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唯物主義に生きがいはありますか?
人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものですよね?
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
クオリアや自由意志も錯覚でしょう。まだ解明されたわけではないですが、
その機能も物質の化学反応によるものだと考えることが自然です。
何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。
しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか?
いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

A 回答 (31件中1~10件)

No. 4 & 13 & 20 & 21 & 26 & 29です


連続投稿をお許し下さい。

少し説明不足かもしれないので、補っておきます。

No.29での思考実験の「コンピュータシステム」は、仮説1(そして仮説2-1)そのものです。でのディスプレイを「受動的な意識」としてのみ捉えています。


>>> No.4 お礼欄
>能動的
ということですが、意識はほぼ受動的に作動しているということが分かってるんじゃないでしょうか?
受動意識仮説についての本を読んだことがあるのですが、「能動的」というものがあるのであれば物質のふるまいでは説明のつかない、霊魂?のようなものを認めなくてはならなくなってしまいます
能動的な行動の主体とはなんですか?何がいったい能動的に行動してるのでしょうか
そういう理由で、私はそれが納得いかず確率的に作用する物質のふるまいでしかないのではと思うのです
<<<

「何がいったい能動的に行動してるのでしょうか」
まさに、そのことについては、「受動意識仮説」では説明し得ないということに他なりません。
説明し得ないからといって、べつに「霊魂?のようなもの」を認める必要はありません。

貴方自身が感じ取っておられる「自身の精神(こころ)」こそが「その主体足りうる」のです。

その「精神・こころ」は、何ものにも代え難い、貴方自身の「精神・こころ」なのです。科学的に説明できなければ「ない」として否定しうるものではないのです。

「受動意識仮説」を読む前においても、読んだ後においても、リベットの実験を理解するまえでも、理解した後でも、量子力学を理解する前でも、理解した後でも、そのことについては、決して変わるものではないということです。

それは、機械の様に交換可能なものではなく、交換不可能なものです。
それは、アイデンティティと呼ばれるものの根幹であり、物質である体・脳と一体となっています。
それは、「脳」という概念を知るまでは、「心臓」にあるかのごとくさえ思えるものです。
それは、相手を思いやるとき、相手の気持ちに届くような感じになるものです。
それは、自身が「ある」と思う範囲(無から無限大)で「ある」と思えるものです。誰憚ることもなく、公言しても「そうなんだね」という程度のものです。

「わたしのこころは、この広い宇宙全体に広がっている。宇宙の星々の躍動を感じ取ることができる・・・」といってもいいわけです。たとえそれが、脳内での化学反応の結果の「幻想」であったとしても、そのように思うことと、そう思わないことで、フィードバックされる自身の行動様式(能動性)が影響を受けていることは確実です。

「わたしのこころは、無である。全て化学反応である。」といってもいいわけです。たとえそれが、脳内での化学反応の結果の「幻想」であったとしても、そのように思うことと、そう思わないことで、フィードバックされる自身の行動様式(能動性)が影響を受けていることは確実です。

補うとしながら、長くなってしまいました。

なんらかの参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。がっつり解決しました。(また気が変わったら・・・という恐怖はありますが笑)その通りだと思います。
質問を投稿した当初は思考もクオリアも存在しないと考えていたのですが
おかげさまでいろいろと考え方が変わってきて、思考はしているし、クオリアも物質的なものだろうが「感じている」と思うようになりました。
結論として、物質のふるまいにより「自分」は存在しているが、幸いにも、思考し、感じ取ることができるので安心してよいということですよね?

ところで、k_jinen様はこのようなことに対して、どのような考え方をされてるのでしょうか
教えて下されば幸いです。

もちろんこの回答がベストアンサーです。お世話になりました。

お礼日時:2010/09/18 10:50

>>> No.29 お礼欄


>ディスプレイからのフィードバックが「絶対に必要」なわけです。
このフィードバック自体が自分ということでよろしいでしょうか
<<<

>>> No.30 お礼欄
結論として、物質のふるまいにより「自分」は存在しているが、幸いにも、思考し、感じ取ることができるので安心してよいということですよね?

ところで、k_jinen様はこのようなことに対して、どのような考え方をされてるのでしょうか
教えて下されば幸いです。
<<<

「自分」という概念を、どのように捉えているのか? で、考え方は異なってくることでしょう。

様々な場面で「自分」が「小さく」感じられるときや、「大きく」感じられるときとかあるでしょう。

電車に乗っていて、ガラガラに空いているとき、見知らぬ他人がびったりと横に張り付いて座ってきたら、思わず数メートルは避けてしまいます。自然と適度な間隔で人々は座ることになります。それは「自分のテリトリーに入ってくる」という感覚が生み出す行動です。そういった意味では、まさに「反射」の世界です。でも、そういった「反射」に抗して満員電車に揺られながらでも、通勤・通学をしている人々が多数います。「自分」の範囲をぎりぎりに絞らないと、息苦しくて耐えられないでしょう。


しかし、満員電車の中で息苦しく思えた場合でも、「あと数分すれば、開放される」とか感じるかも知れませんし、「学校も嫌なのに、最悪だ」と感じるかも知れません。でも、同じ電車に乗って、海外へ出かける人も乗っているでしょうし、未開の地に探検に出かける人が乗っているかも知れません。有名人が乗っているかもしれません。心ときめく人が乗ってくるかも知れません。そのような人々と出会えて、一緒に出かけるところだといった空想に身を任せるならば、「自分」という範囲は、「電車」を越えて外側へと広がっていく感覚を伴うかも知れません。

スポーツ選手がチームプレーをするときは、仲間との位置関係や状況に応じてダイナミックに「自分が何を為すべきか」の存在範囲を変えています。応援されれば「観客の人々との一体感」を感じるかもしれません。

野山を散策すれば、普段気にもとめなかった石や雑草、木々の香り等に「こころ」が動かされるかもしれません。そうして、「自然」との一体感を感じ取るかも知れません。もしかしたら、人を拒絶するかのような自然の光景を目の当たりにするかもしれません。「ちっぽけな自分」を再認識するかも知れません。登山家の中には、「もうだめだ」と思った途端、「自然との一体感」を得て不思議と生還したという話もあるようです。

「自分」という概念は、周囲の状況によって(受動的に)変化しうるものであり、また、こころ・精神の状況や、意志によって(能動的に)変化しうるものです。

私は、そのように変化し続ける「自分」を発見するのが好きですし、「自分」の概念を自由に変えて考えてみるのも好きです。

そうして、最も重要なことは、「自分」という概念が成立しうるのは、「受動」と「能動」との狭間、まさにその「境界」(というより、相互に重なり合うところ)が形成されることにあると思っています。
どちらが欠けても「自分」は「自分」たり得ない。。。そう思っています。
このことは、「意識」と「無意識」、「脳」と「身体」、「自分」と「他者」、「主観」と「客観」などなど、分断して(知的に)論じうるかのごとく錯覚してしまうものごとが、相互に影響し合いながら、どちらか片方が欠けても成立し得ないという「相互の関連性」を有しているということも、重要なことがらだと思っています。

>>> No.30 お礼欄
もちろんこの回答がベストアンサーです。お世話になりました。
<<<

ありがとうございます。
この言葉に乗せられて(化学反応の結果?、意志の結果?)余計な事を書きすぎたかも知れません。

何らかのお役に立てれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます
考え方が変わったばっかりで、教えて下さってることの理解が簡単にいかないのですが
人間の脳はいろいろな可能性が秘められているのだなと思いました
また行き詰まったときに参照させて頂きたいと思います
こんなわがままな問いにまで答えて下さって、頭が上がりません
長い間お世話になりました。
他の回答者さんにも感謝しております。

お礼日時:2010/09/19 09:20

No. 4 & 13 & 20 & 21 & 26 です



質問者様が
>>>
「根本として、脳は物質なので精神(クオリアというべきか、感覚?)も物質をつかった情報処理に他ならない」

「絶望しかもたらさない受動意識仮説」

「絶対そこに実在すると信じて疑わなかった精神がただの物質により自動的に処理をしているぞ!」
<<<
と考える場合、下記の前提条件が必要になります。

仮説1.受動意識「仮説」(リベットの実験)が「全て」の意志決定(とおもわれる)事象に適応可能。
※反論1:実験や仮説は「全体」の部分のみ説明可能な場合が多い。条件を変えた実験では、別の結論が導き出されることもある。「部分」でのみ正しいからといって「全体」でも正しいとは言えない。

仮説2ー1.「仮説1」が正しいとした場合、質問者様の言われる「精神」(私の言うところの「こころ」に相当)は、「気持ちが悪く」なったり、「気が狂いそう」になったりするが、それもまた、仮説1によって一方的(受動的)に成立するもので、「幻想」でしかない。

仮説2-2.「精神(こころ)」が「気持ちが悪く」なったり、「気が狂いそう」になったりする以上、「仮説1」に、何らかの不具合ないし、「仮説1」のみでは説明不可能なものがある。

と、「仮説1」を巡り、二通りの解釈が可能です。
質問者様は「仮説2-1」を【選択】しきれていないので、「仮説2-2」を選択しておられるはずです。このことは、「仮説1」に併記している「反論1」の可能性によります。また、仮説2-1に対しても、「反論1」は有効です。

さて、受動意識仮説が完全に正しいとした場合、一つの思考実験が可能になります。

1.外界からの入力としてキーボード(および4の回線)を想定
2.脳での機械的処理としてのコンピュータを想定
3.幻想的に作られる精神としてディスプレイを想定
4.他とのコミュニケーション手段としてコンピュータ同士の回線(ネットワーク)を想定

上記システムでは、通常「ディスプレイ」に表示されたものは全体にフィードバックしません。2のコンピュータからの一方的な出力であり、コンピュータ内部への入力をもたないからです。

したがって、フィードバックを行おうと思えば、少なくとも、ディスプレイを見て、キーボード入力する「他者」が必要になります。

表示される画像が心地よいものであれば「他者」も気持ちよくなるでしょうし、嫌な画像を見たら気持ち悪くなるでしょう。

このことは「仮説2-2」に該当します。でも、「感じる他者」はシステムから「外部」に位置しています。
システム内部に「感じる他者」に相当するものを組み込むことは不可能なのでしょうか?

少なくとも二通りの方法があります。

方法1:まず、3でのディスプレイへの表示ですが、コンピュータ内部に「表示画像」に相当する記憶領域があります。実を言えば、その記憶領域は、コンピュータ内部にあるので「書き込み専用」なだけではなく、コンピュータ内部での「入力」としても使えます。したがって、「感じる他者」がコンピュータ内部に入ることができれば、ディスプレイの内容を見て、「感じ・考え」、コンピュータ側へ指令を出すことが可能になります。

方法2:コンピュータシステムと「感じる他者」とを合わせて、一つのシステムとして考える。方法1で、「感じる他者」を内部に入れましたが、外部でディスプレイを見てキーボード入力をする状況のまま、一つのシステムとしてしまうのと、実のところ同等になります。

どちらの方法を採択するにしても、「感じる他者」と「コンピュータ」とを一つのシステムとしてみなす事ができます。

質問者様は、受動意識仮説を信じ、その適応可能性を「全て」に当てはめようとして「気持ち悪くなる精神(こころ)」を感じ取っておられます。それはまさに、上記思考実験にて考えたような「考える他者」に相当する「なにか」(というより質問者様のいうところの「精神」、私の言うところの「こころ」)がまさに存在するということの、一つの実証といっても過言ではないでしょう。

「感じる他者」と「(機械的な)コンピュータ」とを一つのシステムとしたとき、両者を切り離した途端、コンピュータはディスプレイが「感じたこと」に対する反応を止めてしまいます。

どれだけ「美しい画像」を表示しても、ディスプレイが「美しさ」を感じ取っても、誰も見ることなく、その「美しさ」についてのコミュニケーションも為し得ないわけです。

ディスプレイからのフィードバックが「絶対に必要」なわけです。

受動意識「仮説」(リベットの実験)はディスプレイへの表示のみ問題(の対象)にしています。肝心のフィードバックについては一言も触れていないのです。
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この回答へのお礼

丁寧に回答ありがとうございます
k_jinenさんのいう通り不快だ、気が狂いそうだという感情もないものとされてしまいます
どう考えてみてもやはりその感情はあったので、感じている自分は存在してるのではないかと思ってきました。
少し鬱病気味なとこころがあって、何をしても楽しくない嬉しくない、そのくせ、苦痛や不快感は感じるというのが原因でそのような間違った思考におちいったのではないかと思います

>ディスプレイからのフィードバックが「絶対に必要」なわけです。
このフィードバック自体が自分ということでよろしいでしょうか

お礼日時:2010/09/18 10:28

#11です。

うまく伝えられなかったようですので、再チャレンジです。

質問者さんが度々おっしゃる錯覚を唯物論で説明するとどうなるでしょうか?

錯覚とは、知覚が事実と違うことだと思いますが、これを唯物論で説明しようとすると、ちょっと複雑なことを考えないといけないですよね。それをもとに少し、意識というものを考えたいと思います。

知覚するなにか主体があって、それが物質でできていて、でも、同じ物理的事実に対して、錯覚していない場合と錯覚している場合で異なる反応をするわけです。なぜか?
それは、その知覚する主体の物質の状態が、主体としての意識は同じでも状態がどこが違うわけです。
つまり、主体の意識は物質の状態と1対N(多数)の関係になっていて、かつ、意識が考えたり感じたりすることによりNあるうちのある状態をいろいろ変わってっているわけで、その意味で、意識は物質を支配し、さらには、肉体を支配しているわけです。そして、外部の世界にたいする認識においても、意識は、そういった1対N(多数)の関係にあるものを理解可能であり、それにより、意識が外部の世界と綱っがっているわけです。つまり、意識の世界では物質の状態が主役ではなく、単なる舞台背景に変わってしまうわけです。

うまく説明できませんがそういうことです。

統計力学を勉強するとよいかもしれません。More is differentなんですよぉ
http://robotics.cs.tamu.edu/dshell/cs689/papers/ …
http://www.smapip.is.tohoku.ac.jp/~dex-smi/2006/ …

という感じです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。自分はかなり頭が凝り固まってるのでなかなか通じにくいかもしれません・・・

でも、ちょっとここ一日で考えが少し変わり
>意識が考えたり感じたりすることによりNあるうちのある状態をいろいろ変わってっている
以前だと、この文章に、そもそも意識は考えたり感じたりしない、と偉そうに反論していたと思います。
でも最近、意識は物質による作用だが一応思考しているし。一応感じたりもしているのではないかと思うようになりました
なので、後半の1対N(多数)の関係というのも部屋にばらまいたピンポン球(複雑系)のようにいかないのではと思ってきました。
一つ一つが外的要因と遺伝子だけに決定されない「思考」を持っているからです
というわけで、人間も物質で、精神活動も物質のふるまいなのだろうけど、何やら自分の頭では理解できないことがおこってるぞ、ということで落ち着いてきました。

統計力学についてですが、ちょっと読んだらまた生命も自動的なものではないかという雰囲気(不安?)が広がってきたので怖くてページ閉じてしまいました
ミクロとマクロでは話が違う、ということでしょうか
そのミクロがマクロになる自動的な上昇で人間も説明されてしまうのではないかという不安がよぎったわけです
全然違ってたらすみません

お礼日時:2010/09/18 08:00

 sisi91sisiさん


 私には深遠なヒンドウ思想の一端も発言する資質も資格もないのですが、私達のSelf-Realization Fellowshipでは物人間との一貫性を教えます。

 ある意識が観念してvibrateとして一定の世界を為した。
 観念は高次のvibrationから低いvibrationへと下降していった。
 一番低いvibrationの代表が物質というものだ。
 そして此の世界はこの物質vibrationの為す形象のなかに一定の意識を住まわせていった。
 物質である意識から植物、動物、人間、そして解脱の聖者、更に創造の意識界。
 というわけで全ては創造の意識の中の存在であり、その境界は滑らかなgradualである。
 全ては聖なる存在である。聖なる意識と観念の作品である。

 ということで、物質と連関していても恐れることも、失望することも必要がない。
 むしろ森羅万象に聖性を感とる自己の上昇向上こそが考えなさい。
 全てはeternal-bliss eternal-being eternal-consciousnessである。
 である。そういう自己と自己の世界となりなさい。
 というのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
精神活動や意識(定義が難しいが)は存在しないというのが私の立場なので
ちょっとその考え方はよく分からないです
観念というのも神経シナプスの配置の組み合わせではないかと思うのです
この考えも自分のかなり偏った知識に由来するもので不安定なので
Self-Realization Fellowshipの考えも知りつつ問題を解決していこうと思います

お礼日時:2010/09/16 08:45

No. 4 & 13 & 20 & 21です


>>> No. 20 お礼欄
出力が決定されたのは、関数(数学は苦手なのであってるか不安)でいう、
経験と遺伝により定数項が決まり、外部からの刺激がxに代入され算出されたことによるものです。
決定したのではなく、自動的に決定されたということです。
<<<

やっぱり、「ラプラスの悪魔」のレベルでとどまっておられるようです。

1.量子力学の世界では上記のような「決定」といった概念が成り立たない。粒子と環境の全体が、ある確率分布内から「選択」するかのようなことが生じる。(不確定性原理)
2.複雑系の世界でも上記のような「決定」といった概念が成り立たない。主体と環境の全体が、ある確率分布内から「選択」するかのようなことが生じる。

ここで重要なのは、2の「決定」に関与しているものとして、(1の粒子に相当する)「自身・主体」が含まれているということです。

リベットの実験や受動意識仮説を「一方的な視点」から読んで、「意識は決定に関与していない」と思っておられるようですが、ほんとうにそんなことがいえるでしょうか?

脳機能系の実験の欠点として、「部分しかみていない」ということがあります。「計測できないこと」=「ない」とは言えないのです。

まずは量子力学の世界で生じている「不思議さ」を体験すべきです。

二重スリット実験:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D% …

上記wikiでの説明よりも、日立での実験を直接見た方が感動します。
★説明を含む概略:http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doublesl …
★実験の動画:http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/movie.html
上記URL内の「(2)二重スリットの実験における干渉縞」
から複数の形式の動画のリストがあります。適当なものを選択して再生してみてください。

全ての事象について、ピンポン球という概念で説明がつくほど、世界は簡単にはできていないということです。

以下、ピンポン球で無理矢理説明使用とした場合に感じるであろう「不思議さ」

>>=====
電子という粒を、たとえばピンポン球にたとえることができたとする。
一個のピンポン球を縦に真っ直ぐに張った一本のロープに向かって投げる。
手で投げるのではなく、バッティングマシンのように一定の力で、一定の方向に投げる機械を使う
ただし、ロープに当てようとして、打ち出し方向を微妙に調整しつづける。
ロープの向こう側に粘着テープを貼り付けた板を置いておく。
ピンポン球は、飛んでいく途中に空気の影響を受けてロープにロープの右側を通過するか、ロープに当たって進路を変えるか、ロープの左側を通るかして、板に貼り付く。ロープに当たった場合、板に貼り付かない方向へ飛ばされることもあるが、ロープの中心に対して右側に当たるか、左側に当たるかで進路は右側か左側のどちらかになる。
一個ずつ、順番にピンポン球を次々に投げていくと、ロープの影に相当する部分を中心にピンポン球が板にくっつかない領域ができる。
ロープの近くに沢山のピンポン球がくっつき、ロープから離れるにしたがって、徐々にピンポン球は少なくなっているはず。
=====<<

量子力学が影響する世界では、「通らなかったであろう側」(影響しなかったであろう側)を排除して考えることができません。「通らなかったであろう側」が、どこに当たるかといった「選択」に影響しています。

複雑系でも同じことです。あらゆるものは「関与しなかったであろうもの」として排除しえないということです。全体として考えるということは、むしろ積極的に関連性を考えるべきものだと言うことです。

受動意識仮説を、一方的な視点で読むと言うことは、「【意志】決定という概念を扱うに当たり、当の【意志】を排除して考えることができる。」と言っているようなものです。

そのように信じられるのもいいですが、「そう信じようとする【意志】」もまた、「全体」に影響をあたえている(同時に「全体」から影響を与えられている)ということです。
「自動的に決定」されているかのごとく思えたとしても、「決定・選択」には(リベットの実験系に限って言えば、一見、排除されるようにみえるような)【意志】も含まれて「全体」が動いていくということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

関数という例えがいけなかったのかもしれません
これを代入したらこれが必ず算出される、という決定的な見方をしているわけではありません
この情報が入ってくると関数のような簡単な式ではあらわせないが、様々な要因が絡み合って
複雑で二度と再現できないような過程を経て、計算で求められるわけではないがある出力がなされる
というような具合でラプラスのような考え方はしてません。単純ではないことは分かってます
が、一方で複雑な情報処理過程は存在するわけで(脳は物質なので)、それを計算機と例えたりしたのです
ちゃんと量子力学を理解できていると思えない私ですが、感想としてこんなところです
とんちんかんな理解をしていたらごめんなさい

というわけで、やはり人間は入力に対して連続的な情報処理(解を予測できないとても複雑)をするプログラムで、それに伴った言語処理によって意識があたかもありありと感じているように錯覚する、という仕組みです
つまりクオリアもないというわけです
それは連続的な肉体の感覚フィードバックで、そこにあるのは肉体の連続的な変化のみです
例えば、「おいしい」というクオリアも錯覚で、そこには「おいしい(入力)」に対する肉体の反射、つまり、よだれがでたり、胃腸が刺激されたり、といったふうな肉体の変化のみを高速で連続的にフィードバック処理しているだけというわけです
それに伴った言語処理により「おいしい」と脳内で記述しているわけです

まあこれはかなり個人的な想像なので間違っているかもしれませんが
根本として、脳は物質なので精神(クオリアというべきか、感覚?)も物質をつかった情報処理に他ならないのではという虚無感があります

今は比較的落ち着いていますが、考えだすとグワァ~~(絶対そこに実在すると信じて疑わなかった精神がただの物質により自動的に処理をしているぞ!)っとなって気が狂いそうになります

>受動意識仮説を、一方的な視点で読むと言うことは、
>「【意志】決定という概念を扱うに当たり、当の【意志】
>を排除して考えることができる。」と言っているようなものです。
大分自分の頭ごちゃごちゃになってきましたが
この文章は、受動意識仮説を信じるも信じないも自由だ、ということですよね
なので、この現時点では絶望しかもたらさない受動意識仮説をないものとして
生活することも可能なので、そうするしかないなと最近思ってます。
でも24時間、頭に浮かばないようにするのはなかなか大変で
ふと思い出し気持ちが悪くなります



k_jinenさんの書かれた内容をきちんと理解できてるか不安です
乱文失礼しました

お礼日時:2010/09/16 08:29

No.10です。

頂きましたコメントに再度の投稿をします。貴方のお悩みは、唯物主義そのものにあるのではなく、「ご自身の裡に生じる厭世的感覚を克服したいが厭世観がまるで自然法則(唯物論)のように強く感じられる。これを打破したい」というもののようです。この推察に沿って二点申し述べます。
先ず第一は、厭世観は自然則ではないことをお示しします。自然則ならばほとんど全ての人にこれが生じるはずです。実際には厭世観がかなり少数派であることから納得が出来るはずです(ね?)まだ不十分でしょうから第二の説明をしましょう。貴方は空を自由に飛び回ることの出来る鳥です。ただ目下のところ貴方は卵あるいは雛です。今とぶことは出来ません。大丈夫です。そのときが来ていないだけです。「よく考える」「良く学ぶ」「己の明日を尊いものと信じる」日々をあと少しお続けなさい。いずれ気が付きます。貴方が光り輝きながら空を飛んでいることに。この方針で失敗する確率は「ハンマーで大地を打つことに失敗する確率」の程度だそうです。その貴方を探す場所とは貴方の周りの誰かのお考えの中ではなく、貴方ご自身の中のはずです。ご自身の中にないものが貴方ではありません。大丈夫ですよ(このセリフだけは周りの人から採用してください)。
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この回答へのお礼

そうですね全ての人が自然に対して悲観主義的な立場をとっているわけではないことから
この問題がいずれ解決するということは自明の理ですね
ポジティブに精進したいと思います
回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/15 22:25

上書きしていくようで申し訳ありません。



>規則的=無機質=虚無感と連想されていきます

なるほど、これは私の感じ方とまったく異なる部分ですね。
私は、規則性が存在することの裏に、むしろ大きな存在を感じますから。

おかげで孤独感を感じない、と云いますか、sisi91sisiさんの書き込みを読んで、ふと、そんな考えが浮かびました。

私はきっと、その大きな存在の仕事ぶりを感じ取って、素晴らしいと考えるのでしょうね。

なんか、たいへん勉強になりました。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

(先に24番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

回答ありがとうございました
お役に立てたのですか!?ありがとうございます

物事に規則性があるということは生命に規則性があるということで
物質と生命の線引きが曖昧になっている現在
それは生命にも規則性があると連想されます
つまり、生命活動が物質的な反応に還元されるのではないかという恐怖です

お礼日時:2010/09/15 19:13

 sisi91sisi さん。


 今、記録が探せないのですが、【人間の随意活動や不随意活動などは大脳が支持したり、controlをしているが、大脳は何がこれを指示したりcontrolして居るのでしょう】という質問を紹介しているサイトがありました。
 たいへん面白いアクセス、アプローチですので、興味を持って読んだのですが、難しい説明をしておられました。つまり理解できませんでした。

 sisi91sisi さんだったら、どのようなコメントをされるでしょうね。
 実は先にご紹介したサイトの英文レッスンやそこのバガヴァッド・ギータでは此の問題を取り上げているのです。
 でもヒンドゥの哲学ですので、西洋の哲学とは違って、知と論理だけで理解しきるのは無理です。
 sisi91sisi の質問や、紹介の質問の事項が生起する次元に意識がいけるようになると、その説明も分るというか、現実だなぁと経験的になるというものです。
 無論、言葉と論理での説明もなされていますが、日常の生活や自己のcontrolができるようにならないと実感できないのです。

 何か不思議な符号の合致を感じたので、ご紹介します。
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この回答へのお礼

(先に23番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

回答ありがとうございます。
大脳の上位構造は何か?ということですが
そもそも脳が肉体をコントロールしているというところが腑に落ちません
脳は肉体をコントロールしていると同時に肉体は脳をコントロールしていると思います
例えば、檻に入れた猿がレバーを引けば飼育員がエサをやるという実験をします
このとき飼育員は猿にレバーを引かしていると思っていますが
猿は飼育員にエサを持ってこさしてると考えているかもしれません
そういった具合に脳も外部からの刺激(入力)により活動(出力)を余儀なくされています
ちょっとkrya1998さんの教えて下さった問題についてきちんと把握できてるか分かりませんが、いち素人にすぎない自分としては、こんな感想を持ちました

お礼日時:2010/09/15 16:03

 ANo.8



 《精神活動及び生命は自動的で連続的に情報(入力)を処理する装置すぎない(事実?)》

 今までの(従来の)自然科学や知的学問の手法はどうしても、《如上の》仰せのような傾向がありますね。
 これで最初から最後まで徹底したら、生きがいも何もないし、仰せのように不安と恐怖が起こってきますよね。

 幸いに人間の存在根底って、理屈通りにいかないところや、不可知、不可視のところであり、顕在的意識では意識に上がってこなくても、大部分の現象自体もそんな唯物性的ではないのではないでしょうか。

 
《虚無感に襲われて》

 やはり論理や顕在的意識での処理という次元に長居しないでいいのではないでしょうか?
 そのような次元の範囲と役割を見極めて、もっと根底的な広大な世界に遊ぶこともいいと存じます。
 あぁ日本語(東洋の)の“遊ぶ”って、これも以外に意味が広いですね。

 要するに本当に物事を生じさせ、出発点になっているのはなんだろうか。
 本当に動かし、主格として行動し、意識し、知覚している主格は何か。
 ということもお考えになることをお勧めします。
 私は、Self-Realization Fellowship(http://www.yogananda-srf.org/)、東京瞑想グループ(http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php)での経験からお話しております。
 
 ご質問分を見ると、もう私の勉強した上の団体のことと同じですので、多分現役で会員の方なのかと思いましたが、敢えてご参考のためにご紹介します。
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この回答へのお礼

(先に22番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

回答ありがとうございます

>幸いに人間の存在根底って、理屈通りにいかないところや、不可知、不可視のところであり、
そうですね、実は心のどこかでそのようなことを信じたいと願っているのかもしれません

>要するに本当に物事を生じさせ、出発点になっているのはなんだろうか。
>本当に動かし、主格として行動し、意識し、知覚している主格は何か。
>ということもお考えになることをお勧めします。
現時点では、外部からの情報(入力)だと思ってます
このことはまた新しい脳科学の発見がないと変わらないかもしれません

Self-Realization Fellowship、東京瞑想グループは知りませんでした。

お礼日時:2010/09/15 08:23
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