という意味であるらしい。決して専門的な知識や常識的な知識について知らないという意味ではないという。

って書かれていましたので気になったんです。
専門的・常識的なことも当然「真理」に含まれますよね?
それだとこのサイトが間違ってるってことでしょうか?

ご指摘の箇所は
>カントの『実践理性批判』の体系全体が一個の定言命法に収斂する如く、ソクラテスは、断片的に知りえた倫理的諸真理を一挙に集約する何か根本的な洞察を求めていたに違いないのである。そして、その根本洞察は、カントの定言命法の背後に「われわれのうちなる神」が要請されていたように、ソクラテスの場合にも、ソクラテスの深い信仰と結びつくものでなければならなかったであろう。それを、ソクラテスは見ていたには違いないが、理論化することが出来なかったのである。その理論化の不能が、「ソクラテスの無知」である。」

でしょうか?
これってこのサイトの人の推測ですよね。

お礼日時:2008/02/14 09:33

岩田さんが、カントを持ち上げるために、ソクラテスを矮小化させた文章のようですね。

この岩田さんってあまり論理的な方ではないような気がします。
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#2です。


自分の考えが正しいと思い込んでいる人はしばしばその考えに都合のいいように発想を飛躍させ、無闇に断言したがる傾向がありますよね。
実際私も「決して専門的な知識や常識的な知識について知らないという意味ではない」と思います。「無知の知」の「知」はもっと広く一般的な意味だと。つまり「徳」がどうこうという意味を含んではいてもその意味限定ではないということで、「徳」が真理から導かれるにしてもやはりリンク先は間違いでしょう。
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「無知の知」は自分が知らないということを知る、という自覚の意味ではないですね。


参考サイトにあるように「どんなに多くの知識や専門知識があっても」
「無知の知」なんですね。
この本当の意味は、「よって立つ土台が間違っているということを知らないでどのような知識を積み上げても所詮意味のないこと」という意味ですね。
本当の土台を善美というか徳というか、普遍の真理というかだけのことです。これは通常の普遍的な知という意味ではないですね。
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「自分が知らないと言うことを、知ってるだけでも


私の方が、すぐれている。」でいいですよ。
自分は、たいした人間ではないと言うことを知ってる分だけ
それに気がついてない人より、少しはまし。と言うところでしょうね。
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No.7ですが、追伸・・・。


多分場面的には、わかりもしない人が壇上に立って、えらそうに
理屈をこねてたんだと思います。
それを見てたソクラテスが、私もわかってないが
あそこに立ってないだけ、私の方がまともな人間だ。
と思ったのでしょうね。
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どうも、はじめまして。



取り合えず疑問に対しての回答は「無知の知」の真意も、そのサイト・本が間違っているのかどうかも「分からない」です。

私はソクラテスではありませんし、彼から真意を聞いたこともありません。
もしかしたら…ですが、ソクラテスが誰かの言葉を引用した可能性等もあります。
よって正しいとも間違いとも言えません。故に誤解してないと断言できる人なんて居ません。

結局の所、思いたいように思えばいいんですよ。
まぁ、私は「他人の言葉」は己の言葉を生み出す踏み台・反面教師とすべきであって、
それについて以下の様なことは(あくまで極々個人的に)好ましくないと思いますがね…
・理解していると公言する
・誰かを攻撃する武器にする
・それを正と思ってしまい、己の言葉へと繋げられない

そして誤解を承知であえて「無知の知」を訳するならば…
何を知らないかを知っている者は、何を学べばよいかを知っている者である。
で、そこに繋げる言葉は…
故にその者は真に何も知らぬ者より一歩先に居る。
その一歩は見つけられぬ程大きく、また見つけられぬ程小さい。

では、失礼致します。
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さてさて、ソクラテスについて語るなら、やっぱりソクラテスの一番の弟子であるプラトン君に登場してもらいましょうか。


彼の本に、ソクラテスの裁判の様子を記録した『ソクラテスの弁明』という本があります。
そこで、プラトンはソクラテスが次のような弁明をしたと書いています。

===以下引用===

私の智慧に関する―もしそれが実際智慧と言えるものならば―またその性質に関する証人として、私はデルフォイの神をたてる。思うに諸君はカレイフォンを知っておられるに違いない。(中略(以下「…」で示す)
彼はかつてデルフォイに赴き、次の如き問いに対して神託を求むるの大胆を敢てした。「…」
即ち彼は、私(ソクラテスの事)以上の賢者があるか、と伺いをたてたのである。ところがそこの巫女は、私以上の賢者は一人もいないと答えた。「…」
その神託を聞いたとき、私も自問したのであった。神は一体、何を意味し、また、何事を暗示するであろうか、と。私が大事においても小事においても賢明でないということはよく自覚しているところであるから。して見ると、一体どういう意味なのであろうか、神が私を至賢であると言うのは。けだし神にはもちろん虚言のあるはずもない。それは神の本質に反するからである。「…」
私は賢者の世評のある人々の一人をたずねた(政治家)。そこにおいて「…」神託において反証をあげ、そしてこれにむかい「見よ、この人こそ私より賢明である、しかるに汝は私に至賢であるといった」と、主張することができるであろうと考えながら。「…」彼と対談中に私は、なるほどこの人は多くの人々には賢者と見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、しかしその実彼はそうではないとの印象をうけた。それから私は、彼は自ら賢者だと信じているけれども実はそうではないということを、説明しようと努めた。その結果私は彼ならびに同席者の多数から憎悪を受けることになったのである。しかし私自身は、そこを立ち去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男より賢明である、なぜといえば、私たち二人とも、善についても美についても何も知っていまいとおもわれるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りはしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、すくなくとも自ら知らぬことを知っているとは思わないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で優っているらしく思われる。それから私は、前者以上に賢者の称あるもう一人を訪ねたが、まったく同様の結論を得た。

『ソクラテスの弁明』久保 勉・訳 岩波文庫
※()は私が付け足しました。
====以上===

この後、ソクラテスは様々な人と問答を繰り返したことを述べ「尊敬されているひとよりも世間一般の人の方が智見において優れている事」を知ったと述べ、詩人は智慧というよりも「自然的素質と神懸かりとによ」って美しい詩を書く一方で「その真義については何らの理解もないのだ」と悟り、また手工業者にあっては「私のの知らない事を知ってい」て「その点は彼らの方が知者だった」けれども「その業とせる技芸に熟練せる故をもって、他の最も最大の事柄に関しても最大の識者である」と誤解している。
そして、「私自身と神託とに対して、自らあるがままである方が、私にとってよいのだ」と結論付けます。

以上が、プラトン君による「ソクラテスの無知の知」ですね。
私は、この『ソクラテスの弁明』と質問者さまが引用されているサイトを読み比べてみて、どうもサイトの文章は「カントの哲学にソクラテスを結びつけようとして、都合の良い解釈をしているな~」と観じました。
確かに、ソクラテス哲学においても「正義(徳)」というのが「キーワード」として出てきますが、、、。
素直に読めば、「無知の知」とは、「されば私は、すくなくとも自ら知らぬことを知っているとは思わないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で優っているらしく思われる。」ということですね。
一度、『ソクラテスの弁明』を読んでみてはいかがでしょう?
文庫版で60ページくらいの短いモノですので。
ついでに岩波文庫なら、もれなくプラトンのもう一つの作品『クリトン』がもれなく付いてきます(笑)
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