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村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は私の中ではかなり好きな作品です。
ところで、「世界の終わり」と、
「ハードボイルドワンダーランド」という2つの物語が同時進行していくこの作品の、「世界の終わり」の元のほうで主人公は門番に自分の”影”を切り取ってもらいます。
それ以降は切り取られた”影”にも意思があり主人公と言葉を交わしたり、やりとりがあります。
いったいこの”影”とは、何の例え(?)象徴なのか分かりますか?私はもう何度も読んでいますが、いまいち分かりません。それでもこの作品はすごく好きです。
ご意見のある人は教えてください。

A 回答 (5件)

だいぶ以前に読んだのでうろ覚えのところもありますし、


最後どうなるの?というところが何度読んでもイマイチわからず、自信はないのですが、たしか、「世界の終わり」は「ハードボイルドワンダーランド」にいる計算士の私がつくりあげた(無意識の)精神世界ですよね。
で、計算士の私は計算士になる前の小さなころからその世界を持っていて、計算士の仕事(シャフリング)をするときに、その世界(意識の核)をブラックボックスにしてデータを暗号化していた。

で、博士が勝手に計算士がもともと持っていた精神世界の「世界の終わり」を編集して、ストーリーをもった「世界の終わり」を計算士の脳の中に潜ませて実験した結果、博士が作った「世界の終わり」と現世界(ハードボイルドワンダーランド)が平行して存在するようになってしまった(あくまでも計算士の意識の中で、2つの世界が存在している。普段意識しているのはハードボイルドワンダーランドの方)。
しかし、脳の中に無理やり人が作った世界を潜ませているものだから、拒絶反応みたいなものがおこって、放っておくと、やがて計算士は「世界の終わり」の方の世界に行ったきりになってしまう…。

で、いよいよ本題の「影」とは、現世界ハードボイルドワンダーランドでの計算士の「心(意識)」みたいなものだと思います。
現実の世界では、心と体は一体ですよね。影と本体が一体のように。でも、世界の終わりでは、みんな影を切り離されている。(つまり、心を持っていない。)
で、ハードボイルドワンダーランドからやってきた僕は、影と本体を切り離されることによって、昔の記憶や心をうしなってしまう。

しかし、「世界の終わり」の中の僕は、「世界の終わり」を作り出したのが、他でもない自分だということに気づきます。結局、「僕」は影(心)だけをもとの世界に戻し、自分は世界の終わりに残る事を決意します。
なぜかというと、「世界の終わり」にも人が暮らしていていて、自分が外に脱出することによって、「世界の終わり」が終ってしまうから。自分の作った世界に住んでいる人たちを無責任に置いていくわけにはいかないから。

と、この辺まではなんとなくわかったのですが、最後の最後がどうなったのか、イマイチ良く分からないんです。

影(心)が元の世界に戻ることによって、もしかするとハードボイルドワンダーランドの「私」は、今までどおり暮らしていけるのかしら?と思ったり、影と本体が別々に生きることを決意するということが、つまりはタイムリミットを意味しているのかなぁ、と思ったり。
ハードボイルドワンダーランドの私は、最後は死んでしまうのでしょうか?

質問にお答えするつもりが、逆に質問になってしまいました(^^;)。
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この回答へのお礼

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ありがとうございます。

お礼日時:2003/09/08 11:04

こんにちは。

おもしろい質問ですね。たしかに読みながらいろんなことを考えながら読んだなあと懐かしく思い出しました。全く自信はありませんが思ったことを書いてみます。原文を確認せず書きますのでこまかい間違いなどお赦しを。

 たしか「風の歌を聞け」に(?)死は生の対極にあるのではなく、生に内在するのだというような内容の言葉があったと思います。『世界の~ 』の影は、そういう生に内在するものとしての死を独立させて、生と対話させてみたものではないでしょうか。
 そう思うのは、ハードボイルドの僕は最後、外側から見れば「死」なんだけれど、主観的には一瞬を永遠に感じるので、(ゼノンのパラドックスのように)死にたどりつかない、ということが言われていたと思います。ここで死の輪郭があいまいになっていると思うのです。(でもその死を迎えるために僕は車でひとりになれるところへ出かけていったような気がするのですが、これは「あなたが死んでも私が覚えている限りあなたは死なない」的な、共同性による死のあいまい化ではなく、あくまでも個体の死を扱っていることを強調しているのではないかと思います。それが春樹独特のナルシズムの表現と重なるのがうまいと思うのですが)
 もともと、死は生に内在するというのは理論というよりイメージ的な信念とでも言うべきものでしょう。生きながら死んでいるというような状態を言おうとしているわけではないでしょうから、死を生の側に引き寄せるということなんだと思います。そのあたりをいっそうイメージの深みを描こうとして、二つのストーリーのラストがあるんではないでしょうか。
 二つの存在(要素)の関係が、通常の私たちの理解からは混沌としたものに見えるような、イメージの重層化があると思うのです。
 ハードボイルドの僕は客観的には死ぬけど主観的には死なない。 
 「世界の終わり」から出ることが死なのか再生なのかどちらともとれる。
 影と本体が分かれてしまう。
 などなどと考えていくと、影と死というものがとても関係深いものに思えてきます。

 ただこの考えはラストに注目した見方ですので、作全体では、(もしこの見方が正しければですが)そこから敷衍して、自己に含まれた自己否定などが影に象徴されているかもしれません。ただそれにしても、生の中における死の見方を提示する話者なのではないでしょうか。

 ユング心理学でいうシャドーとはちょっと違うように思いました。河合隼雄と対談などされているので、ユングへの関心は以前からあっただろうなとも思うのですが。

 参考になれば。
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この回答へのお礼

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ありがとうございます。

お礼日時:2003/09/08 11:05

こんにちは、私も世界の終わり~を何度か読みましたが、不思議な物語ですよね。

今まで人とこの小説について話したことがなかったので、ごく個人的な解釈ですが、ハードボイルドワンダーランドのほうの主人公が見ている夢(あるいは無意識の世界)が世界の終わりの壁に囲まれた街で繰り広げられている光景ということではないんでしょうか。なぜか上巻の方ばかり繰り返し読んでいるので(文庫本では上下巻に分かれているのですが)はっきりしたことは言えないのですが、途中まで世界の終わりの主人公は影と一緒に森を出ようという意思があるのだけど、途中で自分だけ森に留まろうと決意しますよね。この時に、主人公はこちら側の世界と別れを告げたような気がします。影は何なんでしょうね。でも、これでは答えになってませんネ。生と死の世界かあるいは意識と無意識かもしれませんが、影はそのこちら側とあちら側?を繋ぐ存在なのかな。。。羊男ともダブるのですが、どうでしょう。世界の終わりの方は誰も傷つけあわない一見穏やかで平和な世界に思えますが、一角獣たちの犠牲が伴なうのですよね。読んでると物悲しく切なくなるお話です。あいまいな感想に終わってしまいましたが、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/09/08 11:05

まだ一度しか読んだことないですが、面白いですよね。

今まで読んだ村上春樹の小説の中では一番好きです。
「影」なのですが、最初は「ハードボイルド・・・」の主人公と通じるものがあると思ったのですが、最後まで読むとちょっと違うような気がしました。どちらかというとお互いの主人公同士で繋がってる感じですよね?
それで、「影」はなんなんだろうと思って考えてみると、ハードボイルドで言うところの主人公自身の身体かなぁ、と。
影と同じく切っても切り離せない存在みたいな・・・(思いっきり切り離してますが^^;)
何度も読んでみるとまた違った見方が出来るかもしれませんね。読む人ごとに解釈があるのが本のいいところだと思います。
ぜひまた読んでみたいです。
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自分は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は


まだ読んだ事が無いので自信無いですが、「影」という感じのものが
『海辺のカフカ』でも出てきますよね。

その中でも同じように影のような存在と話を
するシーンが多々ありますし…。なんか関係あるんでしょうか^^;
回答になってなくてゴメンナサイ^^;
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この回答へのお礼

『海辺のカフカ』は私も読みました。
あまり好きな作品ではなかったです。

「「影」という感じのものが」とは死んでしまった中田さんの口から出てきたもののことですか?

「影のような存在と話をするシーン」
とは、どのへんの箇所でしょうか?

お礼日時:2003/09/08 11:09

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