プロが教えるわが家の防犯対策術!

哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね?
頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。
けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。
私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。
歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。
数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね?
漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。
はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。
どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。
酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

A 回答 (13件中1~10件)

数学 vs 哲学  Good Point!ですね。



新潮文庫、ヤスパース「哲学入門」に、
ギリシア最初の哲学者、タレスから、二千六百年の探求を重ねて、
哲学は、まだ真理にたどり着いたことが無い。
いや、『これぞ、真理なり』と世に言明した人は多くいて、世間もそれを真理としたのだが、
それらはすべて、誤謬だった。
だからこそ、今、哲学をせねばならない。

哲学とは、真理を探究すること。その真理への、途上にあること。
だから答えよりも、その問いが、重要だ。
哲学とは、探求しながら、その途上にあること。だから、生きた思想を実現し、行動し、その行動について語ること。
何のために生きるのか、どう生きるのか。行動し、行動を語る。それが哲学。

コリン・ウィルソン「アウトサイダー」には、
数学とは、『高められた算術』である。1+1=2 という誰にも普遍の真理を、
ただひたすら積み重ねて、だれが挑んでも、必ず同じ結果になる学問。それが数学。
いま私たちは、
実存哲学・そして構造主義を『高められた算術、いや、高められた常識』となしえたなら、
すべての人は常識として、幸福を体感し、世界を平和にできる。私はそう信じています
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哲学は数学に近いと言うよりも物理学に近いです。

数学は、この現実の宇宙や世の中の事象には関係なく、人間の脳味噌が描き出すことの出来るあらゆる論理の整合性を探る学問です。そして、その整合性の追求は、究極、論理間の文法的整合性と言うことになり、したがって、数学は言語学の一種である文法学に帰着してしまいます。また、「あらゆる」という言葉からも判るように、数学は必然的に一般化の方向へと向かいます。一方、物理学は数学と言う言語を使って、我々の住んでいるたった一つしかないこの宇宙の特殊性を探り、この宇宙があれではなくてこれだと言う個性を探る学問です。したがって物理学の論理は数学とは反対に必然的に特殊化の方向に向かいます。また、物理学者にとっては、ちょうど詩人にとって言語がその詩人の世界観を表現する時の道具であるように、数学は単に道具でしか在りません。ただし言語の使い方を間違えると、この宇宙に無関係な無意味な結論に到達してしまいますので、詩人も物理学者も自分の道具にこだわるのは当然です。

同じように、哲学も言語にこだわりますが、それは数学者のこだわりではなく、物理学者のこだわりと同じです。哲学者は実在する人間に無関係な、ただ単に頭で論理的に整合性を持った存在には興味がありません。したがって、出来るだけ実在する、すなわち、あれではなくてこの人間という存在から逸脱しないように、論理の罠にはまり込んで無意味な思索の遊びに落ち込まないようにするために、物理学者と同じように言語を出来るだけ慎重に、そして透明に使う努力をしているのです。

ここで、「透明」と言う言葉を使いましたが、これは無意味な思索の遊びに落ち込まないための、キーワードです。ただ単に精確さだけを追求していると、しばしばその表現が途轍もなく複雑になって不透明になってしまいます。ですから、その人が今思い浮かべていることの本質には第一義的ではないと考えられることまでも精確に言おうとすると、論旨が不透明になって何が何だか判らなくなってしまうことがあります。しばしば透明性と精確性は両立しない場合が在りますが、文法学者や数学者ではない哲学者や物理学者は、そんな場合には精確性を犠牲にしてでも、透明性を確保すべきです。でないと、本質が見えなくなってしまうからです。

また人間とは程度が低い者で、何か目新しくて程度が高そうな言葉に出会ってしまうと、ついそれを使ってみたくなって、それを聞き慣れていない者を煙に幕まいて悦に入っている場合がしばしば在るからです。そんな例は「インセンティブ」だの「マニフェスト」だのマスコミ関係では諸っちゅう出会いますが、哲学では「イデア」なんて言葉がそんな例だと思います。私はこの言葉を始めて聞いたときに何かカッコいい、何か深みのある言葉のように感じていたのですが、後に哲学書を英語で読んでいたときに「idea」という言葉に出会って、なんだ、イデアってアイデアのことなのかと知ったとき、唖然としたことを覚えています。少なくとも英語国民が哲学でideaという言葉に出会ったときには、私のような未熟な日本人が考えているイデアとは違ったものを考えていることに気が付いたからです。

こと程左様に、哲学者ではなくて哲学学者とか哲学輸入業者とも言われる、日本によく在る型の哲学科の大学の先生方は、精確さばかりに気をとられて、言葉を物理学者のようには使ってない方が多々居りますので、彼等の書く本には注意をして読む必要が在ります。
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私は 数学が出来ません。

  こんな感じです。

小学校の分数を習う時期に病気で何度も死にそうになっていたことから、またその前後の状況から  ちょうど、たぶん数学の基礎を学ぶ時期を逃してしまったからです。

大学にはいきましたが、それは推薦入学でです。 数学はまったくわかりませんでした。

十何年か前に 電気工事士の免許を取った(数字の部分は鉛筆を転がして)ことから 分数って何かを調べましたが、  分母が下で分子が上のあの記号の意味もその上下さへの知らなかったのですよ^^。

ちゃんと 割合計算とか率の概念とかは 生活の中で使ったり考えたりもしてきたのにです^^。

これが現代日本人の一人か?という感じに なんと自分自身が思えてしまうところです^^。

しかし、昔私のよく知ってる人で、
身近に数学や物理に関して天才の方がいましたが、 その人はかなり人間関係では最初トンチンカンな発言もしていました。  ところがある時に 「数式を解いている時にまるで雪が降ってきたときのように静かな気持ちになった」と語ってくれた頃から 人間的にも変わってきたのです。

グライダーも趣味でやってる人で、空間の距離感が数字と結びついて理解できるとのことでしたが、やがて、その能力は宇宙空間にまで発展してゆき ビックバンからの宇宙の時空を体感出きるようになったとも言うようになったのですが、 その頃はまるで優しく人間が丸くなっていました。

何もかも解かったというのではなく 逆に神とはわからないということがわかったと言います。   宇宙が見えて その奥が見えないことに気がつく。   これが数学の宇宙なのかな。 というふうにその時思いました。

これは けだし、物質が“宇宙誕生以前にもなんらなのその創造エネルギーとして”最初からあったとしても、 そういう存在そのものがこれから永遠につづくとしても、  完全にそれが人間の脳を越える「謎」、“それ自体「謎」”という哲学からも おなじ地点の気がつきえるものだと思います。

時空は 哲学にとっても完全に「謎」のままであるはずです。

と、哲学からもおなじ「謎」についてなら「謎であることを理解できるとするなら 数式の世界とははるかなるまさに藝術の一種、 価値の深い趣味の世界(それの表現の世界とはまた違う面があるので藝術の《仕事》とは言えない)となるかと思うのです。

もともとは、この短い生涯において、数式とはこの人生のための道具であったはずです。   やがてそれは宇宙を知るための道具として短い生涯の道具という形を越えてもいきましたが、 それはこの生涯の切実な問題群の前には 趣味の価値としてところを得べき世界だったのではないでしょうか?

この世界は あってはならないような苦しみと関る問題群がめちゃくちゃあります。

それらを解決する力としての哲学を私は、ここに求めることになります。

哲学は道具? そうです“神(何か助けてくれる存在とかではなくて、簡単に言えば感謝すべ存在でありこの生の贈り物に対して答えるべき存在として神をとらえていますが)とともに生きる”と言う時のそのための道具です。

そして、その時一番大切になってくるものは というと、それは言葉では言えないような感性の世界の深みなのです。   言葉ではとても語れないような静かな安らぎの世界とか その表現の世界の加味がそこに加わるあらたな哲学が  実は一番大事となってくると思うのです。(話題のソシュールが見逃した地点、あるいはさじを投げた地点です。)

つまり藝術哲学が 今 生きた哲学として今度は言葉も含めて復活する必要があるということです。   それを私は なんと数学者から示唆されています。

どう思われますか。
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最初にお断りいたして起きますが、私は哲学者ではありません。

どちらかと言えば自然科学の方に属しているのかなと思います。従ってどの程度お役に立てるか分かりませんが、返事をとのことでしたので敢えて少し長くなりますがご容赦ください。

>頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。
それはそうなんですが、ある理論数学者が話しているのを思い出しました。それは
「琵琶湖の漣が光っている情景を切り取った絵画について、“この先になにがあるのでしょう?それを考えるのが数学者です。見てしまえば湖水の向こう岸の風景が見えるでしょう。それが回答ですが、そこに辿り着く道筋は無限にありますね?”」
と言う回答は如何でしょう?数字から数式を導き出し、計算をするのは数学者にとっては、どうもどっちでも良い事のように聞こえませんか?
哲学の楽しみ、苦しみも同じようなものだと思います。古来、回答のない問い掛けを問い続けてきた人間です。「人間とは何か?」、「何処から来て、何処へ行くのか?」。琵琶湖の対岸を湖面だけから考えようとするようなものです。
このような意味で
>哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。
と感じられたのは正しいのではないですか?もう、哲学の本質に迫っていらっしゃると拝察します。其の入り方が、集合論の数式の分からなさ、哲学者の語る意味不明であったり、何を言いたいのか良く分からなかったりが、原因であったとしても。
☆言語に関しては、神からの賜物、自然法から公共道具に到るまで色々な思考がされていました。乱暴な言い方をしますと、これを哲学的に考えたものが言語哲学だとなります。言語哲学の祖と言われるフェルディナンド・ド・ソーシュールはそれまでの言語起源論を否定したことにより、その後構造主義~ポスト構造主義へと発展したと思っています。
簡単にはウィキペディアで「言語哲学」で見てくだされば比較的分かりやすいかと思います。それ以外にも多くの方がコメントを出されていると思いますが・・・
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哲学を専門には学んでいませんが、単位とるために、この方面もちょっとかじる程度ですが、、、



言葉。
例えば 翼があって空を飛ぶ動物を、日本人はトリと言う。
でも、それはあくまで他者に伝えるための<記号>であり、鳥そのものを伝えてはいない。


ある本の訳者のあとがきに書かれていた言葉。


『ヘブライ語は何より先ず抽象観念を避ける言語であり、より正確に言えば、抽象化の概念不在の言語なのである。
律法の語彙は具体的で、直接的で、いかなる奸策もなく、<力>であり、イメージ・ソース(=自然)がありうる限り理解可能なものである・・・・

これに対してギリシャ語はすでに抽象概念にみなぎっていて、結果ギリシャ語の思考者達、ギリシャの哲学者達は正確には何を言わんとしていたのを、人はかつて、今でも、そしてこれからも問い続けることができる・・・・

さらに、ギリシャ語という師からかなり刺激を受けたラテン語は、<物のレッスン>を先ず第一とするヘブライ語クラスに入れば、およそ不出来な生徒ということになる。

ヘブライ語が、示す<もの>と一体であることを自負する言語であるとすれば、ギリシャ語は存在の射程から開放された記号システムの中に抽象観念、すなわち、指し示すものとの異体性を導入しているのである・・・・

だから詭弁家はギリシャ語的でしかありえない。
ヘブライ語的見地からしてみれば詭弁家は嘘つきでさえなく、明らかに愚者なのである。』


というわけで、物の本質を直接表せない言語を使うと、哲学においては、どこまでも終わりなく、議論ができるってわけですね。


日本語は?
日本人の場合、あまり言語を介して他者とコミュニケーションを取らないですよね。

討論に関して、日本人は苦手。
アメリカでは、討論の技術が盛ん。
何故なら負けると損するし、勝つと徳するから。
日本人の痛みわけという概念を理解できないと思います。

日本人は話し合って解決をすることをあまりしない。
日本人は「なあなあ」状態でも合意に達したりする。

「なにがOKなの?」と聞いても、言葉で説明せず、「もういいんだよ」とか両者はいがみ合うのをやめている。

日本人は何を介してコミュニケーションをとっているんでしょうね。
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数学と哲学では研究対象が違いますよ。


数学者と哲学者では修めた学問が違います。
この違いが数学と哲学、数学者と哲学者の違いです。
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No.4です。



ロクな回答でないにもかかわらず、私如きにあのようなご丁寧なお礼を下さり感無量です!

自らの駄文に苛立ちを感じたため「数式を解く際に求める美しさ」に係わる愛書『黄金比はすべてを美しくするか?』(早川書房)を昨夜再読致しました。
そしてご丁寧なお礼の中の「そう考えるとこの数と言葉という道具の性質の違いをもっと詳しく追及していきたくなりますね。」のご好意に甘えて再度投稿することをお許し下さい。
 
幾何学の創始者古代アレクサンドリアのユークリッドにより定義された黄金比。
それは数学的に定義されながら美しく心地良く調和のとれた性質の数式とみなされ、数学以外の分野で度々見出されてきたΦ(ファイ)。
ピラミッド、ピタゴラス学派の図形と音楽とバッハ、オウムガイのらせん構造、ルネッサンス絵画の遠近法から印象派、ダンテ「神曲」の構成、現代の株価推移のグラフに至るまで過去から現代に至る黄金比伝説に挑んだ作品で大変面白い読み物です。
(哲学書でなくて申し訳ありません)

最終章9「神は数学者なのか?」では、進化と自然科学、宇宙を理解するための「数学の不合理なまでの有効性」に言及しています。
「数学は、人間が経験とは別個に持つ思考の産物なのに、どうしてこんなにも見事に物理的現実の対象に当てはまるのだろう」と言ったアインシュタイン。
何故準結晶の存在を説明するのに、黄金比という、ユークリッドが純粋に数学的な目的でこしらえた概念が使えるのか。
またノーベル経済学賞を共同受賞したジョン・フォーブス・ナッシュ氏が「ナッシュ均衡」という非協力的なゲーム理論を説明した数学論文によって、のちの経済学、進化生物学、政治学といった多岐に渡る分野にまで多大な影響を与えることが出来たのか。

美しくエレガントな各種数式や図式にかかれば、いかなる事象も解明する余地がさもありえるかの如く、数式や記号を実際に多用して論破していく著者の思考に触れるにつれ、
「哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます」とおっしゃる事は、なるほど、的を得ているのかもしれないのだなぁ、と考えるに至りました。

あらためて質問者様の問われる「はっきりとした違い、境界とは何か」を再考するならば。

「数式では決して解く余地のあり得ない対象」に哲学者が対峙する可能性があり、また逆もしかりで、その【余地の有無=差異】と「一般言語と数式が各々支配する領域の【限界の認識】」こそが質問者様のおっしゃる「境界」と言えるのではないかと思います。

数千億もの星をもつ銀河の構造が非常に多くの場合にベルヌーイを魅了した対数螺旋曲線に一致するなどのように、通常一般言語を用いて哲学では究明し得なかった宇宙や原子といった世界を解明し得る余地のある数式の未知なる可能性や不思議さ、面白さ、そしてエレガントな美しさ。
そして現在用いている数式それ自体がこの宇宙で唯一の存在とも言い切れないという理不尽さをも、数学者はとっくに承知の上で自ら楽しんで思索しているようにすら思えます。

逆に哲学者も同様に数式では決して立証し得ない対象に一般言語を用いて心血を注ぐ一方、近現代の歴史が強いてきた数学に因る哲学領域の侵犯と今後の方向性をあまり快く思わない面があるのだろうか、などと考えたりもするのです。

口惜しくも更なる駄文と取り急ぎの乱筆乱文を質問者様をはじめ他の回答者の方々に対し深く失礼をお詫び致します。
こちらこそ本当にありがとうございました。
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こんばんは。


哲学と数学が絡められている事で、とても興味深く拝見しておりました。
門外漢が「門の外から壁を齧っている」程度の私ですが。。。

数学も哲学も、「世界をどう理解するか?」を命題にしているように感じます。
数学等、まさに「世界観を垣間見せる学問」だと思っております。
特に高校からの数学等、世界観そのものだ、と感嘆しつつ授業を受けておりました。微分積分、三角関数等はその最たるものではないでしょうか?

ゆとり教育が叫ばれ、小学校では円周率を「3,14」ではなく「3」で教える事になった、と聴いた時、これは、子ども達が知覚する世界を狭める事になるのでは?と危機感を抱きました。
小数点以下の計算を繰り返す事で見えて来る世界の奥深さ、それを子ども達から隔てる事になる。。。と私には思えました。

数学の世界では、数式は「世界を掴む(理解する)為の言語」そのもの、だと考えています。
哲学の場合の「言葉」も変わらないのではないでしょうか?
只、「数」と「式」で表すよりも、「言葉」は(日常で溢れ返っているので盲点となり)「定義が曖昧になり易い」ので、門外漢には「回りくどい」ように感じられるのだと思います。

ご質問の「境界」は、只「使用言語(数式か言葉か)の違い」だけではないかしら?と言うのが、私の私見です。
専門に学んでいる者でなくて申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>ゆとり教育が叫ばれ、小学校では円周率を「3,14」ではなく「3」で教える事になった、と聴いた時、これは、子ども達が知覚する世界を狭める事になるのでは?と危機感を抱きました。
小数点以下の計算を繰り返す事で見えて来る世界の奥深さ、それを子ども達から隔てる事になる。。。と私には思えました。
とても共感がもてました。初めて算数の時間で答えがでない事を学んだ、またそれを当たり前のように授業で教えられた事にちょっとしたショックを感じたのを覚えています。それまではこうしたらこう、というひとつの解が必ず出る事が当然だと自然に教えられていると感じていたので。あの繰り返しの数は、“永遠”を感じさせる日常とは別の認識での世界が現実には一緒に存在してるのだと感じ、また一歩違う思考の仕方を覚えたような気持ちになりましたよね。

>ご質問の「境界」は、只「使用言語(数式か言葉か)の違い」だけではないかしら?と言うのが、私の私見です。
専門に学んでいる者でなくて申し訳ありません。
いえ、とんでもないです。他の方の回答で実は私も結局yukkinn66さんと同じ様な意見となってしまいました。
哲学だけでなく数学を専門にしている方の意見も聞いてみたいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/26 10:44

chick33さん


イアン・ハッキングの「言語はなぜ哲学の問題になるのか」はご覧になったでしょうか?
恐らく「言語哲学」に関する本をお読みになり、まるで集合論のような数式に辟易されたのかと拝察いたします。
ご質問の趣旨に全く一致しているかと言われると、う~んとなりますが、少なくとも数式からは開放されます。それでもホッブスからデイヴィッドソンまでの近・現代の哲学史上のどのような問題意識の流れから「言語への注視」と言うテーマが浮上してきたかを扱っています。かなり自由な発想でケーススタディとして解説しています。(自分勝手との意見もありますが・・・)
勁草書房から出ていましたが。
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この回答へのお礼

回答と本の紹介ありがとうございます。
『言語哲学』という存在さえ知らなかったです。
半年前から独学で哲学史入門をさらっと読み、今は個人の哲学者の入門書を4,5冊(90分で分かる…というシリーズです。)読み始めているばかりです。
今回は自然といくつかのその入門書を読んでいてふと感じたので投稿させていただきました。
ご紹介して頂いたイアン・ハッキングさんの本なのですが、まだ未熟な私のような段階の者が読んでも理解できるレベルでしょうか??
今はまず最低限のレベルで哲学史、歴代の哲学者達への理解をざっくりとしっかりと認識していきたいと思うので。。
>ホッブスからデイヴィッドソンまでの近・現代の哲学史
 まだこれ↑自体しっかり把握できてないんです。
よろしかったらまたお返事もらえると嬉しいです。

お礼日時:2008/11/26 09:54

哲学カテにおいて思索にふけることに強い苦手意識を持つ反面、算数・数学・図形パズルを趣味で楽しむ者です。


質問者様のおっしゃる根本的な「境界」があるとすれば、それは一体何だろう、と素人ながら考えてみました。

質問者様が触れている「数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で解けるものを峻別し究明していく」という件ですが、結局は算数・数学における解く際に必要とされる「直観」とは、自らの過去の蓄積された膨大な質量からなる経験の積み重ねに過ぎないと思うのです。

例えば、ある人には図形の中に「いとも簡単に瞬時に浮かび上がって見える一本の線」が、決して他の人には見えざるものであり、そのたった一本の線が解答の出来不出来に大きく関与する場合。

脳の気質による得手不得手、図形センスの有無の差であると、短絡的に納得することもありがちです。
ですがその不思議な線でさえも、実は若かりし頃より精進し格闘してきた証であり、努力の賜物に他ならないと拙い経験上思うのです。
そしてそれはチェスや囲碁などの頭脳戦において、大局的な一番で要となる「ひらめき」にも言えることではないでしょうか。

翻って、哲学の思考においては全く同様なことが言えるのかどうか。
具象的な図形のセンスにあてはまる何かが存在し、実際にその経験則が必要とされるのかどうか。

また私事ながら、図形の問題には時間を長く割いて格闘することは比較的苦痛でなく面白さを感じられたのに、何故哲学においてはこの上なく面倒臭く退屈極まりないと思ってしまうのか不思議でなりません。

更に、数式は世界共通の最も明晰な「言語」ながら、よりシンプルに美しく解くのがスマートなことのように思われ自然とそれを目指します。
ですが、哲学においても同様に言えることなのかどうか。
必ずしも結果の正誤ありき、スマートさが重要ではなくて、必ずしも結論に至らなくともその思考過程の方法論こそが時に珍重されることもあるのではないか。

このように幾許かの拙い疑問を持つ私には、哲学と数学とは似て非なるものではないか、と思わざるを得ないのです。

何らまとまりのない酷い投稿になってしまい、参考にもならず申し訳ありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>また私事ながら、図形の問題には時間を長く割いて格闘することは比較的苦痛でなく面白さを感じられたのに、何故哲学においてはこの上なく面倒臭く退屈極まりないと思ってしまうのか不思議でなりません。
このような実体験でお話いて頂けるとこちらもリアルに実感でき、
真実味が増すので大変ありがたく、貴重に思います。
>更に、数式は世界共通の最も明晰な「言語」ながら、
よりシンプルに美しく解くのがスマートなことのように思われ自然とそれを目指します。ですが、哲学においても同様に言えることなのかどうか。
確かにそうですね。自分の知る歴史上の哲学者は素人から見て自分の 主張をどこから見ても間違いの内容に思わせたいという想いからたま に強引に言葉を並べている印象があります。結果明晰な答え、目指し た真理についての文章が複雑になっていき分かりにくくなるような気 がします。哲学を知る前は、哲学者達のイメージは純粋に真理を求め ていくような人物像をイメージしていたので、自分の主張、立場を少 しでも優先させようとするなんて思いもしませんでした、って私の誤 解かもしれませんが。
数式には私情ははさめないですもんね、ひとつの答えがあるか、間違 った解がでてきてしまうかどちらかでしか公に発表できない。
同じところを目指しているけれど扱う道具の違いにより(数と言葉)、 そのような違いが結果に反映しているだけのようにも感じますが。
そう考えるとこの数と言葉という道具の性質の違いをもっと詳しく追及していきたくなりますね。
またちょっと的外れのようなことをいってる気がしてきた…。

全然まとまりのないようになんて感じませんでしたよっ。
大変丁寧に思ったことを書いてくださり、参考になりました。
また何か思うところがありましたら是非ご回答の方お待ちしております。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/26 10:27

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