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言葉に(の)詩性、というのはあるのでしょうか?

ある、という気もするし、錯覚に過ぎない気もする。

あるのだとしたら、どんな時にそれは表出されるんでしょうか?

ご意見ありましたらお願いします。

A 回答 (6件)

絵画を観たり音楽を聴いたりある景色を眺めて「詩的である」という言い方はありますが、これは比喩と見なすべきであって、ほんらい詩的なもの・詩的霊感(ポエジー)とは言葉もしくは言葉の組合せの中から現われてくる、表記され語られた内容以上の、認識を超えたある全体的感情の表出を指しているのですから、これは純粋に言葉にかかわる問題ということになります。

そして、そう定義づけるからには、そうしたものが確かにあるということになります。

問題は、ではそれはどういうものかということであり、今ここにあるか、ないとしたら、いつどういう場合に現れてくるかということになります。これが質問のご趣旨でしょう。

手順として「ジャンルとしての詩」について、すばやく検討しておきます(私なりの検討であることをお断りしておきます)。

詩は長らく韻律であるとされてきました。頭韻・脚韻に代表される韻に目が行きがちですが、律=リズムのほうがはるかに本質的であり、もともとが発声と不可分である言葉が本来持っている音楽性の一環としてソネット、バラードなど(日本にあっては和歌や俳諧)の定形詩も選択整備されてきたのでしょう。

一方、十九世紀になって散文詩が詩の一形式であることが認証されて以降、詩は言葉の組合せから生じるイメージの喚起力、なかんづくメタファー(隠喩)にあるとされ、その最も有効な手法として視覚的想像力に訴えるものへと軸足が移されてきた経緯もあります。
その際、外面の特色であった韻律は、散文詩あるいは自由詩にあっては内在的韻律(内在律)を持つ、と説明されたのです。

そうこうするうちに、だんだん隣接するジャンルとの区別がつかなくなってきました。
歌謡(歌詞)は音楽とよく馴染むことがまず必要であり、そのぶん詩ほどには言葉そのものの自立性・屹立性は問われなくていいでしょう。これを逆に言うと、言葉の緊張がゆるめば詩と歌謡との区別がつきにくくなります。

また、メディアの発達も一因し、スローガンや商品コピー・各種標語などが洗練の度を加え大量消費されるにおよび、言葉がもつ呪術力や創出力が削がれはじめました。言葉はむやみにくりかえされると摩耗します。

散文との区別もつきにくくなりました。小説なのかエッセイなのか、行がえの日記なのか雑文なのか。ついには韜晦とはぐらかしで固めた妄想のたぐいなのか、読んでもさっぱり分からないもの、何度読みかえしてもなんの感興も催さないものまで出てきました。

こうしたことは世界的な傾向であって、日本ではおそらく1970年代以降、顕著になってきた印象があります。
発信者は「これは詩である」として発信し、受け手は「これは詩である」という前提のもとに受け取る。もはやそういう手続きを踏まねば詩というもののジャンルが成り立たなくなっているとさえ言えそうです。

以上が「ジャンルとしての詩」についての検討。
けれども、最初に示しました定義によって詩=詩的なもの=ポエジーというものは「実在する」、もしくは少なくともかつては「実在した」。では、現在はどうか。

入沢康夫氏が1960年代に書いた「『マルピギー氏の館』のための素描」という散文詩があります。29に分れた短い章句から構成されている、そのいくつかを抜き書きしてみます。
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 1 蚕
 マルピギー氏の館のことなら、ひとは眼をとじ、自分の闇の奥底に巣喰う小さなとげのような蛆、燐光を放つてはうごめく蚕のようなものとして、それを考えてみることができる。

 2 なめくじ
 あの館のことならば、また、膨張する馬の鞍形の宇宙のことごとくをなめずり込んで、無辺の虚空を輾転する巨大ななめくじ、そんな具合のものとしてイメージすることもできるだろう。

 5 公理
 (公理)マルピギー氏の館は実在している。

 11 因果律
 マルピギー氏の館は奇妙な因果律の支配下にある。だが、その法則性がどうしてもとらえられないために、ひとはとかく、法則のないのが法則なのだという俗悪な結論にかたむきかけている自分に気がついては、それ故はなはだしく腹を立てる。

 17 定義
 たとえば、この館を≪さかさまにされたノアの方舟≫と定義するのは、いかにも気がきいたことのようだが、これは定義にも何もなつていない。いや、いかなる定義をもはねのけ、マルピギー氏の館は断固として実在する。その≪在ること≫によつて、無数の矛盾や撞着(と、ひとの目には見えること、見えないこと、見えないと思えること)を蹂躙しながら。

 25 重力
 結局ここでは、ひとは自分だけがぶざまに重い肉体を持ち、その持ち方も、手に本を持つ、花を持つ、というのと同質の持ち方にすぎないのだと、今一度思い知らされる。

 27 呪い(その一)
 マルピギー氏の館でのあらゆる形式による体験は、その体験者に何らの新しい世界を開示しないという意味で、その重苦しい鮮度を保ちつづける。この館の呪いの本質はそれだ。

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さまざまに受け取ることのできる詩句であるのを重々承知の上で、今ここでは「マルピギー氏の館=ポエジーの領域」と置いて、私なりの結論を導きます。
詩は今もってあらゆる言葉の組合せと可能性の中に胚胎し、いつも意表を衝きながら、とらえがたく実在する。

以上です。長文失礼しました。
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日常的な場面で頻繁に使われている陳腐な表現さえもが周りの状況によって【名言】に変えられる、という場合が存在していますが、確かに仰る通りに、其処に詩的な印象を読み取ってしまうのは、『錯覚』なのかも知れません。



下記のURLは名言集のページです。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E8% …

http://www.fesh.jp/utterer_499_1_1.html
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「言葉の詩性」という風に、「言葉の」と特に限定してお書きであるからには、「言葉」そのものに詩があるかと尋ねてらっしゃるわけですね。

言葉は道具にすぎず、そこに詩のエッセンスを宿すとか、詩のエッセンスを引き出すのは人であるというのが、一般的な見解かもしれません。たとえば言葉を羅列するだけで、詩は成立しないのだから、言葉それ自体に詩のエッセンスが宿っているはずがないと、古典主義的には考えることになるでしょう。

しかし現代において、言葉を羅列しただけの作品はありますね。シュルレアリスムの一部の作家は、言葉を紙の断片に書きつけていき、それを帽子に全部入れて、くじ引きして、文章を練ったと言われます。こんなものが、誰かの感動を誘うはずも本当はない。しかし、読み手によっては、それを詩だと感じてしまう。同じように、壁の落書きとか、何だかつまらない小説の一節だとかでさえ、ふと詩としての価値をもちうることはありえます。

詩とは日常の言語とは違うものです。だから別段、厳密に意味が通じなくてもよい。しかし漠然と何か高尚なことを言っているとか、世界の秘密を解き明かしていると思えると、ふと、何かそれが大切な言葉になるものです。こういうのは、その言葉が、読み手の無意識に忍び込み、知らぬうちに訴えかけてくるからだと、シュルレアリストはいうでしょう。「錯覚に近い」というのはその通りですね。

この無意識に忍び込んでくる瞬間が一体どうやって引き起こされるかですが、それは人それぞれです。マドレーヌを食べた時(プルースト)かもしれないし、病から回復してきた時(ボードレール)かもしれません。人それぞれですが、どうも子供の頃の思い出と密に結びついているようです。僕の場合は、まだ「~~な時」と一般化して言えるほど、練れてはいませんので、自分のことは書きませんが。

ご関心があったら、ブルトンの『ナジャ』など読んでみるといいかもしれませんね。無意識に入り込んできてしまう様子のあれこれを、散文詩によって描いています。
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あらゆる言葉に歌心があります。

だから、貴方の質問は全く内容がない言葉の羅列になっています。でも、その一見無意味と見える言葉の羅列の中にも歌心を見付ける人は必ずいます。例えば、禿げという言葉に歌心詩心があるか。

 世の中はすむとにごるで大違い はけに毛がありはげに毛はなし

ちゃんと歌になり詩になっていますね。何が詩で何が詩でないかなんて、

 やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君

ってな議論になりそうですね。序でにここで教養を思いっきり高くして都々逸を一つ。

 井戸の蛙が空うち眺め 四角なものだと議論する

お後が宜しいようで。
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>言葉に(の)詩性、というのはあるのでしょうか?



ボードレールは、詩集『悪の華』に収録する「交感(照応)」中で、人が無我の心境になり、虚心坦懐に自然と交わり、融合しようとすると、つまり自分の先入観や偏見等を捨てて外界に交わろうとすると、外界(自然)の方から自らの内奥の秘密をその人に解き明かしてくれるはずで、これに感じて人が発した言葉が《symbole》であると説き明かしています。

もし、「言葉に(の)詩性」があるとすれば、このように世界と寸分のズレもなく一体化し、融合した言葉だけが帯びる、ボードレールの説く《symbole》性を措いてほかにはないような気がします。

言い換えますと、人がある言葉を単なる概念の伝達手段としてではなく、それに対応する具体的な現実世界と不可分の関係にあると感じたとき、その言葉は詩そのものにほかならないのではないかということになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

勉強になりました。
自分でも文献等あたってみたいと思います。

お礼日時:2011/06/07 07:25

 このような議論をするときは「詩性」という言葉を定義してから問題提起すべきです。

ちなみにワードでは「しせい」と打って、「詩性」とは変換してくれません。つまり造語に近いのです。

 ここでは詩を感じる言葉はあるかという観点で意見を述べます。

「岩走る垂水の上の早蕨の萌えいずる春になりにけるかも」この歌に使われている言葉はどれも詩情豊かなものばかりです。
「五月雨の注ぐ山田に早乙女が裳裾濡らして玉苗植うる夏は着ぬ」これは単語ひとつづつというよりも詩全体として見事な情景描写になっています。
「水の流れに 花びらを そっと浮かべて 泣いたひと 忘れな草に かえらぬ初恋を 想い出させる 信濃の旅路よ」最近のJPOPに比べると昔の歌謡曲には詩情のある言葉が使われていました。

この回答への補足

非をお詫びいたします。

「定義」をすると言葉の枠に嵌めるがために言葉が一人歩きしてしまう気がしました。
ですが、試みますと、

「人(作者)が言葉を発した時、技巧的に既存の詩の外形(文型・リズム)を有していなくても(未熟、ということではなく寧ろ「未完成」)鑑賞者に不快感を伴わない詩情?情感?感銘?を喚起・想起・惹起させるもの」

というものはあるか?(Q1)あるとすれば、それは何に端を発するものであるのか?(Q2)という問いになります。

ちなみにわたしは
Q1「ある」
Q2「『語りえぬもの』なので沈黙!でも知りたい」という意見(意見になってないかもしれませんが)です。

順が後になりましたが、ご回答ありがとうございます。

補足日時:2011/06/07 06:02
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