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上田市出身なんで真田一族の評価が高く、ゲームで高い能力を持っていることは悪いきしません。でも冷静に考えるとそんなにすごいのか疑問に思います。
真田昌幸は武田家再考を目指していたが実現的なかった。また、領土はそれほど広げていない。秀忠の軍勢を引きとどめ関が原に影響を与えたが、秀忠に勝ったわけでも家康に勝ったわけでもない。関が原後は隠居し紐を作る程度の功績しか残していない。一言で言うと大きな功績を残していない。
幸村は関が原の戦いではそれほど目立った功績を挙げていない。大阪の陣で大活躍したことが知られているが、所詮二度の戦いであり戦をたくさん経験したわけではないから戦上手と評価するのは尚早、まぐれで家康に突っ込んだ可能性もある。元もと真田家の武将であり秀頼に大恩があるとは考えにくく、趨勢は完全に徳川に傾いている時期に秀頼のために命を懸けたのは無駄死に近い。
どう思いますか。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

真田一族の評価が高いのは


1 一度、戦に負けて領土を追放されたのに見事一代で中興した事。
海野平の戦で武田晴信に負け追放されたがその後、幸隆が晴信に随身して再興させた。一度壊滅した一族郎党を再興させ、あまつさえ家中で一方の将になるというのは並大抵のことではできないでしょう。ましてや仕えた相手は一族壊滅の張本人なのですから、なかなか信用してもらえないばずなのに。
これは凄くないですか?

2 2回に及ぶ上田の合戦で徳川軍を撃退した事。
第1次では1200人VS7000人 第2次では3500人VS38000人。2回とも取り巻く状況は違いますが、単純に数の割合からいっても平凡な小国領主では出来ないことです。
これは凄くないですか?

3 2回の大阪の陣で徳川幕府軍に一泡ふかせた事。
確かに豊臣方は負け、信繁は討死しましたが、冬の陣では真田丸にて寄せ手を散々に斃し、夏の陣では家康本陣に突撃を繰り返し2度まで後退をさせたといいます。
これも凄くないですか?

幸隆は恩讐を越えた先見の明と智謀で真田一族を興し、昌幸は柔軟性に富んだ機略と戦術眼で真田の名を世に馳せ、信繁は大局的な戦略と義侠心で真田の名を不滅のものとした。これの何処が凄くないですか?

昌幸嫡男 信之も信州松代にて名君として讃えられていますし、信繁の次男、三男、四男も他家の家臣として存続しています。
徳川の御世が始まる時代に誰が敵方の評価の低い人物の忘れ形見を拾いますか?
どうです?
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関が原の戦いの信州版の上田城の攻防戦は


徳川軍が数を圧倒していたが城を落とせなかった
理由は、徳川方の指揮官が、本多正信で、この人は
官僚や策士の才、政争で相手をハメて失脚
させる能力は大きかったが戦場で指揮するのは
苦手な人で、あやまった攻城指揮をしたため
真田に、してやられた形となったという話
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少し 気になりましたので 再度



わたしの後の回答者さんでしたか
真田が何千騎 徳川3万騎 でしたか 騎というのは 騎馬武者をいいます 何人の間違いですよね 大阪夏の陣で 騎馬の割合は 総兵力の1割と文献にあります そんなものです 戦国の初期は特に 軍用馬 は高価で 戦闘時は後方にさげ 徒歩での戦いになります

主に逃走用か 上級武者のステータス用 時速6か8KMぐらいです
信長も清洲から熱田まで 尾張西三河国境紛争戦(桶狭間戦) 3時間強かかっています当時12、3Kmぐらいの距離です  日ごろから相当 馬を責めていまして それでも それぐらい それ以上走ると間違いなく死ぬか使い物にならなくなります  ナマクラな殿様なら 馬ははしれません 現代に氾濫している 戦国物は勇ましく サラブレッドかアラブ馬を使用しての 西部劇みたいです 秀忠も 上田は基本的に城攻めですので簡単には落とせません 参謀もおとなたちもそんなことはわかっていたはずです 家康から遅参せよとの意図が内々あったか
確かな資料がでてくるまでなんともわかりませんが 若気の至りで 昌幸の術中にはまったなんてこと ひとりで指揮しているわけがないのでありえないでしょう 真田のすごいのは 国人地侍のクラスで
末裔が大阪の役で 戦闘において 名が残っているということだとおもいます 漫画や安物の戦国話とちがって 現実の話として それはすごいことだとわたしはおもっていますけど     
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私が回答する事ではないのですが、


2千騎(1200騎?)で徳川軍を「溺死させる」とか、
3500騎で3万8000騎を翻弄させるとか、

普通じゃありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0% …

ただ、問題は石川数正の出奔の件です。
沼田の土地を渡せと言うのは、北条との親和政策の一環でした。

秀吉に臣下の礼を遂げず、徳川、北条、伊達連合軍を組織して
徹底抗戦しようと言うもくろみです。
(連合軍と豊臣軍の戦力はほぼ互角であった。)

出奔と敗戦が大きくこたえたらしく、家康は臣下の礼を遂げます。
伊達も後々服従。
北条は最後まで戦う決意を固めます。

>趨勢は完全に徳川に傾いている時期

上田城合戦の折、
「沼田の土地は実力で勝ち取った土地。もはや主君でもなければ家臣でもない。そんなに欲しければ実力で奪い取れ。」

と、昌幸は家康にきっぱりと離縁状を叩き付けていたのです。
昌幸は徳川が嫌いであったのです。

また、
「上田城でなら徳川には絶対に負けない。いざ、尋常に勝負せよ。」
と九度山で大声を発したと言われています。

徳川は親子2代で痛い目を見ていたのです。
出奔される。
合戦に遅刻させられ、危うく負けそうな時もあった。
真田2代は伝説になりました。
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地方の豪族としては 抜きん出ている方でしょう


先祖伝来の土地を守るのも 本能に近いでしょうし
上杉や武田 北条に挟まれて よく持ったもんですよね
昌幸と毛利元就と比較したら 気の毒です 毛利よりはるかに厳しい
旧帝国日本みたいに アメリカと1年2年は戦えても それ以上は無理と同じで 秀忠を撃退しても 趨勢は変わらない しかし後の条件闘争は有利 いずれにしても 盟主のような 代表者にならなければ
大阪の陣のように 多少戦闘に勝利しても これも 勝利者側の余裕で相手を立てることでの後世の語り草のひとつとしての 材料にされている 大阪の役の当時  主役は秀頼であり 豊臣の閣僚であったはず
恩も何もないところでのことで単なる戦闘上の一師団長にすぎなかったでしょうね 
 
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