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「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。…

…わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない。…」

イエスは平和をもたらすものと思っていたのですが・・・、クリスチャンはこの聖句をどう解釈しているのでしょうか?エホバの証人の学生が剣道の履修を拒んだのは有名な話ですが、私はこの話を知って以来、キリスト教は平和主義なんだ、という印象を抱いていたのですが・・・。どうなんでしょう?

A 回答 (7件)

イエスの言葉における戦いは領土争いなどの地上の戦争の意味ではありません。

彼はそれまでの表面的な旧約聖書の解釈に意義を唱え、真に神の言葉を伝えようと闘っていたのです。救世主が現れ自分たちを救ってくれると信じていた民衆を前にして、自分は富や権力による楽園をもたらす者ではなく、精神の救世主であることを伝えようとしていました。それはその後の使徒達の殉教を含む布教の道のりを思えば明白です。神の愛を説くイエスの新しい考えを受け入れるには既存の常識、考えをまず破壊しなければならないこと、そのため既存の権力と対立し、さまざまな場面で迫害されるだろうから覚悟せよと言っているのです。
このように聖書の深い言葉の意味を部分的に切り取って解釈しようとしては、駄目です。薄っぺらな解釈しかできません。
聖書の言葉はそれほど深いと、私は思います。
疑問を持つことは、興味の入り口ですから、いいことですが、新しい思想や考えの真意を推し量るにはなるべく先入観や自分自身の思い込みを排除して臨んで下さい。
世界中の宗教学者がずっと研究してもたどり着けない聖書の言葉です。拙い私の解釈だけでなく、色々調べ、あなた自身の解釈を見つけてみるのも良いかと思います。
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この回答へのお礼

primonさん、回答ありがとうございます。
字義通りにとらえるのではなく、イエスが込めた意図にまで思いを致すべきだ、ということですね。
とても参考になりました。

お礼日時:2012/05/11 09:44

カトリックのクリスチャンです。


こちらの本が参考になります。

『下町の神父―青年労働者と共に生きて』大原猛 著

旧約聖書では神はご自身を「熱情の神」といっています。私はこれを、神の義に対する熱い思いをお持ちの神、と理解してます。

神の義とは、一人一人が神の愛と真理を知り、本当の平和を実現することだと私は考えています。ただし、この平和は表面上、争いがない状態を指すのではなく、誰一人とて虐げられていない、高い次元の要求を伴うものだと思っております。

しかし、自由な意思をもった人間は、時に神の愛を忘れ、人を傷付けたり、虐げたりしてしまうものです。そればかりか、社会制度そのものを、ある特定の人間を搾取するような仕組みにしてしまう事も、歴史をひもとけば多々あったかと思います。

このような世界において、神の義を実現するには並大抵な事ではないと思います。改革者が現れると、旧態以前の人々と必ず衝突します。実に様々な衝突があり、険しい道のりでしょう。イエスはそれに気付いていたのでしょう。それでも神の義の実現に燃えている様子や強い決意がこの一節から感じ取れます。

このような思いを持たなければ神の義は実現しないと伝える一節であり、平和の追求と矛盾しないと考えております。

紹介した本にはそのあたりのことがもっと分かりやすく書いてあります。
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この回答へのお礼

Paulus0412さん、回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/11 09:45

http://www.jesus-web.org/radioprg06/prg_seisho_2 …

ここに解説がしてあります 雑な言い方だけど アンタ無抵抗で十字架のもとで亡くなったキリストさんに失礼だよ

アラを拾ってナンボの伝道ならやめとけば? アンタの言い方だと「剣」より危ないな

この回答への補足

>アラを拾ってナンボの伝道ならやめとけば? 
あの、私はクリスチャンではないんです。本屋に宗教を学ぶ人のための入門書みたいなのがあって、そこでこの聖句を知っただけなんです。気分を害してしまったとしたら、本当に申し訳ないです・・・。

補足日時:2012/05/10 08:44
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この回答へのお礼

ご紹介のページ、実に役立ちました。
キリスト改革派教会という組織があることをはじめて知りました。
宗教には疎いもので。私の無知ゆえに、誠実な信仰者の方々を傷つけないよう、これからは細心の注意を払ってまいります。
ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/10 08:49

No3です。



先の回答に間違いがありましたので、訂正します。

誤  35節 イエズスは平和の王であるが、その平和は欲望と不条理な愛情に反する戦いの果実である。 
   36~38節 家族への愛情を禁ずるわけではない。その上にもう一つ尊い愛があると教える。

正  34節 イエズスは平和の王であるが、その平和は欲望と不条理な愛情に反する戦いの果実である。
   35~38節 家族への愛情を禁ずるわけではない。その上にもう一つ尊い愛があると教える。

です。節の数字が間違っていました。失礼をいたしました。
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この回答へのお礼

No2の回答者さんが、「キリスト者は、普段の生活では争いを避け他人を重んじて生活することになっていますが、ことそこに宗教が関わると最優先事項はキリスト教の神が最優先事項になるのです。」とおっしゃっていました。私はそれが納得いかなかったのですが、Z31さんの説明で理解できました。
>家族への愛情を禁ずるわけではない。その上にもう一つ尊い愛があると教える。

なるほど、そういうことですね。よくわかりました。ありがとうございました!

お礼日時:2012/05/10 08:40

34節 私が地上に平和を持って来たと思ってはならぬ、平和ではなく、剣をもって着た。



35節 つまり、私は、息子をその父から、娘をその母から、若い嫁を姑から分かれさすために来た。

36節 人は、自分の家の者を敵にするだろう。

37節 私よりも息子や娘を愛する人も私にふさわしくない。

38節 また、自分の十字架をとって私に従わない人もふさわしくない。

>クリスチャンはこの聖句をどう解釈しているのでしょうか


とのことですが、上記各節に対するカトリックの解釈は次の通りです。

35節 イエズスは平和の王であるが、その平和は欲望と不条理な愛情に反する戦いの果実である。

36~38節 家族への愛情を禁ずるわけではない。その上にもう一つ尊い愛があると教える。

昭和32年12月10日発行の新約聖書
訳者 フェデリコ・バルバロ
発行所 ドン・ボスコ社

から引用しました。
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キリスト者は、普段の生活では争いを避け他人を重んじて生活することになっていますが、ことそこに宗教が関わると最優先事項はキリスト教の神が最優先事項になるのです。



まあ、たいていの宗教ってそうですけどね。
社会をうまく営んでいく方便として戒律のようなものがいろいろありますが、一番大事なのはその信仰の対象なんです。


エホバの証人はキリスト教原理主義のひとつでですが、主流からは異端視されています。
まあ聖書を字義通り解釈すれば、剣道や柔道だけでなく戦いのシミュレーションであるスポーツ競技は全て拒否すべき、ってことらしいですね。

余談ですが、エホバの証人は偶像崇拝や悪魔崇拝を極端に排除しますから子供が「ゲゲゲの鬼太郎」や「魔女の宅急便」を見たがってもそれを許さなかったりします。妖怪や魔女なんて有り得ざるものを表現するのは悪魔の仕業なんですね。

この回答への補足

hunaskinさん、私はマタイ福音書10章34節の解釈についてお尋ねしているのですが・・・。というか、あなたはクリスチャンなんですか?

補足日時:2012/05/09 15:46
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この回答へのお礼

「あなたはクリスチャンなんですか?」などと言ってしまいすみませんでした・・・。参考になりました。ありがとうございます!

お礼日時:2012/05/10 08:41

キリスト教を平和主義だと思っているのは無知蒙昧な日本人だけです。

エホバの証人はキリスト教と何の関係もありません。

この回答への補足

mekuriyaさん、「キリスト教を平和主義だと思っているのは無知蒙昧な日本人だけです。」ということは、あなたはマタイ福音書10章34節を字義通りに受け取っているということですね。ご回答ありがとうございます。

補足日時:2012/05/09 15:48
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