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仏法と生命ですが、仏法は生命について何かを説いているのでしょうか。
もし、そうならば、生命は仏法の中で、どのように説かれているのでしょうか。
具体的に、仏法の中で生命が、どのように説かれているのか、ご存知の方、ご教示をおねがいします。

A 回答 (3件)

ちょっと長くなりますが、仏法(法華経)ではまず、生命は永遠と説きます。


 そして、仏法におけるその生命の定義ですが、我々の思いというか、その思いを生じさせる心こそが生命そのものとしています。心を精神と言い換えてもよく、つまり、肉体と精神、これを仏法では『色心(しきしん)』と言い、色は色形あるもの(それゆえ、いずれ朽ち果てる無常のもの)と心は色形なきもの(それゆえ、朽ち果てるという終わりがなく永遠なるもの)の二つに分けますが、この世界で活動している我々はその色心で成り立っています。 
 一見すると、目で捕らえられる肉体が主体で、捕らえられない心の方が客体のように思われがちですが、仏法では逆で心というか精神こそが主体、本質となり、肉体はその心の座するところで、いわばガンダムのモビルスーツとそれを操るパイロットのような関係と捉えられればよいかと思われます。ですから、肉体というものは自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。
 たとえば、自分という思いは物心ついた頃から、それこそ死に到る時まで決して変わることはありませんが、その肉体においては子供の頃、成人の頃、壮年、老年とどんどん変化して、傍から見ればまるで別物のような存在かと思われます。まさに仏法の説く色心そのものかと思われます。
 確かに、有形で変化して様変わりするものが本質であるはずもなく、無形で不変なるものを本質、その実体と捉えることの方が合理的です。そしてこの点を踏まえて、かのデカルトは『我思う、ゆえに我あり』という言葉を残したのです。つまり、私という思いがあってこそ自分自身があるのであって、肉体があるから自分があるのではない、と結論付けたのです。彼は仏法を知らなかったとは思いますが「絶対確実なるものは心だ」という、仏法に相通ずる考えを持っていたのでしょう。 
 ともかく、(心=生命)こそが真の自分自身で、それは決して朽ちることも果てることもない永遠の存在であるということです。
 そして、ついでに宿命についても触れておきますが、その自己そのものである永遠の生命に、その生命が為した善悪の行為が、いわゆる業として刻まれて、過去、現在、未来へと苦楽の報い(因果応報)を受けていくことが宿命になるのですが、そのことを一般的には運命などといいますが、結局、自己の生命が永遠の存在であるがゆえに、色心として存在している時に為した全ての行為が、善悪にわたり連綿と引き継がれて、結果として全部自分に返ってくるということで、よく聞く話で、「自分は別に何も悪いことをしていないのに、なぜ自分は、このようなひどい目に遭うのか」というのがありますが、それは現在だけしか見ていない話で、過去世に自分が積んだ悪業を知らないだけのことなのです。もちろん、真逆のパターンもありますが、いずれにせよ本来、自分そのものは永遠の存在であるということを知らないがための短絡的な考えといってよいでしょう。これをたとえれば、ある車で交通違反を犯してから、車を何台乗り替えてもその罪が消えることはなく、それを償うまで、そのドライバーに付いて回るようなものです。 
仏法の言葉に『過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ』というのがありますが、まさにこのことを言っているかと思われます。
 ともかく、自分が永遠の存在であると知り、その為す善悪の報いが全て自分に戻ってくることが分かれば、誰も世間を騒がせるような悪しき行為はしなくなるかと思われます。なぜなら、誰だって未来の自分を悲惨な目に遭わせたくないはずだからです。先ほどの仏法の言葉の続きに『未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ』というのがありますが、今後の自分の運命をどうするかも、すべては自分次第だということです。
 以上ですが、仏法の説く生命の永遠性については、もっと勉強されればいろいろと人生に役立つかと思われます。
     
                            
                 
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この回答へのお礼

詳しい説明いただき、ありがとうございました。法華経は、生命の永遠性を説いている。法華経が、仏法の中心にあり、法華経の中心となる思想は生命の永遠性…、という理解で宜しいでしょうか。仏法と生命、という点からすると、法華経は生命の尊厳を説いている…、というようなことで宜しいのでしょうか。

お礼日時:2009/01/23 01:54

お礼文への返答となりますが、



法華経は、日蓮聖人いわく「我々生命の日記文書(もんじょ))なり』と指摘されるように生命を余す所なく説ききった経典であり、本来、仏法といえば法華経のみであり、他の経典は枝葉末節というか、あくまで法華経を説くための一時的な部分観でしかなく、半端なものということです。
 それと生命について、もう少し詳しく言えば、我々の個々の生命の他に、その源となる大生命が存在し、これを究極の精神的実在などと言ったりもしますが、この二つはその奥低ではつながっているのですが、この点に目覚めた(悟る)者をブッダ(古代インドのサンスクリット語)と呼び、それに漢字を当てて仏陀として、そこから仏と言われるようになったのですが、つまり、死んだら仏とか言われるのは、仏法が江戸時代以降の葬式仏教に堕したことによる弊害と言うか、誤用なのですが、ともかく、法華経は自分の生命がその大いなる生命と 本来は一体であり、そのすばらしい卓越した生命力を自分のものとして使っていけることを教えているのです。
 つまり、我々を弱々しい個々の生命としての小我から、力強い大いなる生命としての大我へと目覚めさせていくために仏法(法華経)はあるということです。
 興味がありましたら、法華経を学ばれればよいかと思われます。   
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。『法華経は我々生命の日記文章なり』という教えのあることを初めて知りました。『法華経は私たちの生命について説いている』という意味なのでしょうか。『日記文章』というのが、どういう意味なのか、よくわかりませんが、記憶して、考えてみます。ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/27 18:48

こんにちは。


僕なりに思うところを書きたいと思います。

<<仏法と生命ですが、仏法は生命について何かを説いているのでしょうか。もし、そうならば、生命は仏法の中で、どのように説かれているのでしょうか。>>

生命は五蘊である。その五蘊のシステムが複雑に支え合って一瞬も止まる事無く生滅を繰り返している。
無知・渇愛がある限りそのシステムは止まることはないんだ。

そのシステムを止める方法は八正道だよ。

生命はどの生命も同じ生命だから、友のような心(慈)心配する心(悲)成功を喜ぶ(喜)心を抱くべきで、差別はしてはいけない(捨)。

慈悲喜捨の念を一切の生命に持ったらどうだろう。

主観を「無知・怒り・欲」でいると自分も他人も苦しむ。
法則にあった慈悲喜捨の念にしたらどうだろう。

不完全ではあると思いますがw
お役に立てれば幸いです。

サンガ出版の「仏法」やスマナサーラ長老の書籍・無料のポッドキャストをオススメします。
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この回答へのお礼

『生命と、慈悲喜捨…』
ちょっと感動しました。
言葉ではなく、それが生命。

本当は、仏典の中で生命はどのように説かれているのか、仏さまは、どのように説かれているのかが、知りたかったのですが。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 21:26

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