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個性の尊重と騒がれてから長いですが、この言葉の意味する内容がいまいちよくわかりません。
養老の「バカの壁」を読んでのことですが、例えば精神病者の中には、毎朝自分の大便で白い壁に自分の名前を書く、という習慣を持つ人がいると言うことで、ではこいいう「個性」を尊重すべきなのか?という問いに、どう的確に答えるのかです。それができるか否かで、この問題への真剣さ真摯さがわかるのじゃありませんか?
その精神病者の例に触れて、それは「尊重すべき個性じゃない」というのは簡単ですが、じゃあなにが、例えば教育界で「尊重すべき」個性なのか?それって結局は、教育のレールにのっとった、あらかじめしかれ方向付けされた上での「個性」でしょ。そんなものが「個性の尊重」になるのか。実に2枚舌欺瞞もいいところだと思うのですよ。

では、一般的コンセンサスにのっとったもの、誰でも納得できる内容の範囲内で「個性」なのか?そんな集団的な圧力のかかった付和雷同を押し付けられるような中で「個性」など存在できるのか?

ここのところをどう整理したら言いのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

答えとは、違うのかも知れませんが、


「自分へ実害がない限りは干渉しない」と言うルールでいいのでは、ないでしょうか。

そうすると「毎朝自分の大○で白い壁に自分の名前を書く」も干渉すべきでないと思われるかも知れませんが、衛生上問題がありますし、この場合、奇行であるわけですから干渉することが良いことでしょう。

もし、それが壁に紙を貼って鉛筆で落書きしたのならば、それは個性を尊重すべきなのではないでしょうか。

また他の言い方をすれば「他の人に迷惑をかけない限りでの価値観の尊重」とも言えるのではないでしょうか。
しかし、騒音問題など自分では迷惑をかけていないつもりでも、他人が迷惑をこうむる場合にはこの限りではありません。

(バカの壁を読んでいないので、もし的外れでも参考程度ということで許してください)
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この回答へのお礼

「自分に実害がない」
これは非常に妥当な線引きですしょうね。
この基準もかなりあいまいではありますが、おのずと幅はできてくるのでしょう。

お礼日時:2009/05/13 19:54

図画の授業で、


・12色の色鉛筆
・時間は30分
・書くものは静物
条件ガチガチでも

作品は2つとして同じものは無い

いかなる制約があろうとも、その中には個人の裁量権の範囲は必ず存在する
故に個性の発揮ができないと否定するのは、その能力が無いと認めている(方法が分からない)だけのこと
条件の緩和=個性の表現が可能 ではない

個性は与えられるものではない
ならば、それは自己表現の一つの方法であり
その手段に対し無限(無制限)の権利が与えられる方が不自然であるし、
あり得ないと思う

個性は、あなたはあなた、わたしはわたし の自分勝手ではなく
あなたの良さ、私の良さ を認め合う、または容認することができる範囲に存在すると思います
人に迷惑をかけたり、人に危害を加えたり、人の権利を脅かすことを
個性とは言いません

個性は、共存共栄可能で最も自分らしい自己表現だと思います

>そんな集団的な圧力のかかった付和雷同を押し付けられるような中

そんなの居心地が悪いのなら、他へ行けばいいんです
世の中には色々な世界があります
天国でも地獄でも…
でも、行った先が住み心地良いかは保証できませんが…
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この回答へのお礼

どんなに条件をきつくしようと、まったく「個性的」なものばかり、二つとして同じものがないといいますよね。なので、初めっから「個性」などというものを強調する必要ないのです。ほっとけば「個性」だらけですからね。
なので、おっしゃるとおり、共同体的に不利益にならないという条件が与えられるのが普通であるはずです。それは「圧力」というよりも、「流れ」といったものかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/14 06:59

おはようございます、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、あいにく「バカの壁」は読んでいないので、
いくぶんか、ピント外れの回答になりましたらごめんなさい。

>では、一般的コンセンサスにのっとったもの、誰でも納得できる内容の範囲内で「個性」なのか?

集団の中では、おのずからルールと呼ばれる物が発生します。「こういったことはやめてくださいね」「こういったことはしないでね」と言う程度の物から・・、ひいては構成メンバーが非常に大きくなる場合のルール(たとえば憲法のような物)まで。どうしても、人間一人一人は考え方が異なりますから、お互いが納得できるところで折れ合って行かなくてはなりません。

>そんな集団的な圧力のかかった付和雷同を押し付けられるような中で「個性」など存在できるのか?
他の方も上げていらっしゃいますが、「押しつけ」というと堅苦しくなりますが、野球などのルールと考えればいいのではないでしょうか?そこで生きていくためにはどうしてもルールを守る必要があります。「どうして、三振はだめなんだ!四振でもいいじゃないか!」と言ったところで始まりません。その中で自分の個性を発揮して、結果を出していくのだと思います。

障害者の方への、養老先生の考え方にご不満があるようですが、養老先生がどのようなことをおっしゃっているか分かりませんが、「障害者」の方を上記のルールに当てはめて考えることは、お互いにとって有益なこととは思いません。それぞれ個別の症状があるでしょうから、それぞれに個別のルールを当てはめたり、ルールから除外したりすることで対応するべき物だと思います。
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この回答へのお礼

たしかに、共同体的な利益を守る範囲内でという意味を付与することは、真っ当な考えだと思います。そこは、民主主義的コンセンサスが働いたものなんでしょう。

お礼日時:2009/05/14 07:00

大便で壁に名前を書こうが、小便で雪の上に名前を書こうが


それはそれで別にかまわないと思いますよ。
実際は個性そのものよりもその「発現の仕方」が問題になるわけですから。

途中から「教育界」という言葉が出てきているところからみると、
「教育の場における個性の尊重」が関心事のようですが、
集団の中での教育であれば、個性の発現には一定の制約はまぬかれないと思います。
家庭での個別教育であれば制約はそれよりゆるくてもいいんでしょうが。

だから、教室の壁に大便で名前を書くというのはNG、
自宅の壁なら(親が許す限り)OKというのでいいのではないでしょうか。

個性の尊重というのは個性の発現の仕方を絶対に制約しないという意味ではないわけで、
「個性の発現には制約がある」ということを前提にして、
制約程度を緩めましょうということなんだと思います。
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この回答へのお礼

結局は、集団的利益が先にあるということらしいです。しかも、多くはそれを望んでいるから、集団的利益を優先したいというところに落ち着いているのでしょうね。

お礼日時:2009/05/14 07:01

個人的な考えでは、個性を尊重するの大事だと思うけれど、


尊重の仕方が間違っているんじゃないか?と思っています。

『個性』の解釈は人それぞれ異なり、ブレ幅が大きいです。
まぁ科学的な話ではないですし、ケースバイケースで解釈すれば良いでしょう。

質問者さまの疑問点は
>じゃあなにが、例えば教育界で「尊重すべき」個性なのか?
というところに現われているのだと思います。
個性には尊重すべきものと、そうでないものがあって、
どの個性を尊重すべきなのか?というところでしょうか・・・

個性とは「その人の持つ固有の特徴」です。
生まれながら、あるいは幼いころに身につけた癖など、
容易に変えづらい個体差とでも言いましょうか。
極端な場合、知的なハンデキャップになる場合もあります。
個性を認めるというのは、これを許容するという意味ではないでしょうか?

周囲が無理に抑えつけると、その人の持つ良さまで失われなかねないとか、
本人が無理やり抑えつけた結果、二次的な精神障害を得てしまったりとか。

・・・ちょっとさみしいですし、
可能性のある子供の将来を壊してしまうとすると、
社会的にももったいないですよね。
天才と呼ばれる人種の中には、生まれながらに強烈な個性を持っていたりします。
(もしかしたら、本人は悩んでいたかもしれませんね)

今までガチガチに縛り付けてきて、
そうやって躾けることが『教育』で、
それが本人や周りのためだと信じてきた。
けどどうも間違ってたらしいから、柔軟に対応していくことにしよう。
ってのが、個性を活かす(許容する)社会、ってことなのでしょう。

個性を許容するかどうか、についてですが、
あくまで当人の将来の利益を慮ることがベースにありつつ、
周囲に与える不利益を抑え、どんな関わりかたができるのか考える。
ってのが、個性を尊重することでしょうね。

好き勝手やってOKなんてのは、いずれ当人が後悔します。
教育者は、子供が孤立しないように支援しつつ、
個性を適切に表現する術を教えてあげるのが仕事かなと、
そんな風に思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E6%80%A7
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この回答へのお礼

さじ加減なんでしょうね。しかし、結局はどの程度であろうと、集団的利益のほうが、個人的発露よりも優先されるということは変わらないらしいですね。どこの世界でもそうですね。「掟」などといいうもんが存在します。
人間的な真っ当な理屈なのかもしれません。そして、それでなくては、人は怖くて生きていられないのでしょう。

お礼日時:2009/05/14 07:03

こんにちは。



思考の出発点が間違っております。

「大便で白い壁に自分の名前を書く」

これは個性ではなく「奇行」というのです。
個性的と変をはき違えると、一昔前のヤマンバGALみたくなってしまいます。

個性とは、その人からにじみ出てくる、情緒をまとった空気のようなものだとおもいます。
うまく言えませんが、その人の「おもむき」という感じでしょうか。

再思考してみて。
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この回答へのお礼

その「趣」というものも、人によりさまざまだと思われます。そこを規定するのは実に難しいですね。

お礼日時:2009/05/14 07:04

こんばんは




>一般的コンセンサスにのっとったもの、誰でも納得できる内容の範囲>内で「個性」なのか?
>そんな集団的な圧力のかかった付和雷同を押し付けられるような中で>「個性」など存在できるのか?

個性を尊重するなら、その様な教育方針を標榜する教育機関に委ねるしかないでしょう。
「窓際のトットちゃん」を読んだ事がありますか?
そこには現在で考えたら注意欠陥・多動性障害と思われる子が
私立小学校を退学処分になり、引き受ける小学校がない中
それを個性として受け入れてくれたリトミック教育を標榜した小学校が受け入れ個性を伸ばしながら成長していくエッセーです。
最近話題のシュタイナー教育も含まれていた様に感じます。
リトミック教育
http://www11.ocn.ne.jp/~rythmi/3.html
シュタイナー教育
http://steiner.blume4.net/steiner.html

また、個性だけでは母集団である社会から排除される恐れがあります。
教育とは知識の習得のみならず、社会性を身に付ける場でもあります。
幾ら個性の尊重とは言え、社会規範やルールを逸脱したら排除されるのは当然の事。
これをブレイクスルーするには個性と供に卓越した能力がなければ社会は受け入れてくれません。
参考までに、佐高信著「逆命利君」(岩波現代文庫)を読まれて見たら如何でしょう。
その他、偉人・傑物と言われた人物は卓越した能力を持つが、個性も特異な方も多く存在します。
逆に言えば、能力があるからこそ、その個性にも目がいくんです。
際立った個性だけなら、社会から認められない天上天下・唯我独尊のタイプになると思いますよ。

>>養老の「バカの壁」を読んでのことですが・・・・という問いに、どう的確に答えるのかです。
例えがひど過ぎます。
これは個性と呼べる物では有りません。
統合失調症を患った方によく見られる特異行動です。
(神経伝達物質ドーパミンの産生過剰により中枢神経が異常に興奮し、幻聴・幻覚等常識を逸脱した行動が抑制で出来ない精神疾患の陽性症状)
私もメンヘラー(気分障害)ですけど、精神病者と一括りにされる事にはものすごーく違和感があります。
精神障害の疾患は多岐に渡っています。
幾ら高名な解剖学者のエッセイでもこの比喩には異論があります。
(勿論、発刊なって直ぐに読んでいます)
最近は、臨床家でもないのに、麻生首相の漢字の読み間違いを識字障害とコメントしたりしていますね。(じゃ何故、英語に精通してるんでしょうか?)単なる記憶違いですよ。
このコメントには発達障害の専門家はスルーでしたけどね。
あれを識字障害と言ったら、トム・クルーズに失礼ですよ。
引用元が高所・大所から「回答にお礼をなさる」質問者さんらしく有りませんね。
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この回答へのお礼

結局は、社会の許容範囲内でという文脈が恐ろしく強固だということらしいですね。それほどに、社会的、常識的不文律というものが世の中を支配している状況というのは、いったいどういうものなのでしょうかね。

お礼日時:2009/05/15 08:19

個性を認めなければ、常識や社会性というもの前に個性は失われる。



自己の内面において、
自分はこうしたいというものあるとする。
しかし、常識的や社会的に考えればするべきことではない。
という結論になれば、従順な行動しかない。あるいは無難な行動しかしない。
こう書けば、なんの問題のないように思える。

しかし、したいものとするべきでないという葛藤の中に、自分の中で澄みきった水のような気持ちで選択しているかどうか、問題になる。
つまり、こうしたいが、こうしなければいけないという、自分自身にかけるプレッシャーがある。

これは、自分だけではなく、人から自分に受けることもあるし、自分が人にそう強要することになる。

たいがいの場合、個性というものを完全に叩きのめし(あるいは無視し)そういうことになる。

つまり、抑圧がある。

歴史を振り返るだけでも、常識や制度というものが、長年に渡って変わってきた。
初めの頃は相手にされなかった=話すら聞かない、一方的な思い込みにより封じ込められていた。

個性を認める事、個性を尊重する事と
個性を許すことは違う。

人それぞれの考えがある。それを認める、理解しようとすることが尊重することだと思う。
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この回答へのお礼

結局、尊重はいつまでもされないのかもしれませんね。あくまで許容される。社会というのは、いつの時代にも対個人を否定する文脈で成り立っているものなのかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/15 08:21

個性に対して、「尊重」という言葉が使われてきたことは、私も、あまり適切ではなかったように思います。



個性はあくまでも個性であり、条件付きにすべきではありません。その後の論の進め方がややこしくなるだけです。

天才的な政治的手腕も、非社会的行動も、すべて平均的で名前も覚えてもらえないような子も、殺人願望も、もちろん知的障害も、それぞれが持つ個性であったり、その個性から引き起こされている現象だったりするのかもしれません。

個性をとらえ、「個性に寄り添った適切な教育」こそが大切にされるべきであり、個性がわかっているからこそ、有効な教育的手立てを見つけることができるわけです。それを「尊重する」と表記してしまったがゆえに、ややこしいことになっているのだと、私は解釈します。

個性は十分に承知したうえで、その個性から起こされる行動をどんどん推進していくことも教育。徹底的に抑えつけ、禁止していくことも、立派な教育です。
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この回答へのお礼

そうなんです。「尊重」なんていう偽善じみた理想論を掲げなくたっていいのじゃないでしょうかね。これは、意味のない幻想を抱かせます。「個性」に対して社会的がどう「対処」するか、そういう基本的な構造を認識するのが大事なんじゃないでしょうか。

お礼日時:2009/05/15 08:23

私は「個性の尊重」という言い方には違和感をおぼえます。

ここでいう「個性」が生まれながらに有する個人の肉体的・性格的・精神的な差をさすのであれば、それは単に「個体差」というべきではないでしょうか。

個性は苦労して獲得するものであり、初めから備わっているものではないと思います。ゴッホもピカソも大観も初めからあのような個性的な絵を描けたわけではありません。

歌舞伎や能や落語などの伝統演劇の世界では、古典と云われる演目はみな同じ。だけど、演じる人によってみな違いある。これなども、守・破・離という修行の段階を経て、やっと到達する個性の世界です。

最近は、「個性の尊重」とかいって、個性の存在を前提にしているから何でもありになってしまうような気がしております。

初めから備わっているのは、個体差だと思います。

質問の趣旨からは離れた回答になってしまいました。何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

そうなんです。
「個体差」と「個性」は別物ですよ。そんな、「個体差」なんて何にも努力も工夫もないわけですから、そんなものを「尊重」する道理がない。だからこそ、ある意志をもって獲得した「個性」は尊重に値するのではないかと。

お礼日時:2009/05/15 08:25

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