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 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

 このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。
 哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

A 回答 (51件中41~50件)

昔の人が言ったではないか。



「七回の七十倍 『絶望』しなさい」
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この回答へのお礼

 taco8chさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「七回の七十倍 『絶望』しなさい」
 ☆ そのあと 《赦す》能力など 人には ないと自覚するという意味ですか?
 えぇっと それは たぶん 違うと思います。質問者が 自分の意見を言えばですけれど。

 つまり すべて 終わりから始めるからです。少しづつ 彼岸に近づくという経験論法によっては 理性は 満足しないですし 実際 信仰にあっては 違うはづです。もし 赦す能力があるとするなら 一切を初めから赦していると思います。そこから 出発すると考えます。(と考えるようになっています)。

 ですから 中途半端に《赦す》を持ってきても だめなのであって いっそのこと 概念として《赦す》は もともと 人には与えられていないという命題を得るようになったのです。
 いかがでしょうか?

お礼日時:2008/06/13 21:16

こんばんは、brageloneさん。



『人が 人のあやまちを赦すことができますか』

タイトル眺めてみてるんだけれど、「人」っあるけれども

「どんな人」とかは特段限定してはいませんよね?

漠然と「人」と書いてあるだけですよね?

「赦す権利も資格も ない」+「人」…つらつらつら考えてみる…

赦すってのを許すに置き換えてみると

「許可する」+「人」、指導的立場の人で権利も資格もない。

パート?

正社員と同等、若しくはそれ以上の働きをしていても権限がない

ないにもかかわらず、自身で判断を下さざるを得ない場面に遭遇する

統括責任者の不在

【QNo.3647182 水子思想と無明と覚り】 ANo.6
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3647182.html
『誰も知らない』
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-503.pdf


【わかち書き】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E3%81%8B% …
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この回答へのお礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ここまでのお礼欄で補足していますので そこを読んでいただければよいと思うのですが。
 たしかに わかりにくいようです。わたしも いったい どこへ向かっているのか どこへ行こうとしているのか 分からなくなってきました。
 ともあれ この質問を抱いた時点での問題意識を どこまでも追究してまいります。

 ★ 『誰も知らない』
 ☆ 子どもが 親から捨てられる。でも育っていく。
 ううん。いま なんとも この質問に沿って 応対できませんが 赦すという行為 わたしたちは 手放すことになるのではないか こう思ってのことです。

 分かち書きについてまで ご配慮いただきました。ありがとうございます。読点のない文章は 読みづらいでしょうか?

お礼日時:2008/06/13 19:45

俺の解釈不足ならスイマセン。

つまり、不完全な人が不完全な人を裁く(赦すとは意味が違いますが、大袈裟に表現すると)事は己も罪人の為、無理があるのではないか?と解釈しました。哲学的な回答ではないのですが俺個人としては答えは出ないと思いますが無理矢理答えを出すとするなら、質問者様の結論だと変な話、神様?でなければ人の罪を問う事が出来ません。今の世の中、不完全な人が作ったルールの中での罪なので不完全な人が人の罪を問う事も可能ではないでしょうか?そうしなければ世の中成り立ってませんしね。
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この回答へのお礼

 ten777さん ご回答をありがとうございます。

 そういうことだと考えます。《あやまたない者のみが 赦す あるいは 赦さない という行ないを為すことができる》というのは おっしゃるように 《裁く》という場合と 同じようだと まづ思います。
 けっきょく 赦すにしろ 裁くにしろ 三段階があると思います。
 人と人(倫理) 人と社会(国法) そして 人と絶対者(真理)です。
 ちがいは 《裁く》場合は 国法としては はっきりとした取り決めがあって そのとおりに行なわれることではないでしょうか。そこでは あまり《赦す》は 法律としては かかわらないようです。

 では 赦すは 個人どうしの間で 大いに関係してくるかと言いますと その気持ちとしては そうですし 思想としても哲学としても 一見 そのとおりに思えます。ただ 気持ちは なんとも 言えないのですが 哲学としては そのかかわりというのは むしろ きちんと思考しておくなら もう かかわりがないという結論に到達するという意味で そうなのではないか こう考えました。

 たとえば 自分は けっきょく 自分を赦します。誰もが そうです。だとすれば 人に対しては どうか。自分と同じ存在であるのではないか。つまり 人が人を赦すという考えそのものが あまり 社会的な効果のある概念としては 成り立っていないのではないか。こう思うようになったのです。いかがでしょう?

お礼日時:2008/06/13 19:34

一言居士が一言二言三言だけ吐いて去ります。



「赦す権利も資格もない」なら、「赦さない権利も資格もない」のですよ。
赦すことができないのと同じくらい、赦さないでいることというのもできないのではなくて?

まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・
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この回答へのお礼

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 いや そうですよ。おっしゃるとおりですよ。人は 人つまり けっきょく自己も含まれますよね その人やそのあやまちについて 赦すという概念が 不要になるという意味です。あたかも《罪》という言葉が不要になるのと同じようにです。

 ★ まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・
 ☆ そうですが これは いわゆる私刑 リンチですね そのような振る舞いに及ぶときの考え方ではないですか。

 自分を赦すというのが あまり意味がないのと同じように または 自分は けっきょくつねに自分を赦しているように 人に対しても 振る舞うようになる。つまりは 赦す・赦さないという概念をもって その概念を転がしつつ 相い対するというのは もう旧い考え方になるのではないか こう飛躍してきています。
 交通規則は 取り決め合っておいて それに沿って 事後処理はおこなわれるわけですが。

お礼日時:2008/06/13 19:21

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。



人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります
ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある
尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない

これが一番簡単で判り易い考えだと思います


>赦す権利も資格も ないのではない

これも状況次第
「赦す権利や資格」とは、人が生まれた瞬間に発生するのではなく、何らかのトラブルがおきた際に発生する物だからです
つまりトラブルの部外者は、そんな権利や資格は持ってないけど、当事者(被害者)は持っている
まあこれも状況によっては引っくり返るかもしれません
もし、元々そのような権利や資格がないのであれば、「赦す」という言葉自体意味を成さないので存在しなかったはずです



個人的にはご質問者様がなんでそのような考えに至ったのだろうと気になりますが・・・



あと哲学を考えるのであれば、基本はケースバイケース
「答えはこれだ」と一つに絞ろうとせず、状況によって判断せざるを得ないと思って柔軟になって下さい
理論と現実は異なります
いや、流石にこの辺りはご理解されてますよね
失礼しました



PS.ご質問の内容とは全く関係有りませんが、読み手の事をもう少々考えて文章の書き方を選んで貰えると幸いです
「句点」の代わりに「空白(スペース)」を使っているのでしょうか?
また少しでもオリジナリティを出したいだけ?
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この回答へのお礼

 ap10さん ご回答をありがとうございます。

 まづ読点(、)の除去については 《オリジナリティを出したい》気持ちがありますね。もともとは 手書きで原稿用紙に書いていたとき 一枡あけるだけのかたちにしたところからです。先駆者がいるので オリジナルではないですが。読みにくいですか。たぶん 読みづらいというよりは めづらしいので 気が散るかも知れないとは思うのですが。
 でも ap10さんは 句点(。)を省いておられますよ。

 ★ 人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります。 / ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある / 尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない。 / これが一番簡単で判り易い考えだと思います。
 ☆ これまでのご回答へのお礼欄にも 何度か書いていますように 《赦す》というおこないに 人は 直面することは必要がない こういう命題を提出したというのが 今回の質問です。
 内面主観において どれだけ そういう行為をおこなってもいいわけですが そして 口に出しても なんら構わないわけですが そもそも 《赦す》という行為は 《あやまちを犯さない者》だけが為すものではないか これが 根拠です。

 むろん トラブルや違法行為について 社会的な取り決めにもとづいて処理されるのですが 個人として 人やそのあやまちを――つまりは 自己のあやまちについても 同じことになるわけなので――赦すという行ないを ほんとうには(つまり 社会的な効果を伴なったかたちでは) 為すことはできないし 為す必要はない。こうなりました。この飛躍について それはこうだ / いや これこれだというふうに おしえて欲しいという質問です。
 むろん 現行の思想や制度と違っていることは 承知の上でなわけです。いかがでしょう?

お礼日時:2008/06/13 19:12

具体例がないと考えにくいのですが、


たとえば、殺人鬼がいて、見知らぬ通行人を刺し殺しました。
被害者の親族の一人は、「とても赦せることではない」と発言し、
別の親族は、「悲しいことではあり、行為は赦せないが、
狂人同様の人は、赦すしかない。ただし、行為に対する罰は
社会的制裁としてそれ相応に実行してもらいたい。」と
発言したとします。この場合、罪と人を分けて考えています。
罪は赦せないが、人は赦すと言っているようです。

>赦す能力も権利も資格もない
のならば、「別の親族」の発言で、人を赦せるとは決して言ってはいけないとなりませんか。「罪を憎んで人を憎まず」なんて不可能で、戯言だと。誰一人、人を赦す発言はできないものだと。よくも赦すなんて言えたもんだという方向でその「別の親族」を非難することでよろしいでしょうか。逆質問になってしまいますが、補足をお願いします。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 わたしも こんがらがって来ました。まづNo.2へのお礼欄から 次の説明を掲げます。(少し修正しました)。
 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。

 あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。(たぶん これが 一番の根拠です)。

 あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。
 つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく 《分かりました こちらこそ ごめんなさい》と詫びたという場合です。

 このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お尋ねの件は こうです。すなわち 赦すという言葉を口に出しても 一向に構わないのですが 《思考の上で・哲学の理論として そもそも 人は 人を赦すというおこないに直面する必要はない》という考え方を 提出しています。方向が 微妙に違うと分かっていただけると思うのですが。
 
 ★ 殺人鬼の通り魔
 ☆ この事例じたいについては いまのところ 《話し合い》を わたしとしては 用意しています。しかも 大きくは 加害者とも《話し合い / 和解》の方向へ行くというものです。
 法治社会としての社会的制裁については 《別の親族》の発言どおりに 《それ相応に実行される》ことを予定しますし そのように執り行われるものと考えます。

 まとめとして。
 赦すとか 赦せないとか 口に出して言っても なんら問題ありません。
 問題は その赦すあるいは赦さないという行為が 言うならば まったく個人の内面主観の中でのみ 持たれるに過ぎないということが 現実になるのではないか これです。

 ですから 社会的に効果を伴なって行われることは たとえば その不法行為についての理論的な批判であるとか あるいは 逆に その加害者の 更生・のちのちの社会復帰を 応援する(妨げない)であるとかになると思うのです。

補足日時:2008/06/13 18:53
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例えば、2本鉛筆を持ってたとします。


一本は、人にあげれます。

例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。

質問者さんは、どう思いますか?

一生、うらみます。
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この回答へのお礼

 rongo-dogさん ご回答をありがとうございます。

 えっとですね。《赦せる》か赦せないかの問題とも 微妙に違うのです。たとえば その場合は わたしは《赦す》のは 非常に むつかしいです。という答えです。

 《〈赦す〉のは 非常にむつかしい》と言っておきながら では なんで こんな質問をするのか。そうではなく わたしたちが 人を《赦す》という課題を頂く必要は ないのではないか こういう問いなのです。
 上に掲げた質疑応答でのわたしの書き込みにも 《おこないの欠陥を憎み批判し 人を受け容れつづける》と表現したのですが 《赦す》主題には 正面からは 向かって行っていないのです。
 それも そこから さらに進んで 《赦す》という能力も権限も 人にはないのではないか / だから 《赦す》という行為をするかしないかは かかづらわなくてもよいのではないか こう思うようになったというところなのです。

 ★ 例えば、2本鉛筆を持ってたとします。 / 一本は、人にあげれます。 / 例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。 / 質問者さんは、どう思いますか? / 一生、うらみます。 
 ☆ この事態そのものについてでしたら こう思います。二つの場合に分かれます。
 人じたいが 傷つけられた場合 この場合には 先ほどから述べていますように 赦すことは わたしにとって 非常にむつかしいです。その気持ちの上での整理がつかないと思います。
 そして 鉛筆などの物でしたら たとえ高価な宝石であれ何であれ 比較的簡単にあきらめがつきます。と思います。

 果たして 人には 赦す能力と権限があると言えるでしょうか。いかがでしょう?

お礼日時:2008/06/13 18:22

平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。



或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。
諦念とか判断の停止といいます。
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この回答へのお礼

 miko-desiさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。何も七面倒なこととして 命題を出そうとしているわけではないので おっしゃっているような日常生活の中の振る舞いは ごくふつうに見られると まづ思います。
 そして 思惟の経歴としては 七面倒な過程をとおってでも しっかりした推論をしておきたいと思うのですが どうなんですかねぇ。

 ★ 或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。
 ☆ という場合には 目指すべき境地として 《赦す / 赦し得る》地点を出してこられるのかと思ったのですが さにあらず。
 ★ 諦念とか判断の停止といいます。
 ☆ という結論なので 肩すかしなのですが まづ
 ★ 判断の停止
 ☆ が エポケーとしての判断中止であるなら むしろ さらに判断を究めるための処置だと思うのですが そうでもなく けっきょく
 ★ 諦念
 ☆ に入るということでしょうか。だとしますと これは けっきょく
 ★ 平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。
 ☆ と同じ結果ですね。途中で 思惟のあとがあったかなかったか 多いか少ないか の違いでしょうから。
 
 そうですね。この質問としては 諦めるという場合には 《赦す》か《赦さない》かを決めるという思考形式の上にあると見ているのです。そうではなく 人にそういう《赦す》権限のようなものが 果たしてあるのか これを問うています。
 ないのではないかと問うています。互いに あやまつ存在どうしであるから そのあやまちを 赦すかどうかは ほんとうには問題にならず たとえばあたかもエチケットのごとく 《分かりました》と言って もうその過ちを咎めないこととする。そうなるのではないか と問うています。

 《忘れる》ことと同じように見えますが 一区切りを打つかのごとく あるいは いわゆるけじめをつけるかの如く 過ちのあとに 挨拶があるわけです。その挨拶を受け そして こちらも 挨拶を返して それで あとは とがめも問題も無しというふうに もっていくのが よいのではないか こんなところまで 飛躍しました。
 ですので これについて みなさんから おしえて欲しいという趣旨になります。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/06/13 18:05

>人には人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが


>分かりやすいのではないでしょうか?

その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。
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この回答へのお礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。

 ★ その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。
 ☆ なぜ分かりやすいか / ほんとうに分かりやすくなったのか を問うているのが この質問です。
 
 もし わたしにとって分かりやすいということが 人にとって そうではないとなれば それは 一般に 哲学の質問ではないでしょうし 哲学でもないでしょう。
 《人にとって そうではない》とも言わない / 明らかにしないというのは 哲学の態度ではないと思います。
 そこのあたりを 検討してまいりたいと思います。

お礼日時:2008/06/13 15:30

哲学とはギリシャ語でフィロソフィア、学問一般のこと。


が、独自に(1)世界観、(2)認識論が主たるテーマに。

ところで、人のあやまちを赦すかどうかは、単なる個々人の判断の問題。
赦せる場合もあるでしょうし、そうでない場合も。
赦せる人もいるでしょうし、そうでない人も。

(1)世界観、(2)認識論を持ち出すテーマじゃないでしょうね。
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この回答へのお礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。

 アドバイスについては すべてが 《世界観 / 認識論》だと思いますが いかがでしょう?

 それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。

 あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。
 あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。
 つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく こちらこそ ごめんなさいと詫びたという場合です。

 このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?
 すなわち 
 ★ 単なる個々人の判断の問題。
 ☆ を超えているというのが 哲学の解答になるのではないでしょうか? 分かりませんが 検討に値すると思われるのですが いかがでしょう?
 仮りに 哲学の解が出たとして 出たからと言って その解に人が 強制的にしばられるということがないのは 言うまでもありません。

お礼日時:2008/06/13 14:44

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