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正直理解できない考えなのですが。

A 回答 (15件中1~10件)

悪という目に見える結果に至った原因を、どこまで遡ったかによって、対処の仕方が変わってくると思います。



死刑を望んで無差別殺人をした人でも、報われなかった、報われなかったことを活かさなかった過去の経験が原因になっていると思います。
得てして、悪に善意をもって接するということは、その原点を呼び起こさせようとしているんだと思います。
だから、被害を受けたくないから善意を施すこととは区別したいとは思います。
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たしかに、悪に善意をもって徹する必要はありません。


しかし、悪人には善意をもって徹するのが妥当な対応ではないか、と思います。
悪を為す人は悪人と呼ばれますが、悪そのものではないからです。

悪を為したくて為す人はいません。
表面的に好んで為しているように見える場合も多いですが、悪人の立場にしてみれば、そのように自分自身が追い込まれてしまっている、というのが実態でしょう。
社会的にはそれであっても自己責任を問われるべきですが、「悪人=悪」という捉え方からは根本的な進展が得られません。
生まれながらの悪人は存在せず、人間は悪人になることがある、というだけのことです。
「悪人=悪」という捉え方は、この【(悪人に)なる】という構図・構造から目をそむける思考になってしまうでしょう。

この【(悪人に)なる】要因には、その悪人を取り巻くあらゆる意味での環境が大いに関わっていることは容易に推測できるはずです。
その環境を構成している一要素としての我々が、【(悪人に)なる】という構図・構造から目をそむけるということは、自らの存在している環境、同時に自らの存在自体から目をそむけることに他なりません。

悪そのものは大いに糾弾されなければなりません。
しかし、それを為す人間自体に対してはあくまで善意で対応する必要がある。
なぜかというと、それは自らの人間としての可能性を最大限に伸ばすベクトルを善意という思考形態が持っているからでしょう。
悪に悪意で応じても得られるものが何もないことは人間心理の必然であり、実際問題としても歴史によって証明されています。
「悪人」の「人」の部分は潰さず「悪」の部分だけを潰す、というスタンスがあるかないかで大きな違いが生じてくるはずです。
偉そうに言うがお前はそれを言動の規範として徹底しておるのか、と問われればノーとしか言えないのが甚だ遺憾ではあるのですが。
    
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 こんにちは。



 1. 《存在》が 善です。《生きること》が善だ という大前提です。自由および平等が 公理として――つまり証明抜きで人びとに共通の決まりとして――受け留められているように。

 2. この善意で 善に対しても悪に対しても 向き合う。

 3. ほかの対処の仕方は ありますか?

 4. 悪に悪もしくは悪意をもって当たるということは それは 生きること(つまり共生)にとっては 対処の仕方ではないと言えると思います。問題に対処するということではなく その問題の中でふざけているという意味にしかならないのではありませんか?

 5. 人に迷惑をかけなければ悪行もそしてそれに悪意をもって向き合うことも自由だという見方が 妥当性をもってではなく 世の中では支配的ですが。

 6. 悪行もそれに悪意をもって向き合うのも 人間に成りたくないというふざけた甘えの状態です。人間以前の状態にとどまっていたいという駄々です。

 7. ということは 人は誰でもあやまちうるわけですから すなおにごめんなさいとあやまればよい。こういうことになっています。何回でもです。
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地上で最も優れた戦士よ.憶えておいて下さい.



あらゆる生物を,自分と同等にみる者は,完全である.
しかしときとして愚かなる者も,たしかに居るのだ.
それは,あわれむことであって,迎合すべきことではない.

正しき智慧を持つ者よ.聴いて下さい.

善が治政の手抜かりを教えてくれはしない.
手抜かりを教えるのは,いつの世も悪の役割である.

ああ あまりに古典的であり 人間的な哲学.
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理解できた時は、後悔が人生の背後に山となっていて、その堆積に押しつぶされますよ。


理解する必要はない。
いつも自分である必要。
自分であるというのは悪という一時の現象や自己でのそういう受け取りではない。
世の中は、実をいうと善以外には存在していない。そしてすべてが悪だけです。
そういう世の中で、自分が悪だと思った事項事柄にそういう思った悪で対抗すれば自己を喪失する。
近代人(そんな書名の本が55年前、現役図書館時代に学生たちに人気がありました)だけでなく、古代からの人間の自己疎外となる。
ということですね。まぁ一杯後悔するとわかってきます。
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こんばんは、sirouto9810さん。



正直理解できない考えなのですが。



そっか、理解のたすけになるかどうかわかんないけど…


「悪には善意をもって徹するという考え」を


こういうのをひとつ例にとって考えてみてみては?


【救貧法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E8%B2%A7% …
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アホ面間抜け面が雁首そろえているな。



私は善性を突き抜けて愛そのものとして輝く。
そのような私は悪に染まる事はない。
すなわち私に悪はなく、生きる事のみをつちかう。
かようであれば、君たちアホ面の悪は固定され私に悪で報いる事はない。
私の愛は悪にむしばまれる事はない。
あくまでも私と言う一個人の見解だ。
所詮君たちには理解できないだろう。

あーら かわいそーねー。
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善意で悪が抑えられてしまうからでしょう。


でもこれは意識的にできることではないと思います。
実例ですが
私が中学生だった頃は、わくぱく揃いで先生にしょっちゅういたずらばかりしていたのですが
中には、どうしてもいたずらをしずらい先生がいました。
その先生は格別厳しくて怖いわけでもなかったのです。
いつも落ち着いていて、優しく、授業熱心な先生でした。
どういう訳か、その先生に対してはいたずらをしずらい感じがしたものです。
その真面目さ、優しさに逆らえない感じがしました。
善意に満ちた人格に、悪意の芽が摘まれてしまう、といったものだったのでしょう。

人格から発するものに逆らえなかった、ということは
見せかけの善意や優しさではなかったのでしょう。
と、まあそんなところです。
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自分が『善』であると定義する以上、どんなことに対しても『善』でないと自分のアイデンティティを保てないということです。

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悪も善もひとつの社会における基準(ふつう)からの相対的な隔たりとして位置づけられます。


その社会での悪をなくすこと、そしてひたすら善を行うことで社会は破滅をまぬがれ継続出来ます。
そう考えれば悪をなくすために善が用いられるのは当然のことです。

社会が違えば悪が悪でなくなり、この考えは通用しなくなることもあります。
北朝鮮における善は日本では悪になる場合があります。この悪に対して善で対応することは、必ずしもいい結果にならないようです。

ご参考まで。
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