激凹みから立ち直る方法

質問の概要はタイトルの通りです
複雑ですので質問の文脈をできる限り整理しておきます。

宗教的認識について。
宗教的認識とは生活の世界、つまり経験の蓄積によって我々が意味を与え、成立する世界におけるものなのか。
それとも、生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。

私としては、これについては後者の解釈がより正確だと思われます。そこで以下の問いが浮かびます。

後者に至る認識的上昇は、「外界は存在する」「5+7=12」というような、自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄を意味するのか。これが質問の一つです。

仮にそうだとすれば、認識的上昇は無意識への到達と同じことになると思われます。
ここで、例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。
そう言うことは理解できますし、なかなか魅力があるとも思います。
ただ、ここで「無意識における意識」という一見したところの矛盾があるのは明らかです。あえて哲学の文脈で言えば「絶対矛盾的自己同一」の問題だと思われます。これを解消するのはどのようにしてか、というのが質問の二つ目です。

ピンと来られた方、ぜひ回答よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

こんばんはです。


NO8です。
お返事で、疑問がありますので。

>無意識の意識は自己の内面との会話のようなものになるため、どうしても自然な理解の枠を出ない思考になるように思います。
とありますが、
無意識=自己の内面? とは思いませんし、内、外、という枠を取っ払うことになると思います。自己の内面、というより、自己以外?というのがまだ近いかも・・ 自分が自分の所有物と話をするようなイメージはもってないですね~。

意識がその無意識の所に移動して自覚をした意識できたとして、必ず時も自我が成り立つ、自分を感じ取れる、とは思わないからです。
例えば・・・意識はあっても自我のない時はいくらでもあります。
「いい湯だなー」と歌ってるときも自我はないですし、ものすごく自然体で。あといろいろ、例えば起き抜けてボーッとしてるとき、満足で満ち足りたとき、ぶっちゃけ、自我や感情を人が持ってる時って、現実に観察したら、そんなたいした時間持っていないはずです。特殊な状況下でないと。それは激しく消耗しますし。
ただ問題は、自我など主観がないときが多いんだ、という風にはなかなか気づけないというか、明確にそれを決定することができずらいと思います。定義も難しいし、気づくのも難しいと感じます。


自然な理解の枠、というのが、今ひとつ受け止めかねて。自然って言葉は、なかなか微妙な言葉ですよねー。
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 No.3&5&7です。



 《非思考》とは何ぞや?
 ★ (No.7補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >《思考の山》だというのですから―― 非思考とは関係がないです。

 私としては、思考の果てに非思考が現れるのでなければならない、と考えます。
 そうでなければ盲信となってしまうのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この議論を中心に述べてまいります。そして中で
 ★ 思考の果てに非思考が現れるのでなければならない
 ☆ という考え方を取り上げ これは《無限》の問題だと捉えて思索とわたしからの説明を述べて行きます。

 ホモ・サピエンスの知性は 実際上は三つに分かれると見ます。

 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:いま・ここの経験世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね寄らしめ
     《イリ》をも社会力学上(政治的に) 寄せる。

 * よろしかったら次のわたしの文章を参照ください。
  【Q:宗教が生まれるメカニズムについて】回答No.6
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4085599.html

 すべて言葉は スサノヲ人間語です。
 感性や直観を頼りにするのは ヨリなる前(プロト)歴史知性です。ただしそれも最終のかたちとしては何らかの言葉で表現しようとつとめます。
 その言語表現を洗練させていったのが 普遍概念を捉えてそれらにもとづき思惟を推し進めていくときのアマテラス概念語です。
 普段は 個別の情況で特殊でさえある幅広いスサノヲ人間語でしゃべります。
 アマテラス語からは 経験科学のアマテラス言語が確立されてきましたし あるいは人間語の中に規律や規範を問い求めて行ったあとにつくられたアマテラス人格語があります。
 この人格語からは アマテラス方言も出ました。無謬性の神話を付与した結果です。もし仮りにあやまちを侵したとしても 《記憶にございません》と答えるなら 説明責任を 果たしたとは言えなくとも もうそれ以上は問われないというきわめて便利な人格語方言です。
 《ヨセ》なる超歴史知性は このアマテラス語およびその人格語方言の両方によって成り立っていると考えられます。
 
 この結果 アマテラス概念による思惟をコギトとして添えるかたちで 知性のあり方を 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》というふうにもまとめることもします。全体としては 最広義のスサノヲ人間語です。

 さて《無限》ですが これは コギトすなわち経験思考の問題でありそこにおさまると言いたいのです。さもなければ――さもなければということは 《コギト》やそのアマテラス普遍概念を超えているということなのですから―― 《絶対・非思考のなぞ》としての《無限》です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >この《無》は からだ(生命)の無のことでしょうか? 生まれる前の・受胎以前のことでしょうか? 

 いいえ、「いまここ」における存在の無です。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いまの問題は この
 ★ 「いまここ」における存在の無
 ☆ をコギトの範囲の内か外かどちらの領域だと見るかにあります。
 誕生前や死後は 経験世界の問題です。《無》ないし《いない》と言っても コギトの領域に属します。(精確には 経験世界のことだが コギトによっては現在まででは分からないとなります)。時空間において いまここに《有る》ならそのときそこには《無い》という経験的な相対性のもとに捉えられるからです。
 つまりはもし 《空》というさとりを取り上げるにしても 《思考の果てに》――言いかえると きょう今よりは明日に 明日よりはさらにあさってにというふうに限りなく継続するコギトの過程の果てに――得られるというのであれば これは コギトなる経験世界に属します。アマテラス概念語で表現し得て したがって大きくはスサノヲ人間語で表象しうることになり一般的なかたちで認識しうるものです。その《空》なるさとりや あるいはそこに到る無限の修行ないしコギトのことがです。
 これは もしそういうものであるのならば 《可能無限》と呼ばれる経験的な無限だと思います。つまり その意味での無限大(あるいは無限小)は つねに最後尾の数(= ∞ )に一を加えることができますから 経験的に表象し得ますし相対性のもとにあります。

 さて 非思考は 相対を超えた絶対であり 経験を超えた非経験であり 表象し得べからざる領域であり その意味での無限です。
 つまり 非思考をコギト(思考)で説明せよと言われれば そのように――けっきょくは経験言語によって――仮りに代理の言葉によって表わすしかないということになります。

 ★ 「いまここ」における存在の無 あるいは 意識の無
 ☆ これらの無は どっちなのでしょう?

 ★ 思考の果てに非思考が現れるのでなければならない
 ☆ この命題は不明確です。不十分です。
 ○ 非思考はいつでもどこでも ひとに現われ得ます。また仮りの代理表現によって表わしておくことは つねにそのつど誰によっても 出来ます。
 ○ それは 《思考》の 途中にでも・果てにでも・あるいは思考するしないにかかわらずにでも 非思考のなぞとして現われ得ます。(なにしろ 主観とその真実におさまるというしろものでもあります)。
 ○ とどのつまり この《思考にあらざるなぞの無限》を ひらめきのもとに《わたし》が受け止めたとすれば それを仮りの名で――神なら神という仮りの名で――表わすことがじんるいの間でははやっているようなのです。

 ☆ となります。(これを宗教というかたちにして 金もうけをしよう・あるいは権限や権威を身に帯びて人に対する支配欲を満たそうという場合は 論外です)。言いかえると 《ひらめき》はあったが 神などいないと――非思考において――受け止める人びとは 無神論を標榜するはずです。《思考の果てに》かどうかは分かりません。決まっていません。
 無神論を標榜するまでのことはなく またそもそも《ひらめき》など全くなかったし ないと言う人びとは どういうことか? そういう人びとは 有神論に立つ人びとに対して あぁ それは非思考という人間の時空間の現象に相当する。それは 《信教・良心の自由》という公理によって自由だと認められている。と声をかけてやるか ただ思っていればよいわけです。
 有神論をコギトの領域の内に引き込んできて――それは 非思考を思考と言い含めるのだから まちがいですが―― これは神のことばだ 信ぜよと他者に迫ること これが愚の骨頂であるのと同じように 無神論を 有神論者に持て なんでもいいから持てと迫るのも――非思考を思考と取り違えているゆえ―― 気のふれたふるまいです。

 ★ では「私の潜在的意識」は「神」になるのでしょうか。
 ☆ ひらめきがあってそれをそう受け止めたのなら その主観を持ったひとにとっては 神(ないし神の声か手紙)であるでしょう。
 ★ それとも「自然な態度」を要請するのが「神」でしょうか。
 ☆ 《神》のことは すべてひとりの主観のうちにおさまるものですし そこで決まるものです。《「自然な態度」を要請する》あるいは《要請しない》もしくは《要請することも しないこともない》などといづれかひとつの道に決めつけるのは 組織宗教の教義です。《教義》は すでに《非思考》を《思考》の中へ勝手に引き込んでいます。
 ★ また、外在的ないしは(主観にとって)超越的な法則からのアクセスは「神」と呼び得るでしょうか。
 ☆ 《神》は 多くの主観(つまりひと)を束ねて寄せるかたちにおいて たとえ仮りの表現であったとしても固定的に決定的に 《外在する》と言い切れるというものではありません。《主観にとって》という但し書きを添えていたとしても 一義的に《超越的な法則》であると言い切ってよいとは思えません。可能性としてあるのかも知れませんが そのように多くのひとにとって共通の認識を持とうとして《法則》と言う取り決めを どうしてもしておかなければならないものとも思えません。
 もっと簡単に かつ《文学的に・詩的に》つまりは興味本位にさえ見えるるようなかたちで 言ってよければ 《神は わがこころに内在する》とわたしはわが主観において思っている――こう表現しても その表現の自由までは 自由であるでしょう。
 そして案外 ひとは このふざけて人をばかにしたようなスサノヲ人間語をとおしてこそ 《真理》がおのれの心の庭をおとづれていたのだと気づくときもあると わたしは思っています。(ちなみにブディストらは 仏性はあらゆるひとに遍在すると言っていると思います)。

 神は――ひとが勝手に想定しておくだけのものであるにもかかわらず―― スサノヲ人間語の全体として世界の全体として アマテラス概念語によるコギトに先行しているようなのです。(この先行は 時間のあとさきであるよりも 考え方においての優先順位のことです。ただし その先行性は――非思考なのですから―― あくまで謎においてです)。

 * ひとを食ったような言い回しになっていますが dansunflux さんもどうぞ アマテラス概念語は言うにおよばず スサノヲ人間語をも超えてみてください。(けっきょく超え得ないと分かるのですが そこにあたかも《まど》があったと気づかされるものと思います。この窓のことに触れないよりは 触れたほうが コギトとして合理的で妥当だと考えています)。
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他の方がなされているような、専門的な哲学的な回答は私にはできま


せんが、宗教的側面として、「仏教」の「唯識」から。

この、唯識の考え方では、「私の目に映るグラス」はこの世の中に1
つしか存在しないという考え方をします。

たとえ同じグラスであったとしても、私の目に映るグラスと貴方の目
に映るグラスは別物である、と。

ここには、唯識の他に、「八識」と言う考え方もその所以と成ってい
るのですが、では「八識」とは。

「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」という基本的な五識(これはいわ
ゆる五感と同じものですね)の上に「意識」という感覚が登場します。
「意識」とはすなわち私たち人間は五感(五識)で感じたものから
様々なものを想像し、実際に見たことがないもの、体験したことのな
いものですら頭の中に想像し、自由な世界を想像することができます。
こういった、頭の中で広がるイメージのことを「意識」と呼びます。
五識が限定的で、限れた範囲の中での感覚であるのに対して、「意
識」は無限の広がりを持っています。

これらを全て合わせて六識と呼ぶわけですが、当然八識と呼ぶわけで
すから、この分野には「八つ」の「識」が登場します。

では、意識の上にあるもの。これは「末那識(まなしき)」と呼ばれ、
これこそがdansunfluxさまのおっしゃる「無意識」に相当するもので
あると思います。

どんなに精神的に訓練をされ、様々な状況において感情をコントロー
ルできる人間でも、例えば感動して、「ほろっ」ときたり、腹がたっ
て「むかっ」としたり、不義理を見て、何らかの意識を抱いたり・・・・
つまり、どんなに感情をコントロールできる人間でも、心の奥底より
無意識のうちに感情が生じると言う部分までコントロールすることは
できません。
このように、無意識のうちに沸き起こってくる感情。これを「末那識」
と呼びます。
無意識まで意識することはできない。ここまでのレベルでは、恐らく
dansunfluxさんが捉えていらっしゃる「矛盾」と同等であるでしょう。
ですが、八識の考え方の中では、更に8つ目の「識」。つまり「八識」
が登場します。

八識とはなんぞや。これは、「末那識」の生まれいずる「泉」。
いかに無意識の世界を意味する「末那識」でも、何の所以もなく、突
然にして現れるわけではありません。

「根源」があるのです。これを、「八識」の世界では「阿頼耶識(あ
らやしき)」と呼びます。

仏教の世界で言う「悟り」とは、すなわちこの「阿頼耶識」の存在に
気づき、これを制すること。

無意識を意識するわけではなく、無意識が生まれいずるその根源に
気づくことを目的として、仏門に入っている皆様は日々修練を積んで
いらっしゃるわけです。

ですが、実際にそのレベルにまで到達してしまうと、本当にこの世の
中は無味乾燥として、非常に面白みのないものとなってしまうような
気がします。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
仏教の認識論、非常に面白いですね。

>無意識を意識するわけではなく、無意識が生まれいずるその根源に気づくことを目的として

私が心理学的な用法を完全に念頭に入れ忘れていたせいなのですが、私の言う「無意識」とは「意識の無」です。
おそらく「空」に近いものだと思います。

以下、門外漢の土足の解釈です。失礼でしたらすみません。
「阿頼耶識」というのも、「空」における意識という意味に思われます。
となると「阿頼耶識」を制するとは「ブラフマンとの一体化」という「アートマン」「心真如」の境地なのでしょう。
意識は美しい生命の生滅の流れに還り、ただ存在の喜びに打ち震え、感謝するのではないでしょうか。
無味乾燥ではなく、常に咲いては散る桜を見るような心持ではないかと思います。
たぶん、心理的なコンディションが良ければ、誰にでもたまにあることのような気がします。

補足日時:2010/02/05 05:34
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今晩はー。



内容が盛りだくさんなんで、一個だけ取り出して、無意識の意識、これはなんか言えそうなので。

無意識の意識は、それを意識することそのものです。
そういう無意識があるな、と気付く、自覚することじゃないでしょうか?
自覚できたらしめたもんです。あとはいくらでもそれを意識できますから。

僕は、階層として考えますが、無意識のあることを働き存在を自覚意識したら、それには意識が宿ります。単純に。
意識したのですから、意識が宿ることになります。
それは日常生活に於いては無意識であっても、一度気付いてしまったものは、そう言うのがあったことを思い出すだけで、その存在を意識できます。単にそれを意識することで、その無意識には意識が乗っかります。無意識の意識です。


その確認は、単に箱を開けるようなものでなく、自分と世界の全体という構図に於いて、そういう無意識の働きがあると、いろいろ都合よく説明が付く、という事実によって確信します。
一度確信したら、もうあとは何度も何度もいろんな場面で手を変え品を変え確かめて、目には見えないけどそういう無意識の機能があることをますます確信します。

ちなみに、じゃあ一番最初の気付く意識するときが一番難しいです。目には見えない、だれも教えてくれない、有機的な仕組みで単純に分析できない、など、気付くには不利な条件があると思います。

という説明はだめですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実践的で明快な分析ですね。
ただ、sheep67さんの見方でいくと、無意識の意識は自己の内面との会話のようなものになるため、どうしても自然な理解の枠を出ない思考になるように思います。
宗教との関連となると、どうなるのでしょうか。。。
bragelonneさんの言うように、「神」とわざわざ呼ぶべき者が「自然と」現れるのかについては大いに疑問が残ります。
(誤解を避けるために明記しますが、私はこの回答のような自然な理解の枠を破壊できるとも、したいとも思っていません。)

お礼日時:2010/02/05 05:15

 No.3&5です。



 はてさて われわれの弁証法的過程はいかにすすんでいましょうか。

 それにしてもわたしたちは 《非思考》というなぞをいま問うています。非 思 考 ですよ。これを思考しているのですよ。
 精確には 思考し得べからざる領域について もしこの領域と人間たるわたしが向き合ってみたというとき何らかのかたちで その対峙のすがたを思考の場に――しかもむろん言葉によって――写す(?) あるいは移す(?)ことができるか? できるのなら その説明をしてみたまえ。という課題ですよね。

 ★ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >非思考がわたしの心の戸ぼそをたたいたそのときからのことですが

 例えば「なぜだかわからないくらいに緊張する」というような経験もそのような〈非思考の訪れ〉に含まれるでしょうか。 / あるいは、本能的な感情一般は含まれるでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合 この《心の窓へのまぼろしのノック》はその音が 心の揺れや胸騒ぎに 時として感じられるかに捉えています。《顔を赤らめる・やましさや後ろめたさを心におぼえる》などです。
 そうして《ゆえもなくおぼえる緊張感》や《本能的な感情一般》や しかも――これまでの発言を裏切るかのようですが――《思案・思索・思考の一般》の内にもし《わたし》が そのまぼろしの声を聞いたとしたなら それは《非思考の訪れ》になります。言いかえると 世界のあらゆる現象が 神からの手紙だという意味です。(中には 反面教師のものもあるはずです)。(裏切りの件については 思考の中にというのではなく 思考の途中でと言えば それが解消するでしょうか)。

 ただし 次のご指摘は微妙な含みを持ちます。
 ★ だとすると、〈非思考の訪れ〉は思考的に反省、分析することができます。
 ☆ 《訪れ》についてはいくらでも思考し得ます。とことん反省し分析し得ます。そもそも《まぼろし》とさえ――あるいは《おとぎ話》だとさえ――初めっから言っているのですから そんなものはいんちきだという反論も批判も およそただちにしようと思えば出来るはずです。
 問題は 《非思考》本体は 誰にも思考し得ないという点です。表象し得ません。わづかに《非思考》だとか 《なぞ・絶対・無限あるいは神》などなどと人間の言葉では代理して仮りに表現しているに過ぎません。(ですから 《無神》と言っても同じになりますし なんなら《鰯の頭》でもいいわけです。それらはまったく互いに同等です)。
 無意識ではなく 非意識です。意識と無意識とをひっくるめたものに非ずという領域です。そういう架空の領域であり 人間はそのように想定するに過ぎません。
 (想定のみに終わるかどうかは 心に窓があると見るかどうかにかかっています。でもたいていは 窓じたいはあると見ると思います。窓の存在に気づいてそのあと無神論は 閉めてしまったとしても窓の存在は否定していません。否定も肯定もその論証が為し得ることではないからです)。
 (ですから 無神論も けっきょくその哲学思想は この――原点ともいうべき――心の窓の存在から出発しているはずなのです。もし悪しき唯物論に落ち入るなら 窓という窓は閉め切って あるいは無いと言い張って 地上の理想社会を人間の能力と努力のみによって実現するぞという方向に行きます。行きました)。

 非思考は 人間をばかだと見ている節があります。その能力と努力によっては及ばない領域があるのだよと小声で――あるいは大声で――ささやいています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 直観的に把握したに過ぎないことを、そのリアリティに身を委ねることで
〈信仰〉的な対象、超越的な何者かへと祀り上げることには飛躍があるように思えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《祀り上げたい》とは思わない人間にも そのまぼろしのコンコンと打つ音は聞こえるはずです。《祀り上げたい》と思う人には その《祀り上げ》は 単なる観念の神だから注意しなさいと言って――つまり偶像崇拝になるのだから注意しなさいと言って―― 窓をたたくはずです。
 ★ 直観的に把握したに過ぎないこと
 ☆ ではなく そうではなく 《直観的にも把握し得ない》と直観した瞬間なのです。
 ★ リアリティ 〔あるいは〕 それに身を委ねること
 ☆ は 《わたし》の問題です。主観内面におさまることですし おさめなければならないことです。これを《信教・良心の自由》という公理に人間はまとめました。(そのあと 表現の自由として 人間の理解しうる言葉で表現しひとに伝えることまでをも自由としました。決めつけがまずい。つまり宗教組織においては それが起こりがちです)。

 以上の《飛躍》の問題が解消するなら――おっしゃっているように同様な議論が続きますから―― あとは細かい補いになると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 意志するということは、その意志対象、つまり意味を必要とします。
 意味は常に、経験と慣習が形成するコンテクストの中で合理的に決定されます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ガラの悪いことを言いますが 丁か半かの賭けは いづれとも人間には分からないという《意味》があります。《表象しえない》という意味がある場合もあるのではないでしょうか? (ヰ゛トゲンシュタインに関係するとおしえてくれた人がいます。わたしは 知りません。そのセリフじたいは 間接的に何度も接していますが)。
 
 ★ この意味の世界を離れるとは、つまり認知という過程を必要とするすべての行為ができなくなることです。
 ☆ なにしろ 相手は《非思考》という根っからの老獪野郎ですから。《日の老いたる者》とも呼ばれます。《認知》を超えています。《認知を超えたもの〔の想定〕》を認知するということです。そういうことに過ぎません。ですから ほんとうには偶像崇拝は起きないことになっているはずです。偶像があり得ないのですから。ま もっともだから偶(仮りのの意味でしょうか)と言うのでしょうが。

 ★ 私にはどうも、bragelonneさんの言う〈心の明け〉とは、言わば思考の山を登り切る途中の休憩所のできごとに思えてならないのです。
 ☆ どうでしょう? 登り切ったかどうか 果たして本当に登っているのかどうかは――なぜなら 《思考の山》だというのですから―― 非思考とは関係がないです。学問をどれだけ積んでもそれは かなたからのノックを聞くかどうか・受け容れるかどうかとは 関係ないのです。(神は 人間をあほにします。神のあほは 人間の利口よりも利口だとも聞きます)。
 この神のもとなるあほは次に述べられた《単なる存在》のことです。《ただそこにいるだけのわたし》です。植物人間も 人間だという意味にもなります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 意志や行為における一切の意味を持たない〈単なる存在〉が現れます。
 この〈単なる有〉は「無ではない」という意味においてのみあり得るものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ただし 次の命題は どうでしょうか?
 ★ よって、存在は無を媒介として弁証法的に成立することになります。

 ☆ この《無》は からだ(生命)の無のことでしょうか? 生まれる前の・受胎以前のことでしょうか? 
 だったら 《媒介として》というよりは ただ《生まれる前と後とを突き合わせているだけ》のように思います。
 ○ 存在とは 《生まれる前および死後 そして意識・無意識もしくはあらゆる思考》としての経験世界にあって初めて認められるものですが その経験世界を超えた非経験つまり非思考の領域を想定しうるものでもあります。
 ☆ 弁証法は 経験世界についてのみ当てはめるものです。弁証法的過程を超えたところは 有か無か。これは いづれとも人間には決め難いのです。だから 非思考として想定しておきます。昔のひとは 《かみ》といって仮りに認識していたことになります。


 ですから つぎにおける《有と無》については どういう定義なのかが問われます。
 ★ 絶対矛盾的自己同一とはつまり、有と無の「存在する我」における昇華ではないでしょうか。
 ☆ たぶんこれでしたら あくまで弁証法の届き得る範囲 つまり経験世界にとどまると結論づけてもよいのではないでしょうか?
 絶対矛盾的自己同一。わたしは 《絶対》という言葉を使っているからには 非思考の神の問題に入っているとは思っています。ですから たとえば聖書の文句を引いて その事例として掲げました。
 (経験的に《昇華》がないと言っているのでは むろんありません)。

 ところが ただし じつは あにはからんや つぎの命題は 非思考のことを言っておられるのかどうか。どうでしょう そのように見えますが?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは行為においては、無の否定としての有の意識でも、有の否定としての無の意識でもなく、意識の無(無意識)において立ち現われることになります。
 これが絶対の無だと解釈しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 無意識などの用語は不正確だとわたしには思えますが さらに次のように添えられているのなら 神のことを説明しておられる。このようにも受け取られますが どうなんでしょう?
 ★ もちろんこれは、「認知という過程を必要とするすべての行為ができなくなる」という上記の前提に沿っています。
 ☆ 《認知ができなくなる》と言うよりも 《認知を超えているゆえ 認知の必要がない》領域のことを話しているのだよという問題であるようです。
 はてさて どうでしょう?

この回答への補足

回答ありがとうございます。
そして返答が遅れてしまい、すみません。


>もしこの領域と人間たるわたしが向き合ってみたというとき何らかのかたちで その対峙のすがたを思考の場に――しかもむろん言葉によって――写す(?) あるいは移す(?)ことができるか? できるのなら その説明をしてみたまえ。という課題ですよね。

その通りです。


>《思案・思索・思考の一般》の内にもし《わたし》が そのまぼろしの声を聞いたとしたなら それは《非思考の訪れ》になります。

では「私の潜在的意識」は「神」になるのでしょうか。
それとも「自然な態度」を要請するのが「神」でしょうか。
また、外在的ないしは(主観にとって)超越的な法則からのアクセスは「神」と呼び得るでしょうか。


>非思考は 人間をばかだと見ている節があります。その能力と努力によっては及ばない領域があるのだよと小声で――あるいは大声で――ささやいています。

ここに限らないのですが、議論の次元が、論理的なものか、実践的なものか、時折混同されているような気がします。
哲学は詩ではありません。
私は、bragelonneさんの言う「スサノヲ的言語」はもう少し「アマテラス的言語」に置き換えることは可能と思いますし、
あなたの言わんとしていることを「アマテラス」的に理解できるという確信もあります。どうでしょうか。


>《思考の山》だというのですから―― 非思考とは関係がないです。

私としては、思考の果てに非思考が現れるのでなければならない、と考えます。
そうでなければ盲信となってしまうのではないでしょうか。


>この《無》は からだ(生命)の無のことでしょうか? 生まれる前の・受胎以前のことでしょうか? 

いいえ、「いまここ」における存在の無です。


>弁証法的過程を超えたところは 有か無か。これは いづれとも人間には決め難いのです。だから 非思考として想定しておきます。昔のひとは 《かみ》といって仮りに認識していたことになります。

〈かみ〉との接触が意識の無(「無意識」という言葉は確かに不適切だったかも知れません)において、ないしは意識の彼岸においてなされるというのであれば同意します。

補足日時:2010/02/04 20:16
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少し時間が出来たもので、又参加させていただきます。

「絶対矛盾的自己同一」と言うことの説明です。この体験を、自分自身を知ると言います。つまり自分の中のもう一人に会った、という事になります。

人間の不安や、恐怖感や、深い悩みや、疑問とはみな同じ心の現象です。簡単に言うならば「心の矛盾」という事になります、他の言い方をするならば、二つの心のせめぎ合い、という事です。今の医学書には出ていないかも知れませんが、自分の実体験から書いています。

14歳に死にたくないと思ったのがきっかけで、死に対する恐怖症になって18年間苦しんだ事があって、その恐怖症から抜け出した体験のことです。32歳の時でした。その体験が禅の物語の中にもう既に語られていました。

不安や、恐怖感とは、もう一つの意識からの「怖がらなくても良いよ」というシグナルです。処が何も知らない私は死を恐怖していただけでした。28才で恐怖症から、離任神経症の症状が強く出たために、生活がままならなくなって、入院森田療法というものを2ヶ月間受けました。帰ってきてから4年後に、先に書いた体験がありました。

悟りを開くと言う事は、心が「無」の状態から意識と無意識に分かれる瞬間のことです。この時に二つの意識の出会いがあります。自我意識は有限で出来ています、もう一つの意識は永遠で出来ています。この事を知って、「有限のこの肉体は大事ではなかった、と解ります。」言い方を代えたなら。「もう既に自分の実存は永遠なもので出来ていた事。」が解ります。この体験から自分の生死にはこだわりがなくなります。

この体験から生死の問題が解決したと言うことになります。此れ以後自分がノイローゼで苦しんだ事も、直ったことも忘れ果てて来ました。恐怖症があの時点できれいに治ってしまいました。今61歳になりました、今も苦しんでいる人たちが沢山居ることが分かります。もう少ししたら、退職をして、苦しんでいる人たちに何かが出来ないだろうかと言う思いがあります。

現代の体や心の健康や、医療の認識は、本当の人間の全体像がつかめないままに、手探りで治療に当たっている部分が多いと思います。精神疾患に付いては、その現場の医師でさえ、「内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。」(それはクルト.シュナイガーの言葉ですが、)と言っているのが現状です。

今の医学では解明できていない、体の病気でさえも、脳と精神と体、心と脳と肉体の関係の解明が出来てい無い事によっています。この解明出来ていない部分が、左脳と右脳の関係が左右しています。言い方を代えるなら、心と精神と体の関係としての全体像が分かっていないと言う事です。

人生における生きる意味や、生きがいにさえ関係しています。この問題は人間に突きつけられた問いかけといえます。この問いかけにさえ今の医学は答えなければならなくなっていると思います。昔は宗教家、或いは聖職者がやっていた仕事までも、医療の対象になってきたともいえます。

心の矛盾とは、二つの脳に存在する人格同士の対話です。右脳には言葉が無い事から大変分かりにくくなっています。そうして思考方法がまったく違っている事も、分かりにくくしている原因です。二つの意識が出会う為のテキストが在ります。それが禅問答です。言葉を持たない意識が書かせています。言葉を持つ脳、左脳が黙る時に、言葉の無い世界で出合う事になります。自我意識が死ぬとも言います。是が「大死一番」という言葉になります。是以後分別脳の主導権はもう一つの意識が握ることになります。この事が矛盾したままに矛盾を乗り越えたということになります。

「絶対矛盾的自己同一」という事です。

この回答への補足

>矛盾したままに矛盾を乗り越えた
確かに公案は「絶対矛盾的自己同一」だと思います。
私は禅に造詣は深くありませんし、まだtumaritou1さんの1/3程度しか生きていない若輩者ですので、こう語るのもおこがましいですが、
おそらくあなたは禅の本質的なところに良く触れておられると思います。
ただ、右脳左脳に関わる言及については、先の返答でも書きましたが論理的にも科学的にも飛躍しているため何とも言えません。

補足日時:2010/01/27 08:19
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 No.3です。



 前回はかなり批判的な立ち場をわざと浮き立たせるような口調でしたが よく受け止めてくださいました。お応えをありがとうございます。
 これにわたしも受け答えしてまいります。

 どうも《語用》あるいは定義の問題で互いにぶつかっているように思うのですが どうでしょうか。
 今回はこの点を わたしなりに明らかにしてまいります。

 ただし――初めからの《ただし》ですが―― 次のように伺うならば 定義の内容ではなく 表現つまり用いる用語の違いだけのようにも受け取られます。
 ★ (No.3補足欄。以下ことわらないかぎり 同じです) ~~~~~~~
 一応、私の「宗教」という語にはあなたのいうニュアンスを含めているつもりです。
 「無意識」についても、おおむね同様と考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて 事柄ごとに見てみます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >信仰は 向こうから――つまりその非思考のなにものかが わたしの意図とは別に向こうから――やってくるものです。

 それは結局のところ非思考と思いこまれている思考、ではないのでしょうか。
 例えば因果関係や客観的対象、単純計算など、非思考的に直観されている思考作用は多くあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。基本的に言って 《思考》ではないですね。
 ☆☆ (回答No.3) 非思考がわたしの心の戸ぼそをたたいたそのときからのことですが 意識しうることはわづかに その訪れとその迎え入れのみです。
 ☆ 《迎え入れ》は たしかに受け取ろうかどうしようかと《思考》することもありますが その思考としてではなく また思考の結果としてでもなくおこなうわたしの意志行為です。

 わたしの触れたそれぞれの用語ないし言い回しについて dansunflux さんは 古今東西の(あぁ ふるい言葉ですね)先達の思想や哲学の内容を想起され それとの照合などをきちんとおこなうという姿勢でおられるのですが そしてそれに何の問題もないのですが わたし自身は 特に意識して持ち出しているものではありません。どうしてもその哲学者などの名を出すべきだと思ったときには出すことにはしています。
 さて 次のように言うとパスカルを想起されるかどうかをいま別として 非思考の信仰は つまりその《迎え入れ》としての意志行為は げんみつに言えば《思考》ではなく言うとすれば 《賭け》です。どれほど思案を重ねたとしても そのすべての試行錯誤としての経験合理性にもとづく思考をうっちゃって それらとは別の意志行為として えいやっとひとつに決めるという性格内容によって成り立つ瞬間です。
 これをも
 ★ 非思考的に直観されている思考作用
 ☆ というふうに表現されるのだとすれば あとは 用語の交通整理をお願いしますという要望だけが わたしの成すべきことです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >《いま・ここなる〈わたし〉》の自己表現の過程こそが わたしの世界です。永遠の現在とも言うと思います。

 「いま・ここ」というのは現象学的な用語を引かれているのだと思いますが、これはbragelonneさんの意図とはおそらく正反対の、思考的な生活世界の構成についての説明です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題が生じました。わたしは 意識せずに使っています。《これからでも これまででもなく そこでも あそこでもなく いま・ここ》と言っています。たぶん《わたし》ということのほうに重きを置いているはずです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「いま・ここ」への回帰とは、社会的存在ないしはハイデガーの用語を借りれば世界内存在としての人間における自然主義の主張に他なりません。
 「いま・ここ」は、空間・時間的な広がりの中から構成される(でなくては「いま・ここ」の概念が意味を無くしてしまいます)ものであり、経験的・慣習的に規定されていくものに過ぎません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから ひとつに力点は 《わたし》にあります。ほかの誰でもなく しかもほかの誰とも同じ存在である人間としての《わたし》です。
 このわたしは いま・ここに立ちますが 必ずしも《「いま・ここ」への回帰》ではないでしょうね。またまた用語の違いだけの問題かも知れませんが わざわざ《回帰》しなくても あぁ われに還ったと思う瞬間が いま・ここです。或るときわたしは ひとに欺かれたと気づく。この気づきに我れに還る。これが 原点です。出発点です。《わたしはわたしである》というわけですから。
 ほかの人間も おそらくこの《自己到来ないし自己還帰》がおのおのの原点であるはずだとわたしは思うからです。そのあと・またその気づきをめぐる思索過程において 《われ考える》という思考行為をもおこなっています。《われ欺かれるなら われあり》( Si fallor, sum. ――Augustinus )が 《コギト》を含むという見立てです。
 ★ 世界内存在としての人間における自然主義
 ☆ 《世界内存在》は 最も侮蔑的に言えば 当たり前のことだと考えます。その認識はとうといでしょうが。
 《自然主義》は たとえば《道徳規範は 愚の骨頂》だと主張するわたしは 理性規範語また人格語としてのアマテラス語に信頼を置かず あやまちうる自然児・野生児のスサノヲ人間語を土台としています。ですが 《自然主義》とはほとんど言ったことはありません。
 ★ 「いま・ここ」は、・・・経験的・慣習的に規定されていくものに過ぎません。
 ☆ 時空間の現象として たしかに《いま・ここなる〈わたし〉》は推移します。この時空間の世界現象によって《規定されていく》というのも だいたいそのとおりだと考えます。そして同時に わづかにわたしはわたしの意志行為として この世界に対して(と言うよりは この世界現象の一部として)うんこの一つや二つもたれて生き死んでいくことでしょう。意識の排泄ではなく 心の明けとして存在におけるその〔非思考の〕窓の実証として うんこの痕跡が成れば しめたものだと思っております。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >非思考の何者かは《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》といったふうな認識を得ることを言うようです。

 これについてはどうにも違う気がします。
 〈絶対矛盾的自己同一〉は西田幾多郎に借りた用語ですが、このように具体的に実践的な意味は持たない、「絶対の無」に至る弁証法的思考だという大枠は理解しているつもりです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《具体的に実践的な意味は持たない》とすれば 《弁証法》はあり得ません。
 《「絶対の無」》とは 非思考の信仰が迎え入れるそのなぞの何ものかを言うと採りますと そこ《に至る弁証法的思考》は 意味を成しません。
 上に書きましたが まづこの《なぞ――彼岸?――に到る道筋におけるわたしの弁証法的思考》は それとして有ってもいいかも知れませんが その《思考》とそして《信仰として賭けを決める瞬間》とは まったく別のことです。
 《どれほど思案を重ねたとしても そのすべての試行錯誤としての経験合理性にもとづく思考をうっちゃって それらとは別の意志行為として えいやっとひとつに決めるという》のが 《絶対の無》とのわたしの関係です。あたかも――あたかもです あたかも――《絶対矛盾的自己同一》の瞬間です。
 彼岸との絶対的な乖離は 承知の上ですから 《絶対矛盾》ですし しかも主観においては――あくまで主観においては―― そのなぞを領収書を添えて受け容れたのですから まぼろしとしてでも《自己同一》なのです。
 その心の伸びを 経験思考に合わせて表現するならば:――
 ○ 復讐するは 我れにありと主が言い給う。:〔人間は 復讐することなかれ〕。
 ○ わたしは 〔双子の兄の〕エサウを〔まだ母の胎内から出る前に〕憎み 〔弟の〕ヤコブを愛した。:〔えっ そんなえこひいき!!??〕
 ○ 主はいつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれみたまう。
 ○ (マタイ11:28-30) ~~~~~~~~~~~~~
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でもやはり 弁証法的過程は 見えませんね。分かったようで分からない。《絶対矛盾的自己同一》。でも 心の窓は どこか・なぜか・あるいは 明けられたかに思える。のではないでしょうか。おそらく 事後的に・事後的には 時として人間にも この《反対物の一致――敵どうしの和解――》について かすかにでも経験思考に合わせたかたちでの弁証法的な筋道が分かるのではないでしょうか?
 これが 分からなくても まったく問題はない。というのが 非思考=信仰論の真骨頂なのですが。つまり コギトよりも先行している《わたし》という存在論にもなっているはずなのです。

 ながながと書きこみました。ご批判をたのしみにしています。

この回答への補足

濃い議論をありがとうございます。

>非思考がわたしの心の戸ぼそをたたいたそのときからのことですが

例えば「なぜだかわからないくらいに緊張する」というような経験もそのような〈非思考の訪れ〉に含まれるでしょうか。
あるいは、本能的な感情一般は含まれるでしょうか。
だとすると、〈非思考の訪れ〉は思考的に反省、分析することができます。
直観的に把握したに過ぎないことを、そのリアリティに身を委ねることで
〈信仰〉的な対象、超越的な何者かへと祀り上げることには飛躍があるように思えます。
以下の点についても同様です。

>思考の結果としてでもなくおこなうわたしの意志行為です。
>経験合理性にもとづく思考をうっちゃって それらとは別の意志行為として えいやっとひとつに決めるという性格内容によって成り立つ

「経験合理性にもとづく思考をうっちゃる」「それらとは別の」意志行為というのは、論理的に考えれば不可能です。
意志するということは、その意志対象、つまり意味を必要とします。
意味は常に、経験と慣習が形成するコンテクストの中で合理的に決定されます。
〈世界内存在〉という概念にも関わってくることですが、人間は、
気付いたときには、意識した時には、意志したときには、
既に意味のある世界の中にいます。
この意味の世界を離れるとは、つまり認知という過程を必要とするすべての行為ができなくなることです。
それには、《わたしはわたしである》という意識も含まれます。
私にはどうも、bragelonneさんの言う〈心の明け〉とは、言わば思考の山を登り切る途中の休憩所のできごとに思えてならないのです。

>《具体的に実践的な意味は持たない》とすれば 《弁証法》はあり得ません。
> 《「絶対の無」》とは 非思考の信仰が迎え入れるそのなぞの何ものかを言うと採りますと そこ《に至る弁証法的思考》は 意味を成しません。

先のような世界(意味世界)内存在としての人間存在を前提とした上で、
世界に意味を見出すないしは与えるのは人間自身であることを考えると、
行為においてではなく思考的にのみ可能な論理的帰結として、
意味を与える前に人間は存在していることになります。
ここに意志や行為における一切の意味を持たない〈単なる存在〉が現れます。
この〈単なる有〉は「無ではない」という意味においてのみあり得るものです。
よって、存在は無を媒介として弁証法的に成立することになります。
絶対矛盾的自己同一とはつまり、有と無の「存在する我」における昇華ではないでしょうか。
これは行為においては、無の否定としての有の意識でも、有の否定としての無の意識でもなく、意識の無(無意識)において立ち現われることになります。
これが絶対の無だと解釈しています。
もちろんこれは、「認知という過程を必要とするすべての行為ができなくなる」という上記の前提に沿っています。

補足日時:2010/01/27 06:33
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読んでいて



>宗教的認識とは生活の世界、つまり経験の蓄積によって我々が意味を与え、成立する世界におけるものなのか。

がアリストテレス的で


>生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。

がプラトン的だと思えました。



>後者に至る認識的上昇は、「外界は存在する」「5+7=12」というような、自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄を意味するのか。これが質問の一つです。

プラトン的だと、12は 6+6でも 3+9でもなく 5+7でなければならないとなる。
肉屋でお肉を買ったとき「お客さん おまけして110グラムにしときました」といわれたら、「ぴったり100.0000000000000000グラムにしてください!!! それ以外では認めるわけにはいきません!!!!」となるわけです。
極端な表現ですが、まあ そのくらい 「これはルールだ ルール破りには死をもって償わせる」と、頑固。柔軟性のかけらもない。
機械人間。


この機械人間的考えに対して、イエス作家は 「そこまでルール尽くしにする必要性はあるのか? ルールを守っていたら我々は幸福なのか。幸福のためのルールが、我々を不幸にしている」となったんだと思えます。


ルールとは、人を幸福にするためにもともと作られたもの。
ルール自体に問題は無い。
このルールを自分の利益のために悪用し私腹を肥やすやつらがいるから、みんなの幸福のために作ったルールなのに、そのルールで被害を受けてしまう人もいるわけです。


で、ルールに照らし合わせて判断しないとわからないものなんて そんなに無い。
六法全書を広げてしらべずとも、感覚でいいかわるいかすぐにわかるものはいっぱいある。
感覚では「まあまあ とはいっても」となだめられるのに、「ルールに照らし合わせて捌きを下す」と人間ではなく機械のような人が宗教をすると、映画ターミネーターのような世界になってしまうわけです。

ターミネーターは要するに、我々の中にいる機械人間。
プログラムの命令通りに動くしかなく、命令の中止をインプットされるまで、止まらない。
取引も融通も温情も妥協もターミネーターには無い。

我々は機械じゃないので、毎日同じことをういーーんとやっているわけじゃない。
その時 その時で態度を変えるのは生きているから。

人は機械じゃない、生命を持った無常の生き物。
それに気づかず人間を機械と一緒だと思うと、ルール通りにやらなかった人間は、欠陥品だから回収しっルール通りに行動するように修理するか、修理不可能なものは、破壊するってなっちゃうわけです。


>ここで、例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。

ロボットは自分が誰によって作られたかを考えるか。
人間は考えますよね。
だから人間は外に起源を求めようとする。
これはプラトンの考え。

アリストテレスは、プラトンほど精密さを求めておらず、我々の中にそれはあり、経験を通して知覚できるとしているんです。
従ってできもしない理想を追い求め獲得しようと奔走するのは無意味。我々が持つ能力で十分認識できるとし、経験を通してやれる能力の中でやっていくことに価値がある。


能力的にできないものを通して知覚しようとするってのが、あなたの言う自己矛盾ですよね。
「我々は鳥にように空を飛びあの木の上に昇のだ」って言う人がいたら、「でも・・我々は空を飛べないじゃない」って指摘します。
「わかってますかぁ ピカチューじゃないので、我々は鳥のように自由に空は飛べないんですよぉ。木のてっぺんの登るって それがとても重要なことなんですかぁ? 鳥にとっては重要でしょう。木のてっぺんの登れば、敵に狙われにくくなるし、上から眺めればエサもよく発見できるでしょう。 我々は地面にいながら食べ物を得られるので、木のてっぺんに登る必要なないし、他の動物が襲ってきたら、知恵で倒せるんですよぉ。この持ってる能力で十分生きていけてますよぉ」って言います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
アリストテレス/プラトンの括りは、そのように捉えてもらって良いです。

>肉屋でお肉を買ったとき「お客さん おまけして110グラムにしときました」といわれたら、「ぴったり100.0000000000000000グラムにしてください!!! それ以外では認めるわけにはいきません!!!!」となるわけです。
これはどうでしょうか。イデア論についての言及をされているのと解釈しますが、
イデアというのはむしろ「数」「重さ」そのもののことですから、質料や形相に依存しない観念的存在であるはずです。

>「我々は鳥にように空を飛びあの木の上に昇のだ」って言う人がいたら、「でも・・我々は空を飛べないじゃない」って指摘します。
同感です。

補足日時:2010/01/26 00:35
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 こんにちは。



 ★ 宗教的認識について。
 ☆ まづ《宗教》は 《信仰》と言いかえたいと思います。

 その理由はこうです。宗教は 集団として成り立っているという側面も然ることながら 教義としてもすでに確定しています。宗教組織の一員として個人の信仰を得るというのは そこに矛盾が起きるはずです。なぜなら 教義や権威ある者の指導に従うのが普通ですから そのときには 《認識》や《思考》が入ります。つまり《意識》の問題です。

 なぜなら 信仰は 個人のものであるしかなく それは しかも 非思考だからです。
 また 信仰は 向こうから――つまりその非思考のなにものかが わたしの意図とは別に向こうから――やってくるものです。
 或る日或るとき わたしを訪れたなぞの何ものかを わたしは受け取るというのが 信仰です。 
 なぞであり非思考なのですから 特に何かの意識が新たに作られたということはありません。
 ただ 心が開かれたといった状態が――もしくは 境地が――芽生えます。したがって 信仰とは 非思考の内に起きるこころの明け もしくは 伸びのことです。志向性とも言うと思います。

 さて
 ★ 生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。
 ☆ この《梯子を外す》のは わたしがみづからの意志をもってすることではないはずです。信仰=非思考としては。

 ▲ (道元) 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。
 ☆ とか言います。《万法》のほうからやってくるというわけです。
 もし自分から進んでいって得られたというのであれば その自分の理性および感性による修得という範囲を出ません。すでに人間の能力にあったことを自覚したに過ぎません。つまりこの経験世界の範囲を出ていないことになります。

 ですから
 ★ より高次の直覚的認識の世界に至ろうとする
 ☆ というのは すでに非思考の何ものかが あちらのほうで整えていてくれるのだと思います。つまりは そのあとの境地として明けを持った心において 《より高次の直覚》を与えられ それについて経験思考における《認識》をわたしが持つということもあり得ます。
 ただし わざわざその《高次の向こう側の世界へ〈至ろうとする〉》ことはわたしはしませんし その必要もないと考えます。《いま・ここなる〈わたし〉》の自己表現の過程こそが わたしの世界です。永遠の現在とも言うと思います。

 ★  自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄
 ☆ はあり得ません。現在の生活およびその態度において 心の明けが与えられます。

 ★ 例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。
 ☆ 非思考のなぞに言わばつつまれるのであれば そういうふうな状態になると言えるのかも知れません。知れませんが 問題は いま・ここにおいて生きることです。ほかにはありません。あるいは この現在過程に 言うとすれば《宇宙の本源も神も ともにいてくれる》ということでしょう。
 もし仮りにその本源のもとに帰っていくことがわれわれにあるとした場合 そうだとしてもそれは この世界での生をじゅうぶん生き切ったあとのことです。かかづらう必要のないことです。なぜなら さとったのですから。

 ★ 無意識
 ☆ という言葉は便利なようで ほとんど役に立ちません。むしろ弊害が大きいと考えます。意識していないというのは ふつうの事柄を言っていますが 無意識という言わば世界があると思えば それは ほとんど間違いです。あるのは《意識していなかったことが 意識にのぼった》ということだけです。
 もしどうしても使いたいというのであれば それが非思考の領域です。違いは 非思考のなぞは つねになぞであるということにあります。意識にのぼったという場合があるとすればそれは 非思考がわたしの心の戸ぼそをたたいたそのときからのことですが 意識しうることはわづかに その訪れとその迎え入れのみです。そうでなければ ただ人間の精神の世界において 意識していない無意識とそのほかの意識領域とを分けて捉えているだけの話です。

 ★ 「絶対矛盾的自己同一」
 ☆ は 非思考なる信仰を得たあと わたしがわざわざその非思考のなぞの正体をわが思考と観想の能力とであれこれ詮索することであり その詮索の結果得た認識を言います。
 たとえば――つまり それはどういうわけか あり得るかのようなのですが―― こうです。われわれひとは 自分に都合がよいかどうかで善と悪とを分けて考え行動もするが 非思考の何者かは《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》といったふうな認識を得ることを言うようです。《自分の味方を愛することなら 盗賊でもすることだ。敵を愛して初めて 愛ということが成就する》などと言います。
 でもいまここの世界では 矛盾は矛盾だと思いますし――生命および共生という善を侵すことは 負の善として悪であり それらは互いに矛盾しているはずですし―― 《敵を愛せ》というおしえ(つまり人間の精神ないし思考)によってその行為をしても おもしろくも何ともありません。
 《絶対矛盾的自己同一》は どうでしょう 観想(ひらめき)程度として心のどこかにしまっておけばよいのではないでしょうか。

 ですから 集団における・かつ教義を持つ宗教は 個人のこの非思考=信仰という現在過程を 経験思考(教義)および人間関係(組織における指導の授受)によってころすものです。宗教は 信仰の自殺行為です。
 こんなところで どうでしょう?

この回答への補足

回答ありがとうございます。期待したような宗教的立場からの回答です。
いくつか議論したい点があります。あえて批判的な立場を取りますが、よろしければお付き合いください。

まずの語用についてですが、おそらくbragelonneさんの文脈と私のそれとの不一致によるものなので、訂正はしないでおこうと思います。
一応、私の「宗教」という語にはあなたのいうニュアンスを含めているつもりです。
「無意識」についても、おおむね同様と考えています。

>信仰は 向こうから――つまりその非思考のなにものかが わたしの意図とは別に向こうから――やってくるものです。
それは結局のところ非思考と思いこまれている思考、ではないのでしょうか。
例えば因果関係や客観的対象、単純計算など、非思考的に直観されている思考作用は多くあります。

>《いま・ここなる〈わたし〉》の自己表現の過程こそが わたしの世界です。永遠の現在とも言うと思います。
「いま・ここ」というのは現象学的な用語を引かれているのだと思いますが、これはbragelonneさんの意図とはおそらく正反対の、思考的な生活世界の構成についての説明です。
「いま・ここ」への回帰とは、社会的存在ないしはハイデガーの用語を借りれば世界内存在としての人間における自然主義の主張に他なりません。
「いま・ここ」は、空間・時間的な広がりの中から構成される(でなくては「いま・ここ」の概念が意味を無くしてしまいます)ものであり、経験的・慣習的に規定されていくものに過ぎません。

>非思考の何者かは《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》といったふうな認識を得ることを言うようです。
これについてはどうにも違う気がします。
〈絶対矛盾的自己同一〉は西田幾多郎に借りた用語ですが、このように具体的に実践的な意味は持たない、「絶対の無」に至る弁証法的思考だという大枠は理解しているつもりです。

補足日時:2010/01/25 23:50
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無意識にも「意識」が在ります。

この事を掴む事が「悟り」です。この意識は「永遠なもの」で出来ています。言葉には出来ません。此れは自分自身の「実存」と言う言い方が良いかもしれません。

在る者ではなくて、又無い者でもない、と言う言い方が適当です。したがって表現の方法が無い、或いは表現方法が無いと言う言い方が適当です。この事を(表現出来ない事を)表現しようとすることから、聖書でも、仏典でも、沢山の字数になってきます。そうして、読めば読むほど分からなくなってきます。

ですが今の日本には在ります。それは「禅」と言う形で残っています。ですが今の世界には無くなってしまいました。インドでも、中国にもなくなってしまったようです。

その原理を言いますので、禅からでも、自分の努力からでも、掴み取ってください。

禅、或いは人間の本当の全体を掴むと言うことは、自我意識が自分を働かせている者を掴むところに在ります。と言うことは人間には二つの人格があるという意味です。それは自我意識の他に、もう一人自分の人格が存在すると言う意味になります。その人格が分からないことから、今の「精神科や心療内科や、医療」のも限界が在ります。

心理療法は、欲望の研究や衝動の事実を眺めているに過ぎません。精神療法は欲望の動機を研究しているに過ぎません。体を見ている医療では、体と精神の結びつきを全体像としては、把握できていません。このところが今の衣料の限界となっています。ただ一つだけが真実を掴みかけているかもしれません。それは実存分析と言う分野です。

時間がありませんので簡単に結論を言います。自我意識は左脳の意識です、自我意識は人間の全体からするなら自分自身を一割程度しか把握していません。残りの9割近くが「潜在意識、或いは無意識」が把握しています。ですが無意識的なことから、自我意識はつかめていません。

分離脳の研究成果でもある、右脳の中にその秘密は、隠されています。右脳の人格は掴むことは出来ませんが、その人格こそが「神であり、仏でもあります」無意識の意識として自我意識と、その人全体を働かせています。左脳の意識と右脳の意識との出会いが「悟り」を開いた瞬間です。すべての障害が人間から取り払われたと言う意味があります。精神疾患や、心身症等、今の医学では解明出来ていない分野の事です。

左脳と右脳にホットラインが通じて「心の矛盾が」解消した姿が人間の障害が消えた姿と言えます。それが悟りの中にあります。神と和解した姿こそが、真の人間の姿と言えます。平和な世界と、平和な心を希求する姿です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
科学的にも論理的にも飛躍があるように見えるため、私としては何とも応えかねます。。。

補足日時:2010/01/25 23:20
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