プロが教えるわが家の防犯対策術!

善・善という人がいて困っています。

他人をたしなめようとなさる方が、よく
 意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。

「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、全て善となってしまうからです。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

A 回答 (21件中1~10件)

「善悪」は方便(立場により、時代により異なる相対的なもの)


であり、根拠は“実用性=そうすれば社会がうまく行くから”と
いうだけに過ぎません(「過ぎません」と言っても重要ですが)。
1つの物体や行為が、絶対的に善(ないし悪)に属することはなく、
可変的なものです。

物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー
増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。
それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。
つまり「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。

それは肉体に付属した感覚器官に基づくものゆえ、短絡的・即物的に
なりがちですが、3つの点で、そうではありません;

1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率
だけでなく、それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、
麻薬的な感覚的快感とは反対の方向性を持つ。
(意味的深さ)

2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」
によって人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。
(時間的長さ)

3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の
成立に、社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、
社会全体の自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。
(空間的広がり)

こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』
の要因=社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、
宗教(善悪)、慣習(正義)など、他律的に行なう時、そこに先入的価値
が生じるのです。
社会性の発達において他律的方法論をとったという事は、自発的な意思
によって生きていない=「精神的充足量の最大化」という真の目的に
おいて、人類は退化しているという事です。

いわば善悪の既成概念そのものが、「自律的生=社会生命的自覚化」を
省略して自己チューなまま安易に社会化する社会システムのための、
必要悪です。

この回答への補足

回答をもう少しまとめていただけると幸いです。支離滅裂とまでは行きませんが、回答になっていないようです。わかる方ということで伺いました。
回答者様も含め、
意思は、善である(たとえば必要悪)ということをおっしゃる方に関し、
その根拠を伺っているのですが?個人的な回答として、根拠はないということでしょうか?
出来れば簡潔にお願いいたします。

補足日時:2010/11/08 21:26
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この回答へのお礼

貴重な回答をありがとうございました。

具体的に
わからないことが多いので、愚かな私にいい含むませるというい意味で
もうひとこと・ふたこと
誠に恐縮ですが
お願いできますでしょうか。できれば補足回答をお願いいたします。わからずやですみません。
----------------------------------------------

>「1つの物体や行為が、絶対的に善(ないし悪)に属することはなく、
>可変的なものです。」

もし質問者様が時代の先端を走っていらっしゃるという幻想をお持ちであるとすれば、
質問者様が「時代に沿って」全てを決めることが出来る
ということと解釈いたしました。間違っているようならご訂正くダサい。

>物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー
>増大=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。

>それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。
>つまり「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。

意思の達成=充足の追及というのは、
「社会に沿っている『わたし』のやりたいようにやらせろ」ということであり、善とは相容れないのではないでしょうか?
ご存知の範囲でよろしいかと思います。回答をお願いいたします。

以下重ねて
>物について・・・ 即物的ではない素晴らしい主張ということですが


?1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、--->(意味的深さ)

精神的充足・意味および認識の深さは関数では表せません。関数で表せないもののインバース・もしくは反対は存在しません。
「上記のそれとは違うもの=何か」という発言しか出来ないのではないでしょうか?
それがなにかということについて具体的にご説明願えますでしょうか?

?2.「人生を通算した充足量」--->(時間的長さ)

時間は存在しません。(※注 この主張は私の意見ではございません。)
よって時間の長さについてここで書くのは規定違反です。

?3.分業化や組織化において---社会全体の自覚化(他我化=愛)が必要となる。
>(空間的広がり)
必要論の繰り返しです。質問者である貴方が何かを必要となさっているというのはわかりますが根拠がありません。
それ(他我化)が必要であるであるという主張の根拠をお示しください。

1-3に共通するのは時系列抜きでは測定不能という事象であって、論の根拠とは別の(異質の)問題です。

質問者様の説明では、
『私(質問者様)』=特定個人(私はそう思う・私が社会の中の最善の部分である)と言う共通項以外に善の根拠が見当たりません。
回答者様である貴方は、本当に自分が善であると思っているのでしょうか?

最後の文章=人類は退化しているという事です。
自発は進化、他律は退化と単純化して表現なさっておられるようです。しかし、自分から出発していれば善というのは理解できません・・・
この点が、あたくし個人が、「質問にまで至った原因」といってよいと思います。

>いわば善悪の既成概念そのものが、必要悪です。
質問者様が善悪をのべるのは、そのときそのとき(回答者様にとって存在しない『時』および)状況にあわせてやっているということと理解しました。
そういうのを偽善と呼ぶのではないでしょうか?

会社では他律の愚か者たちに合わせて活動しているが、私は、ほんとうは(ネット上では)自発の善人であるということと
どうちがうのでしょうか・・・

よろしければ説明をお願いいたします。

お礼日時:2010/11/09 05:13

>他人をたしなめようとなさる方が、よく 意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。



この場合の意志は
>他人をたしなめようとなさる方の意志 であると解釈できます。

>意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと 

その場合には”他人をたしなめようとなさる方”が責任を持ってその意志の善性を保証しているはずです。それを疑い、批判するのは自由でしょう。

>意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか
一般的には確かに問題です。何事であれ無前提で断言できるものはありません。その意志の主体が何者であるかがまず問われます。

>。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?
その意志を表明したひと、あるいは人的存在に聞いてみるしかないと思います。

この回答への補足

>”他人をたしなめようとなさる方”が責任を持ってその意志の善性を保証しているはずです。
そういう人たち(偽善者たち)の心理を分析する為には、あるいみ核心をつく文章です。
恐縮ですが、社会経験はおありですか?社会参加なさっておられない方なのでしょうか?現実が見えておらず前提が間違っているようです・・・
そういう方に限って、No1のかたのように、「いいにげ」であることがおおいようです。
困った人はいるものですが、「わかるかた」ということで伺っております。

おれにはわからない
「批判は自由・そういっている奴に聞け」とおっしゃるのであれば、残念としか いいようがありません。
「わからないが適当に回答してみた」とおっしゃるのであれば、感情的にならず、できれば補足回答をお願いいたします。

もしかしたら善を語るひとで、(自称の「責任感がある」というだけではなく)実際に責任を果たした方に出くわしたとおっしゃるのでしょうか?
ありえないことですが再度お願いいたします。(※しかしながら自慢話はご遠慮ください。)
さもなくば他人をたしなめてやろう!コイツむかつく!いけんしてやる!という上から目線での物言いだけが残るように思います。回答者様もそういう世相の追随者なのでしょうか?

補足日時:2010/11/10 18:23
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この回答へのお礼

ご参加ありがとうございました。

「善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。」というのが、私の得た回答です。No5さまを参考に当質問に参加なさった「ぜんぜんわからない人」の態度・手口を参考にまとめてみました。

----------------------------------------------------------------
「善・善わからない人」とは?

この方たちの言う「善」の根拠は、エゴイズム。エゴなどという無垢なものではない。エゴイズムだ。

「ぜんぜんわからないひと」とは、別名「ひのもと随一の科学者」のこと。どの分野で科学者であるかというと自分でもわからない。とにかく自分は専門屋であると思い込んでいる。何の専門家かと問われるとわからない。無知(無認識)の専門家=専門屋である。

業績=キリスト真宗の教義
人間(預言者・キリスト)は死なないと悟った。オレ様は医者であり預言者である。人間は、善の愚民である。オレ様は子羊の棟梁=経営者である。愚民は無知である。科学は人間の無認識を証明した。しかし、オレ様にとって全ては、認識・科学されている。科学は無認識であるからだ。

性格
こころがない。精神的満足は「おれさまたち」にとって自己満足・自我の不満解消である。人間・社会は、病気である。自分は、「善の医者」。他人は、善の素質がある「患者」である。オレも患者みんなも患者。平等である。しかし、私(オレ様)は人間ではない。預言者である。他人の中に存在する行基・病気を指摘する為に現れた救世主である。今の世に生まれた「行基」である「おれさま」を見習え。お前にも行基の素質はある。

人類の病を治癒する「救世主=ぼくちん」
社会・政治・民衆が、病気である。自分はその病気を治す為に日々活動しているというのが、信条。

問診票
「人類みな、病人。」と定義し、会うひとあう人に「病人であることを知っている。おれは、お前が病人であると知覚した医者である。みとめろ!」と怒鳴りつける。
治癒力検定と称して問診票への記入を迫る。俺様に治療してもらいたいのならこの問診票に記入せよと通りすがりの人に痴漢行為を働く。

問診票に記入したら、あとは、知らんフリ。ありがとうとも言わない。治療は当然しない。他人が病人であると指摘しただけでオレの役目は終わった。しかし、問診票は情報として収集する。

いつもあいてにしてくれる人にかんして、当然、治療をせず、
「おまえは『善い病人』である。お前は直る見込みがある!おれさまのアシスタントになれ!」と叫び、治療した気になっている。患者を看護婦として雇っても、「その患者の病気を治したことにはならない」というのは、述べるまでもない。

その(おかま)看護婦が、自分に都合の悪いことをしでかせば、いつでも解雇する。

医師免許に関しては、「免許を持っていないのに治療しようとしている」という「自分自身の大きな間違え」には、一指たりとも触れず、おれには医師免許がないから、「医師の責任」はないと自分に都合のよいだけの主張をする。

医者の能力=治癒能力がないのではないかという問いには、「おれさまが、目指しているのは、素晴らしい治癒の井戸端会議である。」「俺には、免許がないから藪医者ではない」と開き直り、「俺を批判しようとするお前には『治してもらおう』という謙虚さがない」と とんでもない反批判を企て、即座に逃げる。

結局、はなくそ=ぼくちんは、社会・政治・人間も、治療することは出来ない。他人のすることは納得いかない・きにいらんという指摘だけの「へんなひとたち」。

結論
定義として、「善・善わからない人」とは、結局、他人を気持ち悪い手段でさわり、嫌がらせをする人=「お医者さんごっこ」の好きな「社会逃避の精神難民」です。

お礼日時:2010/11/16 18:16

「意思は、善である」は正しいと思いますよ。



なぜなら当人は善であると思っているからです。

我々の行動は全て善という判断のもとに行動しているのですから。

悪であるはずはないのではないでしょうか。

質問者さんは自分にとって悪となる行為をすることが出来ますか。

この回答への補足

私が目にしたことのある低級古代人の基礎的意見ですが、行動には、習慣性・誤謬・近視眼的利己・偶然といった意思以外の要素が深く関係して成り立っていると思います。

単純に考えても「悪」と「なる」行為は、「現象しえる」と思います。

ということで実際に存在する「悪人」の例をひとつ・・・

たとえば いいにげのNo1さまの当回答投稿は、
投稿日時 - 2010-11-08 17:46:12となっておりますが、ご当人の「無責任さ」を如実に表す(笑わす)文面がその後目に入りましたので、「おいらが善」の典型として検討いただきたいと存じます。

QNo.6306609 ANo.12より (投稿日時 - 2010-11-09 18:15:31)

「犯罪は国家が定め、善悪はモラル(コミュニティ)が定めます。
当人に、社会への帰属意識があれば、泥棒は犯罪となり、
社会の恩恵を拒絶した上で、反社会活動として行うのであれば、
どのような反社会的行動も(当人にとって)革命の一環です。」

「社会の恩恵を拒絶した上で、反社会活動として行う」というのが このかたにとっての「革命行為」の前提です。

国のおせっかいはいらないって言っている!精神的に入らないといって拒絶しているのだが、でも「くれるもの」は当然もらう!
俺の拒絶を理解しないわからずやメ!このつぎは、いくらよこすといっても「もらってやらない」からな!そう思え!
反社会活動=個別犯罪(必要悪)は、革命である!という意見です。

革命家のおいらが認めなければ国法も悪。おいらが犯罪を起こしたとしても国を入れ替えればよい。もしくは「外国に逃げる」ていう・・・

犯罪活動が革命の一環であるというとんでもない主張です。
どういう感想をお持ちですか?これでも全ての人は善の意思から行動しているといえるのでしょうか?
わたくし個人的には、ただの悪人(民生テロリスト=無筋なよなよ革命家)としか思えません。

補足日時:2010/11/11 21:19
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この回答へのお礼

ご参加ありがとうございました。

「善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。」というのが、私の得た回答です。No5さまを参考に当質問に参加なさった「ぜんぜんわからない人」の態度・手口を参考にまとめてみました。

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「善・善わからない人」とは?

この方たちの言う「善」の根拠は、エゴイズム。エゴなどという無垢なものではない。エゴイズムだ。

「ぜんぜんわからないひと」とは、別名「ひのもと随一の科学者」のこと。どの分野で科学者であるかというと自分でもわからない。とにかく自分は専門屋であると思い込んでいる。何の専門家かと問われるとわからない。無知(無認識)の専門家=専門屋である。

業績=キリスト真宗の教義
人間(預言者・キリスト)は死なないと悟った。オレ様は医者であり預言者である。人間は、善の愚民である。オレ様は子羊の棟梁=経営者である。愚民は無知である。科学は人間の無認識を証明した。しかし、オレ様にとって全ては、認識・科学されている。科学は無認識であるからだ。

性格
こころがない。精神的満足は「おれさまたち」にとって自己満足・自我の不満解消である。人間・社会は、病気である。自分は、「善の医者」。他人は、善の素質がある「患者」である。オレも患者みんなも患者。平等である。しかし、私(オレ様)は人間ではない。預言者である。他人の中に存在する行基・病気を指摘する為に現れた救世主である。今の世に生まれた「行基」である「おれさま」を見習え。お前にも行基の素質はある。

人類の病を治癒する「救世主=ぼくちん」
社会・政治・民衆が、病気である。自分はその病気を治す為に日々活動しているというのが、信条。

問診票
「人類みな、病人。」と定義し、会うひとあう人に「病人であることを知っている。おれは、お前が病人であると知覚した医者である。みとめろ!」と怒鳴りつける。
治癒力検定と称して問診票への記入を迫る。俺様に治療してもらいたいのならこの問診票に記入せよと通りすがりの人に痴漢行為を働く。

問診票に記入したら、あとは、知らんフリ。ありがとうとも言わない。治療は当然しない。他人が病人であると指摘しただけでオレの役目は終わった。しかし、問診票は情報として収集する。

いつもあいてにしてくれる人にかんして、当然、治療をせず、
「おまえは『善い病人』である。お前は直る見込みがある!おれさまのアシスタントになれ!」と叫び、治療した気になっている。患者を看護婦として雇っても、「その患者の病気を治したことにはならない」というのは、述べるまでもない。

その(おかま)看護婦が、自分に都合の悪いことをしでかせば、いつでも解雇する。

医師免許に関しては、「免許を持っていないのに治療しようとしている」という「自分自身の大きな間違え」には、一指たりとも触れず、おれには医師免許がないから、「医師の責任」はないと自分に都合のよいだけの主張をする。

医者の能力=治癒能力がないのではないかという問いには、「おれさまが、目指しているのは、素晴らしい治癒の井戸端会議である。」「俺には、免許がないから藪医者ではない」と開き直り、「俺を批判しようとするお前には『治してもらおう』という謙虚さがない」と とんでもない反批判を企て、即座に逃げる。

結局、はなくそ=ぼくちんは、社会・政治・人間も、治療することは出来ない。他人のすることは納得いかない・きにいらんという指摘だけの「へんなひとたち」。

結論
定義として、「善・善わからない人」とは、結局、他人を気持ち悪い手段でさわり、嫌がらせをする人=「お医者さんごっこ」の好きな「社会逃避の精神難民」です。

お礼日時:2010/11/16 18:19

プロテスタントのクリスチャンです。

ご質問の内容からして、クリスチャンが答えるようなものはないように思いましたが、

>。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

というご質問が私どもの世界観と反対でしたので、一言述べようと思いました。聖書によればこの世の中に「義人はいない、一人もいない」と書かれています。つまりすべての人が罪びとであると述べています。罪びとが何かの意思を持ったとしても罪の中から生まれたものですので、善と呼ぶにふさわしいものがそこに含まれるない場合が多々あると思います。

当方の答えはもし人が「意思は善であると本気で思っているとしたら、自己洞察がなされていない。」ための発言と言わざるを得ないと思うものです。人の心の中の罪はあまりにも黒いので、たとえ半分を捨て去って良心を入れてみても依然として真っ黒のままであるというのが私ども人間の罪の性質です。

この回答への補足

ようやく「わかる方」に登場していただきました。
わかる方というのは信仰をしている人が宗教を語るという場合です。
哲学勉強した哲学者・思想について知識・見識のある思想家です。
もしくは、物理学者が物理を語るという場合です。
キリスト教についていえば、
原罪という教義を信じ、かつ、感じている人ということです。

わたしは、キリスト真宗について偽善者といっております。
彼らの主張は=
キリスト教は「古い」が、俺サマが「新しい」解釈を加えることで、「生き返る」。「おれ」こそが、今に生きるキリストの「意味づけ」である。オレ様は現在の特異点である。悪人は、みんな善人。(ここでアウグスティヌスを持ち出してくる。) (自分は、ただ=無料の老人であるにもかかわらず、) 俺サマは新しい。オレ様とかかわることによって人は新しくなっている。オレ様は今に生きる預言者・新解釈者・思想家であるからだ!

という上記の狂った主張を「キリスト(救世主)真宗」と規定しています。
ゲームに出てくる十字架のシンボルです。自分にだけ都合のよい神聖権威の流用です。おいらが正義。おいらが正しい。おいらが善。
教義は、「他人が信じるべきもの」である!組織・協議から自由な+革命的なオレ様には関係がない。
「俺が認めれば」その時だけ、協議・教義が正当化される。(もちろんおいらこそが真の民衆指導者である。)

そういう方たちは、ラテン語もギリシャ語もできないのに、
かってに聖書の新解釈(単なる我見)をし、破廉恥にも「あたらしい神学」として
宣伝します。

とどのつまりは、「カトリックは、だめ」といっているだけ。でもカトリックの論理的な神学教義については、認識がない。「最悪がだめ」なのは当たり前だが、それを自分が最高であるというためにだけ、利用する。理解は他人がすべきこと。おいらは最善のためのヒントを与えているという無責任な態度。他人の間違いは、自分が「正当な現代のキリスト」・「時代の革命後継者」であると主張するための(思い込みのための)証明事例であると信じ込んでいる。

聖書を使った権威主義・自分は偉いというためだけに聖書を引用する。科学理論を勝手に簡略化し、短絡的イメージを思い描き「レッテル(何でもわかる僕ちゃんは天才!)」として利用する。学者の意見を捏造改ざんし、関係のない分野で乱用する。ああだこうだと意味のない議論をし、自分は今利用した著作権所有者より高度な思想を持っていると自己陶酔する。(利用する作者は60・70年代の古新聞ふる雑誌の「ごみ書籍」の著者たちであるということは偶然の事実であるとしても・・・)

論点は、
「キリスト教を信じているということと、原罪のコンセプトを信条として受け入れること。」
「それを信じていると主張することと 原罪を感じているというのはまた別の問題である」と
ゆう個人的・内容的問題だ と思います。キリスト者を名乗るが、感情的信仰がない。物理学を利用するが物理学者ではない。思想家を自称するが、エゴしか持っていない。
具体的には、
自分を善であると信じ込んでいる人には、とくに、キリストは大事と主張する「自称善なる」個人が、原罪を感じる能力がないという事実です。

補足日時:2010/11/11 20:52
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この回答へのお礼

ご回答 誠にありがとうございます。
ようやく回答のかたちをとるご意見をいただくことができました。

質問意図と関連して一言つづりますと
個人的に傲慢は、ほうっておいてもよろしいのですが、他人にどうしろこうしろ、オレ様を思想家として認めろと五月蝿い・やっかいであるというのが、私の主張です。
また、他人を抑圧するもしくは、たしなめてやろうという、
傲慢さ・自己の精神的欲求(我慢・自慢)を充足するために、
キリスト教もしくは、物理学等の宗教的・学的権威を利用する。というのが、自然ではないということです。翻訳・他人の業績を引用せず、自分だけで(他人に頼らず)何かを主張すればよいと思うのです。ご自分のブログで五月蝿くしていてほしいということです。

気持ちが悪いのは、
とにかく、「恥」という感覚・「責任を取る」という行動がないという彼らの特徴です。
オレは自由であり善の根拠である。オレ様が「物事に関係すること」自体で すべてが善となる。という
おもいこみが問題だといっているだけです。

問題は、
組織はをれさまが認めたときだけ必要悪として存在する。
なぜなら、おいらこそが善の本源であるからである。という理論です。

これは問題だと思います。
こういう考えは、哲学でもないし思想でもないし、宗教でもないと思います。単なるエゴイズムです。

お礼ついでといってはなんですが、
聖書を改ざんし自分の為に利用する人についてはどう思われますか?

宜しくお願いいたします。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/11/11 20:57

善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。

意思、つまり心には善だけでなく悪もあります。やくざ、ギャング暴走族などは悪いことだとわかっていて悪をやっているのです。

ですので意思を持って悪をなしているのでこの善・善さんは意思が全然わかってないのです。
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#3



当人は正しいと思っているということです。

それはあなたも私も同じです。

あなたがいくら他人を罵倒しようとそれが正しいとあなたが判断しているからです。

そうではありませんか?

他人から見れば他の正義があるのでそれなりの評価が下されるだけでしょう?

互いに私は正しくあいつは間違っていると言いあっているだけではないですか。

この回答への補足

おおまかに、善は「うち」か「そと」かと聞いています・・・ 日本語をお読みください。

とくに回答者No.4さま および No.5 さまのご意見の再検討をお願いいたします。

思春期の「おれおれ病」から抜けきれていない方が、よく
「全ては相対的」と口癖のように繰り返しします。
わかるかたということで伺っておりますので解答のアイディアがないようなら、繰り返しの宣伝はおやめください。

お前には発言する権利はない!おれにはあるという卑怯なやり方で「善」を利用するのは良くありません。

回答者様が、「お前らは何かをいいあっているだけだ」と述べておられますが、手段として
質問するなという意図を表示しています。

質問に示されているとおり、

「お前はこれ以上しゃべるな!」と制止するため(けしからん!たしなめてやる!という上から目線)に、「全ては相対的である」という内容をつかい、
「あなた」が自己主張しているだけです。

自分は善だと述べておられるかたは、多数派かもしれませんが、キリスト教者を含め、自己のほかに善というものは認められるという方々もおられるのです。

ポッパーという方によれば、間違い は間違い と証明することが出来ます。

みんな善と主張なさっておられるようですが、No. 4さまのように、善を外に置く方もおられます。貴方が完全に間違っているということは、証明されたようです。全てという言葉をむやみに使うのは愚かな行為です。

補足日時:2010/11/12 01:04
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#6



お互い日本語が得意じゃないようなので、

>「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、
>全て善となってしまうからです。

「アレコレイズム」ってなんですか?
また、全て善でなければ全て悪ですか?
No4の方が答えてくれてもいいですけど。

>。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

だから、自分にとって最も良い選択を我々は常に行っていると言っています。
その選択はもっとも良い善、最善なのだから当人にとって善に決まっていると言っています。
それが根拠だと言っています。

この回答への補足

前段補足の指摘にそって
もう少し回答のバリエーションを考えるべきではないでしょうか?
繰り返しの宣伝は、意味がありません。質問中の「ぜんぜんわからない人」というのは、回答者様のことについていっていたわけではナイのですが、同じような人が何人もいるもんだと驚いています。

>?「お互い」
>日本語が得意じゃないようなので、
一方
>「わたしと貴方は同じ」www 

私と貴方は同じではないと思いますよwww

これは、単に貴方の現実誤認が原因の「倒錯」です。

自分の立場が弱いときだけは、ほかの人と同じレベルだという主張をするんですねぇwww。結構うけます。

質問1 =「アレコレイズム」ってなんですか?
自己認識が欠如した、思春期病状(もしくは 「成人しているのにギャングエイジの精神状態」)の方のもつ「主張一般」(アルコール依存症の方がそうであるように繰り返し同じことを話すこと等)です。

質問 2 =また、全て善でなければ全て悪ですか?
(あのう 私が質問しているんですがwww チョット疲れてます・・・)

パターンは4つあります。

I) 全てが善。
II) 全てが善であるわけではない。
III) 全てが悪。
IV) 全てが悪であるわけではない。
私は、I・IIIを受け入れないという立場です。

>No4の方が答えてくれてもいいですけど。
私の反駁が効いたようですねwww  不安にならなくてもいいと思いますよwww

>。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?

>だから、自分にとって最も良い選択を我々は常に行っていると言っています。
>その選択はもっとも良い善、最善。

上記の発言は、事実関係に照らすと、そうではない。貴方の行動は、最善ではありません。
ですからおしゃっタ コとについて、宣伝はやめて くダサいといっています。

「いいとおもった」が根拠というのは、残念ながら認められません。これは根拠ではありませんから。
基本的に国語以前の問題で
行っていると考えている(思っている)を混同しています。
行っていると考えるは、質問者様だけにとって「おなじwww」であるようです。

No 5さんを
引用するまでもなく、上記のコメントは、質問者様が、「わかる方」に属していないということを証明しています。残念ながらwww

質問者様は事実誤認をしています。

貴方にとっては何でも同じかもしれませんが、事実関係の認識が出来ていないようです。

最後に質問者としての質問です。
回答者様は、事実誤認をしていませんか?

PS.
おもっている 「だから」 行動しているwww おもしろいなあ
 (さてはニーとだなwwwげらげら!)

補足日時:2010/11/13 02:30
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こんばんは、mamanGT1992さん。





行為
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%82%BA

正当防衛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BD%93% …


「うまい使い方の場合のうまい理由」
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20091120/p1

この回答への補足

「わかる方」は最低日本語の記述を用い、文章を書くことができることであるかと理解しております。
主語・述語を使っていただいて結構です。日本語はわかります。文章でお願いいたします。

リンクこぴべ山カキコ様、
もとい
しょうせっぷんサマ(チョット汚いww)どういう意図で書き込みをなさっているのでしょうか?

補足日時:2010/11/13 02:36
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この回答へのお礼

ご参加ありがとうございました。

「善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。」というのが、私の得た回答です。No5さまを参考に当質問に参加なさった「ぜんぜんわからない人」の態度・手口を参考にまとめてみました。

----------------------------------------------------------------
「善・善わからない人」とは?

この方たちの言う「善」の根拠は、エゴイズム。エゴなどという無垢なものではない。エゴイズムだ。

「ぜんぜんわからないひと」とは、別名「ひのもと随一の科学者」のこと。どの分野で科学者であるかというと自分でもわからない。とにかく自分は専門屋であると思い込んでいる。何の専門家かと問われるとわからない。無知(無認識)の専門家=専門屋である。

業績=キリスト真宗の教義
人間(預言者・キリスト)は死なないと悟った。オレ様は医者であり預言者である。人間は、善の愚民である。オレ様は子羊の棟梁=経営者である。愚民は無知である。科学は人間の無認識を証明した。しかし、オレ様にとって全ては、認識・科学されている。科学は無認識であるからだ。

性格
こころがない。精神的満足は「おれさまたち」にとって自己満足・自我の不満解消である。人間・社会は、病気である。自分は、「善の医者」。他人は、善の素質がある「患者」である。オレも患者みんなも患者。平等である。しかし、私(オレ様)は人間ではない。預言者である。他人の中に存在する行基・病気を指摘する為に現れた救世主である。今の世に生まれた「行基」である「おれさま」を見習え。お前にも行基の素質はある。

人類の病を治癒する「救世主=ぼくちん」
社会・政治・民衆が、病気である。自分はその病気を治す為に日々活動しているというのが、信条。

問診票
「人類みな、病人。」と定義し、会うひとあう人に「病人であることを知っている。おれは、お前が病人であると知覚した医者である。みとめろ!」と怒鳴りつける。
治癒力検定と称して問診票への記入を迫る。俺様に治療してもらいたいのならこの問診票に記入せよと通りすがりの人に痴漢行為を働く。

問診票に記入したら、あとは、知らんフリ。ありがとうとも言わない。治療は当然しない。他人が病人であると指摘しただけでオレの役目は終わった。しかし、問診票は情報として収集する。

いつもあいてにしてくれる人にかんして、当然、治療をせず、
「おまえは『善い病人』である。お前は直る見込みがある!おれさまのアシスタントになれ!」と叫び、治療した気になっている。患者を看護婦として雇っても、「その患者の病気を治したことにはならない」というのは、述べるまでもない。

その(おかま)看護婦が、自分に都合の悪いことをしでかせば、いつでも解雇する。

医師免許に関しては、「免許を持っていないのに治療しようとしている」という「自分自身の大きな間違え」には、一指たりとも触れず、おれには医師免許がないから、「医師の責任」はないと自分に都合のよいだけの主張をする。

医者の能力=治癒能力がないのではないかという問いには、「おれさまが、目指しているのは、素晴らしい治癒の井戸端会議である。」「俺には、免許がないから藪医者ではない」と開き直り、「俺を批判しようとするお前には『治してもらおう』という謙虚さがない」と とんでもない反批判を企て、即座に逃げる。

結局、はなくそ=ぼくちんは、社会・政治・人間も、治療することは出来ない。他人のすることは納得いかない・きにいらんという指摘だけの「へんなひとたち」。

結論
定義として、「善・善わからない人」とは、結局、他人を気持ち悪い手段でさわり、嫌がらせをする人=「お医者さんごっこ」の好きな「社会逃避の精神難民」です。

お礼日時:2010/11/16 18:20

おはようございます、mamanGT1992さん。




ジョハリの窓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …

この回答への補足

回答者様の「法的本性」
http://goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.c …

「言語能力」
http://allabout.co.jp/gm/gc/50664/

補足日時:2010/11/13 18:35
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 こんにちは。



 ○ ひとの意志は みづからの善(――つまりもっとも基礎的なものとしては 自分に好ましい・望ましいと思われるその気持ちでさえある主観内容のこと――)をみづからがそこなうことも為し得る自然本性としての行為能力である。

 ○ その善をそこなういわば部分的意志 あるいはその部分的意志をおこなうこと もしくはその行なった結果やその状態 これらを善の損傷もしくは善の部分的な欠如と見て ひとことで呼ぶという便宜を考え 悪と言う。
 言いかえると 悪をおこなう意志は そもそもの意志にさからう部分的意志であり 自然本性としての心でもあるふつうの意志を曲げるへそ曲がりの心である。

 ☆ 《意志は善である》というのは もし人びとが心で同意するのなら そのおのおのの主観が同意しているという思いそのことを根拠としています。
 言いかえると 無根拠です。これを人間は 便宜上 公理と呼んでいます。証明しなくてもみなが受け容れることが望まれているという意味です。
 自由 自由意志 意志選択の自由 あるいは意志の自由なる自然本性として生まれてくるひとの存在が互いに平等であるということ(自由であることが互いにまったくの対等であること) これらは 証明することのできない命題です。

 それでは 或る人にとって善であり別の人にとっては善の損傷つまり悪だと思われるその同じひとつの事柄について いったいどういうふうに捉え考え対処すればよいのか。
 民主主義の原則およびその話し合いという方程式にしたがいます。つまり根拠のない主題をあつかうのですから 永遠に対話をつづけ互いの主観の共同化を果たしていくという意味です。

 ただし へそ曲がりの心 これは案外たやすく分かるもののようですよ。
 ひとの心にさからうような心を起こすときひとは 顔を赤らめ言葉がしどろもどろになり じっさい胸騒ぎもしているようですから。これが うそ・いつわりあるいはあざむき・うらぎりといったへその曲がった心の作用です。
 あるいはそれよりも実際問題としてそのとき心は やましさやむなしさを感じるはずです。情けなさやそれによる自己嫌悪をおぼえますよね。それは意志の損傷あるいは欠如が起こっているからだと考えられます。
 そぼくには このようにして正の善と負の善(つまり悪)とを見分けます。

 《そぼく》でない場合は このようなみづから意志を傷つけることをすでにくせとし習慣と成し常態としてしまっている厚顔無恥や鉄面皮の場合にかかわります。
 このように言うわたしは そぼくを脱していて 厚顔無恥と同じくらいに赤恥さらしをつねにと言ってよいほどおこなっています。
 これは 善の社会的な――共生としての――取り戻しというつとめです。相手の意向に或る意味でかまわずに――と言っても こちらが何らはからいがないから 結果として出来てしまうのですが――相手との出会いが成り立てば 敢えて〔そういう結果になるだろうと思っていても〕おこなっているようです。
 その相手にとっても・こちらにとっても そこなわれた善の癒えることを――はからい無しに――おこなうというつとめです。

 世の中はこのように成り立っています。どうでしょう?

この回答への補足

自然本性について知識のない方の暴論と解釈いたしました。
WIKIぺに ちゃんとした記述がないので それを利用できないでこまっている
「一夜漬け」のかたでしょうか?

自然本性に関して具体的な説明をお願いいたします。

無根拠であれば、あなたが正義である・善であるとはいえません。他人の意見・文言を利用して自己主張するのはやめてください。繰り返すようではございますが、「わかるかた」ということで伺っております。

補足日時:2010/11/13 18:05
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この回答へのお礼

ご参加ありがとうございました。自然本性についての基礎的定義がないのが残念ですが、無知な方にとって「できない」というのも、しょうがないことかもしれません。

「善・善という人は全然こころがわかってないひとですね。」というのが、私の得た回答です。No5さまを参考に当質問に参加なさった「ぜんぜんわからない人」の態度・手口を参考にまとめてみました。

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「善・善わからない人」とは?

この方たちの言う「善」の根拠は、エゴイズム。エゴなどという無垢なものではない。エゴイズムだ。

「ぜんぜんわからないひと」とは、別名「ひのもと随一の科学者」のこと。どの分野で科学者であるかというと自分でもわからない。とにかく自分は専門屋であると思い込んでいる。何の専門家かと問われるとわからない。無知(無認識)の専門家=専門屋である。

業績=キリスト真宗の教義
人間(預言者・キリスト)は死なないと悟った。オレ様は医者であり預言者である。人間は、善の愚民である。オレ様は子羊の棟梁=経営者である。愚民は無知である。科学は人間の無認識を証明した。しかし、オレ様にとって全ては、認識・科学されている。科学は無認識であるからだ。

性格
こころがない。精神的満足は「おれさまたち」にとって自己満足・自我の不満解消である。人間・社会は、病気である。自分は、「善の医者」。他人は、善の素質がある「患者」である。オレも患者みんなも患者。平等である。しかし、私(オレ様)は人間ではない。預言者である。他人の中に存在する行基・病気を指摘する為に現れた救世主である。今の世に生まれた「行基」である「おれさま」を見習え。お前にも行基の素質はある。

人類の病を治癒する「救世主=ぼくちん」
社会・政治・民衆が、病気である。自分はその病気を治す為に日々活動しているというのが、信条。

問診票
「人類みな、病人。」と定義し、会うひとあう人に「病人であることを知っている。おれは、お前が病人であると知覚した医者である。みとめろ!」と怒鳴りつける。
治癒力検定と称して問診票への記入を迫る。俺様に治療してもらいたいのならこの問診票に記入せよと通りすがりの人に痴漢行為を働く。

問診票に記入したら、あとは、知らんフリ。ありがとうとも言わない。治療は当然しない。他人が病人であると指摘しただけでオレの役目は終わった。しかし、問診票は情報として収集する。

いつもあいてにしてくれる人にかんして、当然、治療をせず、
「おまえは『善い病人』である。お前は直る見込みがある!おれさまのアシスタントになれ!」と叫び、治療した気になっている。患者を看護婦として雇っても、「その患者の病気を治したことにはならない」というのは、述べるまでもない。

その(おかま)看護婦が、自分に都合の悪いことをしでかせば、いつでも解雇する。

医師免許に関しては、「免許を持っていないのに治療しようとしている」という「自分自身の大きな間違え」には、一指たりとも触れず、おれには医師免許がないから、「医師の責任」はないと自分に都合のよいだけの主張をする。

医者の能力=治癒能力がないのではないかという問いには、「おれさまが、目指しているのは、素晴らしい治癒の井戸端会議である。」「俺には、免許がないから藪医者ではない」と開き直り、「俺を批判しようとするお前には『治してもらおう』という謙虚さがない」と とんでもない反批判を企て、即座に逃げる。

結局、はなくそ=ぼくちんは、社会・政治・人間も、治療することは出来ない。他人のすることは納得いかない・きにいらんという指摘だけの「へんなひとたち」。

結論
定義として、「善・善わからない人」とは、結局、他人を気持ち悪い手段でさわり、嫌がらせをする人=「お医者さんごっこ」の好きな「社会逃避の精神難民」です。

お礼日時:2010/11/16 18:22

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