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昭和天皇の戦争責任について
 ヰキぺの記事の中で 次の一点について問います。真偽を含めてになるでしょうが どう捉えられているのか 知りたいです。
 
 ▲ (ヰキぺ:昭和天皇の戦争責任) ~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C% …
 昭和45年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
 天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このことについて知りませんでしたので 詳しい情報を得たいと言うのもさることながら どう位置づけられているのかのようなことについておしえてください。

A 回答 (25件中11~20件)

 以下、続きを述べさせてもらいます。



> 憲法から法律から 科学技術から文学から あんなに短い時間のあいだに 何でもこなしていったのですよね? われらがひいおぢいちゃんおばあちゃん・あるいはひいひいの世代は。

 はい、仰るとおりかと存じます。ただ、昭和6年頃から時代は変わっていったかと考えております。
 つまり、“普通選挙”は実現されましたが、それ以前は、高額納税者のみが選挙権を持っていました。つまり、選挙権を持った人たちは極限られていた訳でございます。ですが、大衆化した民主主義の中では、選挙に勝つためには、派手な選挙戦が必要になってしまい、非常に皮肉な話なのですが、必然的に、金権政治が生まれていったものと考えております。例えば、三井財閥は政友会へ政治献金を渡し、三菱財閥は民政党にへとです。しかし、日本全体が不況にも関わらず、儲けを出していた三井財閥の総帥である團琢磨は、昭和7年に暗殺されてしまいます。また、ほぼ同時期に、もらっていた側の犬飼首相も、ほぼ同時期に暗殺されてしまいました。このとき、国民世論は、彼らには非常に冷たかったといわれています(あまり同情はされなかったようです)。むしろ、以前お話させていただいたように、むしろ逆に、殺人犯に対する“減刑嘆願書”が100万通以上も出た有様でした。

 では、もし、米国発の“金融大恐慌”と昭和6年と9年の“不作”がなければ、日米開戦はなかったのか? と問われますと、99%なかったものと考えております。

> 軍服ひとつでひとは変身してしまったのでしょうか?
 昭和初期では、日本とタイを除く、他のアジア諸国は、“青い目と高い鼻”に植民地化され、好き放題されていました。むしろ、それに対する(もちろん、日本人も黄色人種というレッテルを貼られていました)、反英米主義が強かったのではないかと考えております。

> そうして 戦後 われらは立ち直ったのでしょう。

 はい、仰る通りでございます。「戦後の日本企業にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部のトップ・マネジメントの追放であった。 <中略> その結果、官僚制の崩壊と組織内民主化が著しく進展し、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわき上がるような組織が誕生したのである。」 ものと推察しております。
(戸部良一ら著「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」“3章失敗の教訓” から引用しております)

> この質問をしっかりしたものにしておきたいと思うのですが その点は いかがでしょう?

 愚生で、お役に立つことができれば、喜んでご返答申し上げたく、思っております。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 飛躍です。

 大正天皇は ふつうの人で むしろものを心得ていたのではないでしょうか?
 何かあまりにも正論を言うので 周りから警戒されついにはおかしいという目で見られるようになったのではないでしょうか?
 

お礼日時:2010/04/16 22:39

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

 以下、愚見を述べさせていただいております。

(1)近衛文麿の人気について(補足です)
 例えば、戦後人気のあった首相を上げさせていただきますと、以下の2名が浮かびます(敬称は略させていただきます)。
・小泉元
・細川護熙(近衛の孫に当たります。近衛の娘温子の長男です。因みに父の細川護貞は、近衛内閣の首相秘書官でした。)

 共通点と致しまして、外見は悪くない、お金にクリーン(金権政治とは無縁)、そして、若くして首相になった(細川就任の前には“リクルート問題”があり、小泉の前政権では、景気の長期低迷、さらに経世会を中心とした権力の二重構造がありました。ですが、若き彼らには、これら問題点を一気に吹き飛ばしてくれるのではないか という国民の期待は大きかったかものと考えております。) 等がございます。

 そこで、近衛文麿でございますが、長期的な政治的不安定、度重なる軍人首相がいました。おそらく、若き首相が、これらを払拭して、新たな境地を開いてくれるであろうとの期待は高かったと思われます。


(2)会戦までの日本人
> どうして政治家やマスコミやあるいは学校ででしょうか 外国の生活事情などをしっかりと教え込まなかったのでしょう? 

 大正時代には、第一次護憲運動、第二次護憲運動と、民主化の波が押し寄せました。そして、大正14年に“普通選挙”が高橋内閣のとき、実現しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%86%B2% … からでございます)

 つまり、諸外国からも、学ぶべきところは学んでいたかと考えております。

> 国民がいちばんわるい となるようではないですか? つまり 指導層がもし初めからの富国強兵なり思潮を好戦的なほうへ持っていくことなりにおいて人びとをあおったのだとするなら それに抵抗する市民はいなかったということになります。

 昭和の時代にも、抵抗する人たち(共産党にも少なからずそうした人がいたそうです)がいましたが、“反英米主義者”(アンチ-英米によるグローバル化)が、これらを上回ったものと考えております。

 また、以前ならば“制御”役を務めていた“元老”達も数名いました。彼ら元老の言葉は、すなわち天皇の言葉とほぼ同じ力を持っていたようです(明治政府設立の立役者ですから)。ですが、昭和の時代になりますと、西園寺一人だけになってしまい、元老としての影響力が弱まっていったのも、一因かと推察しております。因みに、西園寺は日米戦争反対派でした。

 以降、続きます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。さらにまなんでまいります。

 ★ (1)近衛文麿の人気について(補足です)
 ☆ 国民による指導者の浮揚といったことが起こると捉えました。そのとき 国民の志向するところは 一般に間違っていないけれど その期待に指導者が答えるかどうかは また別の話となる。
 ただ 枡添要一は 仲間からの浮揚が得られないとか。

 ★ (2)会戦までの日本人
 ▲ (ヰキぺ:護憲運動) ~~~~~~~~~~
 西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第3次桂内閣を組閣することとなった。民衆はこれを、山県の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、国民も議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こったのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《民衆》ですね。でしたら 何も外国を怖いですとか逆にやっつけろとかそんなに意識していたというのでもないのですね。理念として対等であり 現実にも対等になろうというような方向に思えます。でしたら あとで触れておられるところ・つまり
 ★ (回答No.20) ~~~~~~~~~~~
 では、もし、米国発の“金融大恐慌”と昭和6年と9年の“不作”がなければ、日米開戦はなかったのか? と問われますと、99%なかったものと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ につながるのでしょうか。東北地方で不作が起こると 大変な情況になったと聞いています。そこへ わづかに対外強硬派と言いますか いわゆる帝国主義と言いますかの動きが 絡まるのでしょうか? 国内において対処するという考えにはおさまらなかった。
 ★ 反英米主義
 ☆ もその英米と同じやり方に移る可能性があったのでしょうか?

 そうしてときを飛びますが ちょうど掲げておきたいと思うのですが 戦後の復興が来ます。
 ★ (回答No.20) ~~~~~~~~~~
 「戦後の日本企業にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部のトップ・マネジメントの追放であった。 <中略> その結果、官僚制の崩壊と組織内民主化が著しく進展し、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわき上がるような組織が誕生したのである。」 ものと推察しております。
 (戸部良一ら著「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」“3章失敗の教訓” から引用しております)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 条件が合えば 《民衆》は ふつうに生活の向上に向けて勤勉に社会をいとなんでいくと見られるところ 経済不況と軍部の台頭とで 志向する道をあやまった部分がある。大正と戦後とのあいだで起こった。

 どうなんでしょう? アメリカの金融大恐慌が起こらなければ そしてあるいは それでもその経済の立て直しはすべて国内で対処して行ったとすれば あとは どうなんでしょう 植民地の独立への道が どうなったか? これとの兼ね合いは 考えられましょうか?

 あとは 国内の政治情況ですが 暴動や暗殺といった暴力による意志行為(?)は 起こるときは起こるのですね。つまり 和を以て貴しと為すというのも 効かない。つい最近まで 暗殺とも分からないかたちでの《人間の処理》がおこなわれたとも見られます。

 いま現在 《民衆》が 立ちあがらないのは ひとえに安全保障の問題ゆえでしょうか? 国内事情のみでは 何とも動きに動けない。

 今回も 突飛なぶつぶつです。ただのゴミ処理のようなことになるやも分からないのですが できましたらよろしくお願い致します。

お礼日時:2010/04/16 22:34

 続きからでございます。



そして、新聞社も、これに同調する形で、論調を進めていったようです。昭和6年の、“退役軍人による新聞不買運動”が起こり、販売部数を減らしてしまったこともその一因だったかとも考えております。

以下は、某東京A新聞社の販売部数です(大阪A新聞は除いております)
昭和4年 販売部数:587495
昭和5年 販売部数:702244
昭和6年 販売部数:521228
昭和7年 販売部数:770369
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub31. … からです)

 そして、その後、“戦争を煽りながら”販売部数を伸ばし続けます。
「22.6事件が起きた昭和11年は230万部。昭和15年には初めて300万部を突破し、敗戦もおしせまった昭和19年には370万部まで売り上げを伸ばしている。」
http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/masmedia.htm からでございます)

 また、煽られた国民も、軍部支持をしていきます。
「ところで、昭和12年4月30日に行われた総選挙では驚くべきことがおこった。25議席減らして179議席に落ち込んだ民政党を尻目に、66名の候補者を立てた社会大衆党が36名もの代議士を当選させたのだ。しかも19名は各選挙区でトップ当選。東京都の全議席31のうち8議席、大阪府の21のうち6議席が社会大衆党だった。
 投票率60パーセントのこの選挙で、93万人もの有権者が社会主義政党をえらんだ。ただ、その政党は「平和」よりも「庶民の暮らし」を優先させ、そのために軍部の強力な力を頼りにしていた。社会大衆党は日本社会の改革を軍部とともに行おうと考えていた。
 これが完全な片思いであることがやがて明らかになるのだが、ともかく自由選挙が実施され、労働者を基盤に持つ社会大衆党の躍進が、かえって軍部の政治的台頭に力をかすことになったのは皮肉としかいいようがない。そこで、坂野潤治(東大名誉教授;専門は、近代日本政治史)は、「昭和史の決定的瞬間」(ちくま新書)の第五章を「戦争は民主主義勢力の躍進のなかで起こった」と題している。」
http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/masmedia.htm からです)

 つまり、軍部大臣(主に陸軍大臣)も一閣僚に過ぎませんでした。ですが、首相に並ぶほどの力を得ることができたのも、この世論支持にあったかと考えています。
 そして、田原総一郎も自著(上記)で、大東亜戦争を“世論迎合の戦争”と断じています。

 ご参考になれば、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 今晩は ひどっちさん。数々のことをおおしえくださって まことにありがとうございます。
 前回答より先にこちらの方からお応えしてまいります。

 けっきょくのところ 《勝ってかぶとの緒を締めよ》ということわざがあるのに 日露戦争の勝ちで 国民がいちばん酔ってしまったのでしょうか? そこまで遡って考えるのは 行きすぎでしょうか? 
 行きすぎでないとすれば どうして政治家やマスコミやあるいは学校ででしょうか 外国の生活事情などをしっかりと教え込まなかったのでしょう? 
 あるいは当時の先進国との差がありすぎるので 日本人の一面で得意の精神主義にうったえることへ走ったのでしょうか?

 ★ そして、田原総一郎も自著(上記:『日本の戦争』)で、大東亜戦争を“世論迎合の戦争”と断じています。
 ☆ そうですか。そうだったんですか。国民がいちばんわるい となるようではないですか? つまり 指導層がもし初めからの富国強兵なり思潮を好戦的なほうへ持っていくことなりにおいて人びとをあおったのだとするなら それに抵抗する市民はいなかったということになります。
 それにしても そのときにもちょっぴり天皇の力添え(言葉添え)があれば 少しは揺れが小さくなったのではないかと憶測するのは むつかしいのでしょうか? 二・二六事件の後遺症があったとか書いてありましたか? (マスメディアと戦争 8.戦時下の雑誌と政局)。軍部という油に火を注ぐことになるかも知れなかった。・・・

 日露戦争の日本海上で ロシア人将校の捕虜に対して また鳥かごの鳥に対して あんなにやさしかった日本明治人もその後 変身してしまったのでしょうか? これぢゃまるで何かの魔法をかけられたみたいぢゃないですか。それが 黒船であり 列強と言われた世界の帝国主義勢力の魔力だったのでしょうか? 
 だけれどですねぇ 憲法から法律から 科学技術から文学から あんなに短い時間のあいだに 何でもこなしていったのですよね? われらがひいおぢいちゃんおばあちゃん・あるいはひいひいの世代は。


 そうして 戦後 われらは立ち直ったのでしょう。
 そうして頂点のようなところに登って いったいどうしちゃったんでしょう?

 たたかいなどということには 江戸時代を経て 免疫が消えてしまっていたのでしょうか? 軍服ひとつでひとは変身してしまったのでしょうか? 青い目と高い鼻に はじめから打ちのめされてしまっていたのでしょうか?


 わたしは話を聞いたり映画でもいいですけれど テレビのドキュメンタリもいいのですが 戦争関係の書物を読むのは なぜだか億劫になります。戦争のことに関して 活字を拾っていくのは なんだか性(しょう)に合わないと感じるのです。
 こういう機会にせいぜい勉強している次第なのです 正直申せばです。
 さらによい生徒になっていきたいと思います。

 全体を見渡していただいて 何かありましたら お手数でもご指摘などいただいて この質問をしっかりしたものにしておきたいと思うのですが その点は いかがでしょう?
 別に天皇をターゲットにして議論を始めるなどということは むろんなかったわけで 多少とも全体観を明らかにしていただき たいへんありがたく思っております。これで これからの日本という視点についても 少なからずわたしたちの見方を模索しえたのではないでしょうか?
 みなさんにも 言い落としたことなどをさらに書き込んでいただいて しばらくしてから 閉めたいと思います。

お礼日時:2010/04/15 22:26

こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。



(1)近衛文麿について
近衛文麿:“人気は高いが、優柔不断な政治家”というのが一般的な印象かと思われます。
人気について
第二次近衛内閣の前の首相、米内光政(在任期間:昭和15年1月16日~同年7月22日)は、一般的には、当時は国民には不人気な政治家であったようです。そして、陸軍により、日独伊三国同盟の締結を要求されましたが、米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否しました。そこで、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込みました。当時は軍部大臣現役武官制(広田弘毅内閣のときに復活)があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れるという制度がありました。そして、次に出てきたのが、近衛です。長身、学歴、若さ、育ちのよさ(公爵の爵位を持っていました)から、熱狂的な支持を国民から得られたといわれています(参考1)。そして、日独伊の三国同盟が締結されてしまいますが、その際、帝国海軍が猛反対し、今度は海軍が軍部大臣現役武官制を用いて、内閣を倒そうと企てました。ですが、国民の圧倒的な支持があったため、海軍といえども、国民世論には抵抗できず、結局、倒閣を諦めたとされています。

政治家として
 しかし、その近衛も、決戦の決意を求められた際には、あっさりと、逃げてしまいました。そしてその後を継いだのが東条英機です。なぜ、格好のいい発言を繰り返しながら、いきなりドタキャンしたかとの理由につきましては、田原総一郎が自著「日本の戦争」にて、「育ちがよかったからであろう」と述べています。
そして、敗戦後、憲法改正に携わりますが、GHQよりA先戦犯として裁かれることを知り、出頭を求められた最終日に、自殺してしまいます(どんなことがあっても陛下をお守りすると言っていたのですが)。

 首相経験、そして国民の人気から、退任後も影響力を持ち続けました。確かこれは、西園寺の言葉だったかと記憶しておりますが、「彼は、文学青年で終わっていたならば、そして、政治の道に足を運ばなかったならば、日本国民にとっても、また彼にとっても幸福だったろう」と述懐していたようでございます。

参考1:半藤一利著「昭和史」


(2)戦中・戦前の軍部(帝国陸軍)の暴走について
 何時ごろからかは、定かではないのですが、5・15事件以後のことかと思われます。
 まず、“昭和恐慌”のときでした。昭和4年小津安二郎監督の「大学は出たけれど」にも、出てきますが、大学卒業者の就職率が約30%という不況の底だったようです。しかし、財閥企業はすぐに回復基調に乗ったのですが、その他の企業は不振のままだったようです。そして、さらに昭和6年、農作物の歴史的な不作が生じました。そのときには、特に地方では、“娘の身売り”が多くいたようでございます。ですが、そんな中でも、財閥企業は利益を伸ばし、立憲政友会(主に三井財閥)への政治献金、さらには賄賂が横行していたようです。その中5・15事件が起こりました。そして、当時の総理犬飼首相が暗殺されたのですが、なんと殺害した青年将校に対する減刑嘆願書が100万通以上も集まったそうです。普通では、考えられないことかと考えられます。例えば、近年のK首相が暗殺された場合、減刑嘆願書などが集まるなどとは想像できないからでございます。ですが、この国民世論の減刑嘆願が聞き届けられ(裁判所も、世論を刺激したくなかったのだと思います)、(軍事)裁判所は15年の刑を言い渡しました(おそらく、当時の環境から考えますと、おそらく死刑だったかと考えられます)。なぜ、かような現象が生じたのかは、容易に想像できるかと思われます。一般市民は、「彼ら青年将校は、田舎の出で、苦しい生活を強いられ、兄弟たちの中からも身売りする程の貧しさだった。それに耐えかねての犯行だった」と、そのように解されたようです。また、地方では、この5・15事件に賛同する若者たちも多くいたようでございます。政治不信に陥ってしまい、「この国は、金権政治で腐れ果てている。将来、じぶんが軍に入って、この国を変えなくてはならない」と考えた若者も少なからずいたそうです。

 以下、次の欄に移らせていただきます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 ★ (2)戦中・戦前の軍部(帝国陸軍)の暴走について
 ☆ は わたしの把握したなりにですが 次のご投稿へのお応えで触れることができたかと思います。
 ★ (1)近衛文麿について
 ☆ は 重ねて理解が行きとどいたと思う反面で それについての反応は 何だか現われにくい・表わしづらいものに思えて来ました。
 ★ 「彼は、文学青年で終わっていたならば、そして、政治の道に足を運ばなかったならば、日本国民にとっても、また彼にとっても幸福だったろう」
 ☆ と西園寺が述べたと紹介してもらった言葉に帰結するのでしょうか? それにしても どこか坐りのわるい理解になる部分も残っているような。ぎゃくに言うと なぜそんなに人気があったのかという疑問にもなるのですが もうその先は 見えていません。
 ★ 長身、学歴、若さ、育ちのよさ(公爵の爵位を持っていました)から、熱狂的な支持を国民から得られたといわれています(参考1:半藤一利著「昭和史」)。

 といったところになります。
 次のご投稿で示していただいた参照サイトを――拾い読みにしてしまったところなど――あとで全部読みます。

お礼日時:2010/04/15 23:12

★ 事実、敗戦後そのような行動を取ったように思えるからですね。


 ☆ たぶん 事例を出すことをお忘れになったのか何かだと思うのですが どうでしょう? でも事例を出すにしても 終身位に就いていましたよね? いったいどういうことを指しておられるのか? これはよく分かりません。

例えば、マッカーサ・天皇会見時から抜粋
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaike …
昭和20年8月15日、昭和天皇のラジオ放送によって、日本の敗戦が国民に知らされた。「耐えががたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。」この頃、天皇が愁いていたのは、占領軍の方針だった。天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸内大臣に天皇はこう漏らした。「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには、いかないだろうか。」
・・・・
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。

昭和天皇とマッカーサーから抜粋
http://motosuke.net/jhistd/jhist3_6_3.htm
「天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました。」この勇気ある態度は私の魂までも震わせた。と後にマッカーサーは回顧録に執筆している。」

「日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者」と率直に(無私なる表現でに言い切ったのでしょう。だからマッカーサーは感動した。

その他の事例、昭和天皇は戦後ほとんどの県、市などを回っていますね。責任の取り方は弁明でなく態度で一貫していましたね。

 ★ 一方、昭和天皇が天皇という地位を争いにより勝ち取ったものであればまた違った感想になったかもしれません。
 ☆ ここから類推して考えるに 戦後は一貫して 政府の要請に従うのみだったというようなことでしょうか?

これはまったく違います。bragelonneさんは親鸞聖人がお好きですよね。親鸞の信仰の姿勢と昭和天皇の神道の神々に対する姿勢と同じであるといいたいのです。戦後、生き残れば天皇制が存続しようがしまいがそのようにしたということなのです。つまり昭和天皇は神道の司祭の長としての自覚があったといいたいのですね。戦前も戦後も神国日本ですからね。
地位を欲するものは、多くの場合地位に目がくらみ本道を忘れるものです。それがなかったのが昭和天皇であった。つまり生まれながらの天皇という表現なのです。

これについての例は、同じく昭和天皇とマッカーサーから抜粋
<余談にはなるが奥村は昭和16年(1941年)日米開戦の時、パーティをしていて日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた職務怠慢と大失態に関与した人物である。また第4回目の天皇・マッカーサー会談の通訳もするが、この内容をマスコミに漏らして懲戒免官処分となった。さらに不思議なことに、占領が終わった直後の昭和27年10月、吉田首相は奥村を外務次官に就任させている。>                       「國破れてマッカーサー」西鋭夫氏
どうやら、日本において、政治家、官僚が責任を取らない習慣は戦前、戦後を通して変わってはいないようである。

つまり、地位を勝ち取ったものは責任を取らないのが日本の習慣という意味ですね。もし昭和天皇がそのような天皇であれば、身の保護のために国体護持も考えて行動したであろうという視方です。

追伸程度に
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この回答へのお礼

 mmky さん お早うございます。ご説明をありがとうございます。

 ふうむ。どうやら ご回答内容は mmky さんご自身の信念として述べておられる。これが いちばん素直な受け取り方になるのではないでしょうか。
 お持ちの信念に対していやなことは言いたくありません。ですが 歴史にかんして 事実認識から始まって その〔当時としてだけではなく 現代としてもの〕歴史観としての判断は 単純に《情報交換》にもなりますし 社会運営のために意見を述べ合うという公共的な目的をもった議論にもなります。いまは 哲学としての探究において 互いの歴史観ないし世界観の一端を明らかにし合って 互いに問い求めをすすめる。こういうねらいのもとにあります。

 さて 質問者のわたしとしては この質問での上奏文の問題から広げて たしかに表題の《天皇の戦争責任》という課題についても みなさんのご見解を得たいと思います。そうだとすれば もはや焦点は次の論点にあることになります。
 ★★ (回答No.15) ~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・「戦争責任」ではなく「敗戦の責任」ですね。私は戦争責任は当事者全てにあると考えているからです。
 戦争が回避不能であれば、最後は勝ち負けが残ります。勝ちの責めは取る必要がないものですが、負けの責めは誰かが取らなければなりません。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 端折ってものを言いますが ここに到っては個人の信念さらには信仰とは別に 経験思考で互いに理解できる領域において・または表現において考えを伝えあわねばなりません。
 《負けたことの責めに任ずるのは 誰か。そして どうその責めを受け取って果たしたか》 これのみです。

 ◆ (マッカーサ・天皇会見時から抜粋) ~~~~~
 天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これがほんとうであるならば 《責任は 天皇にある》で決まりです。これは《社会でいっしょに生活し生きていく者としての判断》によります。(法的などの根拠はありません)。
 では その責任をどう取ってどう果たしたか。どうでしょう?

 天皇の通訳をつとめた奥村勝蔵についての記事をかかげておられますね。《地位を人為的に得た者》とは おのづから昭和天皇の場合は違うのだと(*)。その点が 信念の領域でお話になっているので 分かりづらいのだと思います。どう違うのか。
 ★  つまり、地位を勝ち取ったものは責任を取らないのが日本の習慣という意味ですね。もし昭和天皇がそのような天皇であれば、身の保護のために国体護持も考えて行動したであろうという視方です。
 ☆ すなわち端的に申せば 天皇は《国体護持を考えて》いなかったし どちらでもよいという信念であったとみる場合 そのことと《終身 天皇位に就いていた》こととは どうまとめたかたちで理解すればよいでしょう? これが 分からないところです。

 ですから 占領が終わったあとは 天皇は政府の言うことにすべて従ったという意味ですか? と問うたのでした。どうなんでしょう?
 もし政府にすべて従うという道をえらんだと見たとしても わたしの質問としては 《マッカーサーには 全責任が自分にあると言っていながら では 国民に対しては 何も言わなかったのですか》という問いです。全国各地への巡幸は その《思いを述べること》に代わるものでしょうか?
 もっと言えば それならば 《日本において、政治家、官僚が責任を取らない習慣》と同じ扱いになりますよという問いです。
 信念をおもんぱかってくれというのは 卑怯者のせりふです。

 * 世襲による地位の取得は 人為的な獲得ではないとしても 祖のニニギのミコトは その神話の話として生まれながらにそこの支配者であると決まっているとされた地上のトヨアシハラの国に降り立ったわけです。つまり 神話の世界の中では 生まれながら決まっていたと同時に 実際には人為的に ニニギの子孫である初代天皇〔とのちに呼ばれた〕神武カムヤマトイハレヒコのミコトも土地の人びとと戦って地位を得ています。 
 あるいは とは言うものの もともと 《くにゆづり》したスサノヲ〔の子孫〕は アマテラスなる姉のじつの弟です。そのときアマテラスが 生まれつき支配者であるとすれば それはそれも親や祖先としての人間(神話では 神々)がそう決めたということではありませんか?

お礼日時:2010/04/15 10:50

mmkyです。


一つ言葉のことですが、意味があるので付け加えておきます。私は意識して「天皇は敗戦の責任は自らにあると考えていたからでしょう。」と書き添えました。
「戦争責任」ではなく「敗戦の責任」ですね。私は戦争責任は当事者全てにあると考えているからです。戦争が回避不能であれば、最後は勝ち負けが残ります。勝ちの責めは取る必要がないものですが、負けの責めは誰かが取らなければなりません。昭和天皇ほど生まれながらの天皇はいないように思います。不思議な表現になりますが、天皇の即位の承認は一般国民でもなければ軍部でもなければ貴族皇族でもないのですね。神道系の神々ですね。昭和天皇は神々によって選ばれた生まれながらの天皇という意識が強かったのではないかと推察しているのです。
だから、皇族や軍部や国民がどのように考え行動しようとも最後に敗戦の責任を取るは国民を代表する我にありと考えていたのではないかと推察しているのです。そこには一点の曇りも無いように思います。国体護持とか天皇制とかいう人々がいようがいまいが生まれながらの天皇になんらの影響はないのですね。これは精神的な部分ですから説明不能ですが、それゆえ軍部や貴族・皇族が夢中であった国体護持など眼中にもない話だと推察しているのです。事実、敗戦後そのような行動を取ったように思えるからですね。
一方、昭和天皇が天皇という地位を争いにより勝ち取ったものであればまた違った感想になったかもしれません。
参考程度の追伸まで
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この回答へのお礼

 mmky さん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。前回は 見方を何故か《国体護持》かどうかの一本やりで分けてしまっていたように いまから思うと 考えるのですが そうは言っても(つまり いくらか勉強を重ねたとは言っても) やはり容易には 判断がつきかねるようなご見解の内容ではないかと思います。まづそうお事割りいたします。
 その上ででしたら わたしなりに受け止めてまいります。

 ★ 私は意識して「天皇は敗戦の責任は自らにあると考えていたからでしょう。」と書き添えました。 / 「戦争責任」ではなく「敗戦の責任」ですね。
 ☆ これは わたしはそのように考えていました。この質問の前に同じ題で挙げた質問でのやり取りの中で そういうふうに述べています。
 ○ 【Q:昭和天皇の戦争責任について】その一
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5815552.html
 ☆ 削除されたのですが さいわい復活いたしました。つまり《負けた》ことの責任のみを問うかたちです。
 ★ 負けの責めは誰かが取らなければなりません。

 ☆ さて そのあとには 《不思議な表現》が出されていますね。
 ★ 昭和天皇ほど生まれながらの天皇はいないように思います。・・・(中略)・・・昭和天皇は神々によって選ばれた生まれながらの天皇という意識が強かったのではないかと推察しているのです。
 ☆ これ自体は 判断を超えていると思うのですが
 ★ だから、皇族や軍部や国民がどのように考え行動しようとも最後に敗戦の責任を取るは国民を代表する我にありと考えていたのではないかと推察しているのです。
 ☆ という一つの結論にもつなげておられます。そして 次の箇所が分かりづらいです。
 ★ 事実、敗戦後そのような行動を取ったように思えるからですね。
 ☆ たぶん 事例を出すことをお忘れになったのか何かだと思うのですが どうでしょう? でも事例を出すにしても 終身 位に就いていましたよね? いったいどういうことを指しておられるのか? これはよく分かりません。

 ★ 一方、昭和天皇が天皇という地位を争いにより勝ち取ったものであればまた違った感想になったかもしれません。
 ☆ ここから類推して考えるに 戦後は一貫して 政府の要請に従うのみだったというようなことでしょうか?
 いや よく分かりません。

お礼日時:2010/04/14 23:13

 こんばんは、Hidocchiです。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 以下、愚見を述べたいと思います。

(1)近衛上奏文とその実現性
 確かに、岡田啓介も天皇に意見を具申しているようでございます。
「昭和20年(1945年)2月、天皇は重臣を2人ずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。天皇も、岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと『昭和天皇独白録』の中で述べている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0% … からでございます)

 No.5の“お礼”欄の中に挙げられている中で、天皇の信頼が厚かったのは、岡田と牧野ぐらいであったかと考えております。ただ彼らは高齢(当時70歳を過ぎていました。今の70歳はお若いですが…..)でしたし、その任を遂行できる人物は、残念ながら、具体的には見当たらなかったというのも事実かと考えております(なにしろ、失敗は許されませんから)。
 例えば、平沼騏一郎(首相在任期間:昭和14年1月5日~昭和14年8月28日)は、西洋諸国の“二枚舌外交”を見抜けず、引責辞任しましたし、広田弘毅(首相在任期間:昭和11年3月9日~昭和12年1月23日)は、軍部に押され続け、“軍部大臣現役武官制”なる悪法を復活させてしまいました。
 若槻禮次郎(首相在任期間:昭和6年4月14日~昭和6年12月13日)も、関東軍の拡大を制御できずに(新聞社が国民をmisleadingしてしまったため、運が悪かったのかもしれませんが)、辞任に追い込まれた経緯がございます。
また、近衛文麿(首相在任期間 第一次:昭和12年6月4日~昭和14年1月4日; 第二次・三次:昭和15年7月22日~昭和16年10月16日)も、日中戦争を泥沼化してしまった経緯もありますし、さらに「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、無責任にも逃げ出してしまった過去がございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B% … からでございます)
 東条は、陸軍内では、天皇の信頼が厚かったとされていますが、会戦した本人自身でもあるため、任せることができなかったと推察されます。

 つまり、昭和20年2月の時点では、“和平”の実現は、極めて困難であったかと考えています(和平に向けたリーダー的存在がいないからでございます)。そもそも、鈴木貫太郎が首相になり、各要人の“和平案”を聞きながら、やっとのことで、“和平”にこぎつけました。原爆を投下されたにもかかわらず、“聖断”まで仰ぎ、僅か1票の差でポツダム宣言受託にまでたどり着けたという事実は、如何に“和平”が困難であったかを物語っているかと推察しております。

(2)昭和天皇と立憲君主制
 昭和天皇は、立憲君主制としての天皇の役割を自認し、政治に大きく関わることは比較的少なかったと思っております。その原因と致しまして、田中 義一首相の辞任に対する反省があったようでございます。
「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」『昭和天皇独白録』(文藝春秋、1995年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD% … の注釈5からでございます)

(3)近衛上奏文における天皇の戦争責任
 愚生は、天皇には責任はあったかと考えております。ですが、この2月の発言に責任を求めることは無理があろうかと考えております。もし、認めてしまいますと、鈴木貫太郎自身も就任後、原爆を投下されております。これら惨劇はあくまで結果であって、鈴木にはその責任は追及するのは酷かと考えております。従いまして、おそらく、昭和天皇につきましても、この2月という時期に近衛上奏文を無視したからと言って、責任を問うのは酷かと考えております。

 ご参考になるところがございましたら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 ★ 岡田啓介・近衛文麿・田中義一
 ☆ のヰキぺ記事を読みました。さらに複雑になりました。田中義一は 天皇による叱責とその影響の問題として捉えるなら と言っても 天皇が統治に口を出さないと決めた事件ですので 大きい契機であるようですが いま問題は 何と言っても近衛文麿に焦点が当たるようです。
 岡田啓介は 海軍だからでしょうか 話の分かる人物であるように感じました。
 そして近衛に焦点が当たるということは けっきょく軍部の・そう言っていいのでしょうか独走や暴走が およそ一番の基軸を形成しているかに思われました。言いかえると むしろ近衛を放っておいて 政府内での和平派と言いますかの系譜がどうであったのか。そしてそれに もう絡みはほとんど無いとも見られますが 天皇の存在が 控えていた。こういう構図にひとまづ捉えてみました。
 軍部の強硬派と閣僚の和平派と そのあいだに何故か近衛がいて それら全部の背景に天皇が控える。といった構図です。
 ひとことで言って 軍部強硬派が この昭和の二十年のあいだ 発狂していた。こういう問題だったのでしょうか?

 素人であることを逆手に取って 言いたい放題になるかと思いますが けっきょく特に陸軍は 欧米の考え方についてそれをうまく咀嚼できなかったのでしょうか? 開国がまだ頭のなかでは出来ていなかった? あるいは開国とは 外国と戦うことであり 八紘一宇の世界をつくるのだとも思っていたのでしょうか? これは 新興宗教ですね。


 それにしても 近衛文麿という人間は 分からない人物ですね。時流に乗ったということなのでしょうか? 

 生徒として 思いつきのままですが ご質問です。よろしかったら こてんぱんにたたきのめしてください。

お礼日時:2010/04/14 22:45

 ANo.10のお礼を拝読しました。


 重要なご回答をよく読まないで、歴史事実の不十分な把握と知識で投稿した事を、謹んでお詫びします。Hidocchi さんとmmky さんの仰せはそのとおりであろうと存じます。
 質問の削除については、まだ仰せのとおりの判断と認識には到っておりません。
 十字軍や民俗大移動、そして大航海時代以降の、戦勝国の戦争引きずり込みと、残虐な戦争行為については先ず、論じられるべきだという認識は変わりません。
 少なくともこういう論議はそういう責任の開明が為されながら、敗戦者の問題を弄り回すべきだという認識を持っています。
 無論、私たちとして、わが国の歴史認識は無用ではありませんが、戦勝国のことが殆ど論じられていない状況を無念に存じます。そしてそれはわが国の事を認識する上でも不可欠だと存じます。
 戦前の統治機構や原理が戦後の輸入原理や方式に劣るものだという思考の検討も無関係ではないと存じます。
 どういう文化性、心性で対するかは事の認識に重要であります。

この回答への補足

 お礼欄は ちょうど二千字でした。それをおぎないます。

 現代においては――という意味は おおすじで スサノヲ市民一人ひとりの存在がひとという存在であることただそれだけのゆえに尊重される民主主義であり かつ 経済行為の形式が 思惟および行動の自由のもとにあり また経済価値として取り決めあわれたモノについては等価交換がおこなわれるというそういった意味での〔勤勉なる〕資本主義として成る現代社会においては ということですが――
 おおむね 牧畜民と農耕民のちがい あるいは 攻撃的と温厚的という両性格の差異などなどは かなり狭まっているのではないでしょうか? 具体的に言いかえると 日本人もかなりの部分で欧米の思惟・内省=および生産・行為の形式を みづからの固有の要素として獲得して来ている。のではないでしょうか?

 天皇のたとえば大嘗祭での儀式は モンゴルあるいはチュルク系の王(カン)の就任の儀式に似ているとも聞きます。つまり ひょっとすると 日本にはもともとすでに牧畜民ないし騎馬遊牧民族の思惟・内省=生産・行為の形式が じゅうぶん噛み砕いたかたちで輸入されていたのかも知れません。
 それは 推測ですから それまでとしますが どうでしょう? 現代の日本人で 民主主義および資本主義を 悪だとか根本的に間違っていると主張するひとはいるでしょうか?
 いるとしても それについて議論をし変革・改革すべきところは直していけばよいのではないですか? そういう社会の運営の仕方に成っているのではないですか?

 そういう現在なすべき議論や将来への展望などを いまこの質問でのみなさんとのやり取りは すでに含んでいると言ってよいのではないですか? もうすでに思想や科学と言えば その中身において世界的なものとなっていますよ。起源をきちんと捉えることは必要なのでしょうが その起源の区別にどこまでもこだわることも必要がなくなって来ている。こうではないですか?

 それにもし日本という国だけで考えて 旧い言葉を使いますが戦争にかんして妥当な総括をすることができるならば そしてその結果 そうとう民主主義なる社会のあり方に望ましく妥当で普遍的な情況が実現されてくるとすれば そうなればその現実の事態をもって ほかの《帝国主義的だった戦勝国》への批判をじゅうぶん提起していることが出来ます。
 でも 日本人はそういうことを《さかしら》に言うこともないのではないでしょうか? 相手はどうでもよいと言うのではなくその関係については顧慮するのですが 一般には ふつうに地道にみづからの社会をよくして行こうという魂胆なのではないですか?

 何がどう気に入らないのですか? 具体的に明らかにしてくださいと言いたいところですが それは ご自分で質問を掲げてくださいよ。いまこの物言いを継いで わたしもそこに投稿することを約束しますから。
 言っておきますが わたしの質問に対して それは質問として成り立たない やめろという物言いを どうでしょう もうこの三年間ほど 繰り返して来ておられるのですよ。しかもその根拠は 《わたしの気に食わないから》の一点張りです。よほど欧米の帝国主義なる思想にあたまがやられてしまっているのではないですか? わたしを植民地にしようとでも思っているのですか? なんで同じことをこうやってわたしは三年も繰り返さなければならないのですか。



 ★ Hidocchi さんとmmky さんの仰せはそのとおりであろうと存じます。
 ☆ これについては おふたりのご見解は 互いに違っていますので どういうことを言おうとしておられるのか まだ分かりません。

補足日時:2010/04/14 12:03
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この回答へのお礼

 次の論点にお答えするかたちを取ります。
 ★ どういう文化性、心性で対するかは事の認識に重要であります。
 ☆ さまざまな分野および観点から論じて解明せねばならないことだと思いますが 次は一つの考え方です。

 現代の経済社会制度について 勤勉資本主義とガリ勉資本主義 という観点を提出する歴史認識です。
 長い引用から入ります。粗いですが 結構あらましを伝えているのではないでしょうか?

 ▲ (江上波夫:遊牧民と農耕民とについて) ~~~~~~~~~
 牧畜・騎馬民族の特徴は 自分たち人間は労働するものではないという考え方です。働くのは牛馬や農耕民の仕事でね。自分たちはその上に立って支配する。軍事を司り 学問し 政治をする。

 牛馬と言えば もともと彼らはたいへんな発見をしている。羊 山羊 牛と馬 これだけ飼って世界を横行することを考えた。何もない所へ行っても これだけで全部間に合う。食べる方は乳と乳製品で十分 毛と毛皮で 服も夜具もテントもできる。それ自身が生きた缶詰です。

 鞭ひとつで草のある所 水のある所へかついでいってくれ かってに子供も産んでくれる。あとは寝ていればみんな事足りる。人間よりよっぽど頭がいいですよ。


 彼らはやがて牛馬の代わりに機械を働かせるようになる。あるいは植民地の人々を働かせる。それが帝国主義となり 産業革命となり いわゆる近代文明を生んだ。
 いっぽう農耕民族は人間は労働するものだという考え方なんですね。ここのところが牧畜・騎馬民族との大きな違いです。

 農耕民族からみれば 牧畜・騎馬民族には文化がない 彼らは野蛮人だというのですが 文化の型が違うのです。
 牧畜民は個人主義で 自由で 民主的です。文化は農耕民族の創出したものを摂取すればよい と考えている。実際にいろいろな文明を融合して普遍性のある世界的な文明をつくってきたのは農耕民族ぢゃなく 牧畜民なんです。
 ヨーロッパでは 地中海世界ではなくてゲルマンが牧民なのです。そういう意味で 世界史における牧民の役割を明らかにするのが私のテーマになっちゃったんです。
 (江上波夫(著者代表):天城シンポジウム 日本人とは何か――民族の起源を求めて―― 1980 pp.16-17)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ☆ どうなんでしょう? 遊牧民と農耕民とを比べることはこの引用のみとしますが これを踏まえて勤勉とガリ勉とを区分して捉えてみてはどうでしょう?
 たとえば 人生を充実して生きたいと言う人 互いに自由に生きていきたいと言う人 こういう人は 時間を大切にします。おそらく何事にもしかるべき程度にふつうに務めを果たします。
 このとき さらにそこから――つまり 勤勉のならわしから―― 《時は金なり》という方針をみちびくかどうかで分かれるのではないでしょうか? 時間を 数量化して捉えるかどうか。ですから そこまで行かない場合には 時間は 相手との互いに自由な――自由に批判し合えるほどに自由な――出会いであり共有する世界となります。

 でも 時間ないし人生を貨幣価値に置きなおしてみるというガリ勉の精神の場合であっても 品物はすでに商品となっていますがその商品にかんして 原理原則としてきわめて民主的な等価交換にしたがっているということも見ておく必要があると思います。
 言いかえると問題は この経済的な――経済的に量的な価値において捉えるという互いに共通の認識に立てるような――等価交換の原則のほかに・言わばその上から いわゆる政治的な・社会力学的な力がはたらくことにあるのではないかとも考えられます。

 科学・特に自然科学は 自由に展開します。あたかも自己運動の如くに――倫理からの制御がかかるまでは―― 一直線に進展します。それと同じように ガリ勉資本主義も 特にその民主的な等価交換の原則に立ったという時にはそれだからこそ たぶん一面においてでしょうがもはやその《計算》における限りでやはり一直線に走り続けるのでしょうね。

 この思想としての悪貨にふつうの勤勉資本主義なる良貨が駆逐されている。おおよそこうではないでしょうか?

 そうしますと むしろいま行なっている歴史の点検 すなわち批判的におっしゃるところの
 ★  戦前の統治機構や原理が戦後の輸入原理や方式に劣るものだという思考の検討も無関係ではないと存じます。
 ☆ この問題がそれとして問われてよいと考えます。端的に 《輸入原理や方式》というとき その輸入の仕方ないし咀嚼がまだうまくこなせていない。こういう問題ではないのか? つまり戦時の上層部の行動を解明しつつ すでに欧米の思惟の形式についても 間接的に 吟味していけるのでは? どうでしょう?

お礼日時:2010/04/14 11:17

近衛文麿が天皇に上奏したのは、下記のようです。


「米英は国体の変革までは要求してこないだろうから敗戦は
恐れるべきではない。敗戦より恐ろしいのはソ連の影響による
共産革命である。ソ連参戦の前に降伏したほうが良いのではないか」

それに対して天皇の回答は、質問文のとおりのようです。
なぜ、そのような回答をしたのかというとわかりません。
ただ、すでに日本軍はせっぱつまっていて戦う事が満足にできない。
という状況を知らなかったのか、それとも楽観的に考えていたのか。
と、いう事ではないかと推測します。

でもまだ、このあたりは僕としてはそれほど天皇の責任がどうか、
ということは考えていません。
僕が考えているのは、3月10日に東京大空襲がありました。
たくさんの人が死に、たくさんの建物が焼け崩れました。
その後、天皇は焼け野原になった戦災地を巡回しています。
それをみても何らかの勇気ある判断をしなかったのが、僕は
残念でなりません。
もちろん、その後も全国に空襲があるわけですが、東京だけでも
4月から8月にかけて63回もあったそうです。
そこまで、がんばる意味が僕にはわかりません。

という事で、僕は天皇の戦争責任はあると思っていますが、
この戦争自体は日本だけが悪いのではなく、アメリカも悪い。
もっといえば、参戦した国すべてに責任がある。と、思います。
その理由は、歴史カテではないので割愛させていただきます。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ちなみにパリ不戦条約は、自衛権は認められているのです。
 すなわち、自衛戦争はいいのです。
 では、何を持って自衛戦争というのか。
 これは、おそらく誰にも答える事はできないと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。そういう詳細な取り決めなのですね。
 お礼欄を書いたあと このご返答を知りました。

 不戦を誓ったと言いますか 約束したと言いますか そのときの意志表示は 或る程度の基準となって おのれにも帰って来ますね。そういう感覚はあるでしょうね。

 でもけっきょく どちらの勢力も・いづれの国も どんぱちをやってでも決着をつけようと思う心もあったのでしょうね。

 きょう 中国の艦船が沖縄あたりを通って行ったとか。まだまだ血の気があるのでしょうか?

補足日時:2010/04/13 23:57
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この回答へのお礼

 りんさん ご回答をありがとうございます。前回の質問では せっかくのご投稿を読み返すことができなくなってしまい たいへんさびしく思っております。まことに澄みません。おゆるしください。

 まづ じつは近衛上奏文について わたしも読むことが出来ました。この質問のページの下のほうに《あなたにオススメの質問》の欄があります。そこで次のサイトを知りました。
  ◆ 近衛文麿の上奏文(抜粋)
  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/konoejyo …

 ☆ そして知れば知ったで それをどう捉えるか これもなかなか容易ではないように思えて来ます。

 それよりも 東京大空襲やあるいは全国の空襲をつづいてこうむったという事情のほうに注目しておられますね。
 ★ ただ、すでに日本軍はせっぱつまっていて戦う事が満足にできない。 / という状況を知らなかったのか、それとも楽観的に考えていたのか。
 ☆ ほかの方々の見解では この戦力の乏しさや敗戦の必至であることを知っていたとも言います。ひとりの方は 近衛が《国体の護持》を優先することを天皇に勧めたのだが 天皇はもうそういう身分の問題には頓着しないと決めていたので 近衛の案を拒否したのだと言います。
 上奏文によれば 軍部には 革新派ないし共産勢力にくみする一派がいて その動きによる日本の赤化を避けなければならないと言うからには どうも《国体は どうなってもよい》と天皇は考えていたかどうかは関係なかろうと思われます。
 したがって そうではなく 軍部の動向としては いまひとつの動きがあって それは クーデタにまで及ぶことを辞さないというものだと言います。一億玉砕と言いますか どこまでも戦争を遂行しようというきわめて強硬派の動きのようで これを抑えるためには 簡単に和平を志向するわけには行かないという意味のことを天皇は 伝えようとしたのだとも言います。

 ★ この戦争自体は日本だけが悪いのではなく、アメリカも悪い。 / もっといえば、参戦した国すべてに責任がある。と、思います。
 ☆ 《パリ不戦条約》の問題があるとも聞きました。たぶん いままた新たに考えるのですが これを日本が破ったとしても けっきょくはそういう情況に どちらの勢力も進んで行ったのでしょうから そういう意味では すべての参戦国に責任はある。たしかにこうも考えられるかも知れません。


 みなさんからおそわったことを元にして 記しました。さらに精確を期して行きたいとは思います。

 あの戦争は どうも後半はなぜ長引かせたのか 分からない内容に満ちているようですね。

 今回おそわりつつ勉強しています。

お礼日時:2010/04/13 23:44

丁寧なお礼ありがとうございます。


No.5のつづきです。

>★ 内容は賛成だが実現可能性も考慮したうえでの否定
 ☆ であるのならば そのままを告げていればよいものをと思ってしまいますが どうなんでしょう? もはや《戦果を挙げる》という余力もなければ情勢でもないと分かっていたであろうのにです。素朴な疑問でした。

あくまで勝手な想像なのですが、臣下に対して「案はいいけど貴方には無理」とは面と向かって言えないでしょうね。
また状況が変われば近衛公爵の講和工作実現の可能性もある以上、やる気は維持させたまま保留状態にしておくのが政治的に正しい行為と思われます。
こういったぱっと見の遠まわしさはNo.10様のいう”被支配の側の論理と異なる思考と原理”からくるものだと思います。
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この回答へのお礼

 にきさん ご回答をありがとうございます。

 もうここまで来ますと 少なくともわたしは手さぐりですので いいところでみなさんにありがとうございましたと述べて閉めたほうがよいかとも思って来ております。
 そんな状態で 受け取って考えたところとしてのみお応えしてまいります。

 ★ あくまで勝手な想像なのですが、臣下に対して「案はいいけど貴方には無理」とは面と向かって言えないでしょうね。
 ☆ そうですか。そのあとの
 ★ こういったぱっと見の遠まわしさはNo.10様のいう”被支配の側の論理と異なる思考と原理”からくるものだと思います。
 ☆ といった事情があるのでしょうか。
 ううーん。そうですね。微妙な感じをおぼえています。

 ★ また状況が変われば近衛公爵の講和工作実現の可能性もある以上、やる気は維持させたまま保留状態にしておくのが政治的に正しい行為と思われます。
 ☆ なんですけれど――上の神聖不可侵なる存在としては 臣下の者に対して言わば抱擁力を発揮しつつ指示し指揮して行かなければならないでしょうから そうに違いないのでしょうけれど―― もしそういったそれ以後の行動に関する方針を考え決めるというのであれば 閣僚の一人ひとりから別々に話を聞くというのも どうなのかとも思われましたのですが どうなんですかねぇ。
 もしそういった今後の決断にかかわる話を具体的に進めるというのであれば もっと緻密に指導層の全員をあつめて衆議を経たほうがよいかと思われます。
 もしそうでなく ただ一人ひとりから ともかくどういう考えを持っているのかだけを 準備段階としてのように聞くというのであれば 《「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」》というふうに 実際の方針に触れるところまでは 近衛に対して漏らさないと考えられるのです。
 近衛に対しては 親しく思っているところを話すというのであれば 本音を明かしたということになるでしょうが そうでなければ あまりに作戦にかんする具体的な方針に触れ過ぎであるようにも思えます。
 ただ《やる気を維持させたまま保留状態にしておく》というのであれば 具体的な方針を明かすかたちは取らないと思えます。じっさいほんとうに考えていた方針を明かしたというのであっても あるいはただ可能性としてありうる方針を近衛案の拒否の言い訳に出したとしても どちらも あまりにもちゃらんぽらんであるように思えます。


 単なる感覚で反応してしまいました。言ってみれば もうここまで来れば 小説を書いているようなものです。そんな感じを持ちます。
 とにもかくにも ありがとうございました。
 ほかの方々のご見解について述べてみようと思われた場合などには またご投稿を寄せていただければと思います。

 

お礼日時:2010/04/13 23:11

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