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不作為の不法行為について教えてください。
例えば以下の事例を考えて見ます。
1 小学生の小児Aと小児Bが下校中に大喧嘩をしていたとします。Aがたまたま危ない武器を持っていたので、Bにあたり、Bが失明したとします。

そこにたまたま警察官または元警察官または非番の警察官、または近所のおばさん、またはAとBが通う学校の先生C(担任ではない)、またはどこかの青年などが通りがかったとします。いずれもそのときは暇な人ばかりだと仮定します。

喧嘩をやめさせなかったことの責任を問われそうなのは誰でしょうか?
確かに人には意思決定の自由がありますが、明らかに小さな努力で喧嘩をやめさせることができた場合においても意思決定の自由を認めてしまうことは、権利の濫用と評価されるべきなのではないでしょうか?
自分の意見も書いてしまいましたが、
よろしくおねがい致します。

A 回答 (5件)

職務中の警察官には法令上の、学校の先生には、場所的時間的に限定された範囲ですが法令上または契約上の作為義務アリと考えられます。

問題は、近所のおばさんや通りがかりの青年(以下、単に「通行人」といいます。)にも作為義務を認めるか否か、ですね。

「しなかった」ことの不法行為責任を問われるのですから、当然、「すべきであった」ことが前提とされなければいけません。これが作為義務です。

一般に、個人の行動選択の自由を前提とすれば、作為義務は道徳的な義務ではなく、一定の法的義務(一般的には法令、契約または慣習・条理上の義務)である必要があるとされます。

質問者の方はこの点を問題にされているようです。確かに、事案のように結果発生の防止が容易なときは、個人の自由を制限してでも通行人にも作為義務を認めるべきだという考え方もあり得るかもしれません。あるいは、そのような社会通念が強固に形成されれば、将来そのような判決が登場してくるかもしれません。

しかし、不作為の不法行為が成立するのは、その不作為が自らの加害行為によって他人を失明させるのと同じくらい違法性が強い行為であると評価されるからです。その評価の基準が法的な「作為義務」にほかなりません。

しかも、不作為の不法行為には、厳密な意味での因果関係は存在しないのです。起きた結果に対する原因となる行為(作為)が存在しないからです。

ですから、裁判では作為義務の存在を前提として、期待される作為さえあれば結果の発生は防止できたであろうという蓋然性の高さをもって因果関係の認定に代えているのです。

したがって、作為義務というのは極めて法律的な概念でして、倫理的・道徳的なそれとは一線を画しているのです。

以上のような立場からすると、現状では単なる通行人には、法令、契約または慣習・条理上の作為義務は存在せず、したがって不法行為責任を問えないとされるのも止むを得ないと思います。

もちろん、倫理的、道徳的には、このような状況に居合わせた大人には、子供の危険な喧嘩を止めさせる責務があると思いますし、むしろこの問題は、倫理・道徳の問題として把握されるべきものだと考えます。(私自身は、法規範よりも倫理規範の方がより重要だと思っております。)

この回答への補足

お返事送れてスイマセンでした。
質問に興味を抱いていただき光栄です。
私が気になったのは、条理と慣習です。
条理上または慣習上義務があると裁判官が判断した場合はやはりただの通行人といえど、ある程度の法的義務はあるのかも知れません。
有意義なご意見ありがとうございました。

補足日時:2003/08/18 12:22
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No.4です。

ひとこと苦言を呈します。
あなたは、何故ほかの回答者の方には回答のお礼をしないのですか。

本来、(通行人が行動選択の自由を有するように)、質問者の方が回答のお礼をするもしないも自由だと思います。だから、ほかの方なら、またほかの質問であれば何も申しません。

権利(自由)の濫用を戒め、条理を口にされるあなただからこそ申し上げるのです。

単なる通行人に条理上の作為義務を認めようと仰るのであれば、回答者全員にお礼を言わなければ筋が通らないのではありませんか。少なくとも倫理上は礼を失する不作為だと思いますが、いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
おっしゃるとおりです。
ただ私はいつも、「お礼+全体に対する感想」を補足として皆様に申し上げることにしています。
皆さんに、「ありがとうございました。」とお礼を申し上げることはひとつの礼儀ですが、
その一方で、「ありがとうございました。」だけではそっけないと感じる方もいます。
かといって、感想をつけ沿えると、蛇足のように取られて返って不愉快に思われる方もいらっしゃるんです。
その辺私も迷いがあるんです。

お礼日時:2003/08/20 16:48

非常に面白い設題ですね。


いわゆる不真正不作為犯の問題だと思いますが、不作為が不真正不作為犯として可罰的になるためには、行為者に結果の発生を防止する法律上の強度の義務が無ければならないとされています。

この点から考えると……
明らかに法的責任を問われるのは職務中の警察官だけだと思います。

元警察官・近所のおばさん・通りかかりの青年は、結果を防止する法的義務は無いでしょう。

非番の警察官については、職務中ではない点から法的防止義務は無いと思いますが自信なしです。

一番難しいのが学校の先生で担任でなくても学校内で喧嘩をしていれば止める義務ありとすべきだと思います。ただ下校中とのことで判断に迷うところですが喧嘩をしていた場所が学校の学区内でありその教師の学校の生徒であるのが明らかである場合には、担任でない教師でも防止義務があるとすべきだと思います。

非番の警察官と教師についての判例等あれば教えてもらいたいところです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2003/08/20 16:49

まず職務中の警察官と学校の先生Cには責任があります。


なぜなら警察官は犯罪を見かけたならば適切に取り締まる職責を有していますし、学校の先生Cも自校の生徒のケンカを直ちに止めさせる教育上の義務を有しているからです。

その一方で、一般的には非番の警察官や近所のおばさんなどには責任はないとされています。赤の他人を保護する義務は一般人には課されていないからです。
しかし仰る通り、子供の喧嘩を止めることが明らかに容易にも関わらず、仲裁に入らず黙ってみていることが許容されてしまう結論には疑問を感じます。権利の濫用と構成すべきなのかはわかりませんが、実際に裁判沙汰になれば一般人の責任が認められる可能性があるのではないかと見ています。

質問者の方が仰るような、普通の一般人の責任という点についてはあまり論ぜられることのなかった論点であり、目新しさすら覚えるものでもあります。私達がこの論点につき斬新さを覚えてしまうのは、これらのケースが裁判に持ち込まれたことがなかったからといえるでしょう。
なぜなら、加害者が目の前にいて、訴訟を起こすことも容易なのに、赤の他人である通りすがりを訴えることなど通常では考えられないからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2003/08/20 16:49

 これは2ちゃんねるの管理者、それからマスコミの主張にも通じるのですが、あなたのおっしゃっていることは尤も至極です。



 彼らはしきりに「表現の自由」を主張していますが、この自由は、基本的人権が滞りなく守られている、という前提のもとに成り立っています。
 よって、それをないがしろにする発言を放置しておいて、表現の自由を主張することは、間違いも甚だしいわけです。

 それと同じで、意思決定の自由は、関係者全ての人権が損なわれない範囲で許されているものです。
 Bの身体的人権が損なわれた以上、Aは意思決定の自由は制限されるべきでしたし、周囲の大人は馬鹿なこと言ってないで制限を架すべきでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2003/08/20 16:49

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