プロが教えるわが家の防犯対策術!

鎖国について質問です。

学校でこのような問題があって、それに答えるのに困ってます。


(1)そもそも鎖国とはどういうことか?
(2)それはどのような目的のもとにされたのか?
(3)その結果どういう状況になったのか?
(4)それはどのように破綻されたのか?
これらを結びつけながら鎖国とは何なのか、なぜ幕府はそれを国策としたのか、まとまった文章を作りなさい。


お願いします。

A 回答 (8件)

偏った意見なので,後で必ず検証するように。


1.国を閉ざす。外国との政治的、経済的、文化の交流をしない事。
2.豊臣秀吉,徳川家康の時代に,キリスト教布教を建前として,ヨーロッパ列強国が,国内の武力をキリスト教の名の下にヨーロッパの軍事侵攻を手助けさせるのを阻止するため。
東アジアの植民地化がそのようにおこなわれていた。と判断したためだと言われている。
キリスト教徒が大名などの支配者へ平然と反抗していたのは、神の前では平等だと言う教えが,支配体制の邪魔になる。と殆どの本には書かれている。
3.ヨーロッパからの影響が少なくなり,国内統一の時間が稼げた。キリスト教文化が入らなくなった事で,日本独自の文化が育った。
武器に関しての技術が停滞した。外洋への航海技術が衰退した。天文学や数学などは,オランダや中国経由で入ってはきていた。
4.黒船の来航と,その後の欧米視察により,軍事的に圧倒的に遅れを取っている事が認識され,侵略を受けないようにするには,鎖国を辞めて,軍事力を強化する為に技術を流入させるしか無い。と、幕府が判断したため。

3と4を含めてしまうと,幕府の国策としての判断とは言えなくなると思うが,
きれいごとで言えば,外国勢力を排除する事で,国内を統一し、戦の無い世を作り上げる事。を目的とした。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

学校の宿題?の「まる投げ」は、このサイトの規約違反ですよ。

でもまあ、少し長文ですが、以下を読んで、後は自分で整理してみてください。


「鎖国」と聞くと、まずは、長崎の出島だけでの交易が思い描かれると思いますが、「四口(よつのくち)」と呼ばれる方法で、鎖国時代(江戸時代)でも、海外との交易の路は開かれていました。
1.中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
2.中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
3.中国やオランダから長崎(出島)へ、そして、幕府への路。
これが、一般的に知られる鎖国時代の正規のルートと、多くの人に知られている路です。
4.蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。


(よもやま話)
これまでの考え方:(通説)
(1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。
(2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。
(3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。
これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。
さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。
なお、当時の日本の「銀」の産出は「石見銀山」が世界市場でも2%位を占めていたといわれています。
そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。
(4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。

もう一つの考え方:(日本側)
(1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。
(2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。
(3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。
(4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。
そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。
しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。
(5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。
(6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。
これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。
従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。
寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、
「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」
との諮問が出されている。
(7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。
*慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。
*寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。
*寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。
*寛永14年(1637)、島原の乱。
*寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。
*寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。

「鎖国」という言葉について:
(1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、
「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」
と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。
(2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。
(3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。
(4)著者の東大教授藤田覚氏によると、
「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」
と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。
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教えて!goo[鎖国]についての検索結果 ( 約1519件中 1~10件を表示 )

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ロナルド・トビ『「鎖国」という外交 』(小学館、2009年)を読んでまとめてみてはいかがでしょうか?


問題の意図が旧説にのっとったものであるなら、出題者の模範解答と大きく食い違うでしょうが、それは出題者の勉強不足ですので、いい刺激になるでしょう。
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今さら回答するのも意味がないようにも思うのですが、先日質問と回答を見て気になった点があったので、まだ回答受付中のようですので遅ればせながらになってしまいますが回答してみることにしました。


問題についての直接の回答は山川出版社の『詳説 日本史』のレベルで回答しているつもりです。「補足及び参考」については難しいかもしれませんが、ウィッキーなどを参考にしてください。分からない部分は高校の先生に聞いてみてください。
なお、教科書はかなり詳細に書いてありますので、脚注も含め、読み返してみると得ることがあると思います。日本史頑張ってください。

鎖国について質問です。

学校でこのような問題があって、それに答えるのに困ってます。


(1)そもそも鎖国とはどういうことか?
日本人の海外渡航を禁止すること(在外日本人の帰国の禁止も含む)。
外国船の来航を規制し、オランダ・中国(明・清)・朝鮮・琉球以外との交渉を閉ざすこと。
オランダ商館を(平戸から)長崎の出島に移し、長崎奉行が厳重に監視する体制が完成した寛永16年(1641)から鎖国の状態となったとされます。(実質的には1639年のポルトガル人の来航禁止で完成とする。)

(2)それはどのような目的のもとにされたのか?
幕府の封建支配の維持・強化のため
キリスト教の禁止政策。
幕府が貿易の利益を独占し、諸大名(特に西国大名)が貿易により強大化することを防止する。

(3)その結果どういう状況になったのか?
オランダ・中国(明・清)・朝鮮・琉球以外との国々との結びつきを絶ち、交渉を閉ざした。

(4)それはどのように破綻されたのか?
18世紀後半、イギリスから始まった産業革命は、ヨーロッパ各国やアメリカに及び、工業力・軍事力を増大させた欧米諸国は国外市場や原料供給地を求めて植民地獲得に動きアジアへの進出も本格化した。そのような中でアメリカは捕鯨船の食糧等の供給地及び清国への貿易船の寄港地として日本の開国を意図した。
このような中で1840~42年に清とイギリスの間で戦われたアヘン戦争とその結果は日本の外交・開国に大きな影響を与えた。
1846年6月アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(ビドル)は浦賀に艦隊を率いて来航、幕府に通商を求めたが、幕府は拒否。
1853年アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーも浦賀に艦隊を率いて来航、開国を求めた。幕府は翌年に回答するとして国書を受け取る。
1854年1月ペリーは最後来航し、幕府はその圧力に屈して同年3月日米和親条約を結んで開国し、鎖国は破綻した。
ロシアのプチャーチンも1853年7月に長崎に来航して開国を要求した。翌年1月に長崎に再来航したが交渉はまとまらず、8月に函館に再々来航し、大坂、下田と移り、下田で12月に日露和親条約を結んだ(西暦と和暦に差があり、教科書は現在和暦をもとにした年を用いているので、条約の締結は1854年ですが、西暦では1855年2月)。
幕府は日米和親条約締結後イギリス・オランダ・ロシア(上記)とも同様の条約を結んだ。

これらを結びつけながら鎖国とは何なのか、なぜ幕府はそれを国策としたのか、まとまった文章を作りなさい。
*上の問題の順番が文章化の順序(誘導型の設問)になっているので、(1)から順番に、問題文の要旨と、答えを並べ、接続語などの追加などいくぶん文をいじるだけでも文章になります。

「補足及び参考」
*「鎖国の状態」と持って回った表現になっているのは、オランダ・中国(明・清)・朝鮮・琉球とは交渉を持ち、完全に国を鎖(とざ)したのではないためです。そのため現在に教科書でも「いわゆる」とか「鎖国の状態」との表現が使われる例が多くなっています。また、当時の東アジア一般にみられる海禁という言葉を使っている研究者も見られます。
また、山川出版社『詳説 日本史』には「鎖国」についての脚注に、
「ドイツ人医師ケンペルはその著書『日本誌』で、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉を持ち、閉ざされた状況であることを指摘した。1801(享和元)年『日本誌』の一部を和訳したオランダ通詞志筑忠雄は、これを「鎖国論」と題した。鎖国という語は、以後、今日まで用いられることになった。」
と紹介しています。つまり、幕末近くなり日本国内でも「鎖国」という言葉が用いられるようになり、現在は国を完全に閉じたわけでないことや、鎖国制度がなかったことは理解されていますが、現在でも歴史用語として「鎖国」は用いられています。(「海禁」などの用語を用いるようになりつつあることは前記の通りです)
*長崎交易(長崎口)に限らず対馬口・薩摩口・松前口の3つの窓口を合わせて四口(「よんくち」と基本的には読みます)がありますが、全て幕府が間接的ではありますが掌握し、許容額を規定していました(実際は許容額を超え、密輸状態にはなっています)。長崎口・対馬口・薩摩口はそれぞれ性格が違いますが、共通することは最終的な最大の貿易相手が中国だということです。これに対して松前口はアイヌとの交易を許したもので、他の口とは少し性格が違います。そこで、「(3)その結果どういう状況になったのか?」の回答の中に「アイヌ」を含めないのはこのことによります。国家形成の段階にないので「アイヌ民族」との表現をとって交渉相手として記述する場合があります。
対馬口
豊臣秀吉の朝鮮出兵の後処理として、德川家康を中心として対馬の宗氏を仲介として国交回復が図られ、1607年に朝鮮から通信使(正式には回答兼刷還使で朝鮮出兵の謝罪と捕虜の返還が目的)が将軍秀忠のもとに派遣され、その後1636年の使節からは通信使と呼称され、多くは将軍の就任祝いのために日本に派遣されました。日本と江戸時代唯一の正式な外交関係を持った国でした。この通信使は対馬から江戸までを道中し、儒者を中心とする日本人との交流がありました。
1609年に朝鮮と対馬藩主の宗(そう)氏間で1609年に己酉条約とよばれる条約を結び、釜山に倭館と呼ばれる長崎の出島と同じような施設を設置し、交易をおこなった。この交易品の主体は、時に江戸時代前期にあっては中国産の生糸・絹織物及び朝鮮人参などで、日本側からは銀・硫黄・金及び琉球・長崎経由の胡椒などの南方の物品でした。
入試などで必要事項は己酉条約・倭館・朝鮮通信使等です。己酉条約に関してはひっかけ問題が出されやすく、「己酉条約は幕府と朝鮮との間で結ばれた」ような選択肢があることがありますので要注意です。また、倭館の位置(中世には富山浦-釜山浦とも言い、読みは「ふざんぽ」・乃而浦-ないじほ-・塩浦-えんぽ-の三倭館がありました(例外としてソウル倭館もあり)。1510年にこの倭館の日本人居留民が反乱を起こした三浦の乱が有名)も中世の三浦の乱との関係でひっかけ問題になる場合もあります。
@鎖国では上記のように「日本人の海外渡航を禁止すること(在外日本人の帰国の禁止も含む)」とされています。しかし、対馬口では日本人(対馬藩宗氏の家臣及び商人など)が釜山の倭館に滞在し、貿易活動などに従事し、帰国もしています。例外はあります。
己酉条約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B1%E9%85%89% …
倭館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E9%A4%A8
朝鮮通信使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE% …
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*薩摩口


琉球王国は1609年に薩摩藩の侵攻により支配下にはいり、薩摩藩の石高にも参入されました。しかし、薩摩藩は琉球が中国との朝貢貿易を維持するために、琉球王朝を9万石余り独立の王国の外形をとらせました。薩摩藩は日本と同じように琉球で検地を実施し、刀狩りも実施するなど兵農分離も推し進め、砂糖を上納させるだけでなく、朝貢貿易による中国の物産も上納させています。
琉球王国は外形上独立の王国(異国)とされ、異国を支配する薩摩藩、それを支配する幕府として両者の権威付けに利用されます。そのため琉球国王の即位を将軍に感謝するための謝恩使と、将軍の襲位を祝う慶賀使を江戸に派遣します。謝恩使・慶賀使を合わせて井戸上がりと言いますが、その行列は異国風の服装などをことさらにさせ、幕府・薩摩藩の権威付けに利用しました。
入試には1609年の薩摩藩の侵攻・謝恩使・慶賀使・中国との朝貢貿易などが重要事項です。また、琉球王国が外形上日本(薩摩藩)と中国の両属状態にあり、その状況は1879年の明治政府による琉球処分まで続いた。
また、ペリーは1853・54年に浦賀に来航する前に二度とも琉球に寄港しており、1854年には浦賀で条約を調印後再度琉球に来航し、琉米修好条約を調印しています。
琉球王国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83% …
江戸上り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8% …
松前口
松前氏は1604年に徳川家康からアイヌとの独占交易権を認められて蝦夷地への支配を確定します(江戸前期は蝦夷が島主として客将扱い。その後寄合旗本を経て江戸中期に1万石格の大名になる)。しかし、米がとれないために、松前でアイヌと交易した城下公益制をとっていたが、後にアイヌとの交易場や漁場である商場(あきないば-場所とも言う)での交易権を家臣に給地として与える商場知行制によっていました(後に倭人商人に請負させるようになり場所請負制と呼ばれます)。アイヌを仲介として蝦夷アイヌ-樺太アイヌ-沿海州に居住していた山丹人を通じて清の物品(清と山丹人との朝貢貿易品)を入手します。これを山丹交易といいます。交易品は西・東廻りの航路を通じて大坂・江戸に運ばれ商われました。交易品には蝦夷錦とよばれる豪華な清朝の官服や清製の絹もありましたが、仲介交易とはいえ清との交易は幕府の承認を受けていないこと。1800年前後に蝦夷地は幕府の直轄地になりますが、この時アイヌの山丹人との交易は禁止されたことなどから他の三口に比べると中国との交易は認められておらず、主要な交易口ではありません。
ただし、18世紀になると対外交易の支払いに金銀銅が不足するようになると、正徳の海舶互市新例以降中国清との交易に俵物による支払いが奨励され、輸出海産物(中華食材)である煎りナマコ・干しアワビ・干貝柱の俵物(俵物三品)及び俵物諸色(上記三品以外の)の中の昆布などの生産地として重要性を持ちます。余談ですが昆布などは西廻り航路の北前船によって大坂に運ばれ、その後琉球に渡って琉球の対清朝貢貿易に使われました。その名残で沖縄では昆布の使用が現在でも盛んで、消費量は都道府県では1位です。
場所請負制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E6%89%80% …
山丹交易
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%B9% …
蝦夷錦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7% …
俵物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%B5%E7%89%A9

*江戸時代の最大の最終貿易相手国は中国(明・清)です。正式な国交はないものの長崎ではオランダ以上の貿易量を誇るだけではなく、出島より広く人口も多い唐人屋敷(初期は長崎内に雑居)に居住しています。また、対馬口は朝鮮の朝貢貿易、薩摩口は琉球の朝貢貿易を通じても中国の物産を得ています。
*中国が最大の最終貿易相手国であった理由は日本の輸入品にありました。輸入品は生糸・絹織物・砂糖が主要なものです。特に生糸が最大の輸入品であったことは有名で、以前の教科書では糸割符制度と関連して詳しく記述されています。現在の教科書では、「輸入品は、中国産の生糸・絹織物・書籍ほか、ヨーロッパからの綿織物・毛織物、南洋産の砂糖・香木・獣皮・獣角などをもたらした。」(山川出版社『詳説 日本史』「明清の動乱がおさまると長崎での貿易額は年々増加した」の脚注補足)としています。さらに同じ教科書ではオランダ船のもたらした品について脚注で、「オランダ船は、中国産の生糸や絹織物・毛織物・綿織物などの織物類と、薬品・砂糖・書籍などをもたらした。」となっています。
なお、ポルトガルは中国からマカオに居住すること(この時点では租借ではない)を許されており、対日貿易初期にはヨーロッパの物品を扱っていましたが、あまり売れないため、以降は生糸を中心に扱うようになります。そのため、糸割符制は当初ポルトガルの利益独占を排除することを目的にしているほどです。(その後中国商人・オランダ商人も追加されます)
ポルトガル追放の前年、幕府はオランダに対してポルトガルと同じように生糸を確保できるかどうか問い合わせしています。またそれでも不安であったのか、薩摩藩、対馬藩にも生糸を確保できるのか問い合わせをしています。このことからも鎖国完成時に生糸の輸入がいかに重大であったかが分かります。
このことは鎖国前の朱印船・奉書船の時代も同じであり、朱印船・奉書船は出航先で中国船との出会貿易を行い、生糸を中心とする中国産品を日本に持ち帰っています(下記海禁参照)。江戸時代初期では中国産の生糸は最大の輸入品でした。
しかし、江戸時代も時代が下るにつれて日本国内でも良質の生糸が生産されるようになり、開国時には日本の重要な輸出品となります。(江戸時代中期以降吉宗の洋書輸入の一部解禁などによりヨーロッパの文物の輸入が増えます。)
また、同時に薩摩口・対馬口共に幕府の公認の貿易であったことも分かります。
なお、オランダの輸入品は金額ベースで、1636年では生糸59,4%・絹織物21,0%。毛織物5,5%。皮革5,6%。
1715年で生糸28,3%・絹織物15,3%。綿織物20,7%。皮革8,6%。砂糖15,7%などとなっています。
唐人屋敷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E4%BA%BA% …
朱印船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0% …
奉書船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8% …
糸割符制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%89%B2% …
*日本からの主要な輸出品は、江戸時代初期には銀、続いて銅、中期以降俵物などの中国料理の材料である海産物に変化していきますが、全時代を通じて金銀が支払いに使われます。
銀の輸出については、上記山川出版社『詳説 日本史』「明清の動乱がおさまると長崎での貿易額は年々増加した」の脚注補足に、「日本の輸出品は、銀・銅・海産物などがおもであった。」とし、同じ教科書の「朱印船」の脚注に、「日本からは銀・銅・鉄などを輸出したが、当時の日本の銀輸出額は世界の銀輸出額の3分の1におよんだ。」としています。
このように銀が輸出品に使われるようになったのは16世紀中ごろ、博多の商人神谷寿禎が石見銀山の開発時に導入した「灰吹(き)法」という精錬技術により銀の生産量が飛躍的に拡大したことによります。このため当時の日本の銀産出量は全世界の3分の1におよんだとされます。研究者によっては全世界の半数近い産銀量だったとする者もあります。ただし、日本の産銀量のピークは鎖国完成時前後で、その後産銀量は落ちて金銀の海外流出防止のためもあり銅の輸出(棹銅で輸出)が促進されます。これも18世紀になると減少し、銅銭原料のための国内消費もあるため、銅に関しても輸出余力が少なくなり、俵物の輸出が奨励されることになります。このような東アジアにおける16世紀中ごろから17世紀いっぱいにかけての日本の圧倒的な産銀量・輸出量は、中国明の貨幣の基本が銀であったことと相俟って、東アジア交易に重大な影響を持ちます。中国と日本の正式な国交や公式な交易は成立しませんが(密貿易や非公式な交易は除く)、東アジアの交易では中国・日本の出会交易や、中国・日本を中心とする中継貿易が盛んでした。東アジアに来航したポルトガル・スペイン・オランダもこの貿易ラインに乗り、ヨーロッパの文物を交易するのではなく、中国の生糸を日本に運び、日本から銀を中国に運ぶ中継貿易に従事し、利益を上げていきます。この背景には日本の産銀がありました。
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さて、銀・銅が輸出されたのは中国の明・清が貨幣の原料として必要としたからでもあります。

明は満州族の勃興に伴う戦費・兵員の給与の支払い増大に対応して銀を必要とします。秀吉の朝鮮出兵時の明軍の戦費なども同様です。明は秀吉の朝鮮出兵時に海禁緩和を1年停止しますが、たった1年で元のように海禁を緩和します。それほどまでに銀を必要とします。
清は銅銭の原料を確保するために、遷界令発令中でも銅のために長崎回航を黙認したとされます。
灰吹き法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9% …
石見銀山(「商業への影響」の項目等が重要)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B% …
生野銀山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%87%8E% …
銅座
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E5%BA%A7
*日本にとって海外との交易に対して輸入は多いが、日本から輸出する製品は少なく、勢い金銀などで支払うことになり、金銀が流出するようになります。江戸開府直後の1604年に前記の糸割符制度が成立し、特定商人の一括購入により生糸の輸入価格を下げる制度でした。この制度は鎖国後の1655年まで存続します。ただ、この制度は金額的には最大であっても生糸のみを対象にし、その他の物品輸入に関しては規制がありませんでした。その後に糸割符制を廃止し、規制を撤廃した時期も20年ほどありますが、1672年以降再度規制されることになります。それらの規制で重要なものは、1685年の定高貿易法で年間の貿易額を中国(清)船6000貫、オランダ船3000貫(銀換算)と定めたこと(この内容によってもオランダよりも中国の方が貿易の中心であったことが分かります)。1688年に中国(清)船の来航を1年間に70艘を上限とすると定めたこと。
1715年に新井白石により海舶互市新例(正徳新例)が制定され、年間オランダ船2艘、取引額3000貫、中国船30艘、取引額6000貫に制限します。中国船については来航許可証の信牌を発行し、これを所持しない船は来航できないとしました。
長崎交易
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E% …
信牌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%89%8C

*中国の海禁(海外渡航の禁止)政策について
明は後期倭寇の対策として1567年解禁を緩和し、福建省章州月港からの貿易船の出航を許可します。この貿易船は日本・琉球を除く東アジア・東南アジアに渡航し、貿易に従事します。これは朝貢貿易ではありません。日本については倭寇の跳梁の恐れがあるため対象にはなっていませんが、中国船の寄港地での出会形式の貿易(出会貿易-東アジア・東南アジアの中国船の入港先で、日本船と中国船との間の交易)は黙認されていました。これは日本との完全なる貿易の途絶をはかると倭寇が跳梁する原因となるとの考え方によっています。豊臣政権下を含め朱印船の寄港地の多くは中国船の寄港地と多くが重なり、また日本人町の多くは中国船の寄港地やその周辺にあることが多くありました。朱印船や日本人町を通じて中国産の生糸等を手に入れようと、海外に進出したことがうかがわれます。しかし、現実には日本に寄港・交易する中国船が多数あったことも事実です。江戸時代初期(鎖国以前)には日本側の招致もあり、年間70艘近くの中国船が来航するようになっています。
また、マカオは1557年にポルトガル人が居留権を認められ、交易(朝貢形式ではない)をしています。なお、琉球は朝貢形式に限定されたため除外されています。
1644年に清朝が成立すると、台湾に割拠した鄭氏政権に対する封鎖策として、遷界令という名の厳重な海禁政策を実施しますが、この時期でもマカオにおけるポルトガルとの交易は続けられ、また銅貨の原料である銅を求めて鎖国下の日本との交易を黙認します。1683年に鄭氏政権が降伏すると遷界令は解除され、翌年海禁令が全て停止されます。寧波・マカオ・上海・広州に海関(関税徴収官庁)が設けられ、入港・交易する外国貿易船と出航・輸入する中国船から関税を徴収します。つまり、上記四港に限って交易を認めたわけです。この内寧波は日本との交易を実質的に独占します(長崎へ出航する中国船-唐船-)。
なお、遷界令が発令されていた時期の長崎交易に関しては、その多くを鄭氏政権下の商船や亡命明人が担ったとされています。
このようなわけで、中国の海禁政策といっても日本の戦国時代後期から江戸時代を通じてその多くの時期に海禁が停止されたか、黙認されたことが多くありました。ただし、完全な自由貿易ではなく制限及び管理された貿易なので、海禁制度は維持されたとされる考え方もあります。しかし、朝貢貿易のみではなかったということです。なお、日本の鎖国制度も同じように制限及び管理された貿易が続けられていたことから海禁政策の一種と考えられ、鎖国ではなく海禁としている研究者が多くなっています。
海禁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A6%81
広東システム(参考)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%9D%B1% …

http://www.osaka-ue.ac.jp/gakkai/pdf/ronshu/2004 …

風説書(オランダ・唐人)による海外情報の入手
1633年にオランダの商館長(カピタン)の江戸参府が制度化され、1641年からオランダ船の長崎入港のたびに海外情勢(初期はポルトガル・スペインの情報が主)を提出させました。これは商館長が記載し、長崎奉行所に提出、それをオランダ通詞が翻訳し、幕府に提出しました。これを「オランダ風説書」といいます。
幕末の1840年に中国清とイギリスの間にアヘン戦争が勃発すると、幕府はその情報をいち早くつかみ、それまでの異国船打払令を改め、水野忠邦は薪水給与令に戻した。また、従来の風説書だけでなく、新たな世界情報を入手するために、1842年から「別段風説書」をカピタンから提出させた。(別段風説書の初めは1840年のアヘン戦争をオランダ側が自発的に提出したことによります。)
以上の「オランダ風説書」は教科書本文に太字で記載されるほどの重要項目ですが、海外情報の入手に関しては「唐船風説書(唐風説書)」というものもありました。これは中国(明・清)船=唐船が入港すると、唐通詞が船員から海外情報(主に中国情報)を聞き取った報告書です。1644年から1717年の報告書は幕府の儒官である林(大学頭)の「華夷変態」に収められています。(「オランダ風説書」に比べて「唐船風説書」の情報の信頼度は低いとされています。)
「オランダ風説書」・「別段風説書」・「唐船風説書(唐風説書・唐人風説書)」は秘密文書ではありましたが、幕府以外にも情報が流出し、特に江戸後期に日本の周辺に外国船が出没するようになるとこの傾向が高まります。また、18世紀は形骸化した時期もあります。しかし、鎖国完成前後・明清の交代期と、幕末期には海外情報が重要視され、幕府の政策にも影響を持ちました。特にアヘン戦争の影響は大きく、日本の開国から明治維新の遠因ともなりました。
なお、上記の三風説書は教科書及び準拠の用語集等に記載されており、入試にも出題されます。

オランダ風説書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9% …
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews …
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/perry/8.htm
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華夷変態と幕府の考えた対外関係について


中国は伝統的に世界を文明国(華)と、非文明国・民族(夷・戎・蛮など)に分け、自らを華とし、華の中心(中華)にいる皇帝は天子であり、天命によりこの世界(天下)を治めるとしました。非文明国・民族である周辺国・民族は中国皇帝を君主として、皇帝より爵位(王侯など)を授かり(冊封)、形式的な臣下になる冊封体制という世界(外交)秩序に組み入れられました。冊封を受けた周辺国・民族は朝貢(正朔を奉ずる義務も)する義務を負いますが、朝貢品以上の下賜品を受け、実質的には朝貢という名の貿易行為でもありました。朝貢は中国の徳を慕って中国皇帝にするという建前でしたから、冊封を受けなくとも朝貢する周辺国・民族もいますので、実質的にはこのあたりまでが中国を中心とする世界(外交)秩序にあるといえます。日本は16世紀中頃1549年に大内氏が派遣した勘合船が最後で、その後明治になるまで正式な国交はありませんでした。
さて、16世紀の後半になり中国の明朝が北虜南倭などにより国力が落ち、日本に統一政権である豊臣政権が成立すると、それまでの中国を中心とする世界(外交)秩序に変化が現れます。山川出版社『詳説 日本史』では次のように記述しています。
「16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が明の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢のなかで、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくることをこころざし、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに服属と入貢を求めた。」
つまり、秀吉は明に代わって世界(外交)秩序の中心になろうと考えたわけです。
このような考えは1644年(鎖国後)に明が滅亡し、清が中国を支配すると、「華夷変態」という考え方で補強され、日本こそ中華だと考えるようになります(朝鮮も同じように考えるようになります)。
華夷変態は今までの中華であった明が、夷狄である満州族の清に代わった。つまり、華は夷に変化(変態)し、日本こそが中華であるとの考え方です。このような考えから、日本国大君である征夷大将軍が中華であり、夷狄である周辺諸国・民族を征夷する者との概念をつくるわけです。夷狄である周辺諸国・民族を征夷するから征夷大将軍でもあるが、日本の周辺諸国・民族は何らかの形で中華である日本にコンタクトしている(日本に服している)ので、征夷は行わないとする概念です。
日本の周囲を見回すと、北から蝦夷・沿海州を含む満州(清の故地及び周辺地)・朝鮮・清(明)・台湾(オランダ→鄭氏→清)・琉球となりますが、その全てと鎖国後も関係を持ちます。朝鮮・琉球は日本と外交関係を持つ通信国、清・オランダとは外交関係は持たないものの貿易関係にある通商国と位置付けられます。蝦夷は政治的な統一を持っていないのですが、琉球に準じた松前氏による間接支配(シャクシャインの反乱鎮圧過程など)と考えられます。また、朝鮮・琉球・オランダは江戸まで使者を派遣し、アイヌも松前氏に連れられて江戸に参府することがあり(全ての国に幕府は使者を送ることはない)、幕府から見ると服属儀礼となるわけで、華夷変態により日本(徳川将軍)を中心とする国際秩序が構成されていると考えるわけです(清も貿易関係によりこの秩序に参加しているとする)。
このような考え方が幕末・開国以降に幕府の存続を問う刃として跳ね返ってきます。列強(日本から見れば夷狄)の進出を食い止められない=攘夷・征夷できない征夷大将軍として存在を問われるわけです。
華夷変態
http://melma.com/backnumber_10265_1141530/

大分長い回答になってしまい、さらに回答の時期が大幅に遅れていることをお詫びいたします。
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