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死の美学を真剣に考える年齢になりました。
最近、デザイン墓というのがブームになっているそうで、テレビでやってましたが、その中で墓石にさり気ないデザインと共に「また、いつか」と刻まれた墓石の言葉に「う~ん、なかなかいいな」と唸らされました。
かねてより、辞世の句というのを作って死にたいなと思っているのですが、誰かの「人生49年、夢のまた夢」なんかも心を打つし、十返舎一九の「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙りと共に 灰左様なら」も非常に心を打つのです。石川五右衛門のように世の中を徹底的に嘲って死にたいとも思うし、今のところ何を残すかは定まっておりません。

しかし、私の本当の気持ちは、世の中にも人間にも絶望していますから、ホントは屈原のように人知れずどこかで入水自殺でもするのが一番気持ちにあっています。私が棺桶の中に入っていて、人々が葬式のため参列している光景を思い浮かべるだけでも、身の毛がよだつのです。
私の父が晩年、死んだらミカン箱にでも入れてどこかに捨ててくれと言ってましたが、冗談ではなく本当の気持ちだったんですね。
自殺の相談ではありません。命ある限りは生きるつもりです。ただ死期が来た時に、人知れず、家族にも誰にも捜索をされないでこっそりと一人で死んで行く方法というのはあるでしょうか?具体的な方法を今から考えています。象が自分の死期が来た時、群れから離れ、死ぬべき場所にたどり着いて一人で死んで行く、これが私の死の美学で、是非そうしたいと思っております。諸兄の死の美学を教えて下さい。

A 回答 (9件)

最近「家族葬」や「孤独葬」が増えています。



>「また、いつか」と刻まれた墓石の言葉

とても面白い方ですね!死を日常感覚で捉えることができているその人のまじめな死生観が感じられますね。この方のユニークさは死後もご自分の存在をさりげなくアピールしているところですが、きっと幸福な生涯だったのでしょう。死ぬことや生きることへの恐れのなさが伝わってきます。

>私の本当の気持ちは、世の中にも人間にも絶望していますから

私もそうなのです。それもありますし、従来の葬儀に対して疑問なのです。また慣習などということにまったく興味のない私です。
戒名って何ですか?死んだあとにまで名前はいりません。ましてや大枚はたいて、坊主がコンピューターでランダムに出した名前なんて。どうしても、というならちゃんとした(!?)お坊さんからきちんと言霊が入ったお経を唱えてほしい。また人の死という慌ただしさで、葬式という儀式をセット売りされる葬儀屋にも儲けさせたくありません。少ないながらも残された(残せもしないだろうが(笑))、一生懸命生きて得た私のお金の使い道は世のため人のために使ってほしいと遺言を書くつもりです。

自分の死に方くらい自分で始末したい。と私は思います。私は墓もいりません。これは自虐でもなければかっこつけでもありません。この考えと志を同じくする人は土に還る、という言い方をしますが(だから昔は「土葬」がありましたよね)、私は海が好きなので、海に帰りたい(もちろん漁師さんの許可をもらって)。
そもそも海から人は進化し、土から生まれるものに生かされてきたんです。土葬や風葬こそ自然だと思います。何しろ墓石が重いですよ。重いのは人生だけで十分。ましてや何百万もするような墓石ならなおさらプレッシャー(笑)。

俳優の菅原文太さんはご自身が癌を患っておりますが、それ以前に「これまで土をさんざん踏みならしてきたのだから、土に恩返ししたい」と土を掘り起こし、活かす仕事、つまり農業をやっているそうです。このような素朴な方は「芸能人のような」派手な葬式など望んでいないでしょう。自然から産まれ自然と共に、自然に生かされ恩恵を知って、恩返しをして…そういう摂理、真理を「気づいた」のですから、きっと死生観も自然なのだと思っています。

「終わりよければすべてよし」なんて少々傲慢な響きです。人に迷惑かけてばかりの希薄な人生でも、大仰な葬式すれば立派な人生、人物だったと誇示することができるじゃないですか(笑)。金と人脈さえあれば。悲しくもないのに泣いてほしくなんてありません。「ゆりかごから墓場まで」、人は孤独なのです。

蛇足ですが女優の大原麗子さんは「孤独死」と言われ、その人生までもが寂しいようにうたわれていました。「終わりよければ」の考え方の間違った使い方ですね。ですが大原さんの人生は何しろ大女優でした。年をとっても可愛らしく、女優魂も忘れず、過程=人生では大輪の花でした。花が萎れるときは寂しいものです。ですが大輪のまま散るのはまれです。

自分が生かされてきたその一部に恩返しする、それが菅原さんでしたが、生きることに掛ける対象がおのずとあらわれる、それが「道」であると思います。イコール「死の美学」と思います。死の美学は生きる美学でもあります。死に様は生き様、その延長なのです。
私は死んだ身体は灰になるまで自分のものでいさせていただきたいので、葬式も私の考え方を通してほしいです。逆にいえばそれは死者、その魂を敬うことにもなると思っています。

猫も自分の死に場所は誰の目も触れないところを探しますよね。気高く生きて、気高く死ぬ。私もそういう生き方、死に方をしたいです。猫のように自由に個性豊かに生きた大原麗子さんは彼女らしく猫のような死に方を選んだのでしょう。

リンクを貼りましたが、禅の「十牛図」は「人間の変化成熟のダイナミクス」です。私は輪廻転生を信じますが、死後のみならず、人ひとつの人生でもこのサイクルを経て成熟、変化していくことと思います。

何度も申しますが、死は葬式という装飾のためにあるのではありません。次の生へ向けての死、それ自体が通過儀礼ですので、派手な装飾、商業主義に自分の生の終わりを飾ろうと思っていません。毎晩布団にもぐるときのように私は静かに次の朝まで眠りたいだけなのです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
大原麗子さんはそんなに悟った方ですか?また女優業に復帰したいと言ってたようですよ。
菅原文太さんもヤクザ映画の中の彼しか知りませんでしたが、なかなか精神の人なんですね。
>毎晩布団にもぐるときのように私は静かに次の朝まで眠りたいだけなのです---私はちょっと違いますね。この世、地球に生まれ出た生を終焉するのを、じっくり噛み締めながら死んで行きたいですね。生きたことを満足しては決してしていないんですが・・・。

お礼日時:2009/11/20 16:03

#2です。



もう一つ、日本人は世界に誇るべき、死に対する意表を突いた文化をもっています。それは「ぽっくりさん」信仰です。何が凄いかと言うと、ぽっくりさんの信者になって叶うことは、たった一つしかありません。ぽっくり死ねることだけです。たったこれだけを叶えてくれること以外、一切知らん、なんて神様仏様は、世界中広しと言えども、日本だけのような気がしています。

江戸時代の昔、難破した船乗りが西洋の外国船に救われて、その後日本に無事帰れたときの体験談が出版されています。その日本人の船乗りは、海路を見失った時の西洋人のやり方に呆れたそうです。何やらわけの分からない道具を持ち出して、星の位置を測ったり時間を計ったりしながら、大変面倒な方法で、船の方角を決めている。その船乗り曰く「神国日本に生まれた我々は、何と好運なことか。西洋人のような、こんな七めんどくさいことをしなくても、金比羅様に手を合わせ、東西南北の札を書いたおみくじを引くだけで、日本人は正しい方向がすぐ判るからだ」と言っておりました。事実、そのようにして無事に帰って来た人達だけが生き残れたのでしょう。だからその証拠はいっぱい在ったはずです。おっと、無事に帰って来た、と生き残れた、は同義語でしたね。

神国日本には、金比羅様ばかりでなく、ぽっくりさんも居らっしゃる。私は、機会があると外国の友人にこのぽっくりさんのことを紹介して来ましたが、どの外国の方でも、皆大喜びをして日本の文化の深さに感心して下さいます。

#2で挙げた、怨念を残す死の美学と、ぽっくりさんを理想とした

この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙とともに 灰(はい)左様なら

のあっさり型な日本人の死の美学、この全く矛盾した死の美学を持っている日本人は、噛めば噛むほど味が出てくるようですね。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
ぽっくり信仰、なぜか余り魅力を感じないです。
私の求めているのは、ぽっくりと死にたいとかの「死に方」ではなく、死ぬ時の思いを如何に表すかだからでしょう。死に際して何かの思いがなければなりません。思いを貫くことが出来れば、安らかな死に顔になることと思います。

お礼日時:2009/11/20 16:30

具体的方法は遠回りになりますが、どこか人里離れた土地にホスピスのような施設を作り、同じ志の人同士で共同生活というのが現実的だと思います。



誰にも迷惑や心配をかけずにというのが望みですが、世間は様々なしがらみがあり、失踪などという手段をとるのは到底許されません。もちろん自殺もダメ。
しかし、死ぬときだけは純粋に「個人」としていたいとなれば、次善の策ですが、同じ思想を共有するかたと生活するのを条件に、周りの方々の理解を得るしかないように思います。

ただ一つ心配なのは運営方法。牢名主やら宗教団体やらが根を張るおそれは十分にあります。死ぬときまで、なかなか人の縁は切れません。
つくづく難しいですね。参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2009/11/20 16:20

死は別れであり悲しい。

老化は苦しい。誰にも見届けられないのは、寂しい。死の間際に、一人で死ぬのは恐ろしい。
 
あったかい人のそばで死にたい。
あったかい人のこころで死にたい。
みんなに囲まれて、逝くのがしあわせな人生であるとおもう。
自身は恐れなく、穏やかな気持ちでこの世を去ることとしたい。
その他の人々についても、そのような心持でいられるよう、やさしい心で見送ってやりたい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>みんなに囲まれて、逝くのがしあわせな人生であるとおもう。
私は、みんなに囲まれたくないんですね。何故だろう?かなり、ひねくれていますね。

お礼日時:2009/11/20 16:06


死に「美学」を持ち込むのは、戸惑いを感じますが・・・
美しい死ってあるんですかね?

死って言うのは、生の裏返しの部分があると思います。
つまり、どういう生き方をしたかが、「死の形」の好みに影響があるのかな?って思いますけど・・

そういう事はさておいて、死の形は「遺言書」でかなり方向性を決めることが出来ますよ。
「葬式は、身内だけでやってくれ。」
「墓は作らず、骨は海にまいてくれ。」
その辺までは、大丈夫だと思いますけど、
「葬式もやるな。」
とかとなると、親族の考えもあるので、生前から言って承諾を得る必要があるかもしれませんね。

「死の形」は、自分の生き方の締めくくりですからね。
こだわるのも分かります。

遺言書を活用するのが一番いいと思いますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2009/11/20 15:55

誰しも人間関係がある以上、こっそりと・・・はいかないでしょう。


私はありきたりの普通の死に方でよいと思っています。
来るべき時が来たならば自然に・・・と思っています。

辞世の句は、今までに作った俳句が全てだと思っています。
二句ほど

 芒枯れ悲しみも枯れ河青し

 風を待つ如く芒の傾げをり
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
芒に託された貴方の心境はよく理解できますが、
余りに透き通っていて、味の素が入っていない感じです。
勝手なことを書いて失礼しました。

お礼日時:2009/11/20 15:53

僭越ながら手短に回答させていただきます。



人の手を介さずに死ぬことの難儀さもさることながら、この世に生を受けて以来両親をはじめご縁があった多くの方々の愛情と支えと信頼、さらには数多の生きとし生けるものによる恵みと施しを受けてきたことを鑑みれば、致死の方法はたとえ運命に抗えずとも、許されるかぎりそれらに感謝したのちに命を全うしたいと願うほかはありません。
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この回答へのお礼

「生かされて」来たことを感謝しろと仰るんですね。傲慢に聞こえるかと思いますが、私は余りそういう考え方は出来ないのです。無限の愛を感じるのは両親だけですね。兄姉たち、妻、子供たち、皆、エゴで生きていて人間関係は取引ですね。両親がいない今、誰にも感謝せず、また、人間こんなものだと観念して、身を引きたいと思っております。

お礼日時:2009/11/20 15:45

困り度が赤色とは、滅茶苦茶に矛盾しておりますね。

多分貴方の生き様も矛盾だらけだったのでしょう。

死の美学って言うのは、その民族の数百年、あるは数千年を見越した美学ですね。チョコレートで有名なレオニダーダス率いるスパルタ軍のテルモピュライの死の美学はまさに、歴史を超えた美学として受け入れられていますから。

先ず恐れ入っておりますのは、貴方様の死が美学になり得ると貴方様がお考えになっていらっしゃていることです。日本では古来、美学としての死を遂げるためには、その方の死は余りにも理不尽な不正義な死でなくてはなりません。ただし、その理不尽な死を遂げた後でも、世の中が全うであってはなりません。なにか、得体の知れぬ天変地異が少なくとも数十年、間欠的に続かなくてはなりません。そのような異変が続けば、そのうちに古老達は貴方の理不尽な死を思い出し、その霊を慰めるべく、貴方に0123gokudo明神とか何とか名前を付けて立派なお宮を建て、貴方をお祭りしてくれるようになります。その時、貴方の美学はそれを善しとして、貴方の魔力を善力に変え、人々にいろいろな福を齎す神へと昇華いたします。ただし、このように神に奉られるためには、前にも言いましたように貴方は理不尽な死を遂げなくてはなりませんので、墓石があるなんて、もってのほかです。くれぐれも、怨念を残さないような全うな死を遂げませんように。腹をかっ捌き、念を残す、それが日本の死の美学です。
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この回答へのお礼

「死の美学」に定義があるとはびっくりしました。私はこういう風な思いを持って死んで行きたい、それをまあ、私は単純に死の美学と表現したのですが・・。貴方様の仰る死の美学では私は到底死に切れないことになりますね。

お礼日時:2009/11/20 15:39

細胞の遺伝子DNAの最後には、回数券のようなくり返し配列が(人間で50回ほど)あり、


一回細胞分裂するごとにくり返しが1つ減って、なくなるとそれ以上細胞分裂できず、
新陳代謝できずに老化して死ぬようになっています。

生物は、有性生殖以前の「突然変異による多様化と、その淘汰による選択」という
人まかせで遅い進化に対して、交配する事で、遺伝子の配列をシャッフルして多様性を生み、
また交配のための種内の競争による選択という、すばやい進化を可能にしたのです。
そこにおいて、世代交代しなければ個体数が増える一方なので、自ら寿命を制限しているのです。

細胞分裂で増えるゾウリムシ(単細胞生物)は、有性生殖など必要ないようですが、
実は時おり、他の細胞とくっついて遺伝子を交換する、「接合」を行います。
接合せずに細胞分裂だけしていると、百数十回分裂したところで分裂できなくなり、死んでしまいます。
接合をすると、また若返って、百数十回分裂できます。
それほど「遺伝子の交配」というのは、進化に有効なのです=長生きは退化。

死は世代交代を意味し、その有性生殖において愛は生じ、親や子供は存在するのです。
人は、不死に憧れを抱きますが、人も愛さず子供もいない、そんな社会が魅力的には思えません。
逆に愛があれば、自己の肉体の限界を超えて、意志(=精神的充足)は広がります。

生と死は対立概念ではなく、「より良く死ぬことが、より良く生きること」なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>一回細胞分裂するごとにくり返しが1つ減って、なくなるとそれ以上細胞分裂できず、新陳代謝できずに老化して死ぬようになっています。
先頃亡くなった森繁久弥さんは老衰とのことですが、やはり新陳代謝が出来なくなったからなんでしょうね。

お礼日時:2009/11/20 15:34

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