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忍ぶ恋こそ至極なり って簡単に説明していただけますか?
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A 回答 (8件)

>もし「忍ぶ恋こそ至極なり」って座右の銘だったらどういう意味ですか??また、どんな人だと思ってますか?



 martinbuhoさんも述べていらっしゃるように状況が分からないと答えようがないのですが、あえて足りない部分を想像で補うとすると…

 学校や社会で出会った、ある異性に対して想いをいだくようになるのは、健康に育った男女なら自然に経験することです。(性同一性障害はこの際置いといて)一方人間は成長の過程で相手の立場を理解する知性や人の痛みのわかる想像力といった人間性や、社会的自我というようなものも個人差はあれ自然に身につけていくと思います。

 いわば自然現象にすぎない最初の恋愛感情が、内面的に自分を育て、社会的なさまざまな経験を通じて、高次のものに変化していく課程が人間には不可欠だと思うのです。

 そこで、「忍ぶ恋こそ至極なり」ですが、「忍ぶ」と「我慢する」ではニュアンスが違うとおもうのです。あくまで私見ですが、「忍ぶ」という言葉には社会的で人間的な成長の過程が込められていると感じます。

 たとえば相思相愛だから人前で何をしてもかまわない、ではかえって面白くも何ともないではないかと思います。信頼ができあがっているなら、日常の二言三言の言葉の中に相手への思いを込めてさりげなくその場は別れ、彼(彼女)がそばにいないときにその想いを募らせるのがもっとも恋愛を楽しむ方法ではないかと密かに思っています。(郷ひろみの歌みたいやな)ま、私の場合はブ男の悲哀でそういう経験はほとんどありませんが、片思いの段階で「忍ぶ恋」などと言ってはやはりいけないと思います。

 エーリヒフロム先生も「愛は技術だ」とおっしゃっていますが、人間を取り巻くさまざまな社会的属性を考慮して、お互い行動することがとくに求められているのかもしれませんね。

 流行歌などの世界では、とかく露骨でくどい恋愛表現がもてはやされる昨今ですが、もし私が考えているのと同じ意味でこの言葉を座右の銘にされているなら、「おぬしできるな」と言ってあげたいところです。男ならそうとうスケベかもしれません。想像と違っていたら読み飛ばしてください。その意味で自信なしです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/11 07:05

恋には苦しい気持ち、せつない思いがともないます。


例えおつきあいすることができたとしても100%精神的な一体感を得ることは不可能だからです。
恋の本質はそういう苦しさにあるのかもしれません。
だとすれば忍ぶ恋こそ至極というのは理解できると思います。
その言葉を座右の銘にしているとすれば、その方はおそらく、そういう忍ぶ恋、あるいは片思いの苦しさのようなものを経験されたことがあるのだと思います。そしてそれを振り返って美しい思い出として大切にされているのではないでしょうか。
そうだとすればその人はたぶん、現実より夢、物より心、結果よりプロセスを大切にするようなタイプの人ではないでしょうか。
もちろん憶測ですが…。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/11 07:05

「葉隠」にそのような一節があったように思います。


武士道の極意を恋にたとえたものだったような気が……。

「葉隠」(武士道の書です)については、別途お調べくださいますよう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/11 07:06

補足について。



皆さんの回答を参考にご自分で考えてください。座右の銘としている人の年令、人物などなにも分からないので答えようがありません。歌の意味は同じでしょう。変るのはその人が、何故それを座右の銘としたか、個人的理由だけでしょう。歌の意味の拡大解釈または誤解をしている可能性もあります。今の若者は人前でいちゃついているが、忍ぶ恋の喜びというものを知らないのか、というような間違った解釈も考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/11 07:05

相手に告白しないで、そう自分に言い聞かせるが、辛いねと。

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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/10 12:16

 報われない異性への恋心を抱き続けて、相手にそれを十分伝えることが社会的に許されない(と本人が思っている)場合などに、本人が悶々と悩む様子を、第三者が感情移入して観念的に表現した言葉です。

自分で自分をこんなふうに思ってはいけません。このことばの中には相手の立場や気持ちがいっさい含まれない場合が多いからです。またこの言葉は観念的であるが故に女性の側の気持ちにたって文学的に表現されることがおおく、それ以外の、特に日常生活の場では出番はないものと考えた方が安全です。

 蛇足ですが「男は押しの一手」とか「忍ぶ恋こそ至極」とかの昔からあるこの手の情緒的な言い回しは、実際はストーカーの自己合理化のよりどころとなっている場合もおおいようで、古今の文学作品鑑賞のときに限り、その意味をかみしめてよいかと思います。

この回答への補足

もし「忍ぶ恋こそ至極なり」って座右の銘だったらどういう意味ですか??また、どんな人だと思ってますか?

補足日時:2003/02/10 12:18
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/10 12:17

忍ぶ恋とは人に隠した恋のことです。

何故隠すのか、人によって色々事情は変るでしょうが、昔は身分差があるためが一番多かったのではないかと思います。結婚形態が現在と違っていた平安時代等には、現在のような不倫の観念は薄かったと思います。秘密の恋は苦しいだけに会ったときの(或いはその人を想う時の)喜びは、人に認められた恋とは異質の喜びがあり、そのような喜びこそ恋の中では最高だと言う事です。忍ぶ恋は昔から歌にたくさん歌われています。次の句もその一つです。

しのぶれど 色に出にけり わが恋は

ものや思ふと 人の問ふまで

最近おかしいけど恋煩いでもしているの・・・と周りの人に聞かれ、しゃべりたいけどしゃべれない、あの感情です。恋のタブーが不倫という便利語で片付けられる現代人には、忍ぶ恋に込められたニュアンスは理解しがたいものになっていると思います。

この回答への補足

もし「忍ぶ恋こそ至極なり」って座右の銘だったらどういう意味ですか??また、どんな人だと思ってますか?

補足日時:2003/02/10 12:22
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/10 12:16

こんにちは。

maruru01です。

ものすごく簡単に言うと、
思われることより、思うことの方が大切ということでしょうか。
または、自己陶酔ということでもあるかも。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2003/02/10 12:16

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