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最近、友情とは何かを考えているのですが、私は次のモンテスキューの言葉が気になっています。というより、私の関係の大部分を集約しているように思います。

>友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、 お返しに大きな親切を期待する契約である。

モンテスキューによれば、友情とは、「契約」であり、かつ、少ない元手で、大きなメリットを見込める関係だというのです。ムシがいいと言えばそれまでですが、これは現実にあるような気がします。たとえば、カウンセラーを友達に持てば、無料で相談ができるでしょう。学者が友達にいれば、無料で教えを請うことができるでしょう。本当ならアポを取って、お金を支払うべきところを、無料でやってもらえることになります。私の方でも、専門を生かして相手を助けますが、金銭のやり取りよりは、支払うべきコストとして楽であるわけです。

しかし、一方で、友情とは利益に関係なく成立する純粋なものだという意見もあるかと思います。そしてメリットを見越した上でしか友情が成立しないのだとすると、能力のない者は友達など持てないことになるでしょう。となれば、これは何かしら偏った意見であるには違いありません。ところが私は、対人関係において、メリットの無い関係というものがよくわかりません。そこで、皆さんに伺ってみることにしたのです。

1.モンテスキューの言葉をどのようにお考えになりますか?
2.メリットやデメリットを考えない純粋な友情をお持ちですか?
3. 2について、Yesであるのなら、何が関係を成立させる基盤になっているとお考えですか。
4. 友情をどのように定義しますか?

A 回答 (16件中11~16件)

 No.6です。



 ★ 「こころざし」を定義・説明してくださいませんか?
 ☆ これは まづはほかの言葉として《夢》や《実行性を超えた現実》と言っています。

 たぶん
 ★ 精神的な同胞という意味で、「こころざし」とおっしゃっていますか? 
 ☆ これは 違うでしょうね。《精神的な》という規定は なじみません。《ただ そこに わたしと友とがいる》というところに成り立つものだと思うからです。
 したがってわざわざ《同胞》という規定もしないでしょうね。《はらから》であれば――特に同じ日本語を話すのであれば―― 友情はつちかいやすいかも分かりません。

 《政治運動》が関係ないことは すでに含まれていますね。

 ★ あなたのそのご友人と、どのような「こころざし」を共有なさっていたのでしょうか。
 ☆ 強いて言えば――《ただそこにいる》というだけではなく 強いて言えば―― この場合は 高校の同窓生であるという共通の基盤です。時空間を同じくしたというそれです。しかも同級生ではなく あまり話し合ったことはなかったのでした。それでも あとから(かなり歳を取ったあとから)その頃を振り返って話に花を咲かせるうちに かなり何かが培われたといった事情です。





 人間の《現実》は 実行性のみによっては成り立っていない。という命題をめぐって問い求めた質問があります。もしそのような《事実世界プラスアルファ》というような場が 現実であって 人はその場の住人であるとなれば めでたし めでたしなのですが 果たしてどうでしょう?


 ☆☆【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html

 (趣旨説明欄) 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?


 まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。

   ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?

 この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに

   ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。

 と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。

        *

 さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。

 まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。
 たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

 ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
 たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。
 つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?

 いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 
 いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。

 もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。
 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 
 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。

 ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。
 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。
 
 もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。
 これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。
 という憶測としての発見をきょう得ました。

 ご教示ください。


 * おまけもしくは余分:
  悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?
 余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。
 ご教示を願います。
 ~~~~~~~~~~~

 強引にボールをそちらのコートに入れてしまった格好ですが。

この回答への補足

あなたとしては明晰に書いたつもりなのかもしれないので、補足しておきます。

>まづはほかの言葉として《夢》や《実行性を超えた現実》と言っています。
普通の意味で考えると、志は、上記の言葉とはかなり違ったものです。言葉をまぜこぜにしないでください、という感想を持ちました。

>《はらから》であれば――
同胞が平仮名になっただけではないか、と思えます。意味が定義してあり、その差異を強調する形で示してくだされば、了解できたかもしれません。

>何かが培われたといった事情
「何か」では何も答えていないのと同じなのです。その「何か」を聞いているのですから。

おそらく私の質問に明晰にこたえきったわいと思い、それよりは自分の問いに答えてみよ、というところなのでしょう。しかし、こういう破格のものに、私は応答しません。これは討議論理としても、ネットのエチケットとしても当然のことに思っています。あしからず、ご了承ください。

補足日時:2012/02/06 17:52
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ですが、正直、ほとんど意味が分かりませんでした。お答えは、Aではない、Bではない、Cでもない、というお話しで、では何なのだ?というのが私の疑問です。ある程度、その連想をめぐらせる片鱗は書いてありますが、語の定義が無いので、意味が分かりません。想像力で補うことはできるでしょう。しかし私は言葉で明晰に書かれたもの以外、申し訳ないですが、相手にしたくありません。

私のこうした態度に対する反論として、明晰でない存在について、虚数云々を持ち出されるかも知れません。しかし、私はまったく関心がないので、何も思いません。「ご教示願います」とあり、どうやらボールを投げ込んできたとあるからには、私の反応を求めているようですが、何も思いません。強いて言えば、何の関係もないことを、話の連想から持ち込んできたと捉え、あなたが私と雑談をしたいのかな?、私の質問にも明晰に答えていないのに話題を勝手に変えようとするとは失礼な方だな、と思うくらいです。

お礼日時:2012/02/06 17:33

 こんにちは。

お邪魔します。

 ○ (モンテスキューの心の内なる影の声):じつはわたしは 利害関係を超えた――ということは 利害関係に換算すると こちらの持ち出しになってもよいと〔無根拠にて〕思える――あいだがらが 友情としてあると思っていた。けれども・・・かなしきかな 人間よ。

 ☆ というところではないでしょうか? 
 ただし モンテスキュー本人の心つもりなどなどは 申し訳ないですが 知りません。

 (1)への回答でしたが これは(4)にも答えていると思います。

 (3)についても 少し延ばして《こころざし》といった基盤を考えればよいかと思います。

 (2)については 双方向の問題になりますが それでも主観のみでいいよということでしたら 《純粋な友情》を持っています。ただしどこまで発揮できるかは 微妙です。
 つまりその意味は 健康保険も年金にも入っていない しかもこの歳になって仕事が減ってしまった たすけてくれと言われて こちらの財力を超えて助けることは出来なかった。共倒れをおそれて しなかった。(ごく微細なことのみしかできなかった。でも 持ちこたえたようでもある)。コネも何も金づるはないのだと初めに言ってあったのだけれど 純粋さを最後までは発揮しえなかった。

 でも モンテスキュー先生にしても その実行性を超えてなら 友情は志において現実であると思っているのではないでしょうか? 
 そのような夢をもちつづけることは 世間では 阿呆と言うようです。

この回答への補足

No3さんの意見をラディカルに展開するなら、身をなげうつべきなのでしょうね。No4の方も、身を危険にさらして、友人を庇ったようです。実効性を伴うからこその同胞というわけです。この意味では、あなたのおっしゃっている意味は、少し違うかもしれません。

私はアホとは思いませんよ。中国やインドでは、同胞=親類を養うでしょう? 日本でも、かつては村の同胞に対して貢献していたでしょう? 現代でも、大学に多額の寄付をする人もいるでしょう? 学閥を作って、使えない人材なのに、その面倒を見てあげて、優遇する人などいくらもいます。なぜか。そこに自分の帰属意識があるからです。帰属意識を持つなんてことがバカらしいと思う人にとっては、この手の友情はデメリットをもたらすだけで、そもそも阿保らしいことになることでしょう。

そういえば、あなたは前に、どこまでも平等で自由なコミュニケーションを取りたいとおっしゃっていましたね。友情が無ければ、それは不可能であって、友情こそ、あなたが関心を持つべきテーマではないかと思えます。

補足日時:2012/02/06 16:58
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この回答へのお礼

ありがとうございます。モンテスキューの内面の声は、そのようなものかもしれません。この意味では、彼は純粋な友情を見出したがっていた、ということはできるでしょう。次の点は何を言っておりますか?

>(3)についても 少し延ばして《こころざし》といった基盤を考えればよいかと思います。

志といえば、新撰組のイメージで、何かの政治運動のようなものが真っ先に思い浮かびますが、そういう意味でもなさそうです。あなたのそのご友人と、どのような「こころざし」を共有なさっていたのでしょうか。

ちなみにNo3とNo4の回答から私がくみ取ったことは、友人とは同胞であり、自らのアイデンティティを支えるための基盤となるものであるということです。No3の方にとっては、同胞には無限の価値を見出すべきであって、いかなる貢献も小さなものでしかない、ということのようでした。精神的な同胞という意味で、「こころざし」とおっしゃっていますか? 

以上、「こころざし」を定義・説明してくださいませんか?という補足要求です。

お礼日時:2012/02/06 16:42

打算であれば、友情とは言いません。


確かに、自分が困難に直面した場合には、「相手に
より大きな貢献を期待する」関係ですが、逆に相手が
困窮した場合には「自分に大きな貢献が期待される」、
つまり打算=経済的な等価交換をこえた、潜在的な
利害の一致を想定した関係なのです。
それを可能にしたのは、人間における社会行動の
可能性=同等の機能の対立ではなく、助け合いに
よる共同が可能な遺伝的進化+認識の深まり(非
自己中心的な客観性&長期的な観点)によります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。友情とは打算ではない。だが、「潜在的な利害の一致」がある、ですか。何か深いことを言っているようですが、結局は、「長期的な観点」に還元されるのですね。すなわち、長期的に見ると、何かしらのリターンが来る可能性があるというわけです。「情けは人のためならず」というわけです。これって打算じゃないですかね? 

あと、おっしゃっているのは「友愛」であって、友情ではないと思います。話のスケールが共同体のレヴェルになっていますので。

お礼日時:2012/02/06 15:58

ふふふ。

。。

これはこれは、えらい具体的な例を持ち出して来ましたね(笑

哲学など、型にハマってしまえば余計理解出来なくなるものですよ。

モンテスキューがどう言う意味でその言葉を残したか、元より本人でなければ分かるものではありませんが、自分であれば、友情にしろ、愛情にしろ、メリットデメリット、強いては利得関係はどんな場合にも発生すると思っております。

>友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、 お返しに大きな親切を期待する契約である。

本人から見た目線をどう捉えるかだと思うのですが、自分の場合、親友などに対しては「どんな行為も小さな親切」にしか思えません。
つまり、自分のどんな行動も苦に思わないんですな。
相談されれば、どんな時でも力になるとは思っておりますが、それは相手から見れば「小さな親切」なのか「大きな親切」なのか分かりませんがね。

対し、「相手が自分に対して行動してくれる全ての行動は大きな親切」だと思っています。
自分が相談に乗ってもらったりした際などは、本当に助かると思いますし、またその行動を当たり前だとは到底思えません。

そういう存在がいてくれる、それだけで自分にとってはもう十分立派な「見返り」ですからね。

人は常に何かを求めている存在ですので、これは大きくて、これは小さいなどと目先の事にばかり気を取られているようだと、自分に取って本当に必要だった大きな何かを失ってしまう事になるのでは?と思います。
それに気付くのが、自分の定義ですかね。
もちろん、親友以外には適用出来ませんが。。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。モンテスキューの言葉の解釈をする際に、「大きい」と「小さい」の意味を私とは別の文脈でとったということですね。であるからにして、私の質問の項目に沿って回答することはできない、と。私はモンテスキューの学者ではないので真相はどうだか知りませんが、一つの脱構築的な解釈として、承っておきます。さて本題です。

>そういう存在がいてくれる、それだけで自分にとってはもう十分立派な「見返り」ですからね。

友人が自分の存在を成立させるために不可欠な要素であるということですか。私はそういう気になったことがありませんので、よくわかりません。恋人であろうが、誰であろうが、そういう気持ちになったことが無いのです――となると私は存在していないも同じか、自分の存在について未熟な考えしかもっていないということなのかもしれませんね?。差支えなかったら、具体的に、あなたはご自分をどういう風に定義していて、どういう友達がいらっしゃるのか、具体的に教えていただけませんか(個人情報に触れない範囲で)。私にとっては抽象的すぎて、今一つ、理解ができないのです。

お礼日時:2012/02/06 15:51

友情を定義した事はありませんが私自身ごく親しい友人とは「自分が自分らしさでいられる事」だと思います


友人関係で親切を期待してするものでもなく困っていれば助けて又自分も困っていれば助けてもらって
支え合って信用できる関係だと思います

綺麗事かも知れませんが裏切られたら自分にとってそれまでの人だったんだなと学習能力をつけそれなりに付き合っていきます

この回答への補足

後で考えが進んだ結果、こちらの意のままに動いてくれる相手でなくても、友情と呼びうる関係が成立することに思いあたりました。その点については、また別の問いを投稿しました。お礼欄がかなり皮肉な書き方になってしまいましたが、私の未熟さのためですので、どうぞお許しください。

補足日時:2012/02/07 09:05
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「自分らしくいられる」ですか。これは一緒にいて、気づまりにならない人、自由に振舞える相手が友人だということでしょうか。自由を確保することを問題にする時、少なくてもお金に換算できる利害は問題ではないということは、理解できます。というのも、良くも悪くも、自分より目下であるとか、能力が乏しい相手の方が、こちらの意のままに動いてくれそうですから、好都合であると予想できるからです。

お礼日時:2012/02/06 15:18

哲学者はどうしても時代背景や、自分の経験を含んだ表現になりますので・・・



1.あぁ、なにか昔、友達に裏切られたのかなぁ、いやになっちゃったんだなぁ、と思います。
2.メリットデメリットを考えてから友達になるのではなく、友達になったらメリットデメリットだった、ということはあります。そして、そのどちらでもない人ももちろんいます。
3.友情のきっかけは千差万別です。たまたま食堂で隣同士だった、とか、職場で同じグループに属した、とか。要は環境とタイミングです。
4.結果論です。つまり、仲良くなって、それが続けば友情です。

この回答への補足

申し訳ないのですが、環境やタイミングが合わなくなって消滅する関係であれば、そもそも、それは友情でも何でもないように思えます。「何となく一緒にいるだけ」の知り合いではないでしょうか。

補足日時:2012/02/06 15:22
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この回答へのお礼

早速、ありがとうございます。3について、私が聞きたい意味とは少し違っていると感じたので、伺わせてください。利害関係が無いのなら、何が関係を継続させる動機になっているのですか? つまり、たとえば環境やタイミングが合わなくなれば、友情は消滅するのですか?

お礼日時:2012/02/06 15:09

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