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進化の過程で『苦しまずに死ねるような』機能を生物が持つに至った理由は何ですか?

単純に疑問に思いました。ビートたけし著の『たけしの死ぬための生き方』で『食われている生物は最初は苦しそうだが最後には気持ち良さそうな表情になっている』と書かれていました。また、鮭などの魚は卵を産んで受精させた後には幸福ホルモンが出て死んでしまうそうです。人間でも非常に高い所から落下すると地面に激突する前に意識を失う人も多いそうです。

なぜ進化の過程でこれらの機能を持つようにいたったのでしょうか。また、これらの機能は生きていく上で、子孫を残す上では維持すべき程に大事なのでしょうか。また、子孫を残す上で必要なら、どの様に必要なのでしょうか。

変な質問ですがよろしくお願いします。

A 回答 (54件中21~30件)

 議論が膨らむと書く分量が大きくなって大変なので絞りたい・・・と思いつつも膨らむ一方ですね。



>http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
>についてあなたはどう考えますか?

 2つめの記事には何も論じるべきものが見いだせないので、1つめの記事についてコメントします。

 このベストアンサーに書かれた「経験談」は、動物が「死」を知っている、という論拠には何らならないと思います。「犬に感情がある」という論拠になるだけでしょう。
 というより、むしろ「起こそうとする」、「探す」という行動からは、「死を知らない」という主張の論拠になりそうですね。

 私も職業柄、動物の死は数え切れないほど見てきていますし、犬やネコも常に飼っているので死に瀕した行動や他個体の死に際した行動も見てきています。ここに挙げられた行動も、私も実際に見ています。
 ですが、私にはこれらの行動は逆に「彼らは死を知らない」故の行動に見えます。
 何か重大な異変が起きている、ということは十分理解しているようです。起こしても起きない相手に狼狽もしていますし、探してもいないことを悲しんでもいますね。
 でもそれは「死」を理解しているとは言えない行動でしょう。死を理解していれば起こそうとはしませんし、探しもしないでしょう。

 死に関する行動ついでに思い出しましたが、質問者さんが挙げた「死を前にした牛が足を折って涙を流す」という記事について。
 これ、まず間違いなくフィクションです。最大限好意的に解釈して拡大解釈による見間違い。

 私は職業柄、そるこそ数え切れないほど牛も豚も「殺して」きました。昨年の宮崎にも防疫員として派遣され、殺処分にも従事しています。まあさすがに「銃殺」はしたことがありませんけどね。他の方法です。
 でも、この記事のような現象は、見たことも聞いたこともありません。

 そもそもヒト以外の動物は、「情動による涙」を流すことはないとされています。まあ牛が涙を流していたら、まず疑うのはいくつかの感染症です。
 また、足を折った、というのも鎮静剤でも投与していてそれが効いただけではないのか?という好意的解釈もできますが。

>追伸:カプラン臨床精神医学の151ページに『犬の研究において,ひどい折檻や虐待が愛着行動を増すことが示された.』という記述があります。これは利己的な遺伝子からいくとどの様な意味を持ちますか?

 この短い断片的な文章からだけでは、何の考察もできません。
 その実験のデザイン、すなわち被検犬の月齢や品種、実験を開始した月齢、虐待行為の具体的な内容等と成績の具体的内容、すなわち被検数と「愛着行動」の判定基準、「増す」というのは率的にか頻度的にか強度的にのどれなのか等々が判らないと。
 原本には前後関係も書いているのかも知れませんが、少なくともこの1行は「知識の断片」ですらありません。

 この「愛着行動が増す」のが適切な実験によって得られた妥当な結論なのだとしても、実験のデザインによっては同様に適切な実験によってまったく逆の「妥当な」結論を引き出すことも可能かも知れません。

>動かなくなって、少しずつ腐敗臭が漂ってきます。死体が消失する前に腐敗することに気付くとは思います。腐敗に気付くからハエがたかるのです

 ハエがたかるのは腐敗した有機物から出る化学物質に反応しているだけでしょう。
 また、腐敗することに気づく、というのと「死と腐敗」の因果関係を認知するのは、また別の問題です。
 また、死体の消失の仕方はいつも同じとは限りません。他の動物に食われることもあるでしょうし、川に流される場合も土砂に埋まる場合もあるでしょう。また自分が移動して結果を知らずじまいのことも多々あるでしょう。むしろ死体が消失するまでその場に留まることは生存上のリスクを伴いますから、「消失するところまでは見ずじまい」というのが標準的な結末なのではないでしょうか。

>本質が変わらなかったら入らなくても良いと思います

 入る、というのは学会にですか?
 学会に入るのは「英語の本を読むため」ではありません。
 「議論の現場」を見るためであり、最終的には「自分の議論を世に問う」ためです。

>100時間も語り続けることをドーキンス氏が持っているか、ということです

 だから数字そのものには意味がないと言っているのですが・・・
 ちなみにドーキンスは30年間、語り続けています。100時間、一方的に講義するのはいくらなんでもしんどいですが、議論ならどれだけでも可能です。私も自分の専門のウイルスについて議論した時間であれば、100時間なんて軽く突破してます。
 それを2時間の講義に要約してくれと言われればやりますし、シンポジウムのパネラーとして15分で喋ってくれと言われれば15分に要約します。両方とも経験がありますし。

 でも、要約はあくまで要約です。
 もちろん全ての分野を「徹底的に」勉強することはできないので、ほとんどの分野は「要約」で勉強することになるのですが、少なくとも1つは「徹底的に」勉強する分野を持たないと、「幹や根」が判らないんです。
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この回答へのお礼

<というより、むしろ「起こそうとする」、「探す」という行動からは、
<「死を知らない」という主張の論拠になりそうですね。
そうかもしれません。実際、動物は死を理解できるのでしょうか。

<でもそれは「死」を理解しているとは言えない行動でしょう。死を理解していれば起こそうとはしませんし、探しもしないでしょう。
そうですね。死を理解していない、という可能性が高そうです。

<死に関する行動ついでに思い出しましたが、
<質問者さんが挙げた「死を前にした牛が足を折って涙を流す」という記事について。
<これ、まず間違いなくフィクションです。最大限好意的に解釈して拡大解釈による見間違い。
そう思いますか? 出展は朝日新聞出版の『戦争体験』です。戦争体験者の投稿を集めて本にしたものです。この牛達は『日常的に虐待が起こって殺し合いが起こる戦場』で観念して足を折って涙を流しました。

<でも、この記事のような現象は、見たことも聞いたこともありません。
まさかあなたが実際に戦場に行ったことはないでしょう。この現象は戦場で起こりました。爆弾が飛び交い、罵声が飛び交い、人々が殺し合う。そういう場所でした。ですのでそういう極限状況では起こりうるのかもしれません。また、昔の人々は嘘を新聞に投稿するほどずる賢くないと思うのは私だけですか?

<そもそもヒト以外の動物は、「情動による涙」を流すことはないとされています。
そうなのですか。初めて知りました。サルもですか?

<また、足を折った、というのも鎮静剤でも投与していてそれが効いただけではないのか?という好意的解釈もできますが。
第二次大戦がやっと終わったばかりでは鎮静剤を投与する余裕がないと見るのが自然でしょう。

<この短い断片的な文章からだけでは、何の考察もできません。
そうですね。様々な背景を知ることがいかに大事か色々と教えてもらえて嬉しく思います。

<学会に入るのは「英語の本を読むため」ではありません。
<「議論の現場」を見るためであり、最終的には「自分の議論を世に問う」ためです。
そうですか。しかし学会という場が本当にすばらしいか、考えてしまいます。裏での根回しがあるのではないか、などと。講義の1時間を自分の自慢話ばかりする医者が上のほうにいる現実やルービン病理学でまさしく致命的なミスをしてしまう教授がいる現実などを考えると私は学会は入りたくないと思ってしまいます。彼らに失礼とは分かっていますが。

<少なくとも1つは「徹底的に」勉強する分野を持たないと、「幹や根」が判らないんです。
そうかもしれません。

何度も色々と丁寧に教えてくださって誠に有難うございます。

お礼日時:2011/06/29 15:26

 Jagar39です。


 mrsamamaさん、ありがとうございます。

 ウォレスはほぼダーウィンと同じことをダーウィンより少し早く考えていたのに、後世では進化論の創始者はダーウィン1人みたいなイメージになってしまって気の毒な人だ、と思います。
 ただ、論理的に導かれた結論を感情で曲げてしまうと、やはりたいていは失敗する、ということなのでしょう。
 まあ、あの時代の人としてはウォレスが普通なのであって、論理に徹し切れたダーウィンの方が凄い、と思います。
 ダーウィンの「種の起源」ですが、普通に読むと退屈な本です。ですが、他の本を読み漁ってある程度進化論を理解してから読み直すと、圧倒的に面白いです。遺伝子の存在すら判っていなかった時代の人がよくぞここまで・・・と掛け値なしに驚嘆します。

>何の価値も無い、は極論ではありませんか?

 「これらの本には価値がない」と言っているのではありません。
 「これらの本は記述に間違いがあれば価値がない」と言っているのです。
 「利己的な遺伝子」のような本は、「知識」ではなく「論理」が内容の主体ですから、後に間違いがあると判っても「ドーキンスはどこで間違ったのか」を読み手が深く考察することができます。
 辞典では、深い考察ができるほど1つの知識に深い記述がされているわけではありませんから、間違い1つによる「価値の減少幅」が、良い一般書より相対的に遙かに大きい、ということです。

>医師国家試験は高価な本を辞書的に使うような甘い勉強法では通らないはずです

 通ると思いますよ。というよりそういう使い方でなければ通らないでしょう。
 試験というのは獣医師の国家試験でもそうですが、単に「知識」を試されるものです。近年はどの試験もマークシートですからなおさらです。試験なんてそんなものです。

>昔は英和辞典まるまる1冊頭に叩き込むという勉強法がありました

 そういう勉強法が正しかったのか、ということでしょう。辞典を通読してもどれほどの意味があるのか、ということです。
 辞書や辞典は「外部記憶装置」として存在しているわけですから、わざわざ脳内にフルインストールする必要はない、と思っています。

>ここで不思議なのは生化学は膨大なのか

 膨大ですよ。生化学の教科書を読んで生化学を理解した気持ちになっているから、生化学と一口に言ってもどれだけ膨大な世界か、ということが判らないのでは。
 生物の体内で起きていることは、全て生化学反応ですよ。
 教科書も専門書も、もっとディープな専門書もあくまでダイジェストです。扱う範囲が広くなればなるほど、より「ダイジェスト」になるのが宿命です。

>応用を利かせればいたちごっこになりませんし、そういう勉強をするのが私の主義です

 過激な言い方を許していただければ、失礼ながら質問者さんはあまり「応用」ができているようには思えません。
 生理学の専門書を読み込んでいるのであれば、本質問の例として挙げた3つの報告は、少なくともそのメカニズムは全て推論ができているはずです(おそらく3つとも異なるメカニズム)。
 また、科学的考察(つまり論理の駆使)の基礎ができていれば、それぞれの例の「動物が安楽死する機能がある、という仮説の根拠」としての信頼性の評価もできるはずです。
 また、「経験談」と「実験」の違いも熟知しているはずです。世の科学者は、「実験」が単なる「経験談」に墜ちてしまうのを避けるために細心の注意を払って試験計画を立てるのですから。

 つまり、私は質問者さんの本質問や他質問の質問&議論の様子からは、論理的思考や議論の訓練があまりできていない、と感じました。知識そのものの量とバランスがとれていないな、と。

>世間一般では既知でも自分にとっては未知の領域は幾らでもあるものです。

 それはもちろんありますね。

>逆にあなたは専門書の全ての内容を熟知していますか? 

 熟知なんてしてませんよ。必要があるときに引けば良いのですから。何度も引いたところは自ずから覚えちゃいますけど、それは自分の経験と専門書だけでない参考文献、他の専門家との議論の過程がプラスされるので、専門書を読むだけでは決して得られない深い知識が得られていると思っています。

>自分の知らない情報を知ることは未知の探求とは思いませんか? 

 思いますが、少なくとも本を読むだけで得られたとは思いません。
 医学もそうでしょうが、獣医系の知識というのは、本と現実はまた別ですから。
 ですから、「経験」ですら、「単なる知識の羅列」しか得られないことがあります。ある症例を見て、次に違うパターンの同じ原因の症例を見たときに的確な対応ができない、というのがそれで、前の症例を「見たまんま」でしか覚えていないと、違うパターンの症例に対応できず診断し損ねたり対応をミスったりします。
 私は伝染病の防疫を仕事にしているのですが、病原体は同じであってもほぼ毎回が「未知との遭遇」です。
 そういう意味では、「専門書」は完璧に暗記していてもたいして役には立ちません。もちろん事ある毎に読む必要はあるのですが、「こういう理屈なのであれば、こういう状態になることもあり得る」とか「この記述を信用すれば、このパターンはほぼあり得ない」という理屈付けによる判断が大切です。知りたいことが直接専門書に書いてあるわけではありません。

 もっと細かい、検査になれば専門書はまさに「辞典」として役に立ちます。
 私はウイルスで論文も書いているので、一応ウイルスの専門家の末席を汚しているということになるのですが、全てのウイルスの性状や特性を覚えているわけではありません。というよりほとんどたいしたことは覚えてません。
 なのでインフルエンザやノロウイルスなど、一応専門分野であってもこのサイトの質問に回答する際にもいちいち本で調べていたりします。
 ウイルスのゲノムの形態や複写方法は科ごとに大きく異なりますし、それが細かい検査をする際には重要になるのですが(遺伝子の形態によって手法が多少異なるため)、そんなことはそのウイルスによる伝染病が目の前で起きてから調べれば十分なので。
 自分の脳味噌で覚えなくても、必要なことはここに書いてある、というのが「辞典」の最大の意義ですから。
 まあもちろん何度も引いたところとか印象的なところは嫌でも覚えるので、なんだかんだいってけっこう覚えてしまうものなのですが。

>日本語で読んだ専門書を英語で書けますか? 
>中国語に翻訳できますか?

 英語では書けます。書けないと論文書けませんから。
 中国語にはその必要がないです。日本人の私も中国人の私も、論文は英語で読むのですから。
 少なくとも私には、中国語に翻訳する動機がありません。

>利己的な遺伝子という本は葉に過ぎません。葉を支える枝。枝を支える幹。幹を支える根。全てが揃って始めて幅広く議論することが出来ます

 まったくそのとおりです。

 でも、「幹」ってなんでしょう?
 幹や根は、「利己的な遺伝子」という本で形やパターンを変えてくどいほど繰り返される「論理」なんです。小学生にはその論理は理解できないので同レベルで議論はできないでしょう。
 「知識」は枝葉に過ぎません。それは「辞典」で得ることができます。

 議論には整理、すなわち単純化が必要です。

 例えば本質問の「安楽死の機能が進化的にどのように獲得されたか」ということを議論するとします。
 安楽死の機能そのものは複数あるでしょうし、その1つ1つが本1冊を費やせるほど深い知識です。
 でも、それらをひっくるめてとりあえず「安楽死のための機能が存在する」と仮定して、それを「安楽死遺伝子」と勝手に命名して議論を進めることが必要です。
 そうすることで「安楽死遺伝子があるとすれば、それは生きている間にも「繁殖に有利な形で」発現する遺伝子でなければ進化の過程で選択されることはあり得ない」という非常に妥当らしい結論を引き出せるわけです。
 その上で、具体的な「メカニズム」の候補を挙げれば、それがその進化的な結論にどのように合致するのかしないのか、を考察できるわけでしょう。その時にはそれぞれのメカニズムに対するもう少し深い知識が必要になりますが、それもその時調べれば良いのです。そろそろ「辞典」だけではなく、原著論文そのものを検索しないと的確な議論はできなくなるかも知れませんが。

 議論には知識と論理の両方が必要なことは間違いありませんが、論理の方が「本を読めば判る」というものではないだけに、訓練をより必要とします。
 また、論理の裏付けがない単なる知識は、とんでもなく的外れな方向に進んでしまう危険性が高く、そうなっても本人が気づく術がない、というのが厄介です。
 根や幹がなく、葉しかなければどこに飛んでいくか判らないんですよ。
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この回答へのお礼

<「これらの本は記述に間違いがあれば価値がない」と言っているのです。
記述に間違いの無い本は私は出会ったことがありません。日本の辞書ですら間違いは必ずあります。ですので、これは論理としてはやや? と思う面があります。記述に間違いの無い本は無いので、上の論理では全ての本の価値が無いという意味になってしまいます。

<「利己的な遺伝子」のような本は、「知識」ではなく「論理」が内容の主体ですから
そうだったのですか。知りませんでした。そういう見方をすればよかったのですね。

<辞典では、深い考察ができるほど1つの知識に深い記述がされているわけではありませんから、
<間違い1つによる「価値の減少幅」が、良い一般書より相対的に遙かに大きい、ということです。
そうですね。利己的な遺伝子と違って辞典では知識の背景が無いので、どこが間違えているかが分かりません。論理も身につきません。ただ一方で情報は沢山載っていて、多くの人が書いているので、自分の間違いを訂正してもらえる可能性は非常に高いとも思えます。

<通ると思いますよ。というよりそういう使い方でなければ通らないでしょう。
<試験というのは獣医師の国家試験でもそうですが、単に「知識」を試されるものです。近年はどの試験<もマークシートですからなおさらです。試験なんてそんなものです。
そうなのですか。東大の入試問題ではほぼ全て『記述式』なのでそれでは通らない気もします。私の学生時代もテストでは甘い勉強法では通りませんでした。しかし資格試験はたいていがマークシートなので通るかもしれませんね。資格試験も東大の入試問題と同じ形式にすれば皆がもっと勉学に励む気もします。

<そういう勉強法が正しかったのか、ということでしょう。
<辞典を通読してもどれほどの意味があるのか、ということです。
<辞書や辞典は「外部記憶装置」として存在しているわけですから、
<わざわざ脳内にフルインストールする必要はない、と思っています。
そうですか? 外人と話すときにまさか辞典を調べながら話すことは出来ないと思います。外人は日本の英和辞典に載っている位の英語の内容はほぼ知っています。よって私達も英和辞典を『暗記する』くらい読まないと彼らと同等になれないのではないでしょうか。パターンの暗記という勉強では甘いというのは考えてしまいます。南方熊楠という明治時代の天才も矢張り『辞典丸暗記勉強法』をとっていたそうです。辞書の通読という勉強法はそれほど悪いものでもないと思います。

<膨大ですよ。生化学の教科書を読んで生化学を理解した気持ちになっているから、
<生化学と一口に言ってもどれだけ膨大な世界か、ということが判らないのでは。
<生物の体内で起きていることは、全て生化学反応ですよ。
<教科書も専門書も、もっとディープな専門書もあくまでダイジェストです。
<扱う範囲が広くなればなるほど、より「ダイジェスト」になるのが宿命です。
恐らくはそうでしょうね。一方で単純化すれば単純化できるとも思います。英語も厳密に研究すれば本当に何万年もかかるといえます。一方で英語を最短距離で学べば半年位で洋書は読みこなせるようになると感じています。ですので物事は膨大とみるか少ないと見るかでだいぶ変わってくるのではないでしょうか。

<過激な言い方を許していただければ、
<失礼ながら質問者さんはあまり「応用」ができているようには思えません。
<生理学の専門書を読み込んでいるのであれば、本質問の例として挙げた3つの報告は、
<少なくともそのメカニズムは全て推論ができているはずです(おそらく3つとも異なるメカニズム)。
<つまり、私は質問者さんの本質問や他質問の質問&議論の様子からは、
<論理的思考や議論の訓練があまりできていない、と感じました。
<知識そのものの量とバランスがとれていないな、と。
失礼どころか私の欠点を教えてくださって本当に嬉しく思います。そうですね。私はまだまだ未熟だと思います。応用が致命的に苦手というのはここでやりとりをしていてもひしひしと感じます。もっと勉強に励みます。論理が致命的に足りない一方で知識もまだまだです。

<自分の経験と専門書だけでない参考文献、他の専門家との議論の過程がプラスされるので、専門書を読むだけでは決して得られない深い知識が得られていると思っています。
こういうのは大事ですね。私に欠けていたところです。

<「専門書」は完璧に暗記していてもたいして役には立ちません。もちろん事ある毎に読む必要はあるのですが、「こういう理屈なのであれば、こういう状態になることもあり得る」とか「この記述を信用すれば、このパターンはほぼあり得ない」という理屈付けによる判断が大切です。知りたいことが直接専門書に書いてあるわけではありません。
こういうのは大事です。ただ、標準生理学はその様な『理屈を大事に』書かれているそうです。ハリソン内科学でも割と理屈っぽく書かれています。

<自分の脳味噌で覚えなくても、必要なことはここに書いてある、というのが「辞典」の最大の意義ですから。
このあたりはとても勉強になります。

<少なくとも私には、中国語に翻訳する動機がありません。
私はあります。勉強にも遊び心が大事です。いかに楽しく勉強するか。学問とは元々「はてな?」の集まりです。つまり学問の始まりは『好奇心』や『遊び心』といってもいいでしょう。無駄だから排除するのではなく、むしろ道草を食べまくる位の遊び心は学者にあっても良いと思います。そういう意味ではあなたもそういう遊び心、子供の純真な好奇心でもって学問に向かう気持ちを持って欲しいです。

<でも、「幹」ってなんでしょう?
細胞の仕組み、DNAの仕組み、動物と植物の違いなどの生物学の基礎的な知識です。小学校で習う生物学、中学校で習う生物学、高校で習う生物学あたりが幹かと私は考えています。そのあたりの知識が無くば議論すら出来ません。

<「知識」は枝葉に過ぎません。それは「辞典」で得ることができます。
あなたは論理派、私は知識派なのでしょう。私もあなたのように論理をもっと大切にすべきなのでしょうね。

<議論には整理、すなわち単純化が必要です。
そうですね。一方でアインシュタインは単純にしすぎてもいけないと言ったので、私は難しいと思っています。

<その1つ1つが本1冊を費やせるほど深い知識です。
何でも深くしようと思えば深く出来ます。例えば国語辞典に載っている単語の全てが厳密に言えば解説に本1冊が必要になります。

<「安楽死のための機能が存在する」と仮定して、それを「安楽死遺伝子」と勝手に命名して議論を進めることが必要です。
ここで前提として疑問に感じるのが機能を遺伝子と仮定してしまうことです。生物の機能が全て遺伝子によるものかどうか。あなたはノミという概念を提出しました。ノミによって作られた機能は遺伝子によるものではありません。機能を遺伝子と変えてしまうこと。ここは良くないと思いました。

<議論には知識と論理の両方が必要なことは間違いありませんが、論理の方が「本を読めば判る」というものではないだけに、訓練をより必要とします。
そうですね。数学や将棋などでは身につきませんか?

<また、論理の裏付けがない単なる知識は、とんでもなく的外れな方向に進んでしまう危険性が高く、そうなっても本人が気づく術がない、というのが厄介です。
そうですね。私は間違いなく論理が足りませんでした。

色々と何度も教えてくださって本当に有難うございました。

お礼日時:2011/06/29 06:58

mrsamamaです。




ネズミの倫理観について

 ちょっと上手く伝えられてないかな、と思います。
 ネズミは多分、申し訳ないとか考えません。しちゃいけないことをわかって、しないだけです。
 つまり、地球生物はみな、「一つの場所を共有している」という
 共通の意識を、(多分)遺伝子レベルで知っている、という意味です。
 
 人間の価値観で考えると、はた迷惑の犯人にならないように、となって、
 小学生が教室で「イスひっこめろよ」とか「オレの方にはみ出すな」とかイザコザ。
 人間的、違う言い方をすれば「下世話」な価値観でない、
 いわば教卓からの先生の視点をネズミが持ってる、ということです。
 イザコザやらないと、周囲とのバランスもわからん小学生はヒトだけですよ、きっと。

 動物が「見失うべき大枠を、そもそも持っていない」のではありません。
 人間が、人間の都合と利便で、自然界には必要のない大枠を作ってしまったのです。
 呆れたことに、それが本当の大枠だと疑わず、
 自分たちと動物を画して、特別扱いを無意識に認め、実践しているだけです。
 社会性でみても、人間が構築したルールが動物を上回っているかといえば、ぜんぜんです。
 ただ、個々の欲求を成り立たせる方便で、社会を複雑に階層化して、
 みんなの折り合いをつける必要が出たから…それだけで、
 自然界にそもそも「大枠」なんてものはないのですよ。
 ま、観念的で論拠のない参加者なんで、みなさんうるさいかもしれないけど。
 新風というより、フェーンみたいなもんで。

 人間は獣に墜ちる…そこが、ヒトの傲慢です。
 多分、真の倫理において、動物の方がヒトよりずっと正道を行ってるでしょう。
 知性は勝っても、倫理においてヒトは動物よりずっと下に墜ち果てていますよ。
 ルソーは詳しくないのですが、自然に帰れって、
 それ、テクノロジーじゃなくて倫理でしょう?
 人間が本当の倫理までわがままのレベルを下げるのは、恐らく無理ではないかと。いまさら。

 そういう意味で、「地球に優しくするには人間を殺せ」は、因果は正しいですよね。
 人間の別の価値はともかくとして。
 ビートたけしさんという人をよく知らないので、どのくらい評価に値するかも知りません。
 知っているのは「ハラ軍曹」くらいで、それもあれ、まんま地でしょ?というか、
 だからラストシーンだけ、学芸会並みのダイコンで浮いていた…と私は思っている。

 この話は今回でおしまいにします。


シアノバクテリア(というよりも、酸化された鉄)の誕生
 えーと。
 シアノバクテリアの化石が見つかったのではなく、
 酸化された鉄がどこかの地層から見つかったので、
 「…ということはつまり、酸素がすでに作られていた、
 この地層の時点で、シアノバクテリアはもう存在していたんだね」、という意味です。


臨死体験
 私は、ほとんどの臨死体験は、オピオイドによる「生涯最後の夢」だと思っています。
 日本人は判で押したように(三途の?)川、アメリカ人は(聖書通りの)門と光を見るなんて。
 まれに、ホンモノっぽいのもありますけど、そういうのは約束どおりのものは見てませんし。
 シュタイナーとか有名ですけど(ちらっと垣間読んだだけですが)、
 あれも「何が」は書いてるけど「なぜ(What for?)」は触れてない。物語部分だけですよね。
 人はみんなミラクルが好きで、こういうのは需給バランスが取れた本としか思わない。
 ただ、胎児・新生児時代の生命危機の恐怖感というのは、こういうのとは別だと思います。

 余計なことですが、精神医学の知識を本だけで得ると危険だと思いますよ。みなさんも言うように。
 臨床と教科書が違うのはすべてに言えますが、精神科領域は桁違いに違いますから。
 本では何一つわからないんじゃないですか、まあ分類くらいかな、言葉の上の。
 防衛もせん妄も、実態はあまりに広範で、見間違いもあるでしょうし。
 かといって、臨床を見れる機会は少ないですけどね。 


生命を育てる、ゆえに利己的な遺伝子
 教科書通りのストーリーだけでは見えないものとして、これはいい題材です。
 利己的な遺伝子は、「はびこる」ために必要だから作ったわけではないかもしれません。
 利己性の元にはアイデンティティがあり、「免疫」という形で述べられているので、
 同じ本でも別のところに書いてあり、関連付けるのは独学読書だけでは難しいでしょう。
 基本、植物は明確な「個」をもたず、動物はハッキリと「自己・他者」を区別します。
 免疫はなくてはならない、「個」は動物の命題とも言えるんじゃないでしょうか。
 これがあることから発展して「利己」に至るもので、利己の法則だけがポンとあるわけじゃないです。
 同時に、これがあるから形質だけでなく「意識の多様性」も生まれてきます。
 可能性と危険性の抱き合わせパックですね。本体はドーパミンとか受容器なんだけど。
 ちなみに「アイデンティティ」を定義しないとこの話はしづらいですが、
 アイデンティティ自体が階層をもってますよ。
 

医者は断言しない
 医者たちのどれくらいが「謙虚さ」のために守っているのかは不明ですね。
 もちろんいるにはいますが。
 EBM(エビデンスベースドメディスン)は、患者のために根拠ある選択を、という意味でありながら、
 他方で「根拠は最大の護身術」ですからね。
 でも勉強して臨床していれば、畏怖を感じるくらいに生命は多才・多様ですよ。
 ゆえに、「私ごときが、とても断言なんか…」ということになります
 (謙虚というほどじゃないとおもう、己を知ってれば当然…)。
 本に載っている知識だけで言い切ってしまえるほど薄っぺらでないことは、
 臨床医こそよく知っています。本だけの研究者は、そのあたり、かなりダメですよね。 
 EBMにスイッチしたとういことは、それ以前は「勘と度胸ベースドメディスン」だった…?


Jagar39さまへ、この場を借りて
 No.20で、ダーウィンとウォレスについて、書かれていましたよね。
 私はこれまで、純粋に淘汰と突然変異だけですべてを語るダーウィン論と、
 「それ以外の要素」(まぁ、「より高次の知性」)を譲らないウォレスとが
 衝突したのだと思っていました。「勉強になります!」
 Jagar39さんの記述を見て、一旦はそういうことだったのか…と思ったのですが、
 ウォレスを完全に「キチガイ」にしてしまった奇行(交霊会を観察するとか)なども含め、
 理解し直したように思います。
 つまり、「こんな偶然があるわけない」という疑問の解決方法として、
 カトリック教会に蝕まれた価値観の社会に生きたウォレスには、
 「教会的解決」以外なかったのですね。
 だから、「人間だけは動物の進化ルートとは違う『特別の』進化論があるはずだ」と。
 Jagar39さまの記述を見て、
   「ウォレスは奇跡のわけをそっちに持っていったのか…」とわかりました。
 それほどまでに「偶然」は奇跡的で、成り行き任せにはとても思えなかったんですね。
 ダーウィンは大筋正しいと思いますけど、何かが足りていませんよ、私はそう思います。
 カトリック的要素を織り込もうとしたなら、ウォレスは確かに間違いです。
 でも、こういう形で終わってしまうと、ウォレスがひっかかった「あまりの偶然」も
 一緒に切り捨てちゃいますよね。それはそれで意義ある疑問として、
 後世が引き継いで回答を探していくべきだと思うのですが…。
 ありがとうございます。私はあなたは大変真っ当な獣医さんだと思います。
 
 なお、幼児・胎児の意識と感覚についてなのですが、
 私は実は「きゅうてつ」(←字が出ない!)の感覚記憶があります。
 それがわかったのは、子育てで子供の授乳を見たあとでした。
 鮮明な口の感覚と、口周辺の筋の深部感覚です。驚きました。
 でも、神経管が形成されていれば、とりあえず記憶場所はあるわけですよね、
 つまり受精後数週たてば、記憶は残りえると思うんです。
 感覚や印象は刻まれていて、取り出すことがあるかないか…という問題のようにも思い、
 恐怖などは、あとから形なく印象だけよみがえるようなことがあるのかも…と。
 
 

 今回もツマミ喰いですみません。
 また来週にでも、のぞいてみます。
 




 

 
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この回答へのお礼

<mrsamamaです。
何度も有難うございます。

<つまり、地球生物はみな、「一つの場所を共有している」という
<共通の意識を、(多分)遺伝子レベルで知っている、という意味です。
そうなんですか。そのような視点は知りませんでした。勉強になります。
 
<動物が「見失うべき大枠を、そもそも持っていない」のではありません。
<人間が、人間の都合と利便で、自然界には必要のない大枠を作ってしまったのです。
<呆れたことに、それが本当の大枠だと疑わず、
<自分たちと動物を画して、特別扱いを無意識に認め、実践しているだけです。
<社会性でみても、人間が構築したルールが動物を上回っているかといえば、ぜんぜんです。
<ただ、個々の欲求を成り立たせる方便で、社会を複雑に階層化して、
<みんなの折り合いをつける必要が出たから…それだけで、
このあたりの回答が非常に真理をついています。

<自然界にそもそも「大枠」なんてものはないのですよ。
<ま、観念的で論拠のない参加者なんで、みなさんうるさいかもしれないけど。
<新風というより、フェーンみたいなもんで。
少なくとも私は非常に勉強になっていて有難く思っています。たまには洪水なども無ければナイル川の農業は成り立ちません。それと同様にフェーンも自然界には必要です。

<多分、真の倫理において、動物の方がヒトよりずっと正道を行ってるでしょう。
<知性は勝っても、倫理においてヒトは動物よりずっと下に墜ち果てていますよ。
あなたはそう考えますか。そのような意見を言う人はそれ程いないので逆に新鮮です。その意見も取り入れて私のこれからの考察を勧めていきます。

<ルソーは詳しくないのですが、自然に帰れって、
<それ、テクノロジーじゃなくて倫理でしょう?
その通りです。当時の世界には大したテクノロジーはありません。自然に帰って農作を皆ですれば倫理的に良くなるだろうと彼は考えていました。文明が倫理を破綻させた、と。そういう意味で彼は『自然に帰れ』と言いました。

<人間が本当の倫理までわがままのレベルを下げるのは、恐らく無理ではないかと。いまさら。
今の状況を見る限り私も無理だと思います。核戦争が起こるなり、地球の環境が徹底して破壊されなて懲りない限りは。失って初めて学ぶというのは的をいた表現だと思います。

<シアノバクテリア(というよりも、酸化された鉄)の誕生
そういうことでしたか。勘違いしていました。失礼しました。

<私は、ほとんどの臨死体験は、オピオイドによる「生涯最後の夢」だと思っています。
そうですか。個人的には夢の必要性が感じられないと考えることもあります。それ程に高機能の夢が必要なのだろうかと思ってしまいます。ただ、その意見は非常に説得力があるとも思います。

<余計なことですが、精神医学の知識を本だけで得ると危険だと思いますよ。みなさんも言うように。
そうですね。本による学びの比重が今は大きいのでこの部分は見直していきます。皆様のお陰で本への固執が減ってきているので本当に有難いです。この前も葉っぱの観察をしてきました。確かに精神医学は理論と臨床の乖離が特に大きいかもしれません。

<利己性の元にはアイデンティティがあり、「免疫」という形で述べられているので、
そうですか。免疫学も大事になってきそうですね。免疫による抗原認識あたりでしょうか。

<基本、植物は明確な「個」をもたず、動物はハッキリと「自己・他者」を区別します。
そうなのですか。教えてもらって驚きましたが、そういう視点は非常に鋭いです。

<アイデンティティ自体が階層をもってますよ。
そうなのですか。凄い発想で再び驚きました。本当にあなたに教えてもらわなければ気付けなかった学べなかった事柄です。有難うございます。 

<他方で「根拠は最大の護身術」ですからね。
名言です。

<本に載っている知識だけで言い切ってしまえるほど薄っぺらでないことは、
<臨床医こそよく知っています。本だけの研究者は、そのあたり、かなりダメですよね。 
そうですね。そのダメさ加減をわかっていなかったことは恥ずかしい限りです。生命の神秘をしっかりと見ていなかった自分を情けなく思います。これからは自然観察も重視していきます。やはり私も臨床に出なければ分からなさそうです。

<EBMにスイッチしたとういことは、それ以前は「勘と度胸ベースドメディスン」だった…?
鋭い意見です。当たらずも遠からずです。

あなたの獣医の方へのメッセージを読んで思ったのが私の反省です。やはり私は非常なる未熟者で、ここのやり取りでもどこか一貫していない態度をとっています。叱咤激励をしてもらって成長していると自己満足しているのですが……。また、正直言いまして今の私では物事の真理などを見ることや相手の技量を計測することや論理の正当性を断定することは間違いなく荷が重過ぎます。そういう意味で迷惑をかけてしまった方々、誠に申し訳ありませんでした。皆様、それでも付き合ってくださって有難うございます。mrsamama様、この場を借りてしまってすみませんでした。

<今回もツマミ喰いですみません。
<また来週にでも、のぞいてみます。
再び色々と教えてくださって誠に有難うございました。本当に勉強になりました。

お礼日時:2011/06/23 15:25

納得させられない意見を先に出したのは質問者さんの方ですよ。

獣医師と同じで、反論の理由を問う前に、言い出した人の説明はどうなんですか。

(No.25お礼)
>「獣医師というなら医者に含まれるとは思いませんか? 獣に対する医者ということで獣医師と。」

木に対する医者は樹医。樹医と獣医の共通点は人間の体を診れない事です。これは決定的なことです。無報酬制度と奴隷制を同類にする無知とは違います。能力的にも資格的にも、看護師の方が獣医師よりも医者に近いでしょう。医者がいない場面が起こった時、そこで医学的判断をまかせられるのは獣医師ではなく看護師です。看護師は医者ですか?理容師は人間の髪を切ります。獣医師にその資格はありません。人間に関する衛生学を床屋ほどにも身に付けていません。鍼灸師も看護師も人間に針を刺すことができますが、獣医師はできません。実践力は鍼灸師の方が医者なんじゃないですか。
医療で一番大事なのは、してはいけない事をしないという、常識を守る事なのです。獣医師はそこが分かっていないので人間をまかせるのは危険なのです。単なる医学知識の集積ではないのです。質問者さんが副作用について言及されたように、医学教育というのは常に、してはいけない事と共に新しい知識を学んでいきます。単独の知識ではないのです。獣医の脳ミソにはその点がごっそり欠けているのです。人間と動物が違うように、医者と獣医の知識体系は似て非なるものです。医者という扱いは大間違いなのです。実力で決めれば、看護師の方が医者になります。いざという時に獣医師を頼れば殺されます。その時は看護師です。看護師が医者ですか?
獣の医者などという言葉遊びは大人のすることではありません。実力勝負を重んじているはずの質問者さんが、何ということもなく、職種の字面で決めていたら滅茶苦茶でしょう。


>「ブドウ糖を投与したときの反応などはそうは変わりません。」
まず風邪薬の話が栄養の話にすり替わっています。風邪薬の話をしていたのですよ。これでは議論になっていないのですが、
あえて言います、ブドウ糖でも変わると思いますよ。変わる所に注目するのが科学です。そうした体の反応の違いが医療の対象なのですから、猫も同じという識別では、何の違いもない事になります。
ブドウ糖を細菌に与えた結果はどう評価されるのですか。栄養の話ならその類の比較になりますよ。栄養については医者の処方箋は要りません。薬の話ですよ。


>「<並みの医者は薬剤師より薬に詳しいのですか?
>そうです。知人の薬剤師よりも知人の医者の方が明らかに賢いです」

という返答ですが、
「並みの」医者という言葉遣いをされています。その医者がのレベルが並レベルという意味ですか。並みの医者ではなく、知り合いの医者というべきなのではありませんか。国語力は大事という言われていますが、理論物理学の知識よりも、日本語力の問題ではありませんか。
知人の比較で、私を納得させられるのですか。
質問者さんが勉強時間を説得に使われるので、私も真似をすると、医学部ではどれくらい薬学について勉強するのですか?薬学部の勉強は多岐にわたったとしても、講義内容は、まるまる薬学的だと考えてもいいでしょう。当たり前ですが、医学部は、限られた時間の中で、薬以外の膨大な知識を"覚えない"といけないのです。薬剤師と同等の体系的な薬学知識を得ようとしたら医学部が6年間で足りますか。医者には薬と縁の薄い人も少ないないでしょうが、薬剤師の方は全員、薬しかないのです。平均したらどうなりますか。そういう比較の時に「並」とか使うべきではないのですか。薬剤師や看護師の技術を医者であれば兼ねる事ができるという包含関係は間違いです。医者は医者としてかなり特化された業種のなのです。


>「単純にしすぎてもいけないとアインシュタインも言っています。」
そうなのですか。本当ですか。初耳です。勘違いではないのですか。ぜひ知りたいです。


「昔の自分を見ているようで懐かしく思えました。」先輩からこれ以上の言葉ありません。返すお礼の言葉も見つかりません。
「初心忘れるべからず」という有名な言葉がありますが、これは昔に帰れ(初心に帰れ)という意味ではなくて、文字通り、いくつになっても精進しなければならない芸道において、成長を目指す気持ちを忘れるなということだと思います。
知識よりも、留学よりも、そういう「型」に頭を使うのではなく、b-w-step さんの考え方を適宜、新たにされていくことが成長だと思います。成長がそういうものでなければ、知識を詰め込んだり、情報を得るだけで、誰でも偉くなってしまいます。むしろ宗教者などは知識よりも自分の考え方の転換を目指しているものと思います。質問者さんは考え方の見直しに関して精進不足だと思います。それでは、何時間読書しても、何時間実験しても、何も成長していないと思います。人間の思考の価値が何にあるかです。情報の照会や物性の定量にはないと思います。


(No.27)
>「その複雑さは犬より当然ヒトの方が要素も多く、条件も複雑なのでしょうが、本質に違いはないと思います。
 ヒトも犬も共通の祖先を持ち、共にそのモデルチェンジ版ですから。」

これが看護師とは違うのです(笑)本質的には原子ですよ(笑)人間の本質は、動物の本質とは違うのです。それが人間を語る前提なのです。分かりませんか?
本質的に前提を無視する思考癖なんですね。
昆虫は違うのか?猫にブドウ糖。獣医に心理学。恣意的だなあ(笑)

(No.27)
>「「犬の性格の専門書」なんてものはこの世にありませんから、とりあえずは犬の図鑑(ムックでも出ている)あたりでも読んで、あとは手当たり次第に読むしかないですね。というより犬の性格は犬に触れるのが一番ですが。」

これが正解なんじゃないの!ないんですよ(笑)トンデモ科学者の妄想の中だけで。

「犬の性格は犬に触れるのが一番」?

(No.26)
>「 その「知見」が単なる経験談で、理屈付けも曖昧だとやはり納得できない、ということになります。」

「犬の性格は犬に触れるのが一番」??それは科学じゃなくて各自の体験じゃないの?

>「 また、経験談は記憶に過ぎないので、それらのツッコミにきちんと答えることもできません。特に前半2つのツッコミに対する反論ができません。最期のツッコミに対しても主観でしか答えられません。」

終始、きちんと答えることのできない獣医師が言う事でしょうか。

獣医師は心理学カテか哲学カテへで活躍された方がいいと思いますよ。その衒学的な回答で人気が出ますよ。いやみじゃなく本当に。

(No.30)の回答では「ノミ」が跳梁跋扈していますが、内容は「ノミ」会レベルですよね。哲学カテの文章と同じ性格です。比喩で飛躍する人は文系へ。「ノミ」引き連れてね。


(No,30)
>「遺伝子が大きく違えば、「ウサギの彫り方」をしてもウサギの形にはならないのです。それが「ハスキーにレトリーバーの訓練をしても使い物になる犬にはならない」ということです。」

遺伝子が彫り方を決めるのに、「ウサギの彫り方」をしても、って、どういう事?「それが」理由になるんですか(笑)
詭弁です。また違うたとえでしょ。研究職の獣医師は、種と品種の区別もつけないのかね。


(No.30)
>「ただ、後天的影響については現在の犬からは読み取ることができませんが、遺伝的影響については現在の犬から過去の「ノミ」を読み取ることができます。」

教育したかどうか覚えておけない人が、「性格遺伝子」については読み取る事ができますか?(笑)
またまたここでも、先生の話は、逆なんじゃないの(笑)


議論が膨らむ是非よりも、本題から横道まで、終始、自分のまき散らかした発言への質問に答えることができない、そこに注目すべきではないかな。


質問者さん、文献と教科書について見解は、あなたが正しい。
一般書の問題点に関しても、あなたの見方が正しい。

(No.29)
>「同じ100時間を「利己的な遺伝子」に費やせば、この本で駆使されている「論理」は大部分マスターできるでしょう。まあ本人の頭脳にもよりますが。
> マスターできれば、その他の多くの事象について、ドーキンスに非常に近いレベルで議論することが可能になります。」

By Jagar獣医師。可能になっているでしょうか。

私がその回答を見る限り、本の内容を理解している人の発言とは思えない。というのも一般書「利己的遺伝子」の文脈を無視したような分裂気味の回答内容だからです。訳もなく遺伝子原理主義にかぶれているだけだろう。

結局、骨折した動物が動かない理由とか、怪我した動物が声をあげ"ない"話は、どうなったの。どこへ行ったのでしょう。説明に不備があるとかなどというケアレスミスではありませんよ。前後のつながり、全体と結論がおかしいのですからね。専門家を名乗る回答者の回答行為に関する根本的な問題です。

要するに、犬猫を扱う人と、人間を相手にする人とでは、責任感の強さが、月とスッポン、まるで違うのです。人を動物並みに軽く考えているのです。両者を平均的に考えていると言ってもいいかもしれません。他の常識的な感覚の人と、獣医師の価値判断を比較すると、人間の位置づけが低いのです。科学的ではありません。それこそチンパンジーとヒトの遺伝子を同じように考えている前提条件になります。実にちぐはぐな先生ですね。思考力は正直ですからね。
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この回答へのお礼

<納得させられない意見を先に出したのは質問者さんの方ですよ。
<獣医師と同じで、反論の理由を問う前に、言い出した人の説明はどうなんですか。
そうですね。自分自身の説明も非常にあらがあり、説得力に欠けると思います。そのような所をあなたに指摘していただけると私自身も成長できます。有難うございます。

<獣の医者などという言葉遊びは大人のすることではありません。実力勝負を重んじているはずの質問者<さんが、何ということもなく、職種の字面で決めていたら滅茶苦茶でしょう。
そうですね。少なくとも私は獣医という職業の教育課程についてしっかりとした知識を持たずに曖昧な前提で曖昧な結論を下していました。ここは私が間違えていました。教えてくださって有難うございました。そういう観点から見れば私が医者と獣医を同類とみなしたのは明らかに私の手落ちでした。言葉遊びはしないように気をつけたいと思います。

<まず風邪薬の話が栄養の話にすり替わっています。風邪薬の話をしていたのですよ。
確かにそうですね。ただ、栄養の話という例を出すことによって風邪薬他でも同様です。すり替わっているのではなく例を挙げて説明して、元の議題に利用しようという意図です。彼も私も一見『すり替わり』に見えるのは例示の意図があります。

<知人の比較で、私を納得させられるのですか。
そうですね。知人を使った比較は説得力に欠けます。ではこれではどうですか? 薬学部は

http://www3.plala.or.jp/atropine/hensa.html

によると下の偏差値は37です。一方、医学部は

http://daigaku.jyuken-goukaku.com/nyuushi-hensat …

によると偏差値は一番下でも61あります。こう書けば医学部生の方が全般的に勉強が出来る生徒が集まっているとは思いませんか? 入り口の偏差値にこれほどの差があるのならば、出口の偏差値にも大きな差があると考えるのはむしろ自然とは思いませんか? そう考えたときに薬への知識の量も医者の方が上回るのではないか、と考えるのもある意味では自然とは思いませんか?

<医学部ではどれくらい薬学について勉強するのですか?
学べば学ぶほど良いとされます。人の命を預かるのが医者の仕事ですから中途半端は許されません。下手をすると患者を薬で殺しかねないのが医者という仕事です。実際に患者を薬で殺してしまう医者もいます。一方、薬剤師は患者を薬で殺したことを私は聞いたことがありません。薬剤師は医者の処方した薬を調剤するのが仕事なので自分の仕事に対する真剣さに欠ける面があるかもしれません。また、私自身、ある医学系の学校の内情を聞いて驚きました。それは『定期試験の問題と回答を丸暗記』してテストに望むというものです。普段は勉強しません。テストでは大体30問くらい問題が出るそうなので、1人5問を担当します。6人でテストの問題と回答の組み合わせを集めて、テスト後には『問題と回答だけ』を丸暗記して追試験を通って単位を取るそうです。こういう状況を考えると、テストで良い点を取ったり、資格を持っていても、実力は分からないのではないでしょうか。丸暗記して通った人と様々な背景まですみずみまで通った人では実力は違いすぎるでしょう。薬学部にそういう人は私はいないと思いますが、医学部の生徒の方が平均すると勉強は出来るのではないか? と私は思ってしまいます。正直言って、私は医学部の内情は知りません。薬学部も同様です。しかし医者への嫌らしい質問の対応、薬剤師への嫌らしい質問への対応を考えた時、やはり『実力の差』には大きいものがあります。薬どころか一般教養(的な知識)さえも身についていない薬剤師が多くて驚いたのは事実ではあります。薬剤師の方々に本当に失礼で申し訳ないのですが。気にされた方がいらっしゃったら本当にすみません。薬剤師を貶めようという意図はないので悪しからず。誰にでも事情はあるものですから。

<医者には薬と縁の薄い人も少ないないでしょう
医者は薬を処方します。むしろ薬を処方しない・使わない医者はいるのでしょうか? と、いうよりも医者は沢山の薬を処方しないと経営が成り立たないものです。それで医者は無意味に薬を出す人が多いです。心臓外科あたりは薬と無縁と考えられそうですが、手術中の薬(強心剤)や手術後の処置も求められるので薬の知識は必要です。よって上の発言は正しくないと私は主張します。

<薬剤師や看護師の技術を医者であれば兼ねる事ができるという包含関係は間違いです。
そうですね。このあたりは私の認識が間違っていました。教えてくださって有難うございます。ただ、手元の看護大事典と医学大辞典を比べるとその内容量にあまりにも差があってそう考えてしまいました。

<医者は医者としてかなり特化された業種のなのです。
そうですね。

<そうなのですか。本当ですか。初耳です。勘違いではないのですか。ぜひ知りたいです。
http://hp.kutikomi.net/dream_illusion/?n=page44
上のホームページにアインシュタインの名言録が載っています。とても良い言葉ばかりです。

<「初心忘れるべからず」という有名な言葉がありますが、これは昔に帰れ(初心に帰れ)という意味で<はなくて、文字通り、いくつになっても精進しなければならない芸道において、成長を目指す気持ちを<忘れるなということだと思います。
言われてみて身にしみました。叱咤激励をしてくださって嬉しく思います。

<b-w-step さんの考え方を適宜、新たにされていくことが成長だと思います。
そうですね。名言を有難うございます。知識をいかに使うかが大事だと思います。その成長のきっかけが知識であると私は解釈しています。

<知識を詰め込んだり、情報を得るだけで、誰でも偉くなってしまいます。
私は現代人は偉いと思いますが……。私の世代よりも多くの情報を得ているあなた達の世代の方がこのやりとりで常識的・論理的に物事を述べています。知識が沢山あるあなた方の世代の方が私は偉いと思います。よって私は上の言葉はある程度正しいと思いますが、あなたはどう思いますか? 上の世代は実際はそれ程立派ではありません。あなた方の方が私は偉いと思います。

<むしろ宗教者などは知識よりも自分の考え方の転換を目指しているものと思います。
知識があるから転換の方法も沢山見えるという事実もあります。知識とは道具です。知識という道具や出来事というきっかけが無ければ考え方の転換も出来ないと私は思ってしまうのですが……。また、ある出来事があったときの伸びしろは知識という根っこが多いほど増大すると思いますが、あなたはどう思いますか? 私の考え方は『知識原理主義』という面もあるかもしれませんが。

<質問者さんは考え方の見直しに関して精進不足だと思います。それでは、何時間読書しても、何時間実<験しても、何も成長していないと思います。人間の思考の価値が何にあるかです。
成長しているとは思います。あなたとのやりとりを通して少しずつ成長しているとは思いませんか? 私は最初は相手の意見を鵜呑みにして『仰るとおり』を連発していた困ったさんでしたが、少しずつ他の方々の意見を噛み砕いて持論を述べるようになっています。これも成長とは思いませんか? よって私が何も成長していないというあなたの考えは正しくないと私は主張します。

<遺伝子が彫り方を決めるのに
とは彼は思っていないそうです。遺伝子はあくまでも彫られる『原型』だそうです。よって遺伝子が彫り方を決めているわけではないようです。彼の文章はわかりづらいといえば分かりづらいのかもしれません。

<By Jagar獣医師。可能になっているでしょうか。
相田みつをの詩にあります。『葉を支える枝。枝を支える幹。幹を支える根。根は見えない。』学問も同じで、根を広げることが大事です。それは無駄な物事も学ぶということです。利己的な遺伝子は葉でしかないので、根が育たずに、議論できる論理は浅いものになってしまうと私は思います。日本語を語るには英語や中国語まで学んで初めて深い議論が出来るようになると私は思っています。学問では根が大事です。利己的な遺伝子の一冊では広々とした根が育たないのではないでしょうか。

<訳もなく遺伝子原理主義にかぶれているだけだろう。
本当に遺伝子主義が正しければ私やあなたをも納得させるほどに説明でいなければいけないでしょう。不完全な理論ならばやはり納得しない人がいるものです。

<要するに、犬猫を扱う人と、人間を相手にする人とでは、責任感の強さが、月とスッポン、まるで違う<のです。人を動物並みに軽く考えているのです。
獣医師というのは動物を擬人化する傾向はあるのかもしれません。

ところでしみじみ思うのですが、あなたは本当に賢い方です。自信を持ってください。あなたは私に勉強方を聞ましたが、むしろ私があなたに勉強方を聞きたい位です。今回も色々と教えてくださって本当に有難うございました。あなたのその鋭い意見が非常に私の成長の手助けとなっています。深く深く感謝を申し上げます。本当に感謝しています。

お礼日時:2011/06/23 12:15

 Jagar39です。

続きです。

>例えば虐待的な指導を受けたことによる子孫誕生、子孫飼育への影響

 それは、集団と世代数が十分大きければ、平均すればどの系統も同等、と見なせます。事実、等しいでしょう。

 塊とノミの例えで言えば、軍用犬にするには「軍用犬の彫り方」があり、レトリーバーにするには「レトリーバーの彫り方」があります。すなわち「訓練のやり方」です。
 それを「ウサギの彫り方」と言い換えましょう。
 遺伝子が大きく違えば、「ウサギの彫り方」をしてもウサギの形にはならないのです。それが「ハスキーにレトリーバーの訓練をしても使い物になる犬にはならない」ということです。

 虐待が子孫に与える影響、というのは何のことなのでしょう?母犬が子犬に与える教育的効果のことですか?
 虐待によってその犬が子供を産めなければその系統はそこで途絶え、現存していないことになるのでここで私たちの議論の対象になることはありません。また、子犬に対して「ヒトは嫌な動物だ」という教育的効果を与え、それが子犬に影響して訓練に付いてこない犬になれば、その系統も人為淘汰されて現存しないので、やはりここで議論に対象になることはありません。

 私が言っているのは、レトリーバーをヒトが作り上げた、というのは、言い換えれば「レトリーバーとしての訓練に高確率でついてこれる集団を人為淘汰によって作り上げた」ということです。ついてこなかった犬は淘汰されたから現在の犬種があるのです。ついてこれなかった理由には、必要な遺伝子を持ってなかったこともあるでしょうし、訓練が下手だった、何か事故があった、などの後天的影響もあるでしょう。

 ただ、後天的影響については現在の犬からは読み取ることができませんが、遺伝的影響については現在の犬から過去の「ノミ」を読み取ることができます。
 過去から現在に至るまで、概ね同じようなノミの使い方をされて、そのノミの使い方でウサギの形にならなかった個体は淘汰されてきたのです。それが人為淘汰であり、育種ですから。
 で、自然淘汰も本質的には同じなのです。ある一定のノミの使い方をして、それで望ましい形にならかった個体は淘汰された、という意味で。

>遺伝は動物界だけの事柄を用いて議論しても信頼性に欠けてしまうのではないでしょうか

 少なくともここで課題にしている「性格」というものを持つのは動物界の生物だけですから。
 また、犬は動物界全体でみると、ヒトとはごくごく近い生物です。

>失語症は遺伝子だけが原因ではありません

 それも承知の上です。
 問題にしているのは、「言語に遺伝が関係ある」ということであって、「言語には遺伝子か関係しない」ではありませんから。

>頭蓋骨の形や骨格は人とチンパンジーではだいぶ違います

 骨格で会話するわけではありませんから。咽喉頭近辺の構造は「発話」には影響しますが。
 まあそれに、頭蓋骨の形や骨格はそれこそ「遺伝子」にょって決まっているので、もしそれが会話の成否の原因なのであれば、「言語は遺伝でほぼ決まる」という結論を導きかねないですよ。
 まあこれは余談でした。

>私は中学に入ってから英語を学んでいますが

 日本語を駆使できるようになってから英語を学ぶのと、何も知らない無地の状態から言語を学ぶのでは、大きく意味が異なります。
 それと質問者さんが挙げた例の中にあまり適切でないものがあります。
 極道になってから立ち直ったなどというのは、生物学的にはほとんど意味がありません。これはヒト社会の中の特定のグループの中の一時的な価値観から判定されているだけのことなので。

 2カ国語できようが津軽弁しか話せなかろうが、ここで議論している生物学的な問題にはさして違いはありません。
 「言葉を操れない」のは生物学的にヒトとしてかなり重大な「不利」を抱えることになります。そういうプリミティブな話です。
 言語も音楽も、どこかでスイッチが入っていれば習得そのものは後になってもできるのですが、そのスイッチは限られた時期にしか入らない、ということです。少なくとも言語ではそうらしいです。
 質問者さんの言う「才能」とはまた少し違う話なのですよ。
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この回答へのお礼

Jagar39です。続きです。

<それは、集団と世代数が十分大きければ、平均すればどの系統も同等、と見なせます。
<事実、等しいでしょう。
チワワなどの愛玩系の品種と怖い系の品種に対する飼育方法は変わると思ってしまいます。

<過去から現在に至るまで、概ね同じようなノミの使い方をされて、
<そのノミの使い方でウサギの形にならなかった個体は淘汰されてきたのです。
<それが人為淘汰であり、育種ですから。
同じノミとは限らないと思います。犬への飼育方法も時代によって違ったはずです。たとえば人間でも昔は4,5歳になれば大人と同じように鉱山で働かされました。現代の常識では測れない飼育方法が普通に成される可能性もあると思います。このあたりはあなたの方がよほど多くのことを知っていると思いますが……。

<少なくともここで課題にしている「性格」というものを持つのは動物界の生物だけですから。
そうとは限らないのでは? 植物でもクラシックを聴かせると生育が良くなるという情報がありました。また、性格ひとつとっても動物界だけを見るのは視点が狭い気もします。性格というものが進化の途中でどこから獲得したか。動物はどこから始まったか。地球の環境変化と生物進化の関連。そこまで考えることが大事かと思います。だからこそ少しでも多くの情報を持つことが大事と私は考えています。繰り返しますが、パソコンや本が参照できない時、頼れるのは自分の脳内の情報だけです。

<また、犬は動物界全体でみると、ヒトとはごくごく近い生物です。
動物界でみるならばそうですね。哺乳類同士ということで。

<まあそれに、頭蓋骨の形や骨格はそれこそ「遺伝子」にょって決まっているので、
遺伝子が全てではないようです。たとえば一卵性双生児でも指紋は違います。親知らずなどを抜く時には頭蓋骨を削ることもあります。

<もしそれが会話の成否の原因なのであれば、
それが会話の成否の原因とは私は意図してなかったのですが……。

<まあこれは余談でした。
わざわざ余談まで有難うございます。

<日本語を駆使できるようになってから英語を学ぶのと、
<何も知らない無地の状態から言語を学ぶのでは、大きく意味が異なります。
そうですね。

<それと質問者さんが挙げた例の中にあまり適切でないものがあります。
<極道になってから立ち直ったなどというのは、生物学的にはほとんど意味がありません。
これは生後の環境によって性格がいくらでも変わる、という例をあげただけです。刺青クリスチャンは性格の変わりようが凄かったので。

<言語も音楽も、どこかでスイッチが入っていれば習得そのものは後になってもできるのですが、
<そのスイッチは限られた時期にしか入らない、ということです。少なくとも言語ではそうらしいです。
これは恐らくはそうなのでしょうね。ただ、バイオリンの演奏ではそのような限られたスイッチはないのでしょう。

割と反論ばかりして申し訳ないです。辛抱強く教えてくださって有難うございました。

お礼日時:2011/06/28 06:23

 まあ確かに遠くに行っちゃってますよね。

なかなか思い通りにはいかないもんです。

>手元にあるキャンベル・ファーレル生化学でも原著では15人ほどが信頼性を高めるように努力した旨が載っています

 高価な専門書が最大限正確性を高める努力をしているのはある意味当然です。これらの本は「辞典」のような使い方をされるので、正確性が欠ければ何の価値もありませんから。
 ただ、やはり扱う範囲が広すぎるのでそれでも少ないです。「生化学」という膨大な領域をたった15人でチェックしているのであれば、1人1人はやはり自分の真の専門分野でない領域も担当せざるを得ませんから。

 相対的に一般書より高価な専門書の方が記述の正確度が高いのは当然で、私もそれを否定するものではありませんが、それでも専門書が「絶対的」だというわけではない、ということだけを言いたかったわけです。

 まして科学は「知識ではなく論理」です。

 それに隔年で改訂される本を、改訂毎に購入できるわけもないでしょう?まさか買ってるんですか?

>実は私は人間生き字引を目指しています

 まあ人それぞれですから敢えて止めはしませんが・・・
 人類がこれまでに得てきた膨大な知識は、それぞれがみな莫大な議論と時間を経て得られたものです。
 その結果としての「知識」だけをどれだけ詰め込んでも、人類の知識全てを詰め込むことはできませんし、そもそも人間が知識を詰め込む速度より新たな知識が生まれる速度の方が速いですから、虚しいいたちごっこだと思うのですが?
 既知の知識を詰め込むより、未知の領域を探求する方が面白いと思うのですが。
 未知の探求は論理性が何より重要なので(でないと迷路に迷い込むだけの結果に終わります)、高価な専門書が必要ないと言うわけではありませんが、それに書かれている知識をひたすら詰め込むだけでは、人生がもったいない、と思います。
 犬の例でも書いたとおり、日常生活の横にも「未知」はいくらでも転がっていて、そこから新たな知識を引き出す機会は誰にでもあるのですから。

>同じ3時間ではありません

 3時間という数字そのものには何かの意味があって書いたのではありません。
 ハリソン内科学の3000ページを読むのに100時間かかるのなら100時間でけっこうです。
 同じ100時間を「利己的な遺伝子」に費やせば、この本で駆使されている「論理」は大部分マスターできるでしょう。まあ本人の頭脳にもよりますが。
 マスターできれば、その他の多くの事象について、ドーキンスに非常に近いレベルで議論することが可能になります。ここで初めて「辞典」が生きるのです。
 「利己的な遺伝子」を速読で読んでも何の意味もありません。この本に書かれているのは「知識」ではなく「論理」ですから、1時間ほどかけて何度も読み返してようやく理解できる1ページもあるわけです。

 100時間で揃えるなら、ドーキンスに100時間みっちり集中講義を受けるか、50人が入れ替わり立ち替わり現れて2時間ずつの講義を聴くか、の違いです。その50人それぞれに、100時間みっちり講義を受ける価値がある世界を持っているのです。

>逆に薬も死や不可逆的な後遺症を残す場合も多いのです。

 だかに確率の問題なのです。
 発熱を放置して重篤化するリスク、薬を投与して重大な副作用が出るリスクをそれぞれのケースで天秤にかけて判断しなければならないわけです。
 発熱の程度、経過、原因、投与する薬剤によってそれらのリスクが変動します。特に「原因」は診察している時点では確定的ではありませんから(死後解剖して様々な検査をすれば多くの場合はほぼ確定できますが)、原因もある一定の幅を持った推察に過ぎないわけです。
 それらの総合判断なので、「一般論」では論じることができない、と言っているのです。

>学会は入らない主義です

 それは何故なのでしょう?
 英語の本でも本質は変わりませんよ。そもそも質問者さんが座右の書として挙げておられる本の多くが洋書の訳書ですよね。

>知人の医者は私が専門書と定義しているギャノング生理学を教科書として渡されたそうです

 これは「反例」ではないのでは?
 医者は少なくともそのような(論理を駆使する)「訓練」を受けている人種です。つまり「骨の髄まで染みこんでいる人」ということです。少なくとも定義的には。実際にはそうでない人も大勢いますが。
 でも、「専門書」は、そのような人が教科書として使う、言い換えれば辞典として使うには、とても有益ですよ。

>動かなくなった後に他の生物に襲われたり感染症で亡くなったり、腐敗したりして原型を留めなくなったり、跡形もなく消え去れば観察しなくても永遠に動かないと理解できるでしょう。これは反例です。

 ちなみにこれは「反例」ではなく「反論」というべきでしょう。「例」というのは単なる事実であり、質問者さんのこの文には「理解できるでしょう」という「推測」が含まれているからです。
 細かなことのようですが、「科学の議論」にはそれが大切です。反例を挙げているつもりで単なる反論をしているだけだと、「事実を基に推測を積み上げている」つもりなのが、「推測を基に推測を積み上げる」ことになってしまいますから。
 推測の上に推測を積み上げることが禁止されているわけではなく、実際によくあることなのですが、論じる本人はそれらを混同してはなりません。

 で、反論ですが、原形を留めなくなったり跡形もなく消え去ることは、「永遠に動かない」ことを理解させる決め手にはなりません。むしろ「どこかで動いている(生きている)」ことを連想させる助けにさえなりかねません。(だから人類はそのような死生観を発達させることができた)
 もし死体が腐らず、永遠にそのまま存在し続けるのであれば、人類はもう少し違った死生観と宗教を持っていたかも知れませんね。
 「死ぬと死体は腐敗していずれ跡形もなくなる」というのは、人類がその「知能」で知るに至ったことです。「動かない」ことと「腐敗する」ことの間には知能が低くても理解できる因果関係はありませんから、ヒト以外の動物に死体が消失するのは腐敗のためだ、ということを理解できるとは思えません。
 また、動かなくなった者がやがて消失する、ということと「その者は永遠に動かない」というこも、何の説明もなしに直接結びつけることができる因果関係ではないでしょう。

 ましてそれが「いずれ自分も含めて全ての者に訪れる」ことをどうやって理解します?
 またそれが自分にとってどういうことなのか、そこまで知って初めて「死を理解した」と言えるのでは。少なくとも「受け入れるか否か」という意味では。
 ヒトもそれ(死とは自分にとって何なのか)をなかなか理解できない、または理解はできても受け入れ難いから、宗教を発明したのではないでしょうか。

>査読が入ってさえ間違っていたという学術論文は幾らでもあります

 それは当たり前、というか、私が書いたのは「最低限の客観性」が保証される、ということであって、正しいか否か、ではありません。
 査読については、私もある学会誌の編集委員(常設の査読者)を受けているので知ってますよ。

 

この回答への補足

補足欄ですみません。

http://www.amazon.com/Selfish-Gene-Anniversary-I …

http://www.amazon.com/Selfish-Gene-Anniversary-I …

で利己的な遺伝子の反論が出ています。これについてあなたはどうお考えですか? 私自身、利己的な遺伝子だけに限らず現代科学で前提として用いられている様々な事柄が本当に正しいのかを考えてしまいます。現代は学歴や学問を階層制度の正当化の手段として用いている印象があります。学問は為政者によって都合の良いものが民衆には教えられています。利己的な遺伝子が絶対的に正しいということはあると思いますか? 利己的な遺伝子がソクラテスの無知の知を覆せるほどの説得力を持っているとあなたは思いますか?
こういうことを書くのは失礼に当たるかと思いますが、一応、このあたりも考慮に入れてみるとあなたの人生がより豊かになるかもしれません。すみませんでした。そして読んでくださって誠に有難うございました。

補足日時:2011/06/26 17:34
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この回答へのお礼

<これらの本は「辞典」のような使い方をされるので、正確性が欠ければ何の価値もありませんから。
何の価値も無い、は極論ではありませんか? 標準生理学を教科書として使う学校も多いのです。私がここで専門書と定義した書物は世界中の学校でも使われています。東大の工学部での指定教科書も矢張り専門的な洋書でした。医師国家試験は高価な本を辞書的に使うような甘い勉強法では通らないはずです。それとも、そういう本を『辞典として使う』甘い勉強法がはびこっているのですか? 昔は英和辞典まるまる1冊頭に叩き込むという勉強法がありました。それをやり遂げた人は多かったものです。逆に言うと今では1万円もする様な本を辞典としてしか使わないのですか? 学習態度としては甘くないですか? お金も勿体なくないですか? 和田アキ子氏ですら国語辞典を最初から最後まで通読したそうです。日本人の勤勉性が下がっているのでしょうか。

<ただ、やはり扱う範囲が広すぎるのでそれでも少ないです。「生化学」という膨大な領域をたった15人でチェックしているのであれば、
ここで不思議なのは生化学は膨大なのか、ということです。私が持っている生化学書は大体が1万円クラスですが、私は膨大な領域とは思っていません。あのような本は丁寧に記述しているだけです。少なくとも全書物をすみからすみまで学ぶ私からすると膨大とは思えません。同様に英英辞典を隅から隅まで読み込む私からすると英語も簡単な言語と思えます。中国語も同様です。ハングルも。フランス語やイタリア語なども英語と関連性があって(どれもラテン語から大きな影響を受けたから当然ですが)割とすぐに覚えられます。生化学という科目1つが膨大ならば、5つの言語をネイティブ並に使いこなすナタリー・ポートマンはどうなってしまうのでしょうか?

<相対的に一般書より高価な専門書の方が記述の正確度が高いのは当然で、私もそれを否定するものでは<ありませんが、それでも専門書が「絶対的」だというわけではない、ということだけを言いたかったわ<けです。
そうですね。絶対的な本は無い気がします。

<まして科学は「知識ではなく論理」です。
科学的な態度は知識よりも論理というのは頷ける面もあります。

<それに隔年で改訂される本を、改訂毎に購入できるわけもないでしょう?まさか買ってるんですか?
改訂されても購入せずに図書館で見ると言う手があります。

<人類がこれまでに得てきた膨大な知識は、それぞれがみな莫大な議論と時間を経て得られたものです。
そうですね。一方で知識というのはあなたが思うほどに多くはないのも事実です。たとえば英語ならば接辞を完全にして大学入試レベルの英単語(1万語くらいかと思います)を完璧にすれば洋書を大体は読めるようになります。少なくとも私は読めました。また、歴史には法則があります。年号などを丸暗記せずとも、歴史の流れを熟知すれば自然と年号なども出てきます。知識を得ると言うのは馬鹿正直に枝葉末節まで覚えるのではなく、法則を理解して効率よく覚えることです。それが出来るならば一見膨大に見える知識はどんどん少なく見えてくるものです。これも一種の論理でしょうか。

<人類の知識全てを詰め込むことはできませんし
知識の背後にあるパターンを覚えてしまえば大体の見通しはつくようになります。

<人間が知識を詰め込む速度より新たな知識が生まれる速度の方が速いですから、虚しいいたちごっこだと思うのですが?
そうでもありません。たとえば小説や音楽などの芸術のパターンは大体決まっています。全ての小説を読まずとも小説のとりうる全ての可能性は想像できます。そうなるように学ぶことが勉強です。同様に他人の人生のパターンも人生経験を詰めば幾らでも読めるようになります。絵画や音楽なども私はそう考えます。応用を利かせればいたちごっこになりませんし、そういう勉強をするのが私の主義です。まさか大学入試の数学で枝葉末節まで覚えるわけではないでしょう。大切なのはパターンです。

<既知の知識を詰め込むより、未知の領域を探求する方が面白いと思うのですが。
世間一般では既知でも自分にとっては未知の領域は幾らでもあるものです。私にとって勉強は未知の領域の探求です。日本語による知識の探求が終わったらそれを英語でやればよいのです。それが終わったら中国語。次はアラビア語。私はそれで充分未知の領域を探求して面白いと思います。新しい言語を学べば外国人とも交流が出来るようになって楽しみも増えます。

<それに書かれている知識をひたすら詰め込むだけでは、人生がもったいない、と思います。
知識の詰め込みも未知の探求と私は考えています。逆にあなたは専門書の全ての内容を熟知していますか? 自分の知らない情報を知ることは未知の探求とは思いませんか? 日本語で読んだ専門書を英語で書けますか? 中国語に翻訳できますか? 色々な言語を学べば世界が広がります。様々な人間と交流できます。人生の楽しみも増えます。生まれて初めて外人と英語で話した感動は私は今でも忘れられません。そのような感動をいくつも得られるので知識の詰め込みは楽しいと思います。

<同じ100時間を「利己的な遺伝子」に費やせば、この本で駆使されている「論理」は大部分マスターできるでしょう。まあ本人の頭脳にもよりますが。
<マスターできれば、その他の多くの事象について、ドーキンスに非常に近いレベルで議論することが可能になります。ここで初めて「辞典」が生きるのです。
学問と言うのは根が大事です。議論するにも知識と言う情報が無いならば話す内容が生まれてこないものです。利己的な遺伝子という本は葉に過ぎません。葉を支える枝。枝を支える幹。幹を支える根。全てが揃って始めて幅広く議論することが出来ます。利己的な遺伝子という本だけで果たしてその根が養えるでしょうか? それだけを読んだ小学生がドーキンスと非常に近いレベルで議論できますか? あなたが利己的な遺伝子という事柄の正当性を議論するうえで、利己的な遺伝子という本以外の情報を使わないのですか? ここで使っていますよね。ドーキンス氏も利己的な遺伝子に書いてある以外のことを多大に知っています。だからこそ利己的な遺伝子という本を書けるのです。まさかドーキンス氏が利己的な遺伝子という本だけで勉強してはいないでしょう。彼の『論理』はマスター出来ても彼と同様のレベルで議論するには知識が足りません。実際に私が薬剤師や医者に嫌らしい質問しても彼らはほぼ答えられません。議論するには前提として知識も必要です。医者や薬剤師が論理を叩き込まれていても、私が嫌らしい質問をした人達は答えに窮して論理どころではありませんでした。よって論理だけでは議論は出来ません。本当は学部レベルの知識でも充分に答えられる質問ばかりだったのですが。

<100時間で揃えるなら、ドーキンスに100時間みっちり集中講義を受けるか、50人が入れ替わり立ち替<わり現れて2時間ずつの講義を聴くか、の違いです。
<その50人それぞれに、100時間みっちり講義を受<ける価値がある世界を持っているのです。
ドーキンス氏の持っている引き出しは他の方々よりも少ないでしょう。100時間も語り続けることをドーキンス氏が持っているか、ということです。逆にあなたは100時間も講義できることをお持ちですか? 私は持っていません。逆に50人の2時間ずつの講義なら話が尽きないでしょう。それぞれ専門が違うのなら、それぞれの専門の話をしてもらえば効率も良いものです。100時間かけて語るべきことを2時間に要約する。本当に実力があるのならばそれも出来ますし、それをするのがプロです。私も100時間かける人生論を2時間で終えることは出来ます。

<英語の本でも本質は変わりませんよ。
本質が変わらなかったら入らなくても良いと思います。

<ヒト以外の動物に死体が消失するのは腐敗のためだ、ということを理解できるとは思えません。
動かなくなって、少しずつ腐敗臭が漂ってきます。死体が消失する前に腐敗することに気付くとは思います。腐敗に気付くからハエがたかるのです。

<また、動かなくなった者がやがて消失する、ということと「その者は永遠に動かない」というこも、何の説明もなしに直接結びつけることができる因果関係ではないでしょう。
そうですね。このあたりの論理構成は甘かったと思います。指摘してくださって有難うございます。

<ましてそれが「いずれ自分も含めて全ての者に訪れる」ことをどうやって理解します?
<またそれが自分にとってどういうことなのか、そこまで知って初めて「死を理解した」と言えるので
<は。少なくとも「受け入れるか否か」という意味では。
<ヒトもそれ(死とは自分にとって何なのか)をなかなか理解できない、または理解はできても受け入れ<難いから、宗教を発明したのではないでしょうか。
では
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
についてあなたはどう考えますか?

追伸:カプラン臨床精神医学の151ページに『犬の研究において,ひどい折檻や虐待が愛着行動を増すことが示された.』という記述があります。これは利己的な遺伝子からいくとどの様な意味を持ちますか?

割と過激な内容や文面ですみませんでした。読んでくださって有難うございました。

お礼日時:2011/06/23 18:25

mrsamama です。

19の「お礼」の中に疑問府があったので。
全部読んでないけど、なんかすごい激論になってるので、
違う話を書くのもどうかと思ったのですが。


>と、いうことは利己的な遺伝子という前提はねずみには当て嵌まらないのですか? 利己的な遺伝子では少しでも子孫を増やそうとします。上の回答ではげっ歯類は利己的でない気がしてならないのですが……。


いいえ。利己はネズミにも当然あります。
このネズミはレミング。ネズミ算の名に恥じないくらい、猛烈に増殖します。

利己が成立するのは、「ある一定の条件下」、科学でよく使うやつですね。
レミングの生息地は競合相手も少なく、食べ物が不足していることもありません。
生殖行為は負担が大きいので、増殖を抑える方法は昆虫のような「産卵数の低下」
という解決方法だってあるし、その方が効率的です。

にもかかわらず、こういう行為をするのだとしたら、それは彼らの「倫理観」
という風に考えることも、一つの解釈だよ、ということを書きました。

どんなに繁殖地が広くて食料が豊富であっても、
最終的には宇宙空間の閉鎖環境で、逃げ場はないわけです。
その限定区域をすべての生物が共有しているのだとしたら、
地上がレミングで埋まってしまってはならない、―――「倫理観」。
突飛な解釈だと思われるでしょうけどね、
ネズミごときであっても、「周囲への申し訳」を心得ているということです。
利己的な増殖は、あくまでもこの一回り大きな大原則に抵触しない範囲で働く。
世界規模の視野を、ネズミは持っている…と思います。

利己的増殖ひとつに目を向けて、その枠の中で解釈を試みても、
それをとりまく、もっとずっと大きな環境が、大原則をもっているので、
確立された利他行動とか遺伝子継承というルールは、その大枠に制限される、ということです。
ヒトはそういう大枠を見失いがちなのに、ネズミはちゃんとわかっている、
というところをお伝えしたかったのです。


シアノバクテリア(というよりも、酸化された鉄、でしょうかね)は
きちんと確かめてませんが、確か4億年くらいのところで見つかったと記憶しています。
何でもくっついて酸化してしまう、やっかいな酸素が必要だったのでしょうね。
無機質だけの星はいくらでもありますけど、ここでは無機質より有機体を優先したのでしょう。
(私は、成り行きが必然的に生物を産んだと考えてはいないので、
このあたり、ちょっと引っかかるかもしれませんが…
ある種の歪み(?、バイアス?意図?)を可能性として考えた場合です。)
たとえ無機物が酸化されても、有機物を生かしたかった、というのはどうでしょうね?
太陽エネルギーをデンプンに蓄える光合成の産物(酸素)は、
巡って、デンプンからエネルギーを取り出す「TCA回路」の触媒(?)になるわけです。
光合成とTCA回路は二つセットだし、これは並大抵の設計力や想像力じゃ作れないものですよ。
これを以って、始めて「動物」が可能になる―――ま、危ないパラノイアと思ってください。
DNAポリメラーゼの存在の不可解とか、科学が答えていない課題はたくさんありますが、
これでスッキリ説明できちゃう、と私は思っています。神と呼ぼうが、なんと呼ぼうが。


あなたが書かれている通り、医学生はある言葉を叩き込まれます。
「医学に、『必ず』は絶対にない」という言葉です。
****が起こったら、それは△△△によるものだ、という断言はしてはならない。
科学をよく知り、なおかつ「現実」をもっと目の当たりにしてきた医者は、
「必ずこうである」ということを口にはしないのです。


またまた議論の腰を折ってしまい、ごめんなさい。
本に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
最終的にタイトルをどうしようか、というところなので、決まればお知らせできます。

議論が、すごく遠くどっかに行っちゃってる気がするので、しばらくは傍観してます。
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この回答へのお礼

<mrsamama です。19の「お礼」の中に疑問府があったので。
<全部読んでないけど、なんかすごい激論になってるので、
<違う話を書くのもどうかと思ったのですが。
新しい風が吹き込まれて良いと思います。勇気を持って回答してくださって有難うございます。

<利己が成立するのは、「ある一定の条件下」、科学でよく使うやつですね。
そうなのですか。どのような条件化においても利己が成立するのかと思っていました。勉強になりました。有難うございます。

<倫理観」。
<突飛な解釈だと思われるでしょうけどね、
<ネズミごときであっても、「周囲への申し訳」を心得ているということです。
そうなのですか。ネズミでも申し訳なさを感じるのは興味深いと思います。

<利己的な増殖は、あくまでもこの一回り大きな大原則に抵触しない範囲で働く。
<世界規模の視野を、ネズミは持っている…と思います。
<利己的増殖ひとつに目を向けて、その枠の中で解釈を試みても、
<それをとりまく、もっとずっと大きな環境が、大原則をもっているので、
<確立された利他行動とか遺伝子継承というルールは、その大枠に制限される、ということです。
<ヒトはそういう大枠を見失いがちなのに、ネズミはちゃんとわかっている、
<というところをお伝えしたかったのです。
そういうことだったのですか。私はヒトも倫理観を持っていると思いますが、現代ではあまりにも急激に物質文明が発達した為に道具を使いこなせていないと感じています。急激な発達の為に現代人は道具に使われている面も否定できません。たびたび出てくる斬新な道具に夢中になるがゆえに倫理を失ってしまったのが現代人の姿だと私は思います。20年前は大人でも携帯電話もパソコンも持っていませんでした。それが今では誰もが携帯電話を持ち、インターネットに接続しています。ここまで時代の変化が早いとは思っても見ませんでした。ルソーではありませんが、自然に帰れば人間も倫理的には恵まれた生物ではないでしょうか。逆にメズミは倫理や大枠を失うようなものを持っていない気もします。それで野生生物は失礼な言い方をすれば大枠を見失いようが無い、と。人間は獣にも堕ちることもできるし、素晴らしい存在になることも出来る、ともある本に書いてあったことを思い出します。

<シアノバクテリア(というよりも、酸化された鉄、でしょうかね)は
シアノバクテリアを植物の祖先のように書いている本を読みました。

<きちんと確かめてませんが、確か4億年くらいのところで見つかったと記憶しています。
今から27億年前頃に見つかったそうです。その頃は丁度火山活動などに変化があってシアノバクテリアなどの光合成生物が誕生したそうです。

<何でもくっついて酸化してしまう、やっかいな酸素が必要だったのでしょうね。
<無機質だけの星はいくらでもありますけど、ここでは無機質より有機体を優先したのでしょう。
<(私は、成り行きが必然的に生物を産んだと考えてはいないので、
<このあたり、ちょっと引っかかるかもしれませんが…
<ある種の歪み(?、バイアス?意図?)を可能性として考えた場合です。)
私もただ単純に偶然だけで宇宙や地球の変化が起こっているとは思えないのです。カプラン臨床精神医学での臨死体験の記述(Wikiの臨死体験の項と大体同じです)を見ると超自然的な何かの存在をどうしても感じてしまいます。こういう宗教的な話はどうも後ろめたさを感じてしまうのですが。

<たとえ無機物が酸化されても、有機物を生かしたかった、というのはどうでしょうね?
無機物は生物ではないので、生命を育みたかった、とも解釈できます。そのための利己的な遺伝子。もっといえばこの世は『可能性の拡張のための場』の可能性という気すらします。

<太陽エネルギーをデンプンに蓄える光合成の産物(酸素)は、
<巡って、デンプンからエネルギーを取り出す「TCA回路」の触媒(?)になるわけです。
<光合成とTCA回路は二つセットだし、これは並大抵の設計力や想像力じゃ作れないものですよ。
<これを以って、始めて「動物」が可能になる―――ま、危ないパラノイアと思ってください。
私自身のお礼の内容がパラノイアに近いので私もだいぶ危ない気もします。

<DNAポリメラーゼの存在の不可解とか、科学が答えていない課題はたくさんありますが、
<これでスッキリ説明できちゃう、と私は思っています。神と呼ぼうが、なんと呼ぼうが。
NATUREでも学術論文の内容を見ると意外と基本的な内容が合ったりします。逆に言えば基本的に思える内容ですら科学では分かっていないのかもしれません。そこでそういう概念を出せばスッキリと説明できるのは確かだと思います。

<あなたが書かれている通り、医学生はある言葉を叩き込まれます。
<「医学に、『必ず』は絶対にない」という言葉です。
<****が起こったら、それは△△△によるものだ、という断言はしてはならない。
<科学をよく知り、なおかつ「現実」をもっと目の当たりにしてきた医者は、
<「必ずこうである」ということを口にはしないのです。
そうなのですか。絶対を想定しないことで常に謙虚であることを医者は自分に課している、ということですね。断言を避けることは私も大事だとは思います。断言したいとき(子供に勉強しなさいという時)などは相手に納得が行くように説明しています。子供に勉強をしろではなく、勉強しないでサボる人生、自堕落な人生は後でどれほど恐ろしいのかを徹底して話します。すると子供は勉強するものです。

<またまた議論の腰を折ってしまい、ごめんなさい。
こちらこそ脱線しました。すみませんでした。

<本に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
<最終的にタイトルをどうしようか、というところなので、決まればお知らせできます。
決まったら知らせていただけると嬉しいです。

<議論が、すごく遠くどっかに行っちゃってる気がするので、しばらくは傍観してます。
予定は未定。確定に非ずという言葉があります。何事も計画通りはいかないものです。議論が遠くに行って初めて気付いたことも色々あります。

再び回答してくださって誠に有難うございました。また色々と勉強になりました。

お礼日時:2011/06/22 16:33

 Jagar39です。


 議論が膨らむと書く分量が多くなってしまって辛いですね。そろそろ絞るか原点に戻りたいと思うようになってきたところです。

>経験談が証拠にならないのならば、殆どの症例も証拠にならないでしょう

 医者が書く症例報告は、少なくとも「事象を客観的に記述する」訓練を受けている人が書くモノです。
 また、それが掲載される際には査読も入りますので、最低限の客観性は確保されていることは、まあ保証されています。
 横井さんの本が報告書としての意味があっても、それは「横井さんの主観」を排除する性質のモノではないでしょう。そのような凄絶な体験をした人の精神状態や行動を伝えることに意味があるので、むしろ主観で書くのが当然の本です。
 本人が霊を見たと信じているのなら、別にツッコミを入れるほどのこともなく、「そこまでの精神状態だった」と受け取ればいいだけの話なので、横井さんの本を証拠に霊の存在を主張するのは滑稽です。

 犬の話に。

>しかし犬の場合は交配だけでなくそれぞれの指導方法まで考慮に入れることが大事だと思います

 ハスキーをどんなに訓練しても、獲物の位置をピタッと指し示すだけで微動だにしない犬にすることはできません。撃ち落とした水鳥を回収してくる犬にすることも極端に困難でしょう。まず泳ぎを嫌がりますし、回収した鳥を自分で食ってしまうでしょう。

 「考慮に入れる」とはどのように?それを具体的に示すのが「科学の議論」なんですよ。

 10頭のポインターをきちんと訓練すれば、まあ7~8頭はポインターとして現場に出すことができる犬になるでしょう。100頭に1頭くらいは「非常に優秀なポインター」としてハンターがその子を欲しがる犬になるでしょう。
 でも、ハスキーは1000頭訓練しても、まず1~2頭が"なんとか使える最低限"の犬にしかならないでしょう。
 ポインターを犬ぞりレースに勝てる犬に訓練するのも、労多くして実りが少ないでしょう。

 訓練しなければどんな犬も使役用途には使えません。
 ですが、訓練しないラブラドールが誰かの家の前に繋がれていたとして、その犬に気軽に手を出しても危険はまずありませ
んが、未訓練のシェパードに手を出す気には、私は絶対になりません。まあ未訓練のシェパードはたいてい飼い主にも扱いかねる犬になってしまうので、頑丈な鉄檻に入れられていることが多いですが。訓練しても訓練士には扱えるようになったものの、飼い主はやはり扱えず、エサをやるのも訓練士に来てもらっている、という事例もよく見聞きします。

>狼少女、アマラとカマラの話はご存知ですね?

 あれはまた極端な話でしょう。
 塊と彫刻の例えで言えば、彼女らは普通の人間にはあり得ないノミの入れ方をされた例です。反面、「人間としての」ノミはまったく入れられていないわけです。

 言語は関連遺伝子も見つかっていて、言語を操ることがいわば「ヒトの本能」であることは判っています。まあそりゃそうですよね。これがただの学習だけなのであれば、チンパンジーでも3歳児くらいの会話はできることになります。
 その言葉を覚えることですが、年齢が限定されていて、その年齢を過ぎると極端に学習効率が落ちることが知られています。アマラとカミラも言葉はほとんど覚えられなかったそうです。

 犬の場合も、盲導犬や警察犬にし向ける場合、6ヶ月齢くらいまではとことん「べたべた」可愛がってやらないと、訓練の効果が落ちるそうです。
 これらの使役犬は、人間との鉄壁の相互信頼が必要ですから、その素地はこの月齢まででないと形成できないのでしょう。
 2歳まで野良で虐待されていた犬でも、その後可愛がればちゃんと懐きはしますが、「鉄壁の信頼」とまではなかなかいかないのでしょうね。

 なので「塊と彫刻」の例え話に1つ付け加えるならば、塊を構成している様々な素材(つまり遺伝子)の中には、時間と共に堅さ等の性質が変化する材質のモノがある、ということです。時期を過ぎるとノミを入れても彫れ方が違う、ということです。
 その複雑さは犬より当然ヒトの方が要素も多く、条件も複雑なのでしょうが、本質に違いはないと思います。
 ヒトも犬も共通の祖先を持ち、共にそのモデルチェンジ版ですから。

>折角ですので獣医学部で使うテキストや参考書を教えて頂けると嬉しいのですが……。

 獣医学部ではそんなことは習いませんよ。犬の訓練士やブリーダーは仲間内で何らかのテキストを共有しているかも知れませんが・・・
 小動物臨床に進む獣医師は、まずはゴールデンレトリーバーの股関節形成不全やコリー種の血液脳関門の機能不全といった「遺伝的疾患」を知る必要があるので、それらは獣医系の内科や外科の専門書には書かれています。

 「犬の性格の専門書」なんてものはこの世にありませんから、とりあえずは犬の図鑑(ムックでも出ている)あたりでも読んで、あとは手当たり次第に読むしかないですね。というより犬の性格は犬に触れるのが一番ですが。

 注意して見れば、川や海で飼い主と水に飛び込んで嬉しそうに遊んでいる犬は、きちんとカウントして統計を取ればレトリーバー系の犬(ゴールデンやラブラドール)が有意に多いのが判ると思います。他の犬種、特に雑種などもけっこう水辺で遊んでいる姿は目にしますが、飼い主が水の中に放ったボールを泳いで取りに行くような遊びを嬉々としてやっているのは、レトリーバー系が多いですよ。
 普通の犬は水を怖がるので、水の中で嬉々として遊ぶまで仕込むのは大変なんですが、レトリーバー系は元々そういう用途の犬ですから、初めて川や海に連れて行った日から嬉々として遊ぶ犬が多いです。
 ハスキーは極寒の地で暮らす犬なので日本では暑すぎるため、浅い水に入ってばしゃばしゃやるのは好みますが、深いところに連れて行こうとすると、初回から抵抗なく付いてくる犬はまず皆無です。嫌がるのを無理矢理引きずり込めば、そのうち泳いで遊ぶようになるかも知れませんが、たいていの飼い主はそこまでしないので・・・

 なので例えば、川や海で飼い主と泳いで遊んでいる犬を見かけたら、その犬種を記録しておけば、ある程度数字がたまればはっきりした傾向が見えてくるでしょう。
 また、鉄檻で飼われている犬種を記録しても、ちゃんと傾向は見えてきます。

 そのあたりが、単なる経験談と「データ取り」の差です。
 データを取っていけば、そこから何かが見えてきますし、それから何かの「仮説」が論理的に引き出せるようになるのです。
 それが「科学」であり、またそれが面白いところです。

 「子供は「死」を知っているか?」などのテーマも、そういうデータ取りができるような気はしますね。
 そういうデータを見せて他人に何かの主張(自分の推論)をしたとき、どれだけツッコミを受けるか、それらのツッコミをどれだけ予想した上でそれに答えるだけのデータ取りができるか、が勝負なんです。
 日常生活の中での犬種のデータ取りも、最先端の科学知見も、その点では本質的に同じですから。

>何だかんだ言って厳しく書いてしまって申し訳ありませんでした。嫌な想いをしたでしょうが読んで下さって誠に有難うございました

 特に嫌な思いなどしてませんよ。
 私もけっこう淡々と書いているので嫌な言い方になっているところはあるかもしれませんが、悪意はないことを判っていただけると嬉しいです。
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この回答へのお礼

<議論が膨らむと書く分量が多くなってしまって辛いですね。
そうですね。厳密性を求めたとき、どうしても分量は増えてしまいます。

>経験談が証拠にならないのならば、殆どの症例も証拠にならないでしょう
少なくとも経験談よりは症例の方が証拠としては信頼性があるかもしれません。

<それが掲載される際には査読も入りますので、最低限の客観性は確保されていることは、まあ保証され<ています。
そうとも限りません。査読が入ってさえ間違っていたという学術論文は幾らでもあります。WIKIの査読の項を読んで下さい。最近、日本でも嘘の論文をでっちあげた記事を朝日新聞で読んだ覚えがあります

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BB%E8%AA%AD# …

<横井さんの本が報告書としての意味があっても、それは「横井さんの主観」を排除する性質のモノでは<ないでしょう。そのような凄絶な体験をした人の精神状態や行動を伝えることに意味があるので、むし<ろ主観で書くのが当然の本です。
<本人が霊を見たと信じているのなら、別にツッコミを入れるほどのこともなく、「そこまでの精神状態<だった」と受け取ればいいだけの話なので、横井さんの本を証拠に霊の存在を主張するのは滑稽です。
そうですね。横井さん自身が極限の状況にいて精神的に錯乱していた事実。仲間を沢山殺して自分だけが日本に帰るということで自分を責めていた事実。このあたりを考慮すると怪しいといえるでしょう。よってあなたの意見は正しいといえそうです。

<犬の話に。
この犬の話は本当に貴重な内容ばかりで嬉しいです。一方でここまで教えてもらっていいのかという申し訳なさも同居するくらいです。有難うございます。ただ犬の話を使って一般的な性質を導くという妥当性はどうなのでしょうか。犬は生物界で言えば5界のうちの1界に過ぎません。動物界です。遺伝は動物界だけの事柄を用いて議論しても信頼性に欠けてしまうのではないでしょうか。犬を例示したとしても、犬だけで一般的性質を導くのに充分なのでしょうか。このあたりは正直、考えてしまいます。

<「考慮に入れる」とはどのように?それを具体的に示すのが「科学の議論」なんですよ。
犬を交配することで現れる遺伝的な影響だけでなく、指導によって現れる世代を越えた影響を考慮する、ということです。ハスキー犬ならハスキー犬が登場するまで彼の先祖が今までどの様な指導を受けてきたか。それらの指導による影響。例えば虐待的な指導を受けたことによる子孫誕生、子孫飼育への影響。受容的な指導を受けたときの子孫誕生、子孫飼育への影響。そこまでの考慮です。遺伝だけで生物は決まりません。あなたの言うとおり、生まれた後にノミによって彫られることが大事です。そのノミの動きをあなたは犬では軽視していないか、ということです。今生きている犬のノミの動きだけを見て、過去の犬たちに施されたノミの動きは見ていないのではないでしょうか。

<言語は関連遺伝子も見つかっていて、言語を操ることがいわば「ヒトの本能」である
それは知りませんでした。有難うございます。ただ、矢張りこれも例外があるようです。失語症は遺伝子だけが原因ではありません。

<これがただの学習だけなのであれば、チンパンジーでも3歳児くらいの会話はできることになります。
人間とチンパンジーは頭の形が違うので会話が出来ないのでしょう。頭蓋骨の形や骨格は人とチンパンジーではだいぶ違います。もしあなたが脳内記憶はそのままでチンパンジーの身体になってしまっても会話は出来ないでしょう。

<その言葉を覚えることですが、年齢が限定されていて、
<その年齢を過ぎると極端に学習効率が落ちることが知られています。
そうなのですか? 私は中学に入ってから英語を学んでいますが、今ではネイティブ位の実力を得るに至りました。また、成人してから始めた中国語も既にある程度は身についています。言葉だけでなく私は才能の締め切りは無いと思っているのです。私は成人してからバイオリンを始めましたが、2年ほどで自分がハミングできる全ての曲をバイオリンで演奏できるようになりました。同様に成人してから始めたオルガンも2週間で両手でトップ・オブ・ザ・ワールドを弾けるようになりました。バイオリンの先生からも「成人したからこそ覚えるのが早い」と教えられました。実際は楽器や言語は独学なのですが。よって私は才能の締め切りという考え方は正しくないと主張します。犬は信頼を築くのが大事だそうですが、人は何才になっても性格は変わります。「だから、あなたも生きぬいて」の大平光代さんも極道に入った後で立ち直りました。刺青クリスチャンの人達も極道になった後で麻薬をやっても立ち直りました。よって私は上の意見が正しくないと主張します。

ちなみにカプラン臨床精神医学では知識の背景もそれなりに書かれているので良い本です。ハリソン内科学は治療用、臨床用に特化していて学術的な印象はそれほどありません。

<特に嫌な思いなどしてませんよ。
良かったです。

<私もけっこう淡々と書いているので嫌な言い方になっているところはあるかもしれませんが、
<悪意はないことを判っていただけると嬉しいです。
非常に多くのことを学ばせていただいて感謝しています。何度も何度も本当に有難うございました。

お礼日時:2011/06/21 07:12

 Jagae39です。



>1万円を超える本はたいていは十人以上が関わる共著です。それも日本の一流大学の教授が書いています

 なぜ共著になるのかというと、どんなに偉い先生でも全ての分野に詳しいわけではないからです。
 ウイルス学で言うと、インフルエンザウイルスの権威の先生はインフルエンザウイルスには詳しいですが、他のウイルスに関しては別に詳しくありません。まあ学生やそこらの人よりは詳しいですが、「専門書」の執筆ができるほどではありません。
 それにインフルエンザウイルスと一口に言っても、NAレセプターの研究をしている人はPB1遺伝子の発現についてそほど詳しいわけではありません。

 ですから、共著者が多いというのは単に扱う分野の広さを反映しているのであって、記述の正確さを担保しているわけではないんです。

 例えば医学系や獣医学系の専門雑誌でインフルエンザの特集をやると、5~10人が記事を書きます。それこそNAレセプターの違いによる病原性やPB1遺伝子による病原性の違いといったミクロな話から、近年の流行の傾向や治療法、ワクチン株の選定などのマクロな話に至るまで、それぞれの「専門家」が自分の研究成果を交えた記事を書くわけです。
 それが「ウイルス学」のような広範囲な本でも、著者は30人くらいだったりします。その本の中ではインフルエンザは1人の著者によって書かれていたりします。
 「伝染病学」に至っても50人くらいだったりします。よく見ると1人の著者が複数の病原体による感染症を記述していたりします。

 つまり、扱う範囲が広い「専門書」ほど、著者達は「微妙に自分の専門ではない分野を記述」しなければなりません。

 また、広範囲で多数の著者が関わる高価な本ほど気軽に改訂することもできないので、時代遅れになる記述も多く出てきてしまいます。それを避けようとすれば、執筆時点での「最新の知見」をあまり盛り込むわけにもいかず・・・(「再版の知見」はしばしば次の知見によってひっくり返ったりするので)
 それでも「間違い」になってしまう記述は続発してしまいますが。

 というわけで、高価な専門書が必ずしも絶対的である、というのは幻想です。
 いくつか間違いを書いてしまったところで、その先生の業績にはたいして傷は付きません。そもそも専門書の著者になったところで「研究者としてプラスの評価を得る」わけでもありませんから。著者の声がかかるのは「その分野の第一人者」として認められたと言うことですから名誉なことには違いないでしょうが、書くのは手間がかかるし書いたところで業績の評価が上がるわけでもないし、まして執筆にかかりきりになって論文を書けなかったらそのマイナス評価の方がよほど大きい・・・という葛藤があるんだそうです。

 「高価な専門書」が5行で記述している知見を、単一の著者による「一般書」では100ページとか、下手すれば本1冊丸ごと使用して記述しています。
 ある知識を単なる数行の「知識」としてより、それについて過去に交わされた議論や知見、その結論に至る論理をよく考えながら読んで自分のモノにした方が、遙かに生きた知識になると思います。
 人間生き字引になるつもりでしたら、「専門書」をひたすら読み込めば良いのですが、そんなこと、「専門家」でもしませんよ。

 ドーキンスの「利己的な遺伝子」は一般書ですが、序文でドーキンス自ら、専門家も専門家に移行途中の学生も「読者」として想定して書いた、と書いてます。
 言ってみれば、こういう本はドーキンスの集中講義をみっちりと受けているようなものです。
 「高価な専門書」は、3時間ほどの講義時間の間に、高名な学者が50人ほど入れ替わり立ち替わり現れて、それぞれ5分ほど喋っていくようなものです。
 同じ3時間の集中講義なら、私は前者の方が得るモノが大きい、と思います。
 入れ替わり立ち替わり現れた50人の学者にも、それぞれ3時間の集中講義をみっちりと楽しませてくれる世界を持っているのですが・・・

 あ、でも医学系は良い一般書は少ないかも知れませんね。「専門書」は辞典として機能しますし、それ以上の知見を知りたければ、普通は原著論文を読みますから。専門職関係の本は一般書として書く動機が薄いです。
 専門職系以外の分野、例えば生物学とか進化論などだと、一般書に良い本がたくさんあります。

>こういうのは何にでもあります。例外は何にでもあります

 医療現場では、「例外」も助けたいわけですよね。「この患者はレアケースだったので一般的な治療では助かりませんでした」と言うわけにはいかないわけです。言っても裁判ではたいてい負けてますし。
 例外は例外として「判断」し、「一般的ではない処置」をとる決断をしなければならないわけです。

>重篤な症状が治るのには薬が排出される6ヶ月もかからないものです

 死んでしまったらそれまでですし、6ヶ月どころか生涯残る後遺症を持つ場合もあります。
 治療は一般論ではない、というのはそういう意味です。

 発達心理学関連の話題については、私もそれほど深い知識があるわけではないので、これ以上の議論はできません。
 ただ、質問者さんの「赤ん坊が死を理解している」という論旨は、私は納得できませんでした。
 それは質問者さんの論理が甘い、ということです。前提となる知見(これは「専門書」から引いてこれるでしょう)、それに基づく理屈付けがないと、「そういうこともあり得るのか?」と他人に思わせることはできません。
 その「知見」が単なる経験談で、理屈付けも曖昧だとやはり納得できない、ということになります。

 ちなみに私がもし発達心理学を本格的に学びたくなったら、「専門書」を買うのではなく、関連学会に入って(例えば日本発達心理学会)学会誌のバックナンバーの「興味のある論文」を読むことから始めるでしょう。
 高価な専門書は多分買いませんね。図書館で一度目を通すくらいのことはするでしょうけど、あとは「だいたいどのあたりに何が書いてあったか」が判れば十分です。調べたくなったらまた図書館に来て読めばいいですから。
 専門書の目的の記述は浅くて、引用されている文献を読まないときちんと理解できないので、引用文献は何本か読むことになるでしょう。専門書に引用されている論文はたいてい古いので、傾向が判ったら検索で新しい論文も読みたいところです。

>科学的な実験も経験談です。実験ですら経験談といって切ってしまうことも可能です

 違います。
 「親戚が死んだときに子供が泣いた」という経験談を「だから子供は死を知っている」という仮説の証拠として挙げると、誰かが死んだときは身近な子供はみんな泣くのか、子供が泣いたときは必ず身近な誰かの身に異変があるのか、子供が泣く理由など掃いて捨てるほどあるが他の理由は全て排除できているのか、といった「ツッコミ」を避けることができません。
 また、経験談は記憶に過ぎないので、それらのツッコミにきちんと答えることもできません。特に前半2つのツッコミに対する反論ができません。最期のツッコミに対しても主観でしか答えられません。

 あらかじめそれらの「ツッコミ」を予測して、それに答えられる形を「設計」するのが「実験」なんです。きちんと設計された「調査」も同じです。
 全てのツッコミに対して答えられる形を設計することは非常に難しく、多くの場合は不可能ですらあります。それでも可能な限り答えを用意しておけば、次にその知見に対して誰かが実験をする場合は、「ツッコまれたところ」を押さえにいくことができます。そうやってひとつひとつ積み重ねることができるのが「実験」であり、その過程が「科学」なのです。

 「高価な専門書」ではそれが判らないんですよ。1行の記述の裏に、どれだけの実験や議論や考察があったか、ということが。
 そもそも専門書は、それが骨の髄まで身に染みている人たちを対象に書かれているものですから、余計な議論はすっ飛ばして「結論としての知識」だけ書いてあれば良いのです。「辞典」ですから。

 症例報告はまた別の話です。それは「子供が泣いた」という話だけのことですから。それを報告することに意義があるもので、そこで「子供は死を知っている」という結論を導くことはできません。

>世界の全てである母親が永遠に活動しなくなる。それだけで充分だと思ってしまうのですが。動かないのだから衝撃的で、それが即ち死である、と

 「死を理解する」には、それだけでは足りません。
 「それが自分にもいつか必ず来る」という認識が必要です。「全ての生き物に必ず来る」というのが死の本質の1つであり、「永遠に動かなくなる」のは単なる単一の観察事例、すなわち経験に過ぎません。それも永遠に動かないのを確認するには、永遠に観察しなければならないわけで、「永遠に動かないのかも」という推測に過ぎない、とも言えます。
 現に、死が全ての終わりではないという死生観を信じている人も大勢いますよね。
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この回答へのお礼

<Jagae39です。
何度も有難うございます。

<ですから、共著者が多いというのは単に扱う分野の広さを反映しているのであって、記述の正確さを担<保しているわけではないんです。
実は訳本の場合(標準シリーズで無い専門書は大体訳本です。)は海外で様々な教授が正確性を高めます。手元にあるキャンベル・ファーレル生化学でも原著では15人ほどが信頼性を高めるように努力した旨が載っています。これは分担という意味ではなく、15人ほどが原稿を何度も確認しているという意味です。また、訳す過程で間違いは直されることも非常に多いです。逆に共著者がいないと間違いを直しようがありません。ひとりの力には自ずと徹底した限界があるものです。また、もしこれが正しいとしたらオックスフォード系列の辞書に共著者が多くて正確性に欠けることになります。あなたのこの意見は私は正しくないと主張します。

<また、広範囲で多数の著者が関わる高価な本ほど気軽に改訂することもできないので、
基本的に改訂はどの本でも早いものではありません。私が持っている新明解国語辞典ですらまだ5,6回しか改訂されていません。私が持っている小説の聖の青春も同様にほぼ改訂されること無くハードカバー、文庫本の2種類しか出ていません。一般書はそれほど改訂されません。一方で医学書は改訂が非常に早いです。ギャノング生理学などは既に20回以上も改訂されています。手元の微生物学の原著も既に20回以上改訂されています。よってあなたのこの意見は間違いと私は主張します。

<時代遅れになる記述も多く出てきてしまいます。
高価な本ほどファンがつきます。ファンが間違いを指摘します。新明解国語辞典などの三省堂系、広辞苑などの岩波系など、固定ファンがつく本に時代遅れの記述はほぼありません。逆に一般書など手薄になりがちな学術系の本の方が怪しい記述が多いです。多くの人が読まない本は間違いも直されません。前に買った生化学の本や生理学の本は間違いがあまりにも多くて閉口しました。やはり専門的な内容を取り扱う本でも2,3000円の本は信頼性があまりにも酷いのだと痛感しました。

<というわけで、高価な専門書が必ずしも絶対的である、というのは幻想です。
そうですね。ただし信頼性に於いては本の中では高い位置にあると言えるでしょう。

<まして執筆にかかりきりになって論文を書けなかったらそのマイナス評価の方がよほど大きい・・・
<という葛藤があるんだそうです。
言われてみればそうですね。有難うございます。これは知りませんでした。目から鱗です。

<ある知識を単なる数行の「知識」としてより、それについて過去に交わされた議論や知見、その結論に<至る論理をよく考えながら読んで自分のモノにした方が、遙かに生きた知識になると思います。
これは説得力があります。背景を知るというのは大事ですね。有難うございます。

<人間生き字引になるつもりでしたら、「専門書」をひたすら読み込めば良いのですが、そんなこと、
<「専門家」でもしませんよ。
実は私は人間生き字引を目指しています。

<同じ3時間の集中講義なら、私は前者の方が得るモノが大きい、と思います。
同じ3時間ではありません。利己的な遺伝子は3時間で読み終わることは可能かもしれませんが、ハリソン内科学は3000ページあるので3時間で読み終わることは不可能です。10800秒で3000ページを終えるには1ページを3秒少しで終わらせないといけません。利己的な遺伝子は速読を使えば可能かもしれませんが。ここで両者の時間設定を等しくするのは無理があります。

<あ、でも医学系は良い一般書は少ないかも知れませんね。
一般人は医学系はそれほど学ばないと思います。(アポトーシスの機構について気軽に知りたい人は一般ではあまりいないでしょう。)需要が少ない、と。それでフコイダンなどの怪しい本が出てきます。一般人はそういうものに反論できませんので。

<専門職系以外の分野、例えば生物学とか進化論などだと、一般書に良い本がたくさんあります。
そうですか。今度は一般書も色々と見てみます。そういえば数学の一般書でよい本を持っていました。一般書だからといって差別するのは良くありませんね。

<死んでしまったらそれまでですし、6ヶ月どころか生涯残る後遺症を持つ場合もあります。
逆に薬も死や不可逆的な後遺症を残す場合も多いのです。赤子などは薬の量を少し間違えると死につながります。薬をいくつも使っている場合、相互作用で死や後遺症を招くことも少なくありません。以前こちらでインスリンを投与されて障害を負った方の相談に乗りました。ただのインスリン製剤ですら障害を残しかねないのです。私は薬も相当危険なものだと思います。実際、手元の薬学辞典では薬の主作用よりも副作用の種類の方が間違いなく多く記述されています。

<ただ、質問者さんの「赤ん坊が死を理解している」という論旨は、私は納得できませんでした。
そうですね。少なくとも論理は甘いですし、今の私には赤子が死を理解している旨を誰にでも納得できるように説明できないと感じています。

<ちなみに私がもし発達心理学を本格的に学びたくなったら、「専門書」を買うのではなく、関連学会に<入って(例えば日本発達心理学会)学会誌のバックナンバーの「興味のある論文」を読むことから始め<るでしょう。
<高価な専門書は多分買いませんね。図書館で一度目を通すくらいのことはするでしょうけど、あとは
<だいたいどのあたりに何が書いてあったか」が判れば十分です。調べたくなったらまた図書館に来て読<めばいいですから。
<専門書の目的の記述は浅くて、引用されている文献を読まないときちんと理解できないので、引用文献<は何本か読むことになるでしょう。専門書に引用されている論文はたいてい古いので、傾向が判ったら<検索で新しい論文も読みたいところです。
私とあなたの勉強法がそもそも違うというのが分かりました。私は専門書で関連する分野も含めて全て学びます。学会は入らない主義です。専門書は確かに浅いですが、気になる分野が合ったら英語の学術書を買えばたいていは詳しく書いてあります。

<「高価な専門書」ではそれが判らないんですよ。1行の記述の裏に、どれだけの実験や議論や考察があ<ったか、ということが。
そういわれてみればそうですね。確かに背景知識は得られません。実験や調査のことも説得力のある記述で思わず夢中になってしまいました。有難うございます。

<そもそも専門書は、それが骨の髄まで身に染みている人たちを対象に書かれているもの
知人の医者は私が専門書と定義しているギャノング生理学を教科書として渡されたそうです。よってここでは反例が出されました。

<余計な議論はすっ飛ばして「結論としての知識」だけ書いてあれば良いのです。「辞典」ですから。
結論だけ書いてある点は専門書は劣っているともいえそうですね。

<永遠に動かないのを確認するには、永遠に観察しなければならない
動かなくなった後に他の生物に襲われたり感染症で亡くなったり、腐敗したりして原型を留めなくなったり、跡形もなく消え去れば観察しなくても永遠に動かないと理解できるでしょう。これは反例です。

<現に、死が全ての終わりではないという死生観を信じている人も大勢いますよね。
そうですね。私はこれについては分からないとしか言えませんが。

こういうことを真面目に議論できて嬉しく思います。赤子が死を理解してるという結論を導き出すのはかなり困難と分かりました。色々と本当に有難うございます。

お礼日時:2011/06/21 06:40

>医者というのは薬学も叩き込まれます。

それで専門なのでしょう。犬や猫でも薬を用いた治療をするので薬についての知識も必要になってきます。また、犬や猫や人間は身体の基本的な構造は大体が等しいので薬の効き方もそう変わらないでしょう。一応、付け加えておきますが、薬学の専門家である薬剤師よりも並の医者は薬学について多く知っています。

医者?Jagar獣医師が医者ということですか?

猫と人間で薬の効き方が同じなのですか?

並みの医者は薬剤師より薬に詳しいのですか?


ぜんぶ間違ってますよ。


★1.(No.20)
>「 進化論の理論は煎じ詰めれば「有利な遺伝子は頻度を増して集団に定着し、不利な遺伝子は集団から淘汰される」というだけの、極めて単純で美しい理論です。」

これは、循環論法ですよね?


★2.(No.13)
>「骨折等の大ケガをしたり死の痛みに耐える動物が騒がずにじっとしているのは、ある意味当然です。泣き喚いたり暴れたりすれば、体力を消耗するのでそれだけ死期を早めるからです。つまりそんな行動は「進化的に不利」なんです。」

これは、大間違いですよね?


しかし、質問者さんには幼稚な話でないと通じないのですかね。
獣医師の話の核は、トンデモ科学宗教ですよ。

専門書以前では?昔の学生は馬鹿だったのですかね。例外ですか?
一般常識がないから非常識獣医師の話に感心してるんじゃないの?
「なぜ生物には優しさがあるのでしょうか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6783440.html
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この回答へのお礼

<医者?Jagar獣医師が医者ということですか?
獣医師というなら医者に含まれるとは思いませんか? 獣に対する医者ということで獣医師と。

<猫と人間で薬の効き方が同じなのですか?
ブドウ糖を投与したときの反応などはそうは変わりません。どちらも赤血球の色素はヘモグロビンです。両者とも腎臓を持っていますし、心臓は2心室2心房です。厳密に言えば違いますが、80パーセント程度は同じと考えても良いでしょう。

<並みの医者は薬剤師より薬に詳しいのですか?
そうです。知人の薬剤師よりも知人の医者の方が明らかに賢いです。

<ぜんぶ間違ってますよ。
あなたの気持ちは分かりますが、間違っているならそれを相手に納得できるように説明できないと説得力に欠けてしまうでしょう。逆に言えば相手を納得させられなければ理論としては不充分です。

<これは、循環論法ですよね?
循環論法かどうか私は判断できません。(私は循環論法という単語もこのやり取りの中で初めて聞きました。)ただ、進化論が単純で美しい理論かというと私は異を唱えたいとは思っています。何事もそれほど単純ではありませんし、単純にしすぎてもいけないとアインシュタインも言っています。

<これは、大間違いですよね?
騒げば助けてもらえるという事柄をしっかりと考慮していないので説得力には欠けるでしょう。あなたや私を納得させられないので彼の理論も説得力に欠けるとは思います。

<しかし、質問者さんには幼稚な話でないと通じないのですかね。
<獣医師の話の核は、トンデモ科学宗教ですよ。
それはあるでしょう。一方で彼の話で勉強になった面もあります。犬の歴史など。

<専門書以前では?昔の学生は馬鹿だったのですかね。例外ですか?
そうです。昔の学生は馬鹿です。高校ですらDNAを習いませんので。50年前の東大生は今の並の中学生に劣るかもしれません。だからこそ大学教授もそれ程賢くないと思って正しいのです。教授になれるのは昔の人ですので。

<一般常識がないから非常識獣医師の話に感心してるんじゃないの?
<「なぜ生物には優しさがあるのでしょうか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6783440.html
そうですね。一般常識を教えてもらって嬉しいです。有難うございます。

若さを持ってまっすぐにぶつかってきてくれて嬉しく思います。その純粋さを大切にしてください。あなたから教わったことがたくさんありました。偉そうにして申し訳ないのですが。昔の自分を見ているようで懐かしく思えました。また何か回答してくださると更に嬉しく思います。このたびは本当に有難うございました。

お礼日時:2011/06/20 06:01

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