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国士舘大学設立趣旨
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A3%AB% …
を読んで、なんとなく素晴らしいと感じましたが、わかならい箇所が多々あります。
口語訳をご教示ください。

●原文
「物質文明の弊日に甚だしく、人は唯だ科學智を重んじて、徳性涵養を忘る今日に於て敎育とは唯だ科學智の賣買たるのみ此の如きは唯だ物質文明に終る、精神文明なくして國家豈に一日の安きを得んや、蓋し精神文明は物質文明を統一指導するものなり、精巧の武器、萬種羅列するも、兵士起って之運用するに非るよりは、戦場に何の効果なからん、吾人は精神文明と精神敎育とを此際に唱道して國家の柱石たる眞知識を養成せん事を期す。
一國の最高學府は未た天下に公開されざるなり、若し公開されるゝとするも、ノート式の講義は單竟死學のみ、其説く處高遠深邃なるが如きも、遂に之れ形式範畴のみ、何等の情熱なく、信念なし、人を化するの力なし、形式、規則、規律、試験、之れ今日の所謂敎育なるものなり。
吾人茲に於てか卓落不覊高く形式の外に立つの士に依り、膝を交へて親しく活學を講ずるの道場を開設せんと欲す、法三章、唯だ眞に師たり弟たるの情誼に依って之を維持せん事を期す、來る者は拒まず去る者は追はず、天空海濶他の覊束なく、唯だ自ら守る禮節を尚ぶのみ。
而して此の道場は大自力を孕むの契機たるを期す、陋隘僅かに膝を容るるの一小寺小屋たりと雖も、大正維新の松蔭塾たる効果あらん、一心足つて萬能始めて用ゆべし、我が道場の期する處は、心學なり活學なり、信念の交感なり、理を説いて理に堕せず、術を語つて術に溺れず、舌頭萬有を吐呑して方丈裏に風雲を捲かんとするに在り。」

●私の意訳
「物質文明の弊害は甚だしく、人は科学知識を重視して、徳性涵養を忘れてしまった今日において、教育もまた、科学知識の伝達に留まっている。
このことは、物質文明の発達には寄与するが、精神文明の発達なくして、国家の安泰はあり得ない。精神文明は物質文明を統一指導するものである。例え、精巧な武器を大量に用意し、兵士に与え、運用したとしても、何の効果もないだろう。
 我らは、精神文明と精神教育の重要性を訴え、国家の柱となる知識の普及を期している。東京帝国大学は、未だ、広く公開されていない。もし、公開されたとしても、ノート式の講義は形骸化している。良くて、形式帳簿だろう。その方法には何ら情熱なく、信念もない。これらの形式・規則・規律・試験といった従来の教育では人格向上にはなんら寄与しない。
 我々は形式主義から脱却し、膝を突き合わせた活発な学問の道場を開設した。
 来る者は拒まず、去る者は追わず、ありとあらゆる束縛から自由となり、ただ自らが課した礼節にのみ従うだけである。
自ら進んで力をつけるための契機を与える道場である。
例え、少人数の寺小屋であっても、大正維新(明治維新の誤り?)の吉田松陰の如き効果があるだろう。
我が道場が期することは、心学、活学、信念の語り合いである。
理を説いて理に堕落せず、術を語って術に溺れず、世に風雲を巻き起こす存在なり。」

わからないところは、省略しました。もっとスマートで心に響く文章にしたいのですが、よろしくお願い致します。

A 回答 (2件)

省略以外の部分も含めて一通り訳してみました。



「物質文明の弊害が日ごとに甚大になり、人が科学知識だけを重視して徳性涵養を忘れてしまった今日、教育は科学知識を売買するだけになっている。このようなことは物質文明に過ぎない。精神文明がなければ国家に一日の安泰も得られない。精神文明は物質文明を統一指導するものであるはずだ。精巧な武器を何種類と用意しても、兵士が活用できないかぎりは、戦場では何の効果も現れない。私たちはこれを機会に精神文明と精神教育を提唱して国家の柱石となる真の知識を目指す。

一国の最高学府はまだ広く公開されていない。たとえ公開されたとしても、ノート式の講義は死んだ学問に終わるだけだ。一見、高尚遠大で奥深いようだが、結局は形式主義に過ぎない。何らの情熱もなく、信念もない。人を感化する力もない。今日のいわゆる教育は、形式、規則、規律、試験になってしまっている。

私たちはここで、卓越していて(「卓落」は「卓●(火2つにワに牛)」)既成概念に拘束されず、形式主義にとらわれない人たちの助力を得て、膝を交えて親しく生きた学問(「活学」は前出の「死学」の対義語)を講義する道場を開設したい。規則は以下の三か条だけだ。真の師弟関係の交誼に基づいて道場を運営する。来る者は拒まず、去る者は追わず。空や海のように広大な人としての度量を持つ。これら以外に拘束されるものはなく、ただ自ら礼節を尊重するだけだ。

このように、この道場は各々が自ら悟りを開く契機になろうとしている。狭くて僅かに膝が入るほどの小さな寺小屋だが、大正維新の松下村塾(福田赳夫さんを指して「昭和の黄門」と言ったのと同じ用法で「明治維新期の松下村塾に相当する大正維新期のもの」という意味)となるほどの効果をもたらすだろう。技術を活用するのは精神を確立してからだ。この道場が目指すのは心の学問と生きた学問であり、信念を理解し合うことだ。理を説いて理に堕せず、術を語って術に溺れないことだ。あらゆる言論を吸収して発表し、道場内に風雲を巻き起こそうとすることだ」
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>わからないところは、省略しました。



解らないところだけを表示すべきです。

この回答への補足

申し訳ありませんでした。
解らないのは、
・其説く處高遠深邃なるが如きも
・吾人茲に於てか卓落不覊高く
・法三章、唯だ眞に師たり弟たるの情誼
・天空海濶他の覊束なく、唯だ自ら守る禮節を尚ぶのみ。
・陋隘僅かに
・一心足つて萬能始めて用ゆべし
・舌頭萬有を吐呑して方丈裏に

です。

補足日時:2010/04/11 00:41
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