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人が、もし科学によって真理を見つけ出すことが出来るのだとしたら、現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足るものなのでしょうか。

なお、既にプラトン、アリストテレス、ベーコン、デカルト、マキアヴェッリ、カント、クーン、クワイン、ポパー、カルナップ、ファイヤアーベント、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、シュリック、ヘンペル、ハンソン、ラカトシュの哲学書籍については、既に読んでありますので、これら著作を読んだことを前提にご回答戴いても差し支えありません。

恐縮ながら、ご回答お願いいたします。

A 回答 (13件中1~10件)

証明できる問題は数多くあるのですが、全てを証明しうる『真理』は


科学手法においては"存在しない"ことになっています。その真理が
自分自身に言及した時点で、矛盾を引き起こす為です。

・・・・と、これじゃあ何を言っているのかわけ解らんですよね。
実は証明できない問題があるということは数学的に証明されています。
数学的証明、というのは一切の矛盾や言い換えを認めないので、
これが覆ることは少なくとも現代において科学とされるものの
中では考えにくいです。




20世紀初頭、今まで"自明"や"前提"としていた多くのことを証明する
計画である『ヒルベルトプログラム』が始まったのですが、
クルト・ゲーデルによる『不完全性定理』の登場によって完全に
頓挫しました。内容は・・・

第一定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、
ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。

第二定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、
無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

この証明については現代数学か、簡単な論理学の教科書にもほぼ
間違いなく書いてあると思いますので、そちらを参照したほうがいいです。
あるいは質問者さんの読まれているヘンペルの本にも書いてあるかも。





証明できない問題がある、というのは非常にショッキングな事実です。
単一の論理では語れないことから、数理学や論理学は"メタ"(より高次から)
の視点を持つようになりましたし、実証に因っていたはずの物理学ですら
いわゆるEPRパラドクス(相対論と量子論の矛盾の論争。アインシュタインが
出した問いに対してボーアの回答は観念的なものとなった)以後、
"形而上学的"と揶揄されるほど、観念的な世界の根本を描き出す哲学思考へと
変わっています。これは長い間"実証"を伴わない論争でもありました。




一方で、こういった中から一応の定式化を行い、一部を証明してをして
量子テレポーテーションや量子暗号などの新しい技術が産業的には生み出され
ているわけです。証明できないものがあったとしても、完全に証明できている
ものが覆るわけではありません。


紙に火をつければ燃えますし、水をかければ消えます。
雲の上にヒゲの神様はいないので、飛行機で雲を突き抜けても大丈夫です。
太陽の活動が活発になれば気度は上がりますし、静まれば下がります。

少なくともこういった事実の積み上げが、生活を便利にしていることは
間違いないのではないでしょうか。科学はこういった方向へ特化している
ように思えます。(研究費的な意味で!・・・余談でした)



一方で、科学者が"清教徒的な"真摯さを持って真理を探究できる時代は
70年前に終わったのかもしれません。できたとしても、それは"形而上学的"
にならざるをえないと思います。
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質問の意味がわかりません。


>科学的手法を「帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築」と定義するなら、
非科学的手法とは、
観察結果無視、統計無視、考察無視 のいずれか 
を指します。
そういう方法で、はたして真理を探究することが可能ですか?


科学の本質は、「反証可能性」です。
たとえば、「死後の世界」について、死んだらそれきりなのか、天国と地獄に振り分けられるのか、輪廻転生するのか。
科学の場合、「それぞれの考えでどう違うか、(検証可能である何かの違いであること)」
が要求されます。
輪廻転生の場合、「転生した場合、前世の記憶は消される」ということを前提とすると、
・死んだあとどうなるか、区別するための情報を得ることはできない。
こうなると、言いだしっぺが、反証可能性を拒否したことになるから科学的手法の適用事態が不可能になります。
当然、非科学的手法(=他説の利欠点の比較なし)でも結論は出せないけど...

つまり、科学的手法は、真理を求めるための唯一の方法ですが、
真理を求めることが不可能な事象(事実上、哲学の内容の全て)は、「わからない」とするのが科学的には正しいとしか言いようがありません。

で、
「わからない」が正しい というのを真理とみなすかどうか。 個人の感性次第ですが、
一般的にはみなさないのでは?
でも、「こうだ」と反証不能なことを言い張るよりはマシと思うが。
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科学は新しい発見によって定義が変わってきます。


ですから、1つの方法と捉えるのがいいと思います。

しかし、自然を相手にする科学から考えると、自然、つまり今生きてるこの場所は自然現象の中で、そこに常に真理が存在しているということになるでしょう。
 今ここにある真理がわからないから、科学というめがねで覗き見る。
 ということでしょうか?
 科学は覗くめがねの役割ですが、本来の目的から離れて覗くめがねが
が真理のようになるのは本末転倒でしょう。
 真理はすでに宗教哲学で表されてますし、科学が仏教を証明する時代になったといわれてますが、多くの手法の根源の原因と結果、因果などはもともと仏教哲学のものです。
 本来仏教は哲学なので、仏教哲学とあえて書きますが、大昔に因果の理法と言われ、最近になって因果の法則として科学で言われてますが、、、。
 結局、真理を生きる。と言う段階に来ないと本来の目的ではないですね。最後は人間に帰着し、自身の人生に発展させないと意味がないですね。
 第1にまず真理を聞く。
 第二に 実践する
 第三に 真理に生きる。
 こういう浅い深いで見ると、真理に生きる人は多くいますよ。
 早く本当に真理を求めると言う状態から真理を生きるとなるといいですね。
 仏教の生命哲学から科学の探求をしてみるといいでしょう。
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答えにくい質問ですが、答えにくい理由は、そもそも「真理」とは何かについて、説明できるものでしょうか?



例えば、「三角形の内角の和は180度です」と言うのは真理でしょうか? あるいは、「地球は太陽の周りを回る」というのは真理でしょうか? あるいは、「人間は考える葦である」は真理でしょうか? あるいは、「人間は食べないと生きていけない」は真理でしょうか?

これら、あるいは、これらの”ような”ことが真理なら、真理は複数あるということでしょうか? あるいは、真理は「ただ一つ」のことであるはずなのでしょうか? もし、真理は複数でなく「ただ一つ」のことであるとしたら、その「ただひとつ」のことは「言語」で表現されるはずのものでしょうか? もし、「言語」で表現されるはずのものなら、それは、「何個の単語」で表現できるはずのものでしょうか?


という風に真理について色々疑問が出てきますが、真理は、このような疑問にも回答を与えないといけないとすると、このような疑問に科学が答えられないのは明らかです。

従って、科学にできるのは、真理を導き出すことではなく、「事実関係」を導き出すことだけではないかと思います。ただ、「事実関係」も「真理」の一部と見なせば、「科学は真理の一端を担うことが出来る」とは言えると思います。
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同様な質問についてすでにこの板で回答したことと内容が重なりますが、もう一度整理して述べてみます。


あなたがこれまで、アマタの哲学書を読み漁ってきたのにもかかわらず、正常な 「科学的手法」 への理解がなされていないのは驚くべきことですが (もちろん、それはあなたの責任ではなく、その著者である哲学者のセイですが)、

まず最初に述べておくのは、我々が現在、「科学的手法」 としてみなすものは、16世紀以降に西欧で生まれて発展して来たものを指すのであって、それ以前のたとえば、古代ギリシャに隆盛を極めた自然哲学などに使われた手法は含まれておりません。
実験・観察・再現・帰納・演繹などは、すでに古代ギリシャでも採用されてる手法であって、これらは現在の科学的手法とは本質的に何ら関係はありません (もちろん、現在の科学もそれらを利用はしていますが)。
現代の科学的手法とは、「現実世界を測定し現象を数値化し公式を求める」 その一点だけです。それが出来ないものは科学とはみなされません。それ以外は単に論理学や哲学の範疇でしょう。
(現代の科学では、完全に質的なもの、「色」や「臭い」でさえ数値化します)
では科学的手法が誕生した16世紀西欧において一体何が起こったのか?
実はその時、あのデカルトが登場していたのです。
デカルトはその著作の中でさまざまな論理的考察手順を説明していますが、それらは別に目新しいものではなくオマケのようなもので 、デカルトがなした科学の幕開けのための唯一の功績は、あの有名な言葉 「我思う故に我有り」に尽きます。デカルトがこの言葉を発したことで、西欧がその時、世界史上唯一、科学の誕生を迎えることができたのです。
何故なら、その言葉によって初めて数理科学が誕生することができたからです。
「我思う故に我有り」を正確に言い直すと「我思う。故にタダ一人の我が世界に有り」となります。
それによって、「数」の現実的概念が明確になりました。
確かに、数学自体はそれ以前の世界にも存在しました。しかしそれによって、現実の世界の解明ができるとは誰も思わなかった。現実の世界においては、必ずしも1+1=2であるとは考えられていなかった。たとえば、1束の麦と1束の麦を足すとより大きな1束の麦になるだけで1+1=1でしか過ぎなかった。
1+1=1となってしまうのは、1と言う数の概念が明確でなかったことによります。
1とは何か、1という数の正確な概念とは何か、その答えを出したのがデカルトです。
すなわち、1とは(たった一人しかいない)自分のようなものであると。単位数1の不変・不分割・不拡散の認識こそがこの世界を数理で解明できる道を開いたのです。
したがって、現代科学=数理科学となりますが、それは一面、「この世に自分は一人しか存在しない」という確信の上に築き上げられたものに過ぎないのであり、もちろんこの確信が崩れると現代の科学は崩壊します(たとえば、自分がこの世に2人いた場合など)。
また、現代科学の限界は、それが単にこの世界を数理的(量的)側面から理解してるに過ぎないものであり、世界にそれ以外の側面があるとするなら世界の完全な姿をとらえているとは言えないことでしょう。ゲーデルが 「不完全性定理」において、数学の不完全さを証明したことは、世界の真理が数理的理解から離れたところにあることを示唆しているのかも知れません。(しかし、数理的側面以外の理解をするためには、それに応じてまず 「我はただ一人しか存在しない」 と同等の確信できるものを見つけなければならないでしょう。)
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「真理」をどのように考えるかによって、答は変わってきます。

例として、次の2つの場合について考えてみましょう。
その1:ニュートン力学は真理ではない。量子力学は真理である。
その2:ニュートン力学は真理である。量子力学は真理である。
ここでは、ニュートン力学を真理と捉えるかどうかを問題としています。量子力学は、原子の振る舞いがニュートン力学では正しく扱えないことから生まれた力学です。つまり、量子力学がより本質的な力学であり、ニュートン力学は近似的な力学といえます。こう考えれば、「ニュートン力学は真理ではない。量子力学は真理である。」が正しい考え方のように思われます。しかし、ニュートン力学を使えない力学だと思っている人はいません。むしろ、日常的な現象はすべてニュートン力学によって説明することができます。ニュートン力学は、日常的な現象については真理である、という考え方もできます。
科学とは、人間に役に立つ知識のことだと考えます。そう考えれば、科学は常にその時代の真理を見つけ出してきたのであり、これからもそうしていくだろうと思います。
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 こんにちは。



 すべてを 終わりから 始めてください。
 そうすれば 真理じたいは 見つからなくとも――つまりは わたしも これが真理だよと言って 指し示すわけにはまいりませんで 真理じたいは見つけられなくとも―― おそらく 真理への道は おぼえるようになるでしょう。わたしは真理を問い求めているのだという記憶行為を その道について おぼえるようになるでしょう。
 そのために じんるいは あらゆる方法で 探究をしてまいりました。これからも つづけていくでしょう。まづは すべての方法が 有効であると考えて 活用していけばよいかと考えます。
 しかも 終わりから始めてください。このきよらかな思いあがりとともに すすめてみてください。ものごとを捉えるようにしてみてください。
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揚げられているたくさんの、西洋的哲学者の著書は二、三しか読んでいないので、レベルと側面がそぐわない投稿となるでしょう。


 そしてご質問の本文文言では、現代科学という言葉となっております。科学、そして真理という言葉の対象とそ範囲については、無論敷衍されるところとなっておりません。
 ただ知とそのドメインは人間という、結果的意識の一定の機能の一顕れですね。
 その機能は認識と構成(認識の性質に過ぎませんが)の用具ですね。
 それは世界と宇宙のを見せ、構成し、存在させているものですね。
 そういう機能である知がなすことがいう真理というのはその限りのものであることは当然ですね。
人間がその限りの、つまりただ存在して生きているだけのことで終始するなら、その限りの認識ですむことではないでしょうか。
人間の存在の意味性とかに関連した認識をするには、如上の範囲を出ないと完遂には為りえないのは当たり前でしょうね。
つまり知を出て、知の基盤も限界も眺めて、その基盤の基盤に自分存在を意識しない限りは、真理とは無関係であると存じます。
私は草創以来、どの宗教も意識以下になっている状況を脱却して、自己を知ることが同時に、人間に課せられた真理の実現となるものだと存じております。
そこでは仰せの科学も変改を遂げ、同一になるものと存じます。
科学に要求されることは、生きるという次元での実践性だと存じます。
それは自然諸科学も同様であると存じます。自然諸科学も当為原理の性で編みなおされるべきであると存じます。
当然に当為としての根拠と価値・理念に無関係な叙述は脱却しなければならないでしょう。
人間と科学の進歩が期待されます。
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「現代科学の科学的手法によって、真理を見つけ出すことが出来るのかというものです。



#4:wiz0621さんの回答で科学的手法の限界を十分に説明していると思いますが、科学的手法も使い方次第で十分に真理を見つけ出すことが出来るのですね。主観と科学的手法のような客観は一対であって切り離すものではないのですね。真理を見出すのは主観だけではだめなのですね。真理と思えるものを客観的に検証しないと真の真理を得られないということなんですね。
思考論理は原因結果の連鎖(帰納・演繹)の中にありますので、科学的手法は存在する・存在しないにかかわらず有効なのですね。
おそらく、質問者さんは存在の証明を科学的手法で云々とご指摘されているのかも知れませんが、科学的手法は存在(観測可能)の可否にかかわらず使えるものですね。
科学的手法は微視的にも巨視的にも使えるということですから、場合によって使い分ければ良いのですね。
数学や物理では境界条件内の演繹ですから、境界を越えれば論理破綻しますが、これもわかりきった論理でしかないのですね。
数学や物理に限らず哲学、宗教などあらゆる学問は主観と科学的手法を含む客観により確認されるべきものですね。
例えば、氷は温められて水になり、水は更に温められて、水蒸気になり、冷やされて雲になり、雲は雨になり、また水に戻る。このサイクルは科学的手法で十分に理解できますね。
これを水の転生輪廻の姿といえば理解できるのですが、これを人間に当てはめるとさっぱり理解できなくなるのですね。
水では理解できないなら、羽化登仙ならどうだといっても客観にとらわれて理解できない。ということですね。
つまり、真理というのは科学的手法を客観として十分に得られるようにはなっているのですね。それができないのは主観の狭さということだけだと思いますよ。
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 足らないものだと思います。

科学的手法の領域のみだと思います。
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