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唯物主義に生きがいはありますか?
人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものですよね?
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
クオリアや自由意志も錯覚でしょう。まだ解明されたわけではないですが、
その機能も物質の化学反応によるものだと考えることが自然です。
何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。
しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか?
いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

A 回答 (31件中21~30件)

心が科学反応にすぎないとして、その心はいちいち科学反応を認識するだろうか?


それが科学反応にすぎないからといって、科学反応を認識しない心にとっては意味がなく、心にとって意味があるのは、心に影響を与えるものである。

私たちの心は私たちが経験という自己を通した心に対する外部刺激を認識し、心が自分にあり、かつ、他者(あるいはものも)にもあるに違いないという、意識をもち、心という観念をもって毎日生きている。

私の味覚は科学反応と電気反応の帰結だと思われるが、美味しいものをいただく喜びは変わりなく、しかも、それを楽しくいただくことさえできる。つまり、味覚は、心にとっては、そういった反応ではなく、心に影響を与える塊(還元主義的な反応の集合体という意味で塊)であり、「塊」同士の反応は還元主義的な形で説明されたとしても、それは既に心にとっては意味がない説明でしかない(それでは心の動きを説明できないだろう、たぶん、きっと・・・)。

さらにいうと、心の動きを仮に説明できる何か理屈ができたとしても、それは、私の心の持っている思いと何か関係あるだろうか?私の心は何かにはたらきかけ、そして、外部を認識し、生きるということを求めている。それは、その理屈とやらが説明するだろうが、だとしても、私の心はその理屈とやらに説明されるだけで、心が抱いている生きることに対する欲求は、心が動き、私が動き、世界が変化し、そして、その変化から何がしかを私が享受することにより、満たされる。ゆえに、その理屈は意味をなさない。

以上が唯物主義的私の自然感です。
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この回答へのお礼

返信遅くなって申し訳ありません
どのような作用よってどう起こったとか考えるのは精神活動にとって関係ないのですね
確かに、いらないことを考えないようにすれば問題ないかもしれません
しかし、それを365日24時間そのことを考えないよう考えないようとするのは自分には難しいです
やはり、その生命活動が自動的で無機的な化学反応に還元されるのかという恐怖がぬぐいきれません
今日も考えないよう考えないようとしてきたのですが
今どうしても頭に浮かんで苦しいです

お礼日時:2010/09/15 19:50

ご質問の内容に混乱があるようです。

「唯物主義」と「価値」です。唯物主義とは唯心主義に対して生じた概念です。「物質的基盤のないものが世界を構成する要素とはならない」というもので「ある概念が生じて世界がそれを具現化する」との唯心的主張に対立するものです。「絶対の神」の概念があったからには神の世界が現れるべきだというのが唯心主義の主張の例。唯物主義の例を示せば、テレビ画像(精神活動)は物質ではないが、受信機と電力(物質と生理)とに支えられているというものです。人間の精神活動は物質の化学反応ではないけれども化学反応の支配を受ける部分もあるというようにご理解下さい。
さて、「価値」を議論したいのですが上に示したように価値は物質でもなく、物質反応でもありません。価値を論議する人間の精神活動は唯物・唯心いずれからも自由であるとしましょう。背景に物質反応や霊魂の支配があるかもしれませんが。これが貴方のお立場のはずです。
ところで価値とはその対象に含まれているものですか、それともその対象を価値ありと見る私の中にあるのでしょうか?前者であるとするならば、その対象の一部に価値が記入されているはずです。これは事実に反しています。後者であるとするならば、「私の価値の定義」を私が(あるいは周りの皆さんが)決めるだけの作業で済みます。貴方のご趣旨が後者であるならば、ご自身の納得だけでご判断になればいいのです。他人の思惑は不要と言い切ってください。貴方を力づけ、納得させる世界を築いて下さい。
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この回答へのお礼

(先に10番目の回答者さんにお礼を書きますが、回答に対するお礼の順番は気にしないでください。後で必ず返信します。すぐに回答してくださいと表示したものの、返信が遅くて申し訳ないです。じっくり考えて返信したくて巧いようにいきません)

回答ありがとうございます
哲学に疎い私が使った「唯物主義」という言葉が悪かったです
別に私は唯物主義だとか○○主義だとかいう立場はとっているつもりはないです。
(これは8番目の回答者さんであるkrya1998さんの回答に対するお礼で書けばよかったのかもしれません)
私が悩んでいるのは、客観的な人間が機械的なものに還元される恐怖です

さて、
>テレビ画像(精神活動)は物質ではないが、受信機と電力(物質と生理)とに支えられているというものです。
>人間の精神活動は物質の化学反応ではないけれども化学反応の支配を受ける部分もあるというようにご理解下さい
ということですが、前半は分かります。
物質と生理(化学反応ですよね)によるものですよね
しかし、それがどうして後半の精神活動は物質の化学反応でない、となるのでしょうか

>ところで価値とはその対象に含まれているものですか、それともその対象を価値ありと見る私の中にあるのでしょうか?
その通りだと思います。もちろん後者です
しかし、自動的に情報を処理する装置であるだけの生命にどれほどの価値があるのでしょうか
価値を見いだせず、悩み続けております


(かなり頭が疲れてきてめちゃくちゃなことを書いてるかもしれいないです)

お礼日時:2010/09/14 12:23

それでは,人間に同じ操作をしたときに同じ反応にならないところはどのように説明されるでしょうか.人間に限らず生物は本能的な部分と生得的な部分の融合でその行動が決まっていると思います.


人間は夜景を見てほっとするのは,本能的な部分ではあり得ません.人間は食物連鎖の頂点に立っておらず,夜間の視力は夜行性の肉食動物より格段に悪いです.このため夜の風景は基本が恐怖になります.近くに明かりがあるという状況でない夜景という状況は本能的には,恐怖は感じえても,ほっとはしないはずでです.このことは遺伝子によってすべてが操作されているわけではないことを示していると思います.実際に肉食動物の恐怖にさらされている人々に夜景を見せても,暗闇よりはましかもしれませんが,目の前で火をたいている状況よりは警戒心を持っていると思います.
精神活動は化学反応というはなしもありますが,すべてがそうかどうかも確認が出来ていると思いませんし,自殺をされるくらいなら,お考えのことを証明されてからでも遅くないのではと思います.虚無感どころか,やることがありすぎてどこから手を付けたらいいか分からないくらいだと思いますよ.
もっと具体的な例を挙げると,経済的な問題もあげるとこが出来ると思います.経済活動は予測できないと言うことが,実例的に証明されているように思います.(バブルの崩壊も,リーマンショックも.....)これは何故なのでしょうか.バラつきのある自動計算機からの出力として捉えれば,予測が可能であると思います.経済学からではなく心理学や行動科学の面からこの現象を見てみるのもおもしろいとおもいます.
また,今ある生物の多様性をどう説明するかというのもとても魅力的な問題であるように見えます.精神活動が化学反応のみであるとしたら,生物が今のように多様である必然は持たないように思います.
とりとめがありませんでしたが,いかがでしょうか.
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この回答へのお礼

(先に9番目の回答者さんいお礼を書きますが、回答に対するお礼の順番は気にしないでください。後で必ず返信します。)

回答ありがとうございます。

>人間に同じ操作をしたときに同じ反応にならないところはどのように説明されるでしょうか
部屋にばらまいたピンポン玉のはね方のようなものだと思います。
全てがたまたまで素晴らしいという気持ちは湧きません・・・
バブル崩壊、リーマンショックも同じです

>人間は夜景を見てほっとするのは・・・・・・
言われてみれば確かにこれは少し素敵な気がします。

>精神活動は化学反応というはなしもありますが,すべてがそうかどうかも確認が出来ていると思いません
確認できてないだけで、物質の自動的なふるまいによるものだということは確実だと思うんです

>精神活動が化学反応のみであるとしたら,生物が今のように多様である必然は持たないように思います.
これはちょっと言っていることが分かりません
オカルト的なことではないですよね
おそらく生物の欲求が遺伝子に変化をもたらすみたいな意味ですか?
その生命の欲求すらも水を貯めたダムのようなもので、外に出よう出ようしてるのと同じふうに見てしまいます

相変わらず、生命及び精神活動は物質による自動的な情報処理にほかならないのではと恐怖と虚無感に悩まされています

お礼日時:2010/09/14 10:24

 唯物主義では或いはご質問にもなるかも知れませんね。



 唯物論というのがあります。これは観念論に対置した理論です。
 欧米人の思考の仕方ですので、必ずしも個人の生きている心情や心性とリンクしてないばあいがあります。
 宗教や、思考的思弁的哲学に対抗したものとして唯物論哲学が出てきていると記憶しております。
 そして唯物論哲学などから、従来の哲学を対置的に命名したのが観念論哲学だった存じます。

 どちらも個人の生活では、完全に観念的にも宗教的も、そして唯物的にもなっていないと存じます。
 一定の目的と使命を持たされて対置しあっている思考の仕方でしょう。

 更に唯物史観というのがあります。これは上部構造の思想や政治の仕方などは経済などの下部構造の展開がもたらせているのだということでしょう。

 これの代表者とも言われている、百年以上も前のマルクスだって、貧乏に苦しむ人たちの幸せを夢見ながら、この仮説である資本論を、貧困に喘ぎながら書いています。
 まぁ夢も理想も人間愛もあったからこそ、歴史の仕組みを科学的に解き明かそうとしたのであり、それが解放に
繋がると、信仰していたのですね。
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この回答へのお礼

(先に8番目の回答者さんいお礼を書きますが、回答に対するお礼の順番は気にしないでください。後で必ず返信します。)

回答ありがとうございます
質問文で書いた唯物主義という言葉がいけなかったかもしれません
物事に対する捉え方の立場というかそういうのでなく、私が悩んでいることはもっと客観的な事実で・・・
唯物主義から他の考え方にシフトしようとかではないです
うまく表現できませんが、哲学的な問題ではないのかもしれません
精神活動及び生命は自動的で連続的に情報(入力)を処理する装置すぎない(事実?)に対する恐怖についてです
自分の間違った知識に基づいた言葉で誤解を招きました
すみませんでした
この文章も間違って理解してたら申し訳ないです

お礼日時:2010/09/14 11:57

物質に「目的」はありません。


しかし、“方向性が無いがゆえに生じる方向性”というのもあるのです。
「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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この回答へのお礼

返信遅くなって申し訳ありません
自分なりにいろいろ考えておりました。
言われてみると、今生き残っている全ての生命は生きようとして生き残ったものたちのみですね
そして愛のために生きているのですね
この考え方には大変衝撃を受け、価値観が変わりました
初めてあらゆるものごとが美しく感じられるようになりました
愛とはなんて素晴らしいものだ、と。

ところが、今朝ふと思ったのです
その愛とやらも、言うなれば、エントロピー増大に対する自動的な反応の一つではないかと。
生き残ることが素晴らしいというのは分かります
しかし、それと同時に生存も自動的なものではないかという虚無感にまた襲われています
この素晴らしいという気持ちと、虚しいという気持ち。いったいどうしたらよいのでしょう
psytexさんの考えをより深く理解すれば解消されるものでしょうか

お礼日時:2010/09/15 14:59

私も難しいことはさっぱりです。


でもスピリチュアルを信じていなくても
科学に通じていなくても人は笑えるじゃないですか。
笑いは「別の選択肢」として哲学と同じ思考をもたらします。
感情論は堂々巡りになるけれど、
エポケー(判断の停止)効果があります。

生きがいとは幸福のことより笑えることだと思います。
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この回答へのお礼

深いですね
たいそうに幸福だとか考えるのがいけなかったのでしょうか

しかしその笑いから生じる安心感(と言いますか、よく分かりませんが感情)も
副交感神経(?)の反応を連続的に処理してるだけにすぎないのではないかと思ってしまいます。
そこにも感情などというものはなくただただ、肉体の連続的な変化に伴う幻想ではないかと

回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/13 10:33

あなたは科学も哲学も十分に学んでないのでは無いでしょうか。


学問と言うのは人を豊かにするためのものです。

自然科学は元は好奇心より発生しまして、科学法則より世界を理解する方法です。
私は、科学を学んでおもしろいと思ったこともありますし、生命について改めて考えさせられることもありますが、死にたくなったことはありません。

基本的に、人間も入力に対して出力をする系でありますし、結果から言えば物質の状態の一つです。

しかし、それがどうしたと言うのでしょうか。

ハードウェアが科学的に説明できることと、ソフトウェアとしての人間のおもしろさには何も関係がありません。
人間の行動が完全に機械などで先読みされるなら私も死にたくなるかもしれませんが、そのような単純なものではありません。

遺伝子についても誤解しているのでは無いでしょうか。人間の成長は環境で左右されます。遺伝子の設計図と寸分互い無く作られたロボットではありません。

錯覚の意味も違います。錯覚と言うのは認識が事実と異なり誤ることを言うので、認識すること自体を錯覚とは言いません。

自殺したいのはそれはそれで問題ですが、それを科学のせいにするのは卑怯です。
中身がなんであろうと人間は人間です。

個人的には中二病にしか見えません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>ハードウェアが科学的に説明できることと、ソフトウェアとしての人間のおもしろさには何も関係がありません。
どうもひっかかります。私が何をしても楽しいと思わない原因はここにあるような気がします
時間があれば詳しく書いてもらえないでしょうか

>遺伝子についても誤解しているのでは無いでしょうか。人間の成長は環境で左右されます。
>遺伝子の設計図と寸分互い無く作られたロボットではありません。
遺伝子が変化していくことはしっています。
でも、例えば夜景を見てホッとしたり奇麗だなと思ったりするのも
人間の遺伝子に暗闇で光るものに反応として落ち着かせる作用のある脳内物質を出るようにする筋書きがなされていて、それにそって反応したにすぎないですよね

>錯覚の意味も違います。錯覚と言うのは認識が事実と異なり誤ることを言うので、認識すること自体を錯覚とは言いません。
言葉がまずかったです。それしかうまく表現できなくて。
私はその認知すらも実際はしてないのでは?と思うのです
連続的に外部から入ってきている情報を神経回路で処理し、「認知した」と出力(行動や感情)しているのではないですか
その出力の一部はもう一度脳内にリターンし、出力した行動や感情を補佐してるものと思われます。
その連続によって意識は保たれてるのではと思います
その証拠に脳に送られる入力を全てシャットダウンすると意識(出力というべきか?)が消失すると聞きました

お礼日時:2010/09/13 10:25

科学者が「唯物論者」(一元論)だと思い込んでおられるようですが、それは間違っています。



http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6142559.html
のNo.16にても引用していますが、
>>> 「宇宙に法則はあるのか」 ジョン・D・バロウ、青土社
科学者が一般的に考えていること:
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
中略
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
<<<
とあるように、科学者の大半は「心」と「外部」という二元論を前提にしています。

最近は、一元論(量子力学での多世界解釈)を選択する人々が増えているとのことですが、「唯物論的一元論」≠「決定論」です。
http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doublesl …
量子の世界ですら、自身が通ったであろう経路以外の部位(すなわち「全体」)の影響を受けて確率論的に振る舞います。

そういった意味で科学者の考える「一元論的」とは、「全て・全体」が相互に影響をし合っていて、「部分的に切り離す」ことが不可能な世界という意味になるでしょう。

「こころ・精神・たましい・思い」などといった一連の概念は「受動的」なものだけで成立するものではあり得ません。無論、「能動的」なだけでもあり得ません。「能動・受動、ないし自・他」の相互の関連性の狭間から常に生まれ続け、変化し続けていくものなのでしょう。

そうして、そのように「知る」ということは、「こころ」の働きの「知」の部分でしかない。少なくとも「こころ」は、「こころ」自身が「知・情・意」といった3種類の方向性(ないし概念)を有していることを「知って」います。

「知」は「こころ」の部分でしかない。

その「知」によってしか理解できないことを「全て」だと誤認したり、「知」によって「知の外側の全て」を「完全に理解したつもり」になること自体、「こころ」はおかしな事だとうすうす気づいているはずです。

科学者というものは、「言語化可能領域」と「不可能領域」というものの狭間で生きている人々です。それはまさに「こころ」の境界概念とも重なり得ます。そういった人々だからこそ、「生き甲斐」というものの本質を「知っている」のではなく、その「こころ」が感じ取っているのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>とあるように、科学者の大半は「心」と「外部」という二元論を前提にしています。
その「心の外部」というのは誰でも客観的にその事実を確認できるといったふうな意味ではありませんか?二元論的な心とは違うのではないでしょうか

>能動的
ということですが、意識はほぼ受動的に作動しているということが分かってるんじゃないでしょうか?
受動意識仮説についての本を読んだことがあるのですが、「能動的」というものがあるのであれば物質のふるまいでは説明のつかない、霊魂?のようなものを認めなくてはならなくなってしまいます
能動的な行動の主体とはなんですか?何がいったい能動的に行動してるのでしょうか
そういう理由で、私はそれが納得いかず確率的に作用する物質のふるまいでしかないのではと思うのです

>その「知」によってしか理解できないことを「全て」だと誤認したり、「知」によって
>「知の外側の全て」を「完全に理解したつもり」になること自体、「こころ」は
>おかしな事だとうすうす気づいているはずです。
確かにそのような物質でできた人間が宇宙の全てを理解できるのかといえば、分かりません・・・

お礼日時:2010/09/13 09:59

唯物主義に生きがいは無いと思いますけど。

快楽を得ても機械仕掛けだと思って絶望するんでしょう?。機械仕掛けの作用を楽しめばいいということでしょうか。それに満足しきれないあなたのような人が、唯物主義の殻を破って行くのだと思います。

機械仕掛けの作用を楽しむということで満足する人が、いつまでも唯物主義で居られるのでしょう。ちょっと待って下さい、それって、浅いですよね。あなたは少なくとももう少し深い魂をお持ちのはずです。唯物主義は、魂が若い人の留まる領域です。その領域に虚無を感じるあなたは、もう少し考え直した方が楽になれます。

スピリチュアリズムとは(江原啓之公式サイト抜粋)

 スピリチュアリズムの始まりは、1848年、アメリカのハイズビューという村にあった一軒の家で起こったポルターガイスト事件です。

 その家には幼い姉妹がいました。頻発するラップ現象の中で、彼女たちはあることを思いつきました。ラップを使ってオバケと話そうというのです。
 「オバケさん、もし本当にいるのなら私が手を1回叩くから、同じ数だけ叩いてね」
 そう言って手を叩くと、「ピシッ」と答えが返ってくる。2回叩くと2回ラップ音がする。こんな具合に霊界との交信は始まったのです。

 それが次第に高度になり、アルファベットをたどりながらの交信までできるようになったのです。幼い彼女たちのアイデアは人類が偉大なプレゼントを受けとる最初の一歩をつくったのでした。

 その交信の結果、そのオバケの正体はチャールズ・ロスナーと名乗る行商人で、かつてこの家の住人に殺され、家の地下に埋められていることがわかりました。
 当時、科学のメッカといえば英国でした。そこで英国の科学者たちがこぞってこの村の調査に入ったのです。その中には、作家のコナン・ドイルもいました。(日本で話題になった妖精映画「フェアリーテイル」の中にも彼が登場しましたが、この物語は実話なのです。)

 その後もその不思議な現象は英国でさらに研究されました。その研究所は当時ケンブリッジ大学にあり、研究者としてタリウム元素の発見者であるウィリアム・クックスやノーベル賞を受賞した生理学者シャル・リシェなどが名を連ねていました。彼らは、この頃誕生したミーディアム(霊媒)を使った実験で、さまざまなスピリットとの交信に成功しています。特にこの時代はエクトプラズムとして出現したスピリットとの対話が盛んでした。これらの研究によって彼らはスピリット、スピリチュアル・ワールドの存在を確信するにいたったのです。

 それから、私たちがなぜ生まれて生きるのか、本当の幸せとは何かという真理を探究するようになったのです。
 これは人類にとっての偉大な福音となりました。

 これらの霊交による思想をスピリチュアリズムと呼ぶようになり、私のようにその思想に従い、生きる者をスピリチュアリストと呼ぶようになったのです。
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この回答へのお礼

(先に3番目の回答者さんいお礼を書きますが、回答に対するお礼の順番は気にしないでください。後で必ず返信します。)


回答ありがとうございます。
スピリチュアリズムも完全に否定できないのかもしれません
しかし、実際にスピリチュアリズムで言われることは現代の科学により間違いが確認されることが多いです。
そのような情報を知る度、スピリチュアルなどないのだと思っていきます
それにその心霊現象の研究は100年以上も前のものではないですか
100年も前の科学的知識と今の科学的知識はかなり違うので
いくら有名な昔の科学者が賛同しても間違った認識をしていた時代かもしれません。
その現象自体、捏造されたという可能性も否定できません。
それにどうして現在ケンブリッジ大学でそのような研究をしていないのでしょうか?
否定的な疑問は湧いてしまいます
すみませんが考えは変わりません。失礼します

お礼日時:2010/09/12 22:48

スピリチュアルなことを信じない科学的な人は、自分がいなくなっても、自分の宇宙は厳然と存在していると信じ切っています。

しかし、それは、宇宙が大地であり、母なる海であるのですから、目の前の宇宙が消失しない限り、自殺する必要はないのです。スピリチュアルなことを信じない科学者にとって、自分の存在はちっぽけなものでしょう。でも、対象となる宇宙へ身を捧げています。

一方でスピリチュアルなことのみを信ずるものは、宇宙も自分もスピリチュアルなものとして存在します。すべては、神(スピリチュアルなもの)のおぼしめし。

さて、そこで、何が正しく、何を真理とするかが、実は、あなた自身を作り、宇宙を作り、その生き甲斐を作っているのです。そこは、自由なのです。

 唯物論者が何を生き甲斐にしているかを考えあぐね、虚無感に襲われているのは、あなたがあなたにしていることです。

 私は、私の考えや私の信ずるものを押しつけるつもりはさらさらありませんが、「生命、精神、存在などの素晴らしさ」はあなたがあなたに作るだけだと思いますよ。あなたの理性は、借り物を鵜呑みでは信じないと思いますし。
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この回答へのお礼

結局は自分の気の持ちようということでしょうか
でもどうしても宇宙や存在が素晴らしいと思えずこうして質問を投稿してしまったのです。
それも自分でどうこうするのが解決策なんでしょうが、自分の力ではもはやどうしようもありません。
もう少し考えてみますが、とりあえずお礼ということで書いておきます。
回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/13 08:03

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