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南北朝の動乱について、原因や背景について詳しく教えてくださいm(_ _)m

A 回答 (2件)

上は天皇家から、下は地頭レベルまで、嫡子単独相続が決まっておらず、分割だったり、兄弟相続だったりした。


持明院統と大覚寺統で別れたのも、兄弟相続が存在したから。

兄貴が持明院統に付けば、弟は大覚寺統につく。
武力的に足利家が圧倒的になっても、南朝がなかなか潰れなかったのは、尊氏と直義という兄弟が、足利家の両巨頭で、喧嘩をすると、片方が南朝を担いだりしたから。
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説明いたします。

重要なところには「」をつけています。

(1)鎌倉時代の朝廷には二つの統派がありました。亀山天皇にはじまる「大覚寺統」と後深草天皇にはじまる「持明院統」です。「大覚寺統」は「八条院領」、「持明院統」は「長講堂領」を経済基盤としていました。
それが、1317年「文保の和談」によって「両統迭立」の方針を確立しました。「両統迭立」というのはそれぞれに統派が交代で皇位につくという意味です。
そのころ、鎌倉幕府では十四代執権「北条高時」と内管領「長崎高資」が専制化しています。これが「得宗専制」というやつです。補足に「得宗」とは「北条義時」の法名です。御家人や朝廷はこの「得宗専制」に対して非常に不満を持ちました。鎌倉幕府滅亡のきっかけが主にこのことだったといえます。

(2)大覚寺統に即位した「後醍醐天皇」がこのころ動き始めました。1324年の「正中の変」、1331年の「元弘の変」の二度にわたる倒幕計画に激怒した北条高時は「元弘の変」後、後醍醐天皇を「隠岐」へと配流してしまします。しかし今度は「パパを流すなんて許さない!倒幕じゃ!」といった後醍醐天皇の息子である「護良親王」が吉野で挙兵します。それに伴って、「楠木正成」や「赤松則村」が挙兵しました。そして1333年に隠岐を脱出した後醍醐天皇は「名和長年」により「船山城」にむかえられました。そして同年、「足利高氏」が「六波羅探題」を攻略し、「新田義貞」が「鎌倉」を攻め、北条高時以下を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡しました。(面白いことに、足利高氏は幕府側のニンゲンだったんですが、戦況をみて「こりゃだめだ」と思って寝返ったそうなんです。)

(3)鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は図に乗っています。「俺が支配者だ!俺が最強だ!」と思っていたのでしょう。醍醐天皇・村上天皇の「延喜・天暦の治」を目指した「建武の新政」をはじめます。幕府・院政・摂政・関白を否定し、天皇への権限集中をはかりました。その一部として、個別安堵法により、すべての土地所有権の確認は天皇の「綸旨」を必要とする、と定めました。

(4)建武の新政は武士にとって最悪なものでした。「綸旨」の乱発による政治の混乱・停滞、さらに武士社会の慣習を無視したもので、さらに恩賞が公家・寺社を優遇するなど(倒幕に活躍を見せた足利尊氏(このころにようやくこの名前になる)が政治の中枢機構に関与できなかったなど)、武士の不満が高まるばかりでした。そんなとき、北条高時の息子「北条時行」が「信濃」で挙兵し、鎌倉を占領しました。これが1335年の「中先代の乱」です。これを討伐したのが足利尊氏なのですが、尊氏の本当の目的は時行に代って新政権に反旗を翻すことだったのです。

(5)見事裏切りを見せた尊氏は1336年1月に入京し、同年5月に「湊川の戦い」で「楠木正成」を破り光明天皇を即位させました。そのため後醍醐天皇はしぶしぶしかたなく、「吉野」へ移り、そこで朝廷を開いたのです。これによって、南北朝がわかれ、この動乱は約半世紀にわたって続くことになりました。北畠親房の「神皇正統記」に書かれているとおり、最初のころは「南朝」は相当力を持っていたのですが、そう長くは続かず、室町幕府三代将軍「足利義満」により、南朝の「後亀山天皇」が北朝の「後小松天皇」に三種の神器などを明け渡し皇位を放棄することによって、「1392年(明徳三年)」に「南北朝の合一」となるわけです。

以上で解説を終わります。
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