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いきなりですがなぜ、あなたは人を殺してはいけないと、思いますか。変な質問ですみません。

A 回答 (7件)

質問に対しての回答は


「いけないものはいけない!」からです。

半端に命というものを考えたり、半端に哲学や宗教をかじった人間ほどこのような質問をします。もっともっともっともっと勉強して下さい。
特に数学を勉強してください。突きつめて数学を勉強すると必ず、
「人を殺してはいけない」にたどり着きます。
言ってる意味がわからないと思いますが、勉強した人ならわかります。
ま、それは余談として、

それでは簡単に説明しましょう。
まず、人の命は相対化することはできません。
大事、大事でないの基準がないからです。
仕事なら、儲かるか儲からないかですね。
仕事上でこういうやり方をやったほうがいいか?
を考えるとき、あるいはなぜこのやり方をやってはいけないか?
を考えるとき、儲かるか否かを基準に考えればいいのです。
あるいは社会貢献できるか否かを基準に、あるいはその両方を満たすような基準があります。
しかし、なぜ人を殺してはいけないか?には基準になるものがありません。つまり人の命は相対化できないものなのです。
これを踏まえたうえで下記を読んで下さい。

この論題(なぜ人を殺してはいけないかという)を
持ち出した瞬間に
「人を殺してもいい」(テロや戦争推進派)と主張する人たちの思う壺なのです。なぜか?
人の命を相対化すれば必ず人を殺してもいい理由が存在してしまいます。
「自分の家族を殺されたら犯人を殺したいだろ!」
「やくざは人に迷惑ばかりかけて役に立たないから殺してしまえ!」
「死んでも来世があるんだからいいだろ!殺してしまえ!」
「国益優先だ!一人のアメリカ人を救うためなら1000万人の日本人を殺してもいい!」
などなど何らかの理由をつけようとします。
これに反論してしまうとさらにその反論が出てしまい
五分五分の言い合いになり、議論の土俵に引きずり出されてしまいます。

上記の理由での人殺しも理解できなくもありません。
しかし殺していいかどうかというのは上記のように特別な環境の
下の話ではなく人の命全般にかかわるいいか悪いかですから
一般に人殺しが正当化される理由などありえません。

ですから
「世の中にはしてはいけないことがある。人殺しはそのひとつなのだ!」これが結論です。

相対化について、
たとえば物品や作物などはその価値を相対化できますね。
隅々まで分析して評価できます。牛肉なら霜降りだとか
カメラならレンズが何枚入っているとか解像度がいくつだとか。
牛肉ならこちらのほうが油が乗っているから価値がある!とか
カメラならこちらのほうが解像度が高いから価値があるとか
牛肉同士でなくとも牛肉とマグロの間でも相対的に評価できます。
たとえば食感はマグロのトロのほうがいい!
というのが相対化できるということです。

ところが人の価値ということになると何を分析するのでしょう?
もし分析するとしたら脳ということになります。脳がその人間の成り立ちをつかさどっているわけですから。
ところがこの脳を解体して分析評価できますか?
解体した時には死んじゃってますよね。
仮に解体できたところでその価値を誰がどう決めるのでしょう。
ものさしがありませんね。
つまり相対的に価値を決められないものです。
他のすべてのものと比較評価できるのもではありません。
また、中身がわからないのですから代替できるものがありません。
代わりがない、つまりかけがえのないものということになります。
ですから、人の命というのは抹殺してはいけないのです。

もっと難しく言うと
ゲーデルというえらーい数学者がいます。
この人が不完全性定理というのを証明しました。
人間の価値という枠の中で、この枠が完全なものであれば
任意の命題(人の価値)は確実に決定可能になるのですが
ゲーデルの不完全性定理を当てはめると
この枠そのものが完全ではありえないのです。
したがって人間の価値は決定不能であるということになります。
価値のわからないものを
抹殺していいか悪いかなど議論できないし、また議論すること自体、考えること自体ナンセンスなのです。
したがって「だめなものはだめ!」としか言いようがありません。

不完全性定理といういのは
たとえばビーカーに何度かわからないお湯が入っている。
この温度を正確に測れ!
といわれても正確には測れません。
なぜか?
温度計を入れた瞬間に温度計そのものの温度がお湯に影響を与えてしまうからです。
またお湯の温度がわからないのですから温度計を同じ温度にしておいてから入れることもできません。
したがって絶対に正確な温度は計測できないということになります。
簡単に言うとそのようなものです。

評価できないものを強引に評価してもそれは間違った評価ですから
殺していい理屈にはなりません。
だからこの質問そのものがあなたが「変な質問ですみません」とおっしゃっているとおり変な質問なのです。

人間であるならこの疑問を持つ必要もないし
持ったところで何の意味もないものです。
もっと言えば持ってはいけない疑問なのです。

それ(なぜ人を殺していけないか)を考えるなら、
与えられた命の使い方のほうを考えるべきかと思います。
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法律とか以外の問題でしたら、


私の考えや思いは、人間は感情があり、知恵があるから・・・。
もし自分の心が汚れてしまっていて、自分が殺されても自殺しても構わなくても、それは自分だから。
皆それぞれ違うから。
人の心を理解できる能力を持っているから。
必死で生きている人が大半。
平等に思わなくては成り立たない。
でもそういう事を思えない、思えなかった、感じれない人が、感じれなかった人が殺人や、無差別を起こすのでしょうかね。。
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>>なぜ、あなたは人を殺してはいけないと、思いますか



まぁ、自分が死にたくないしねぇ。
殺しちゃいけない。って事で。

「自分が他人を殺してもいい」=「他人が自分を殺してもいい」に繋がりそうな気がします。

なんにしても、他人を殺すことで得られることが自分には無いと思いますので、殺すつもりもありませんけどね。


(んじゃ、いつも食べてる牛さんや豚さんはいいのか?って言われると困りますけどね。少なくとも、彼ら(彼女ら)に、感謝はしているつもりですが。
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自分が殺されたくないからです。



自分の家族が殺されたくないからです。
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私の中では2つの考えがあります。



一つは「社会の秩序を守るため」
本来の質問から少し外れますが、人間は何故ルールというものを守ろうとするのだと思いますか?
人に迷惑をかけるのが嫌だからか? 違います
ただ、いい子ちゃんでいたいのか? それも違います
義務付けられたものだからこそ守ろうとします。それが法律です。
現に、校則、食事中のマナー、他人への礼儀など枠にはまらないもの(要はお小言です)を守ろうとしない人が多い。
道を歩いていて「そんなことも出来ないのか!?」と苛立つこともしばしば・・・
法律で定められた=守らない=罰が下る=自分が困る=守る
お小言=守らない=叱られるだけ=自分は困らない=どっちでもいいじゃん
まぁ、点前こそあれど本音はこんなものでしょう。
要は罪の意識=恐れ、犯罪を犯す人には恐れがない、あったとしてもそれ以外の感情が勝っている(人生への堕落とかね)

ここで本題です。
殺人=法で裁かれる となりますが、実際にこの『法』がないとどうなるか?
自分が生きるために誰かを犠牲にする、それこそ野獣と変わらない社会になるでしょうね。
そうなると今の人間社会は存在しないことになります。
それを防ぐために法をつくり、世の中を保っているのではないでしょうか。


もう一つは「本能」
チンパンジー、ゴリラ、ハチ、ライオンなど人間と同じように群れで暮らす動物はたくさんいます。
子孫のためにオス同士での争い、自分や自分達の社会を守るために敵を攻撃する。
誰かに教えられたわけではなく生まれもった本能からくる当たり前の行動です。
自分の子孫のために他を犠牲にする、でも自分の仲間を攻撃することはない。
「子孫のために」という意思はなくても野生の本能的なものが人間にもあるのではないでしょうか?
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いかなる理由があれど他人の人生を阻害する資格はないからだと思っています。

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この質問は昔から何度も出てきています。


興味があったら検索してください。

もし人を殺して良いという世界になったら、自分も殺される可能性があります。
自分は人を殺していいが、他人は自分を殺してはならないなどということにはなりません。
他人を守ることは自分を守ることにつながります。

この回答への補足

補足日時:2008/12/10 07:13
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

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