昭和天皇の戦争責任について
ヰキぺの記事の中で 次の一点について問います。真偽を含めてになるでしょうが どう捉えられているのか 知りたいです。
▲ (ヰキぺ:昭和天皇の戦争責任) ~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C% …
昭和45年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このことについて知りませんでしたので 詳しい情報を得たいと言うのもさることながら どう位置づけられているのかのようなことについておしえてください。
No.5
- 回答日時:
【近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」】というご判断については、確か近衛の残された文書から見出されたという知識を持っています。
日本の長い一日という映画でも、そういう意見とのせめぎ合いなどがありますね。
九十九里のご担当だった閑院宮殿下も、そして多くの内地の後方作戦指令担当部局もそんな情報と判断が多かったそうです。
近衛さんのもとのブレーンにはかの尾崎秀実もいましたね。そういう情報がなかなか陛下に伝わることがなかった事は惜しまれますね。
陛下も御自ら、そういう把握が出来なかったことを批判されても致し方ないでしょうね。
同情はするが是認はできない。
そういう事情はたくさんありますね。そういう面から陛下の責任を論ずることは成立するでしょう。
しかし、やむをえなかったという事情も多々あがってくるのでしょうね。
そうはいってもその立場では許され、是認されない事はあると存じます。
そういうことも含め、歴史の後読みと歴史の難しさを感じます。
大東亜戦争は敗けた状態で今、おります。
大東亜戦争を太平洋戦争などと呼称して、戦争に引きずり込み、必然的に戦勝国となって、日本の戦争責任を論じる契機を造出している側のことも同時にか、その前に論じて欲しいものです。
それにしても、君主という立場、支配統治の機構というものは、被支配の側の論理と異なる思考と原理が密教奥伝的に存在するものです。
それは被支配側の見かたが、顕教的に一般の見かたとして公認されるものです。
無論私も、被支配側です。しかし古今東西、国という公権力には、別の論理があります。是非の問題は無論、両方にそれぞれあります。
私も昭和天皇陛下のそういう言辞を、陛下の情報把握の欠損と判断ミスという被支配側です。
しかし戦勝国の統治形式を論外にしたままでの、この敗戦の我国の統治機構の責任だけを論じていくことに終始したくはありません。そこに不合理を称えます。
質問者はこういう言い方にご不満かもしれません。
質問削除のメールがきて、又、どうして削除が多いのだろうという質問もありました。
通報があるからだという回答がありました。通報がさくじょするのではなく、管理者運営側が削除するのだと存じます。
無論、今回、私は通報していませんが多くの方の通報があったのでしょう。
みなさん一生懸命書いて、投稿しているのに削除なんかされるのは無念です。
通報や削除がないようにどうかお願いします。投稿された方に申し訳ないでしょう。お願いします。
ご投稿をありがとうございます。
わたしは 問い求めていることについて寄せられたご回答の内容をさらに詳しく精確に知りたいと思えば その旨を伝えて 見ようによって議論のようなやり取りになることがあります。
ですが わざわざ回答者と議論をするために 質問をしているのでもなければ 補足要求をしているのでもありません。
たぶんただひとつ議論目的だと見える文章というのは まさにこのようにみづからの質問の趣旨説明を重ねて明らかにし 投稿者からの疑問に答えるという場合だけだと考えます。
質問削除の問題については このようにお答えしておきます。すなわちわたしの側に一方的に非があるというご主張には くみすることができません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
しかし戦勝国の統治形式を論外にしたままでの、この敗戦の我国の統治機構の責任だけを論じていくことに終始したくはありません。そこに不合理を称えます。
質問者はこういう言い方にご不満かもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この件は すでにいくらかお答えしています。いまいちどはっきりと述べますが 《戦勝国の統治形式(* ないし思想としては 西欧世界の論理)を論外としたままでの》議論は 何らまちがっていません。《論外とする》の意味が違っているはずです。西欧および米国の論理とどう向き合うか・どう付き合うかを含めて 《この敗戦の我国》について考えているのです。
敗戦国であろうが戦勝国であろうが ひとつの社会単位体としてみづからの国のことを考えてなにが悪いのでしょう? むしろ何故そうしないのでしょう? 相手に非がある――最近は 《わたし以外のみなが悪い》という論理が現われたそうですが――ということを先行させて考えるというのは 聞いたことがありません。
もしそういう疑問がお有りなのでしたら その旨の質問をご自身で提出されてはどうですか? このわたしの質問の主題ないしその問い求め方とは 無縁だとお伝えします。
近衛上奏文の件は
★ 陛下も御自ら、そういう把握が出来なかったことを批判されても致し方ないでしょうね。 / 同情はするが是認はできない。
☆ というご回答を得ましたが すでに別のご回答も得ています。情報はあったし 情勢の把握も出来ていた。けれども その中で問題は 軍部の暴走――クーデターなど――が差し迫ったこととしてはいちばん厄介であったのではないかと言います( Hidocchi さん)。(この件に関しては ぎゃくに 天皇はすでに国体を護持することなど考えていなかったので 近衛の進言を拒否したのだという見解も出されています―-mmky さん)。
ですから それらの見方をも踏まえて いまいちどご見解を述べていただければとは思います。どうでしょう?
* 削除の件については 回答になっていない投稿あるいは そんな質問はするなという投稿 これが寄せられるということ。そういうときには 通報をつうじての削除にあい成る場合が多い。こういった事情についても添え書きしておきます。ちなみに 先回の質問についても 《質問じたいは成立していますが》とのメール文が届いています。
★ 通報や削除がないようにどうか〔* 質問の内容についてよく読みよく趣旨を踏まえて投稿されるよう〕お願いします。〔* ほかの〕投稿された方に申し訳ないでしょう。お願いします。
No.4
- 回答日時:
参考程度に
(1)昭和20年(1945年)2月14日に、近衞は昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上した。そして、その目的のために軍部の粛清を求めたが昭和天皇に却下された。
(2)昭和45年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。
(1)と(2)の文章は微妙に違いますね。(1)の文書を素直に読めば近衛は国体維持のために軍部に全責任を負わせて戦争終結にしたい。と読めますね。それを天皇は却下した。
終戦時にポツダム宣言の無条件降伏、つまり国体護持も反故で終戦宣言を天皇自身がしたことを考慮すれば、軍部のみに責任を転嫁して逃げようとした近衛ら皇族の考え方にNOといった。と取るほうが妥当なように思いますね。つまり、天皇は敗戦の責任は自らにあると考えていたからでしょう。
そのように観ると(1)の「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、は誰かの後付の創作のように思えますね。
何が真実かはわかりませんが、国体維持(天皇制を含む貴族社会の存続)の名目を軍部も皇族もどうしても守りたかったようですが天皇ご自身にはそのような執着はなかったような感じですね。
結果的には戦争が少し長引いて、多くの犠牲者が出たことは事実ですが、結果として軍部も貴族社会も崩壊してしまったのですから、国体護持もなくなったわけですね。そういう意図であれば却下も意味はありますね。
いやぁ これはわたしの任ではないようです。つまり お書きになった内容についての判定がです。
mmky さん ご回答をありがとうございます。
と言いますのも No.4で Hidocchi さんからは 天皇が国体護持の方向に向いていたという意味あいの回答を得ていますし その見解とのあいだで どういう判定をくだすのがよいか わたしには力(判断材料の知識)がないように思います。
ひどっちさんの見解:
(あ) 国力・戦闘力が弱って来ているという事情:
● (回答No.4) つまり、天皇陛下が「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」といったかもしれませんが、“もう一度敵をたたく力”は、実質的にはなかったように考えられます。
(い) 軍部の無謀なほどの強力という事情:
● (同上) そこで、何故、鈴木貫太郎は、最初から、“和平”を言い出せなかったのでしょうか? / これはおそらく、暗殺およびクーデターを危惧してのものかと考えられます。
〔* すなわち この事情は 天皇も共有していたと考えられること。しかも ひどっちさんの推理では 次のような事態さえ予測されたということのようです〕。
● (同上) もしクーデターが成功していたならば、後数発の原爆が投下されたと予想されますし、投下されても降伏したかどうかは、非常に疑わしいかと考えています。
〔* すなわち→〕
● (同上) 天皇が好戦的な発言をした理由は、上述の通り、クーデターを恐れたためと解しております。
(う) 国体(天皇制=立憲君主制=君臨すれども統治せずの制度)を護持する姿勢という事情:
● (同上) また2・26事件の際には、犯してしまいましたが、原則、“立憲君主制”としての天皇の立場を守りたかったともいえるかもしれません(本来ならば、首相である、小磯に直接、話を持ちかけるのが筋だからでございます)。
〔* これについては 近衛に対して何も《好戦的な》内容を拒否の理由に挙げなくてもよいかと いまわたしは 思いましたが 直接の政治行動をしないでおこうという趣旨だと ひどっちさんは見ておられるようです〕。
☆ わたしは感覚としては 天皇は国体護持にその思いがあったと見ますが きちんとした判定は いまよう致しません。
こういうかたちですが お応えしてお礼とします。
No.3
- 回答日時:
近衛公爵の要求に従うことと好戦派軍人を抑えて講和を実現できることは別ですから、近衛公爵では政治力不足と感じたならば無用な混乱を避ける為に拒否することも妥当だと思います。
以下では、そういうニュアンスです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B% …
結局、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と近衛の話には否定的だった。
上奏された内容に対する否定なのか、内容は賛成だが実現可能性も考慮したうえでの否定なのかということでしょう。
あぁ そうだったんですか。《軍部内の共産化》ということすら はづかしながら 知りませんでした。ううむ。
にきさん ご回答をありがとうございます。
★ 近衛上奏文
☆ まったくはっきりとした事実なのですね。
◆ (ヰキぺ:近衛上奏文) ~~~~~~
重臣らは以下の順で昭和天皇に意見を述べた。・・・
2月7日 - 平沼騏一郎
2月9日 - 広田弘毅
2月14日 - 近衛文麿
2月19日 - 若槻禮次郎
同日 - 牧野伸顕 (元内大臣)
2月23日 - 岡田啓介
2月26日 - 東條英機
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 記念に 再掲しておきたくなりました。
★ 近衛公爵の要求に従うことと好戦派軍人を抑えて講和を実現できることは別ですから、近衛公爵では政治力不足と感じたならば無用な混乱を避ける為に拒否することも妥当だと思います。
☆ なるほど。
★ 内容は賛成だが実現可能性も考慮したうえでの否定
☆ でしょうか。
つぎの箇所だけでしょうか? よい評価がなされているのは。
◆ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~
国際情勢の分析においては、ソ連への警戒を強く打ちだし、ソ連を通じた和平交渉に否定的であった。
米英の戦争目的が軍部の解体にあり、国体にはないことを認識していたために、近衛は米英との直接交渉を望んだのであった。こうした分析は当を得ていたと言える
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いったい軍部というのは どうなっていたのかと言いたくなるようですね。
《好戦派軍人》と言い《軍部革新派ないし共産系》と言い どこでどうなったのでしょうね。日清・日露に勝ったと言っても 台所はすぐれないわけでしょう? 日本人が日本人でなくなった時代という・・・。
ここでひとつ疑問が起きました。
★ 結局、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と近衛の話には否定的だった。
☆ ということですが もし
★ 内容は賛成だが実現可能性も考慮したうえでの否定
☆ であるのならば そのままを告げていればよいものをと思ってしまいますが どうなんでしょう? もはや《戦果を挙げる》という余力もなければ情勢でもないと分かっていたであろうのにです。素朴な疑問でした。
たいへんありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
お世話になっております。
Hidocchiです。この発言は、時期的に見ますと、小磯内閣のときかと察せられます。小磯が首相になった際には、もはや戦局は決まっており、「小磯は米軍に一撃を加え、その機会を狙って対米講和に臨むハラだった。」というのが実情だったかと考えられます。しかし、その一撃どころか、1944年の10月に実施された(天王山と称された)“レイテ沖作戦”の失敗(この結果、帝国海軍にはもはや、戦局を打開する機会はもはや訪れなくなってしまいました)が響き、結局のところ、1945年4月に退陣させられることになります(参考1)。
つまり、天皇陛下が「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」といったかもしれませんが、“もう一度敵をたたく力”は、実質的にはなかったように考えられます。
参考1:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF% …
では、なぜ天皇陛下がかような発言をしたか?
という問いが発せられると思われます。まず結論の前に、小磯の次の首相、鈴木貫太郎の話をしたいと思います。
首相施政方針演説にも述べられていますが(参考2)、「今や我々は全力を擧げて戰ひ拔くべきであります、一部の戰況に依り失望したり落膽するは愚かであります。」と言っています。また、鈴木がポツダム宣言を受け取った際に、ダンマリを決め込んでいたらしく、側近に対しても、“和平”の言葉は一言も発せられなかったといわれています。そこで、2発の原爆を投下され、8月10日および14日に、いわゆる“聖断”を仰ぎ(その間にも、“和平”工作は着実に進めてはいましたが)、僅か1票の差で、ポツダム宣言全面受諾をすることとなりました。
参考2:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/suzukika …
そこで、何故、鈴木貫太郎は、最初から、“和平”を言い出せなかったのでしょうか?
これはおそらく、暗殺およびクーデターを危惧してのものかと考えられます。事実、“聖断”を仰だにもかかわらず、鈴木首相官邸は放火され、暗殺から逃れるべく、2ヶ月の間に6回もの転宅を余儀なくされました。その他、首相官邸を襲撃したのを皮切りに、平沼騏一郎枢密院議長、木戸内大臣、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放たれました(いわゆる、宮城事件です)。
もしクーデターが成功していたならば、後数発の原爆が投下されたと予想されますし、投下されても降伏したかどうかは、非常に疑わしいかと考えています。
そこで話が戻りますが、天皇が好戦的な発言をした理由は、上述の通り、クーデターを恐れたためと解しております。また2・26事件の際には、犯してしまいましたが、原則、“立憲君主制”としての天皇の立場を守りかかったともいえるかもしれません(本来ならば、首相である、小磯に直接、話を持ちかけるのが筋だからでございます)。
では、本当に、責任はなかったのか? と申しますと、愚生は、あったかと考えております。単純な例ではございますが、そもそも“パリ不戦条約”に批准していたためです。確かに犯したからといって“罰則規定”は存在しない条約ではございます。ですが、批准した以上はこれに服するべきかと考えているからでございます。そして、その大元帥であられた天皇陛下におかれましても、責任はぬぐえないと解しております。
そして、もし、責任をとり、おやめになっておられたならば、日本人ももう少しは責任感ある国民になっていたであろうかと思っております。
お役にたつところがございましたなら、幸甚に存じます。
この回答への補足
ひどっちさん ひらにおあやまり致します。
すでに 近衛上奏文あるいはさらに昭和二十年敗戦直前の首脳らの・軍部の不穏な動きをめぐる苦悩についておそわっておりました。
わたしの質問で【Q:関係の絶対性】のご回答No.46です。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5311248.html
ごめんなさい。
これに懲りずにさらにご教授いただけるとありがたいと思っておりますが。
あぁ よかった。ひどっちさん よかったです。これだけ詳しく事実経過をおそわれば しかもその現段階での結論から 日本および日本人の現状についての評価もちょうだいしたのですから 設問の意義もあったと われながらよろこびます。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
わたしの知識は ばらばらです。断片的です。でしたので ほっと一息つきます。
あぁ なるほど 開戦の問題は 《パリ不戦条約》でしたか。国際法は 既成事実に合わせてつくられるとも聞いたことがありますが 不戦条約ともなれば ひとつの基準になりますね。そう思います。道義的もしくは社会生活遂行上の 責任はまぬかれないと言えるでしょうし だとしたらむしろその当時においても あやまちを侵すのを承知で突き進んだのですね。
★ ですが、批准した以上はこれに服するべきかと考えているからでございます。そして、その大元帥であられた天皇陛下におかれましても、責任はぬぐえないと解しております。
☆ こういう史実でしたら 読んでいたとしてもよいでしょうし おぼえていたとしてもよいでしょうのに すっかり抜けていました。面目ありません。
★ そして、もし、責任をとり、おやめになっておられたならば、日本人ももう少しは責任感ある国民になっていたであろうかと思っております。
☆ ほんとうのところ この問題がこころにかかっておりました。例の《ゆ》さんが 《誰のうらみを買って 病気に成ったんだ?》と言うものですから ぜひこのような戦後日本の社会事情についてはっきりとしたところを知りたかったのです。
あとの情報につきましては――ありがとうございます―― 何だかさびしくむなしい思いを催させるようなのですね。軍部の日本人と言い それに対する天皇から閣僚までと言い それぞれの立ち場で振る舞ったのでしょうが 何だか さびしい思いです。批判の対象とするにはちからが抜けます。
鈴木貫太郎の施政方針演説(1945年6月9日)も
◆ 今や我々は全力を擧げて戰ひ拔くべきであります、一部の戰況に依り失望したり落膽するは愚かであります。
☆ といったように 表向きと言いますか そうとすれば軍部に顔向けできるかたちの表現に終わっているように思いました。
それにしても 司馬遼太郎が言っていたわけですが 昭和の二十年は 日本人が日本人でなくなったというまさに狂気の歴史絵巻だったのでしょうか? 天皇にして あるいは天皇の意志のもとにある指導者にして ふつうの状態に戻し得なかったということなのでしょうか?
レイテ沖海戦の失敗ですとか 零式戦闘機も やがてアメリカの研究の成果に遭って 効果がなくなって行ったですとか NHKの特集でまなんだのですが いかせん 点と点のみです。これからも ぶっつけ本番で質問することがあろうかと思いますので よろしくご教授をいただければさいわいに存じます。
添削の必要なところなどありましたら これもよろしくお願い致したいと思います。
また これでもう閉めてもよいかとも思います。が拙速を嫌って もうしばらく開いていることにします。
No.1
- 回答日時:
この件、書面も無く伝聞だけのような気がしています。
そもそも天皇には拒否権のみが存在し、実際の意思決定や政策立案は内閣と帝国議会によって行われていたのです。つまり今の天皇もそうですが、国民が議員を選び、議員が首相を選び内閣が組閣し、最後に天皇が承認するということです。
また、これは事実として残っていますが、戦後も靖国神社への参拝を行っていた天皇は、戦犯が合祀されるや、参拝を中止しています。つまり真に戦争を起した連中は、許せなかったのだと思います。
私から見れば、昭和天皇が戦争突入を阻止できなかった背景には、2・26や5・15などの軍の脅威、国民
総軍人化政策による軍国主義国家に変貌した日本国の舵取りが出来なくなったのだと思います。
東条英機以下が開戦論を拡大する中で、昭和天皇が腹を切るぐらいの度胸があれば、一時は大戦への流れは止められたと思いますが、それ以降も軍の力(政治的な力と武力の両方)を削ぐことはできなかったと思いますから、何れは戦争に突入したかと思います。一億国民の頂点に祭り上げられ、どうしょうもなくなってしまったというのが戦争への突入であり、山本五十六の言葉などを信じて、短期に講和を結べるとも思っていたかと思います。
もちろん、米国の国力とか、世界の政治情勢にもそれほど精通していたとも思えませんが、天皇に真実を教えず、良いことばかりを提言した軍部の責任が一番の悪です。
ty470620 さん ご回答をありがとうございます。
そうですね。いろいろ広げたかたちにても おしえていただきました。
おわびがあります。ヰキぺの記事で 《昭和45年2月14日》とあるところは もちろん《1945(昭和20)年・・・》がただしいのでした。質問者としても おわびして訂正いたします。
まづ この質問への訪問者の方々のために確認しておきます。
★ そもそも天皇には拒否権のみが存在し、実際の意思決定や政策立案は内閣と帝国議会によって行われていたのです。
☆ その上でですが おそらく天皇は側近に考えや心の思いを話すことがあったと思われ そのつてでは わたしの受け取りとしましては
★ この件、書面も無く伝聞だけのような気がしています。
☆ という場合にも 重要な史実を形成することがありうると考えます。その――非公式とは言え 天皇の――意志表示は この場合もし事実であるとすれば 重大な歴史を形成していると考えられます。
というように――哲学カテゴリとしては 史実の修得を超えてこれをどれだけ主観にとっての真実とするかが問われると考えますから そしてこのOKWave の規約に言う《情報の交換》の《情報》にあたると心得ますので―― まづおしえていただきながらも ささやかなうたがいを述べてみました。
それと言いますのも 最後あたりで
★ もちろん、米国の国力とか、世界の政治情勢にもそれほど精通していたとも思えませんが、天皇に真実を教えず、良いことばかりを提言した軍部の責任が一番の悪です。
☆ と述べておられるところより 合わせて捉えるなら 近衛文麿の進言は事実あったのだが 天皇の受け容れるところとはならなかった。こうも受け取るのが すなおな読みであるように思えたからです。
天皇がどれだけ世界情勢に精通していたか 一般国民とは比べ物にならないでしょうが その上のどの程度なのかは分からないですから これを措くとします。と同時に 軍部が《真実を教えず、良いことばかりを提言した》というのは うべなわれるところと思われます。
そうして さらに全体を考えるにですが もし近衛が仮りにこのように進言したとするなら――この軍部の問題とにらみあわせてですが―― かれ(近衛)は天皇が戦時情勢について事実および〔人びとの心の〕真実を知ったなら この1945(昭和20)年2月の時点ですから沖縄戦〔のようなかたちで起こり得る戦い〕もせずに済むかたちで 戦争は終止符が打たれ得た こう 近衛文麿は思っていた。ということを物語っていませんか?
つまり 端的に言って 近衛の考えでは 天皇の意志表示が 日本国および日本軍の動向に影響を及ぼすことがありうるということになります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
また、これは事実として残っていますが、戦後も靖国神社への参拝を行っていた天皇は、戦犯が合祀されるや、参拝を中止しています。つまり真に戦争を起した連中は、許せなかったのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは おしえをもらっていながら申すのですが いまの主題(天皇の戦争責任)としては 見方が別だと思います。天皇は《真に戦争を起こした連中》を庇ってマッカーサーに会いに行ったのですから。
★ 東条英機以下が開戦論を拡大する中で、昭和天皇が腹を切るぐらいの度胸があれば、一時は大戦への流れは止められたと思いますが、
☆ のくだりに感動をおぼえました。開戦に到る事情におしえられました。
★ 山本五十六の言葉などを信じて、短期に講和を結べるとも思っていたかと思います。
☆ これもなるほどと思いました。この事情とは別に わたしも つぎのように考えたことがあります。
○ 中国等における戦時状態の継続ないし拡大が避けられない情況にあって そこへ米国等との開戦が避けられないとすれば 真珠湾攻撃のあとただちに降参するとよい。(ずるいし ひどい人間だと言われても この道を採るとよい)。
☆ というようにです。
ありがとうございました。憶測を交えたみづからの推理のみをお応えとした感がありますが お礼のことばといたします。
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