アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

昔の学校時代のことなど思い出してみると、どうしても無理やりプラス思考を植えつけられたような気がします。本当は「慎重に自分の力を7割くらいと考えて控えめにいったほうがいいぞ!」というのが大切なのに、「やれば今の力の120パーセントが出せる、諦めるな、努力しろ!」というような思考方法に無理やり持って行かされたような気がします。そして、そのおかげで後に選択を誤ったりして苦労しました。

考え方は自由ですが、どうして一方的な「プラス思考」ばかりを教育の標語みたいにしなければならないのでしょうか?

もし、以上のことが私の妄想だったらすみません。

A 回答 (10件)

No.4です。


プラス思考 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9% …
すまんが、プラス思考というのは現状に対してよかったじゃないかと肯定的に考えるのがプラス思考で、現状に対して悪かったと否定的に考えるのがマイナス思考です。あくまで現状や物事に対しての話です。楽観視することとは別物です。

つまり
そういう教育を受けてよかったというのがプラス思考で、無理やりそういう教育を受けて苦労したというのがマイナス思考です。


>めまいで倒れたということがよくあって
めまいで倒れて休めたからよかったと捉えるのがプラス思考です。
倒れたせいで○○できなかったと考えるのがマイナス思考。
そんなに気のせいだしっかりしろというのは現状を把握していない無責任な発言であってプラス思考ではありません。

よく言うのが「Glass Half Empty or Half Full?」
グラスに半分残った水を見て「まだ半分ある」と言うのは楽天主義者、「もう半分しかない」というのは悲観主義者という有名な性格判断法があります。
むしろマイナス思考を突き詰めて
コップに水なんか入っていないとはじめから言っていると、コップが空でもともと、何か入っていたらラッキーてなります。これはコントラスト効果というもので、マイナス思考の利点です。

対人では「差し障りない」というのはむしろとても大切なことです。バランス感覚のようなものです。口は災いの元と口を滑らせてドツボを踏むのが普通ですから。言葉を選んで話すことは処世では必要です。
基本的に誰しも他人に対して真に責任なんて取れませんからね。

「プラス思考」のせいで道を誤る人も何割か存在してますし、「マイナス思考」のせいで道を間違える人も何割か存在します。
何かに関してこうだといえるほど世の中単純ではありませんね。

いろいろ教育のせいとか最近の風潮のせいとか感じているようですが
結局は自分の問題です。
他のものや他の人のせいにするか?それとも自分のせいにするか?
問題を糧にするか?問題に嘆くか?
です。

「やれば今の力の120パーセントが出せる、諦めるな、努力しろ!」
って励ましを鵜呑みにしただけでしょうか。
結果なんて努力したところで時の運です。中にはラッキーな人もいるでしょうが、普通は努力しなければさらに運が遠のくだけです。
プラスとかマイナスとか思考というのは結果に対してどう感じたかですね。

教育のせいで苦労したと考えるのはプラス思考を植えつけられたのではなく、マイナス思考に陥っているわけです。

なんとなく言いたいことはわかりますが、
それは周りのせいじゃないでしょう。

ご参考までに。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

わかります。
世の中はこういう風に動いていて、その中でどう自分を泳がしていくかという実存的?姿勢しかない、それは真ですね。真ではあるが、必要悪であるかのような真です。つまり、世の中はよくないし軽薄だし気が利かないないし親切でもないから。その必要悪性を前提としての話だと思います。ユートピアに近いものとはいいませんがそういうものも期待薄でしょう。
いかなるときも、プラス思考の癖は私はついています。ああ、この苦労のおかげでこういうことが気づくとか無駄をしないですむとか。それはそれで処世術的には有効です。ただ、努力しない心のこもらない安易な便宜的な「プラス思考」の風潮に関して、もうちょっと何とかならないかと。

お礼日時:2008/08/21 09:18

もし今までの教師がそのようなことをプラス思考だといって教えていたとしたら外れの教師に当たってしまったと思ってください。


プラス思考とは質問文に書いてあるようなことではありません。
起きてしまった事に対して今後プラスになるように考えることです。
間違った教育を受け、また自分でその教えに対して確認作業を怠ってしまったことで、後で苦労をすることになったということですね。

ただ、プラス思考とは違いますが、「将来に対して限界を設けるな」という考え方は正解です。
人間の多くはまだまだのびしろがあるのに自分で限界を設けてしまって
成長を止めてしまうからです。
それと同時に今の実力を把握し、今の自分はどこまでしか出来ないのかを知ることも大事です。

>「やれば今の力の120パーセントが出せる、諦めるな、努力しろ!」
これは自分に限界を設けずに努力をすれば今の能力よりも更に力が出せるようになる。という将来に対しての言葉ですよね。
努力が不足していたり、時期尚早ではそれだけの力が出せないということになります。
だから120%の力を基準に物事を計画したら苦労するのは当たり前になります。
努力の結果120%の力が出せるようになってから計画を修正するようにしなければいけません。

>本当は「慎重に自分の力を7割くらいと考えて控えめにいったほうがいいぞ!」というのが大切なのに、
こんなこと大事ではないですよ。
能力の発揮しないでいたら能力はどんどん落ちてしまいます。

100%の能力で計画して、能力の変化に応じて計画を修正していく。
時にはチャレンジも必要だし、抜いた仕事をすることも必要だけど、そのときも自分の能力との差を常に把握する。
それが大事です。

学生時代におかしなプラス思考を植えつけられることにしたのも、その考えを基準に選択したのも自分自身です。
学校の勉強以外に本を読んだりしていればその先生の考えはおかしいと思えたかもしれません。
いろんな人の話しを聞いていればその先生の考えはおかしいと思えたかもしれません。

もっと自分で考えることをしないと他人の変な考えに染められておかしなことになってしまいますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

はい、軽薄なるプラス思考うそのプラス思考便宜上のそれを植えつけられた気がします。教師たちも結局月給鳥ですからね、お定まりの流れに無批判で生きているだけなのでしょう。限界を設けないことは原則だと感じますね。同時に、自分の特徴は何なのか、長所短所その他もろもろの自己を認識せずにプラス思考してもどうしようもありませんし有害です7割くらいでいけうんぬんは、軽薄呪文プラス思考よりひゃそっちのほうが怪我がなくていいじゃないかという反例です。原則的には卑屈な態度ですね。

当時、いろいろと余裕がなくて、総合的に省みることができませんでした。しかし宗教に染まったわけでもなく、なんとも溝に落ち込んだ気がします。なかなか、世の中の軽薄さの中で自己を保つのは、心身ともに抵抗力がないと難しいものです。しかし、それをできる限り続けなければならないでしょうね。

お礼日時:2008/08/21 09:26

>>そのおかげで後に選択を誤ったりして苦労しました



これはついに自分の本質に到達したということですね 実力以内で普通に行動するのが合っていると気がついたのです

なかよしクラブは別として 能力を高めようとか利潤を上げようとするためには100%以上の努力も要求すると思いますが 自分のスタンスを悟った人はそれはそれですばらしい能力を身に付けたといえます

おめでとうございました!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

実力というか、適合するもの、あまりにも不利を負うことのないものという漢字でしょうか。ときすでにおそしの感もありますが、自己をよく考えて生きるべきだと感じます。

お礼日時:2008/08/21 09:21

「やれば今の力の120パーセントが出せる、諦めるな、努力しろ!」



質問者さんが社会人かどうか分かりませんが、
普通の会社だと上記のような目標を掲げているかと思われます。
「ほどほどで構わないよ」と会社が言ってきたら
ある意味終わりかと思われます。

学校で「ほどほどで良い」と言われていたのに
社会に出て「最低でも100%の力を出せ」と言われるのは
厳しいかと思いますが、質問者さんはどうお考えですか?

オーナー社長の子供などの資産家や役所関係(少し例外もあるかもしれない)などでないと
基本的に「やればできる」といった思想から逃げられないでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

資本主義原理が学校教育にも降りてきているものでしょうからね。仕方ないのかもしれませんね。

お礼日時:2008/08/21 09:19

>どうしても無理やりプラス思考を植えつけられたような気がします。



これは無いと思います。
均質化を求めているせいで、本当はもっとやればできる子供がいても「お前は言うとおりにしていればいい」と頭を押さえつけていました。
例えば、低レベルとされる高校などに行くと「こんな高校から東大目指すなんて無駄」というように東大に受かる素質があるか無いかを見ずにあきらめさせるような発言があります。
彼らにとっては「お前なんてどうせやったって無駄だよ」とマイナス思考を植えつけるような教育がされていることになります。

均質化を求めるせいで、下のレベルの子には高い要求、上のレベルの子は頭を抑えるような教育だというのが、近いところでしょう。



あと、話は変わってプラス思考を植えつけることは統計的な群としては効果があります。

同じような能力を持った2つの集団があったとして、片方がプラス思考で教育して、片方は自分の限界を設けるマイナス思考で教育すると、プラス思考で教育した方が成績の伸びが高いという実験結果が出ています。だから、集団として考えたときはプラス思考の方が成果が出るので、プラス思考のほうが良いとされます。
もちろん、この中にプラス思考によって負の作用をもたらす子もいるでしょうが、全体では・・・ということです。


>子供のころめまいで倒れたということ~

起こった現象を「気のせいだ」と考えるのはただの現実逃避で、プラス思考とは違う話です。
もし、これがプラス思考だというのであれば、以下のような同じロジックの文章もプラス思考となりそうですが、これをプラス思考とは言わないでしょう。

■2階から飛び降りて右膝があらぬ方向に曲がって足が動かなくなりました。「そんなの気のせいだ。しっかりしろ」とかっこつけていたのですが、検査したら骨折でした。
■家で朝起きたら親が息をしていなかった。「でもそんなの気のせいだ」と思っていましたが、後日消防に連絡して救急隊員に来てもらったら死亡していました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ひどい教育法もあったものですね。できる人間に対して、お前は駄目だからやめとけとは、人権無視ともいえる気もします。もちろんお話のような、プラス思考を与えたほうが、そうでないよりも大体結果はいいという原則論は真だと思います。ただ問題は、個々人に合わない要求とか、無謀であったり明らかに不適であったりそういうことを考慮しない「プラス思考」の押し付けがまかり通っている気がするわけです。いわば、軽薄なる呪文のようなプラス思考というか。それが世の中を覆っているのではないかと思います。
めまいの例は、そういう無謀なプラス思考でかっこつけるやつがいるのだという査証ですね。

お礼日時:2008/08/21 09:13

No3です。

補足に回答いたします。

>教育が結果平等を求めるとすれば、前向きにとか努力は美しいとか、結局結果の不平等は変わらないか
>もしくは拡大することになっちゅいませんでしょうか?
結果については、本人の能力と能力の範囲内の努力によっても平等にはなりません。
そこに結果平等を持ち込むと、おかしなことになってしまいます。
己の能力を知った上で努力をしたものと、しないものが結果的に平等になったなら、努力したものが報われません。
それは不平等ではないと思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Bayonetsさんが「結果平等」ということをいっていたので、それはどうなのかと感じたしだいです。どうあがいても結果は差があるでしょう。

お礼日時:2008/08/21 09:09

まず前提として


(1)やればできる(かもしれない)。けれどやらねば絶対になにもできない
(2)就学時、つまり成長期にである伸び盛りに努力しなかったり、あきらめたりすると伸び悩んだり停滞するばかりですから。やれば今の力の120パーセントが出せるというのは1年生が2年生になるように成長することですから。

>本当は「慎重に自分の力を7割くらいと考えて控えめにいったほうがいいぞ!」というのが大切。
自分の力を7割くらいと考えるのが大切→自己評価が低いから論外。
控えめに言ったほうがいいぞ→対人関係での処世術。
処世に長けた子供と言うのもなんだかねぇ。
時には大風呂敷を広げることも大切ですから。
自己PRとか売り込む場合は控えめが大切とは限りませんしね。
そういうのはケースバイケース。

教育の場にもかかわらず「やってもできない」「そこで諦めろ」「どれだけ努力しても無駄だ」と普通、他人の芽を摘むようなこと言わないでしょう。
「やればできる!」「諦めるな!」「努力しろ!」は
励ましの言葉ですから。
励まされるのはお嫌いですか?

若いうちに挫折したり、失敗したり、選択を誤ったり、苦労することは大切なことですからね。
それが教育のせいだと言うのなら、そうなのかな?って気もします。
私は別にプラス思考を植えつけられたとは思いませんが。

ご参考までに。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

実際に被害があると結構いやですね。
もちろんひん曲げて解釈してしまったせいもあるのでしょうが、なにか教育だけでなく最近の風潮で、なんでも明るく前向きに表現するみたいなことばっかりじゃありませんか?それが差し障りないからという安易な意図からだったとしたら、本当に迷惑なことです。
私とて、120パーセントの力になるように努力することは決して無益だとは思わないし、私もいやというほど自分に貸しましたが、それは自己を金属疲労させてしまい心身ともによくないのです。それは土台がないからであって、「自分かこれくらいの人間だ」という一種のマイナス思考一種の悟り思考でしょうか。このベースでプラス思考は生きてきます。
私が危惧するのは、この「差し障りない」という安易な姿勢です。
つまらない体験談ですが、子供のころめまいで倒れたということがよくあって、それをプラス思考に感化された学童が「そんなに気のせいだしっかりしろ」というドラマ的せりふでかっこつけていたのですが、結局検査したら耳鼻科的な問題であり、めまいを起こす疾病だったことがありました。これと同じような間違いを、安易なプラス思考教育は犯す気がします。

お礼日時:2008/08/17 11:37

それは、教育界の大半に結果平等を求める風潮が強いためです。



努力しても誰もがイチローのようになれる訳ではありません。
人それぞれ、持って生まれた資質には限界があります。

努力することは人間の特質ですが、限界を知ることもさらに大切です。
限界を自分で知ってこそ努力の結果ではないでしょうか?
そのあたりの教育が出来てないと思います。

>思考方法に無理やり持って行かされたような気がします。
>そして、そのおかげで後に選択を誤ったりして苦労しました。
限界を知る努力が足りなかったということです。
他人の性にするのはよい逃避法ですが…現実世界では他人に責任転嫁はみっともないですよ。
己の能力の限界を理解して努力しましょう。

この回答への補足

あと、追記で申し訳ないですが、
教育が結果平等を求めるとすれば、前向きにとか努力は美しいとか、結局結果の不平等は変わらないかもしくは拡大することになっちゅいませんでしょうか?

補足日時:2008/08/17 11:29
    • good
    • 0
この回答へのお礼

とても公正なお考えだと思います。
限界を知ること(努力できる限界というものもある)自分を知ること、そういう内向きな発想を軽んじているのではないでしょうか。
私は昔から「不文律」というやつが苦手でして、いわゆるKYやらマニュアル化やらそういう捉え方もできるかもしれませんが、しかしなにか教育に期待してまじめに吸収しようというところもあって、結構裏切られた気もしています。
ただ、
>他人の性にするのはよい逃避法ですが…現実世界では他人に責任転嫁はみっともないですよ
結構無理やり前向き思考に影響されてませんでしょうか?

お礼日時:2008/08/17 11:28

「努力すれば伸びる」というのが滑稽なプラス思考だとは思いませんが。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

もちろん伸びますが、そんなことよりも人間性を大事にしろよというほうが上ではないでしょうか?謙虚に自分を知れというのが前提にない努力は、砂上の楼閣よりももろく無益だと感じます。

お礼日時:2008/08/17 11:25

周りがプラス思考でいてくれたほうが、自分にとって都合がいいからではないでしょうか。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですか?周りが成功する可能性が高いから?そのおすそ分けに期待するとか。

お礼日時:2008/08/17 11:23

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!