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一般的に和歌や俳句は、感じたままを詠むものだと言われます。それらが感性に訴えかけるというのは、事実でしょう。しかし和歌や俳句が、理性や論理を表現することはできないのでしょうか。言い換えると、和歌や俳句は感性と理性の両方を表現しうるということはできないのでしょうか。ご自身の創作のご経験を含めて、自由な観点からご意見を頂けたらと思います。

A 回答 (15件中1~10件)

私見ですので、お読み捨てください。



俳句については、西行さんがらみで”奥の細道”を読んだことがあるだけですが、そのときの印象として、芭蕉の句に限って言えば、俳句は切り取った世界を再構築するものなのだろう、と印象を受けたことがあります。絵画の世界と引き比べてみるならば、抽象画の手法に良く似ています。わざと対象から自分の感情を引き離しておいて、西行が詠んだ和歌を背景に、自分の色を鮮やかにズバリと乗せたところにうまみがあるように思います。私には、理性的に割り切って作句しているようにおもわれます。

ここからは祖父からの受け売りです。

日本の詩賦である和歌は、もともと、ところにあたって、事に臨んで、神様の心を和らげるために、5757と続けていって、気持ちよくさせる呪術であったそうで、特にヤマトタケルノミコトや柿本人麻呂の歌には、まじないの力があるそうです。

その後、和歌に自らの感じたままの心を盛るようになり、在原業平、小野小町、和泉式部、西行法師と続いて与謝野晶子に到るまで、質問者さんの仰る、こころ余って言葉足らずの、後世の人にも愛される一連の和歌が詠まれるようになります。それが和歌の真髄だと私達が思うのは、時代を経て、現代人が鑑賞しても、心を揺さぶられるような魔術が言葉にこもっているからでしょう。

こうした”思いのたけをそのままに”詠んだ歌人達には、必ず、他の人には思いもよらない言葉の使い方や言い回しを発明する才能があったようです。”自分の手に入らなかった、どうしても忘れられない人”を思う心がキーワードになるかもしれません。その思いを、とにかく吐き出してしまわなければいられない、堰を切ってほとばしってくるような、未練や無念が時代を超えて私達の胸を打つのでしょう。

それとは全く別に、紀貫之から藤原定家にいたる、プロの歌人と呼ばれる人たちがいるわけですが、高級な本歌取りの手法などを取り入れて、忙しい現代人である私達にとって、しり込みせざるをえない煩雑さになります。本歌取りがなければどんなにいいだろう、と思ったことでした。

理性的な歌、と言うことですが、

万葉集では、大伴家持の相聞歌
”ツバナを食べたけれど、恋をしているらしくて、痩せちゃったよ、という歌です。”

古今集では、凡河内み恒(すみません。”み”漢字変換ができません。)
 照る月を 弓張りとしも いふことは 山の端さして いればなりけり
 白雲の このかたにしも おりい(旧字)るは あまつ風こそ 吹きてきぬらし

など、ウィットが効いていて、私には好ましいです。家持さんのほうは、手元に資料がないのですが、グーグルで検索できましたら、またお知らせできるかもしれません。

いずれにせよ、和歌の作り方は、具象画を描く手法に似ているように感じます。和歌を鑑賞した人の頭の中に、一服の絵を想起させることができれば、大成功、といわれたことがあります。
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 amaguappaさんのコメントに触発され、手許の辞書をめくったところ次の記述に出会いました。


「Art」の対義語にはやはり「Nature」がありました。日本語訳するならば「人為」と「自然」です。
 人為ということは「対象を何らかの意図を以て改造する」或いは「解釈する」ことと同じです。そうなれば「水墨画」の意味もわかります。現実にある光景を幾つかピックアップして一つの世界にまとめ上げることで「非現実的なるモノを現実化してしまう」。そしてその絵の中にある松の枝や草木の一つが無くなってしまったら絵画としての全体が損なわれてしまう。冗長でもダメ簡潔すぎてもダメ、との部分では俳句も水墨画もモーツァルトの楽譜も同じだと思われます。どの音符やブレス記号が欠けていてもモーツァルトのオペラは成り立たないとの議論もあります。一つとして修正箇所がないとして彼の楽譜は有名ですが、フィガロにせよドン・ジョバンニにせよ、オペラ作品の出所自体は彼が書いたモノではありません。けれど彼は原作の何かにインスパイアされて彼の頭の中でそれを恐ろしいスピードで音楽に「造り替えて」或いは「創作し」てしまった。
 この裏にはモーツァルトの意識下には触発された感覚を現実の作品にする独特の「設計図を作るための回路」があったのではなかろうか、と思われます。
 当時としてはゴシップ小説のような読み物をベースとした「後宮からの逃走」すらもキチンとした政治批評を兼ね備えています。もし批評の部分(パロディ)がごっそり抜け落ちていたらこの作品が成立したか。答はノーです。竜安寺の石庭に配置された石が一つ欠けていたら違和感を感じるように「有るべきモノが有るべき場所にある」ことでしか芸術作品は成り立たないと僕は考えますが如何でしょう。
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とすると、こういうことなのかしら。

。。

地(じ)と図を判別し図を浮かび上がらせるコンステラツィオンと、
図を編みながら一挙同時に地を生成する和歌・俳句。
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なるほど、猪突さんがおっしゃるのを読んでふと、美学でいうところのコンステラツィオンはどうだろうかと思いました。

星座・配置・配列などと訳されますが、一の要素が多を巻き込み、多の要素が一を必然とする、イデーの運動のぐるぐるした空間相関のことにほかなりません。これは論理か非論理かといえば、社会変革をも促す叡智はここにしかないと喝破したベンヤミンやアドルノにかかると、組織的構造だとか有機的組織だということになります。その意味は要するに、見えざる論理ということです。

ついでにいうとベンヤミンは、論文とはアラビア建築のように中庭に入らないと全体が見えないものだと言い、主題に関する詳論と余論は一見区別し難く叙述に埋もれると言います。つまりすっきりとした外観を整合させているものが論理であるなどは言わないようです。アドルノは、後期ベートーヴェンの曖昧模糊とした繋がりに、必然でしかない全体像への参照が決定的にあると言います。誰しも猫を鍵盤に置いたようにベートーヴェンが作曲したとは思いませんから、アドルノにくどくどしく言われなくても、タイミングの緻密な有機的組織が編まれて全体のイデーを構成していることは伺い知れます。

それにしてもアラビア様式とかベートーヴェンでは、主題を取り巻いて全景をみっちり埋めることに心血が注がれていますね。これらを細密画と油絵になぞらえると、和歌や俳句は誰もが認めるであろう水彩画・水墨画です。川柳は素早い悪戯描きです。
和歌も俳句も季節感を重視する伝統がありますが、これは水彩や水墨画の空気感に通じると思います。ポイントを絞って魅せる箇所を際立たせるのが腕の見せ所ですから、前景・中景・背景を自在に組み合わせ、省略を駆使して全体感を醸すことになります。技術も必要ですがセンスも必要で、まさに霊感的な省略と構造化のセンスを要するものでしょう。

もし論文をそんな調子で拵えると大変なことになります。どんなに頭のいいやつが書いたとわからせても無駄なことで、みっちりと埋め尽くされたがゆえの説得力を持たないと論文になりません。このあたり、端折ったものは論理的ではないという言説の依り所です。

大昔、ホラティウスは、詩は絵画のように絵画は詩のように、と教えました。ラオコーン論争でそれを批判的に敷衍したレッシングは、視覚芸術は空間の芸術、文芸は時間の芸術と区別して世間によく知られるようになりました。こんな西洋的な考え方から、俳句は絵画的だなんて言われるようにもなったのでしょう。でも、西洋の文脈ではみっちりした絵画が念頭にあって、早すぎたターナーの水彩がやっと印象派を牽引したのが19世紀後半ですから、日本人がうかうかと俳句は絵画的だなどと言っては危険です。

いったい、霊感的な省略と構造化において、コンステラツィオンと俳句には何の違いがあるのかと考えますと、どうやら、柄物の壁紙のようにみっちり埋め尽くされた情報から輝ける構造の軌跡を抜き出すのと、障子紙のような空白から必然の偶然に潜む構造を拾い上げるのとの違いではないでしょうか。

はたして、これは、あたかも禅の教えのように同じ出来事でしょうか。それとも、自由度に違いはあるのでしょうか。いえ、偶然の必然を見出すことと、必然の偶然を見出すことの違いであって、それらは同じものなのでしょうか。そして完成形として取り出された姿に誰かが修正を加えようとする。すると、修正を受け付けない緻密な構造物であることに気付く。その構造物はいったい、論理でしょうかそれとも感性でしょうか。
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 こんばんは。

少し話が逸れるかもしれませんが、「詩」には叙情詩と叙景詩がありますよね。これに基づくならば和歌や俳句にもその分別とまではいかないまでもある種の分類は可能と思います。けれどもそれは両者が個別に独立していると同時にもたれ掛かる関係をも包含する不思議な世界であり、作風によっても異なると思います。

 「寧楽七重 七堂伽藍 八重桜」
 「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」
 「故里や 臍の緒に泣く 年の暮れ」

何れも芭蕉の句ですが、「奈良七重~」の句には遊び心が感じられます。大和にある南都七大寺を訪ねその栄枯盛衰の姿を満開の八重桜に重ね合わせると共に「七重」「七堂」「八重」と数詞を並べることで句全体にリズムを与えている。
 これに対し「蛸壺~」の句は相当に理屈っぽい。この句を何の知識もないままに突然目の前に掲示されたら、どんな光景を想像するだろうか。高校の古文の授業で始めて出会った時には単純に「夜の浜辺にポツンと置かれている蛸壺を夏の月が照らしている」程度の理解しかできず「何とまあシュールな作品なんだろう」と唯々恐れ入ってしまうだけでしたが、詠まれた場所が明石であることと「はかなき夢」との言葉から、芭蕉がこの句を詠じた背景にはここが源平合戦の地であり、蛸壺を罠だと知らずにその身を中に収めてしまいそこでしばしの安らぎを得て微睡んでいる蛸の姿に平家の公達の運命を仮託させていたこと、更にそれを知る者は夜明けの近い夏の夜に浮かぶ月だけだった(平家栄華の終焉も同時に「尽き」の言葉で掛け合わされている)との意味もその後大学に入って最初の夏休みだかに寝転がって古典体系を読んでいた時に理解できました。
 最後の「故里や~」も「臍の緒」という言葉に肉親に対する思いが込められ、同時に「年の暮れ」からは旅立ってしまった親族とまた再開できる日が近づいてくるとの感慨も感じられます。
 これは芭蕉の作風によるものであり一概に和歌や俳句と括ってしまうことには些かの無理もあると思われます。
 芭蕉の対極に位置する蕪村の句風がそれです。
 「菜の花や 月は東に 日は西に」これは単なる叙景の句でしょう。かといって芭蕉の作品に劣るとは決して思いません。春の日の夕方の光景を写実的に表す事で生活感や暖かみも感じることが出来ます。乱暴な表現で適切かどうかは判断が付きかねますが、芭蕉の作風を「報道写真」蕪村の作風を「芸術写真」として理解するならばジャンル分け出来るのではなかろうか、と僕は思います。

 
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#9に駄目押しをしておきます。



私の物理の研究室に来る学生には、物理学では正しいことを言うことの方が、どうしてそれが正しいのかを示すよりも遥かに重要なのだと教えています。そして、理屈好きな学生相手のアカハラ用に、「世の中には、それが正しいと証明されてもいないのにどうしてそれが正しいと判るんですか、なんて馬鹿なことを言う奴がいる。そんな奴は、数学はどうか知らんが物理屋には向いていない」ってからかうことを常としています。皆、目を白黒させています。しかし、個々の局所的な論理の整合性には拘泥せず、全体を眺めて収まる所に収まっているかどうかを判断することによって、それが正しいと判ることが幾らでもあるんですよ。

ところが、それを数学の証明の枠に乗せようとすると、途轍もなく複雑になってしまうこともしばしばあります。そんな場合には、数学屋さんはいざ知らず、物理屋ではその複雑な数学的証明の後に、やはりその主張が正しかったとされたときには、「ご苦労様、それは良かったですね」ってな感じで、その証明自身が余り高く評価されないことが多いです。

その反対に、そう言う大局的な見方から出して来た結論が、精密にやって見たら間違いだったと示されたときに、皆さんはその数学的な緻密な論理展開を高く評価します。まあ、自然科学者はそんな神懸かりの論理で一歩一歩前進しているようです。だから、科学者の使う論理もアートなんだと思います。
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#3のところで数学や記号論理学で表現されるような、時系列的に一次元的に並んだ記号の流れで表現される特殊な、論理の中でも極端に制限された論理のことに触れました。

ここでは、このように時系列的に表される数学的な論理と、絵画などで空間的な相関に基づいて表される論理と、どちらが所謂科学的な論理なのか、と言うことに触れておきましょう。

多分、ご自分で科学に於ける創造的な営みをした経験のない方には、数学的な論理の方が科学では頻繁に使われれいるのではないかと思う人が多いかも知れません。しかし、実際は絵画に表現されている論理が大変重要な役割を演じています。

何かを説明するときに、数学のように言葉と言葉の間の局所性的な整合性を論じて問題を解決しようとすると、中々全体像が見えず、頓珍漢な方向に行ってしまう場合の方が圧倒的に多いです。そこで、一歩下がって全体を眺めて、今までの自分の経験で培われて来た自然観や世界観に照らして、各々の事象が収まる所に収まっているか、という絵画的な空間相関を使いながら、論理を進めて行く。この場合、まだ、各事象の隣り合わせの事象との局所的な整合性などは、余り重要ではありません。そのようにして、全体像を段々と形ある物にする過程が、創造的な営みでは決定的になります。

そして、各現象がいよいよこれで良いという、収まるべきところに収まったと確信が持てて来たら、数学による時系列的で局所的な論理を使って、だめ押しの確認をする。ですから、物を創り出すときには、空間相関に基づいた論理が重要であり、そして、それが解ってしまった後には、数学的な時系列的論理が後付けの確認として重要になります。もちろん、実際の研究過程では、この空間相関に基づいた論理と、数学に基づいた論理が螺旋のように行ったり来たりしながら、ものが作られて行きます。

ところが、科学の教科書や数学の教科書に書かれていることは、既に解ってしまっていることが書かれているので、どうしても数学的、あるいは記号論理学的な表現で論理が提示されている。更に、殆どの教科書は、その教科書を書いた人が自分で見付けて来たことを書いている訳ではなくて、他人のやって来たことを勉強してして書いている。従って、それを見付けて来た人のやって来た空間的相関に基づいた把握の部分がほとんど理解されておらず、自分が勉強をした後付けの数学的論理ばかりで解った気になり、そしてそれだけが書いてある教科書が圧倒的に多いです。

その点、オリジナルに物を作り上げて来た人の書いた教科書は、数学的な論理では表し切れない得体の知れない表現が其処此処に散在しております。実は、解る人が解るとその方がよっぽど解り易い。その得体の知れない部分とは、まさに、絵画的な空間的相関に基づいた論理が語られている部分です。

私は若い頃、朝永振一郎の『量子力学』のそれも第一巻を読んで、この本は、他のほとんどの量子力学の教科書のようにいきなり完成された量子力学を語るのではなくて、くどくどとその完成に至る先人達の神懸かりに大多数の頁を割いており、何だか不思議な教科書だと思ったことがありました。朝永は量子力学の黎明期に活躍した人ですから、その神懸かりの裏を良く知っている。それを、まさに、俳句や和歌のように絵画的な論理を駆使して説明していたのですね。私は後に物理学の専門家になって創造的な営みに参加できるようになってから、私が若いときにこの教科書で量子力学を勉強したことを、大変好運だと思いました。

逆に、ほとんどの量子力学の教科書に書いてあるように、なるべく神懸かりには触れずに、完成された数学的論理ばかりを勉強して来た人のなかには、論理とは数学で代表される論理しかないと誤解する人もいると思います。その人には、俳句や和歌がどうして論理なのか解らないと思います。

この、収まる所に収まっているという論理が在る限り、今後どんなに発達したコンピューターでも、その神懸かりの部分は人間には敵わないと思います。
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創るとゆうことにおいて、


感じることにおいて
人のことなんか知るかいな(関西風いいまわし)
1対1の対峙,交信。
頭の中に何が収められているか、帳面を使って書き出すやつなんかいない。
が、論理的な欠片やつまらない理性のなかから、暖簾をくぐるように
出てくるものもある。

鳥ミンチと豚ミンチを寸胴のなかに入れて水から煮立てていく
沸騰する寸前で火を弱める  と 透明なだしになる
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歌は、唄であるがゆえに、音で伝えるものである。


同音異義語が多い、母国語の中にあって、音の響きをもって
正確に伝えなければ、誤った意味で、受け取られかねない。
様々な状況に立たされたうえで、詠まれた歌は、
よもや真剣勝負に違いない、とは想ふに難くなかりける。

言葉の選び方ひとつで、人生を無駄にする危険もあった
かもしれない暗号としての機能も兼ねていた筈ですから。
(根拠を調べては、おりませんが)
これで、理性が働かないわけがない。とぞ思ふ。
そこで歌をひとつ。


 泥の重さに 泥の深さに美しき 諸行無常の色とりどり

字余り。
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三句に共通している事は過去の時間性です。


それは多くの事柄を連想させるものです。
だから疲れてきます。
味わいがあっていいのですが、ほどほどにという感じもします。

俳句は写生が一番だと思っています。
今という一瞬を切りとった新鮮なものです。

永遠の中の一瞬です。
それは、永遠の中の一瞬に自分が立ち会ったという証明です。
その変わらぬ新鮮さが俳句の命のように思います。
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