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あえて質問させて下さい。

運動部、それも強豪校と呼ばれている学校での部活動に置いて、「体罰」とはどういった意味を持つのでしょう?

自分も若い頃は、バリバリの体育会系でした。
小、中、高と、同じ部活を続けていて、その中で、監督やコーチに殴られ、蹴られてきました。
口の中が切れて血が出た事もあります。

中には竹刀で叩く先生もいたり、過酷な練習の中で過呼吸になって救急車で運ばれた仲間もおりました。

だからこそ、そうならないように、部活外でも自主練習をしたり早朝ランニングをしたりしながら克服しようとしました。
一応、インターハイ常連校でした。

教師が生徒を叩く。
そこに愛があろうが無かろうが、それは間違いなく「体罰」と呼ぶのだと思います。

今回はそれで、自殺した生徒がいるのも事実。

何と言えばいいのか分かりませんが、なんだかモヤモヤします。

皆さんは、今回の事件をどう見ているのでしょうか?
教えてください。

A 回答 (25件中1~10件)

丁寧なお礼、ありがとうございます。



> いくつになるまで、子供が歩く目の前の道の小石を除いてあげれば良いのでしょうか。

私は、一応、頭の中では「子供が親になるまで」って、割り切ってますよ。
もし自分の命より大事な存在が出来たら、その先は、自分の命を賭けて、それを守らなきゃならないワケですから、自分の命も、もっと貴重になりますからね。

逆に言えば、人間は、いずれは誰もが「自分の命より大切な存在」とか、「自分の命を賭してでも、やるべきこと」などを見つけねばならないのでは?と思います。

それを見つけるために施すものが「教育」であって、また、それを見つけるまでの間は、学校は元より企業などの組織でも、サポートすべき部分があると思いますし、そのサポートを最前で行うのが「親」ではないか?と考えています。

また私は、この事件の原因の一つは「体罰」ですが、本質は「体罰では無い」と思っています。
「体罰」とか「いじめ」などを問題の本質と捉える限り、「自殺問題」は解決しません。

「体罰」や「いじめ」を、「犯罪」とか「理不尽」などと言い替えたら簡単ですが、犯罪や理不尽は、尽きませんからね。
そもそも、悪いことを「悪い」と言うのは、小学生レベルの話しに過ぎず、またそれらを「無くす」などと言うのは、理想論に過ぎません。
現実的には、それらが「ある」と言う前提で、対処や対策を考えなければなりません。

また、「原因を悪」とする限り、原因は尽きません。
たとえば「罰としてグランド1周してこい!」と言われたとして、もしそれが言われた側にとっては「耐えがたい恥辱」などであったとすれば、やはり自殺に至る可能性になり得ますので。

たとえ生徒から、強い尊敬や信頼感を得る素晴らしい指導者が、体罰など全く行わずとも、これとて万全とは言えません。
その信頼する指導者から、厳しい言葉が発せられ、それが本人にとって「到底受け入れられない様な内容」であれば、これでも自殺原因になり得るワケです。

更に、社会に出たら、理不尽だらけです。
たとえ自分が悪くなくても、上司や客に、頭を下げねばならないのが社会です。
しかし、それが本人にとって「我慢ならないこと」であれば、それも自殺原因になり得ます。

もしそういう事件が起きれば、今度はマスコミは、グランド一周を「行き過ぎた罰」と言い、上司,客,優れた指導者を、「やり過ぎ!」「言い過ぎ」などと非難する気でしょうか?

どこかまでは「我慢すべき」であって、どこかからは「我慢すべきではない」が存在します。
そもそも、物事を「学ぶ」とは、我慢を伴うものであり、教育には我慢を教えると言う側面があると言えるかも知れませんし、また「すべき」「すべきではない」の分別を教えるのも教育です。

ただ、我慢の境界や分別には、個人差がありますね。
個人差のある問題であるにも関わらず、画一的に「体罰=悪」とのみ報道するマスコミは、どうか?と思わざるを得ないし、そう言う視点である限り、こと「自殺問題」に対する解決策など出てきません。

「犯罪が無ければ、被害者は出ない」は当たり前です。
しかし「犯罪が無い社会」を実現するのは不可能です。
それにも関わらず、「社会には犯罪が存在する」と言う前提で、「では、どうする?」の議論が皆無ですから、それがモヤモヤ感が無くならない原因の一つだと思いますよ。

上述の「我慢」を教えるのも、教育であると思います。
体罰は、それを教える上で、有効な手段の一つであるとも思います。
体罰などの苦痛や苦労を、我慢で乗り越えた先に、「問題解決力」とか「成功体験」が得られますので。

他の回答者さんが、殴られたことを「許せない」と仰ってますが、それで構いませんし、普通だと思います。
ただ「殴られても生きている」が事実であって、即ち「殴られた精神的苦痛に耐える力を得た」わけです。
仮にトラウマであっても、トラウマとは、「その恐怖には耐えられないから、二度と遭遇しない様に」と言う、自分への警告が得られた経験と言っても良いです。

ただ、それが子供に対し、適している場合のみが有効であって、世の中には適さない場合も存在します。
自殺者の如く、その一つが致命的になり得るケースが存在しますので、それに対して、「備え」は絶対に必要です。

しかし、十数年に1件と言う割合で発生する事態に対し、マスコミの「それを標準にせよ」とでも言うべき姿勢・主張も、どうか?と思いますし、これもモヤモヤ感の原因かも知れません。

全く違う言い方をしますと、マスコミ的な理想論的な主張が正論とすれば、解決は非常に簡単ですよ。
たとえば学校教育において、たとえば部活などは無くしてしまえばOKです。
そしたら、「部活の顧問による体罰」は、全国的・画一的に解決しますからね。
教師には、拘束具を着させても良いし。
いじめ問題も含めて考えれば、通学などさせず、PCでもを使って、家庭で個別に教育すれば良いワケです。

ただ、そんな教育方法が正しいワケがありません。
しかし問題とか、問題の本質を履き違え、原因側のみを追及すれば、こんなトンチンカンな解決策になりますよ。

おまけに破廉恥なマスコミは、そんな解決策に対しても、平気で批判するのでしょう。
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この回答へのお礼

二度に渡りご回答頂き、本当に有難うございます!
お礼が遅れ、誠に申し訳ございませんでした。

今回、質問をしていて分かった事は、「体罰は良いか悪いか」と言う事に「答えは無い」のではないか?と言う事です。
と言いますのは、ここで回答して下さった方達に、一つとして同じ答えが無かった事。
それが全てではないかと思うのです。

>人間は、いずれは誰もが「自分の命より大切な存在」とか、「自分の命を賭してでも、やるべきこと」などを見つけねばならないのでは?と思います。

その通りですね。
ただ、今の子供達は「自分の命よりも大切な存在」を見つける前に、その「自分の命」にどれだけ価値があり、どれだけ他の命に守られてきたのか?と言う事が分かっていません。

「分かっているつもり」になる時は、いつも自分の都合に良い時ばかり。
「大切にすべきもの」には、その分の「責任」も大いにあると言うのに。

あなた様の仰っている事は、ほぼ自分の考えと一緒です。
自分が他の方のご回答に対し、お礼した内容とだいたい同じです。

「体罰は良いか悪いか?」と言う答えを求めたら、それは間違いなく「悪い」と言う答えになるのは当然でしょう。
でもその前に、それを「悪い事にしない」方法はなかったのか?
またそれを探そうとは思わなかったのか?

それは、体罰を受ける本人、体罰を与える本人、それを周りで見ている第三者も全てに言える事だと思います。

今回はあくまで、昔の部活動内の体罰に限定して話を進めてしまいましたが、昔はクラスでいじめがあると、それを見つけた教師が、いじめをしていた生徒を殴るという体罰が普通にありました。

「人を殴れば痛いんだ。これでお前に殴られていた者の気持ちが分かったか!」

実に簡潔、実に単純な言葉と行動でした。
でも、未発達で単純な子供の自分には、大いに響き、素直に理解出来る事でもありました。

恐怖や痛みを教える事は、自分はそれ程悪い事だとは思いません。
もちろん、程度はあると思いますし、必ずしもそれを大人が子供に対し絶対教えなくてはいけないと言うる事もないと思います。

しかし、人間が本来持っている本能や感情を、自分が正しく使うためには、その本質を自分が正しく理解していなければならないと思います。
それが、相手に正しく伝わるかどうかは別にしても、です。

「形式だけの体罰推進」も、「形式だけの体罰禁止」も、どちらも似たようなものではないでしょうか。

それと、昔、教師に殴られた際に言われたことがあります。
「人を殴れば、殴った方の手も痛いんだ。その意味を理解しろ」

「痛いんなら殴らなければいいだろう。恩着せがましい」とその時は思いましたが、今ならその意味が理解出来ますね。

人の行動には必ず、その時の「本人の優先されるべき」事が存在します。

いじめで人を殴っても自分の手が痛い。体罰で生徒を殴っても自分の手は痛い。
しかし、その自分の手の痛みよりも優先されたのは「快楽」だったのか「期待」だったのか。

要は、そこまで考えるのが面倒だから、一律に規制してしまえば良いだろう?と言うのが今の社会の風潮のような気がします。

その証拠に、「体罰は単純で愚かの指導者のする事」と回答くださった方々に、再度「では愚かではない具体的な指導方法とは何か?」と尋ねても、誰一人答えてくださる方がおりません。

本当に親身になって誠意を持って相手と対峙する事が、どれだけ大変な事なのか。
それが分かっていて発言している事なのか、気になる所であります。

悪い可能性のある事は全て排除し、少しでも批判が出る可能性のある物は全て規制し、学校は教師は勉強だけを教えれば良いと言うのであれば、本当に仰る通り通信学習で十分だと思います。
それ以上、何かを望むことは、どれだけ無責任な事なのか、全ての保護者、大人にもう一度考えてもらいたいですね。

ここで質問しご回答頂いた事で、自分の持っているモヤモヤ感は、今の親も教師も周りの大人も子供も、無責任そのものに見える風潮に対しての事だと、そう理解する事が出来ました。

二度も長文になってしまい、本当に申し訳ございませんでした。
あなた様のような方からご回答頂けました事、本当に感謝します。
また何かの機会がございましたら、よろしくお願い致します。
有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 12:37

私は体罰も含めて「罪に対する罰」「規則違反(ルール違反)に対する罰はあって当然だと思います。

話は長くなるので今回の「強豪校と呼ばれている学校での部活動」にだけついていえば、どこの高校に入るのも自由であるはずなのに、なぜ男子生徒がこの高校を選んだのでしょうか。又は両親のどちらかが自分の息子を無理に推し進めたのでしょうか。栄光と名誉はだれでもほしいのです。

(顧問になぐり殺されたり、監禁されたりなら話は別ですが)

私の想像では部活に入る時、顧問から「うちの部活は楽しむ以上に、勝って頂上をめざしているので、時にはびんたもとぶ」と覚悟のような内容を最初に話しているかもしれません。勝負の世界はテレビで見る華やかな世界と、地道な個人の孤独な精神力の戦いです。三四郎の歌じゃないですが、「人に勝つより自分に勝てと言われた言葉が胸にしむ」ような世界です。簡単に勝てる世界ではありません。

人には生まれ持った器というものがあります。もちろん夢は夢として持ってもいいけれども、無理なものは無理でしょう。男子生徒は顧問と両親(弱音をみせたくない)の狭間で葛藤し自分の限界を感じたんでしょうね。

人間と言うものは自分より可愛そうな人をみると弁護したくなり、有名になると「すごいね」と言いながら心では妬んだり、うらやんだりするものです。

罰は大事な事です。人間が間違った判断で他人を罰した時は、必ず何らかのかたちで天罰が下ります。聖書に「神をおそれることは知恵のはじめなり」とあります。顧問にやましい事があれば顧問自身が悩むであろうし、両親にやましい事があれば両親自身が後悔に苦しむでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!

すいません、自分のお礼が長すぎて、もうこんなになってしまいました(汗

それにしても、確かに「天罰」も「罰」の一つですね。。。
なんだか滋賀大津の教育長が襲撃された際、それが「天罰だ」と言っては賞賛されていた事を思い出します。

この問題の続報として、他の回答者様にもお礼で伝えましたが、何でもこの学校には本来あってはならない部員宿舎があったようです。
今回、そこで何か問題があった為に、その事で校長がその宿舎を廃止にするとの決定がなされていたそうです。
その事に対し、主将である今回の生徒は非常に悩んでいたとご両親がコメントを出したそうです。

それに加え、「自分だけが叩かれる」と言った「主将としての体罰」を与えられた事により、その責任感が間違った方向へ向かってしまったのでしょうか。。。

第三者が簡単に推測できる事でも、また簡単に推測してはいけない事なのかも知れませんが、なんだかやり切れないですね。

聖書の事はよく分かりませんが、参考にさせて頂きます。
本当に有難うございました!

お礼日時:2013/01/14 00:08

>運動部、それも強豪校と呼ばれている学校での部活動に置いて、「体罰」とはどういった意味を持つのでしょう?



集団競技であれば、統率性が要求される場合もあるため、度が過ぎなければ指導の一環になるのではないかとは思います。
また、相当の悪童であれば、もはや手が出てしまう事もあるかもしれません。


ただ、本来無関係な人同士であれば、余程の理由がなければただの「暴行」なんですよね。
実際例えば質問者さんのお子さんが図書館で大きな声を出してしまい、通りすがりの
大人が血が出るまで殴ったとして…
多分質問者さんは「教育してくれた」とは思わないと思うんですよね。
まあ、少なくとも大部分の親は思わないんですよ。
相当の悪童に用いるにしても「自分は悪い事をしたから痛い目にあった」と学ぶ可能性もありますが、「殴ったら自分の言う事聞かせられるんだな」と学んでしまうという危険性もあります。

極端な例を出しましたが、本来は「暴行」である事を「罰」にするのは難しいわけです。
だから更に「体罰」を教育に昇華させるには相当のテクニックが必要だと思います。
最低限ある程度の信頼関係が要りますし、相応の理由も要ります。加減も要ります。

よって体罰は相当の上級テクが要求されるものではないかと考えます。
少なくとも「教育に暴力を用いるというのは相当難しい事である」と考えるくらいでないと
逆効果だったり、最悪の場合今回みたいに人死にを出すのと違いますかね。


その上で
>皆さんは、今回の事件をどう見ているのでしょうか?
この教師は体罰を使うに値しない教師だったという事だと思っています。
まあ「悪い事したら罰を受ける」に則るなら、大人社会のルールに則り
罰を受ければ良いんじゃないでしょうか。



後、1点気になった事があるため指摘しておきます。
・他の回答者産とのやりとりで見かけましたが、「完璧でないが故に他者に完璧を求められない/求めるべきではない。」のであれば、子供に対して体罰を与える事も否定されなければいけないと思うのですが。
スポーツ強豪校であれば、完璧性が求められる場合もあるため、度を越さない体罰は容認されてもいいのではと私は思いますが、質問者さんの場合少なくともこれに対しては否定しなければいけないのではないですか。
何故なら質問者さんの理屈では完璧でない大人が子供に完璧を求める事はおこがましい事なのですから。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!

>本来は「暴行」である事を「罰」にするのは難しいわけです。
だから更に「体罰」を教育に昇華させるには相当のテクニックが必要だと思います。
最低限ある程度の信頼関係が要りますし、相応の理由も要ります。加減も要ります。
>よって体罰は相当の上級テクが要求されるものではないかと考えます。
少なくとも「教育に暴力を用いるというのは相当難しい事である」と考えるくらいでないと
逆効果だったり、最悪の場合今回みたいに人死にを出すのと違いますかね。

前面的に同意ですね。
実際に、「教育に暴力を用いる」と言う事は本当に難しい事だと思います。

何が「本当に難しいのか?」と言えば、効果があったのか、それとも逆効果だったのか?と言う事は、「結果」を見なければ分からない事だから。

例えば、今回に問題になっている指導者は、今までの経緯、成績、結果から、それまでは仰られているような体罰を教育に昇華させていたテクニックのある指導者だったろうと思われます。
しかし、今回の結果は違った。
「今まで通り」の事を行った結果、最悪の事態を招いてしまった訳です。
それが、例えたった一度きりの事であったとしても、過去の全ての結果まで無にしてしまうほどの事であった。

本来、犯罪である体罰を用いてこのような結果になったのだから、

>この教師は体罰を使うに値しない教師だったという事だと思っています。
>まあ「悪い事したら罰を受ける」に則るなら、大人社会のルールに則り
罰を受ければ良いんじゃないでしょうか。

その通りになっても仕方のない事でもあると思います。

先ほど、この問題の続報がニュースで報じられておりましたが、なんでもその学校には本来あってはならない暗黙のような生徒宿舎があったとか何とか。。。
そこに問題があり、校長が廃止にすると決めた事で、何かと揉めていたそうです。
自殺した生徒のご両親の話によると、その事に対し、主将としての責任を感じ非常に悩んでいたとの事です。
そこに加えて、更に監督からの「主将として、主将ゆえの体罰」を食らったとすれば。。。

そう言った事も含めての見極め、判断する力が無かったという点では、確かに今精神に異常をきたし、自宅で塞ぎ込んでいる監督の心情も理解出来ます。
恐らく、この監督に対し、今後、情状酌量を望む嘆願書などが、生徒、OBの中から集まるのではないかと思います。
しかし、仮にそれで「社会的な罰」が軽減されたとしても、この監督が自身にかせる罰は生半可な事ではないだろうと自分は思います。

それと、ご回答者様が、自身の発言で「気になった」とご指摘された、「完璧でないが故に他者に完璧を求められない/求めるべきではない。」と言う事についてですが、よくこのように長い他人様のお礼内容にまで目を通して下さったなと、まずは感謝致したいと思います。

しかしながら、この発言の表現には少し語弊と誤解がありました。

自分が「完璧ではない自分が、他人に対して完璧を求める事はおかしい」としたのは、本来、「同じ子供を指導、教育する立場の大人、保護者の責任」に対してです。

否定し、完璧を求めるのであれば、まずは自分の責任を自覚しなければならないのではないか?と思うのです。
その上で、否定すべき事だと思えば否定すれば良いですし、完璧を求めるのであれば求めれば良い。

何度も昔の例え話を出して恐縮ですが、昔は教師が生徒に対し、「いじめを見たら止めろ」「いじめを知りながら黙って見ていた者も同罪だ」と発言する事ができました。

大津のいじめの件。あの問題以降、同教育委員会ではいじめを防ぐ対策として、「いじめを目撃した生徒がいたら、直ちに周りの大人、教師に伝える事」と言う対策案を出したそうです。
しかし、それが周りの保護者からのクレームによって白紙撤回されたそうです。
「子供に負担をかけるな」「それで子供が逆に虐められたらどうしてくれる」「それを子供にさせないのが教師の仕事だろう」

気持ちは分かりますが、大人が子供に「自分の責任」を教えずして、どうして虐めが無くなるというのでしょうか?

話を戻しますと、スポーツ強豪校では、確かに完璧を求められる為、どうしても厳しくなってしまうのは当然です。
でも、自論で言えば「教師が子供に対して完璧を求める事はおかしい」と言う事にも確かになるのだと思います。
ただ、それを求めているのは「教師だけ」ではありません。
本人も、周りも完璧でいる事、完璧になる事を求めています。
だからこそ、強豪校になれると言っても過言ではありません。

それを、「愚か、無能」と言う言葉で切り捨ててしまう事が、自分にはどうしても納得が出来ませんでした。

本当にすいません。何なんでしょう?この長文?
何を言いたいのか、最後の方では自分でもよく分からなくなってしまいました。。。

頂いたご回答は、今後の参考とさせて頂きます。本当に有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 23:47

丁寧なお礼を頂戴しました。



お礼6行>「活」と「愛情」の境界線は「具体的」・・・
「活」と「愛情」は無関係です。どこをどう解釈されたのでしょう???

15番の回答17~21行>坐禅中・・・・論外です。
のあたりは、ご理解頂いていますか?
「罰」とは罪に対してのペナルティで有り、そのペナルティを体に行うから体罰です。
「活」とは罪に対してのペナルティで無いと説明したくて禅の警策の事を書いています。
通常の警策と違い、罰策・罰警と言うのが有りこれは雲水が、その修行中に規矩を破ってしまった際、「罰」として警策で打たれることを指し、罪を犯した事に対する罰です。仰向けに寝られないほどの激しさです。
法に背いた場合裁判により刑と言う形で罰を受けます。
この罰は法に基づく裁判で量刑が決まるのです。
無能な指導者が勝手に行う体罰とは大きく差異があります。
欧米では体罰を容認している所もありますが、体罰の手順や方法が細かく規定されています。

お礼14行>自分の場合、自身が・・・・・・「活」になりました。
「暴行」と「体罰」と「活」を混同されているようですので
暴行・・・罪とは無関係で、与える側の勝手な都合(限度無し)
体罰・・・罪に対する罰で、罪は与える側が勝手に決定(限度無し)
活・・・・・罪とは無関係で、覚醒、励ます等で行う(通常1発、禅では数発)
「体罰」・「活」共に相手に怪我を負わせたら暴行傷害です。
それが日常繰り返されたら虐待と言います。
禅修行における「警策」とスポーツにおける「活」は目的が似たようなもので、分かり易いと思い例に出しましたが、かえって混乱させたようです。
できない・負けた・指示に従わない事に対する罰であれば、これは体罰です。
指示に従わせるために行うなら、これは脅迫です。
試合前に自分でほっぺたを叩く選手がいます。走れなくなった時自分で足を叩く選手がいます。これを変かわりに叩いたり、大声で一喝することを「活」を入れると言い、怪我をするほど叩くのは暴行です。
怪我をする程の暴行が日常繰り返されたら虐待です。
効果が有ったから「活」では有りません。虐待で得た効果は単に暴力よる支配下において結果を残しただけで、技量の向上には、通常の指導との差異がないと言う事と選手の自主性を阻害している事を認識すべきです。

お礼15.16行>体罰が、良いか悪いかの極論・・・・・ます。
質問者様と善悪の判断基準が違う様ですので、
体罰が良いか悪いかは関係ありません。学校教育の場では、その有効性が否定され、日本では犯罪とされています。

お礼17行>でも、なぜ全ての人間がその極論に偏る事がないのか?
日本は法治国家であり犯罪を犯せば糾弾されるのは当たり前。

お礼18~23行>理由は・・・・・・・・・・・・実に好都合です。
曖昧で判定出来ないからこそ、できない・負けた・指示に従わない事に対する罰を「体罰」として法で禁止されているのです。

お礼24.25行>あなた様は、妻子には・・・
妻子やペットの犬に手を上げた事は皆無、「活」を入れる理由など有る訳ないでしょ。

お礼26.27行>「教師だから」「指導者だから」と言う理由だけで・・・・しょうか?
完璧でない事が犯罪を犯していい理由には成りませんよ!!

お礼28.29行>教師であっても、親であっ・・・・ないでしょうか?
「成長して行く」人も居ます。成長しない人も居ます。

お礼30.31行>今回の問題は、お互いに・・・・原因はないでしょうか。
関係者全員に原因はありますが、その割合・度数は全く違いますよ。

お礼34.35行>全ての体罰」をいじ・・・・・・納得が出来ないのです。
法で定められた体罰を罪とする事が納得できないなら、法改正まで待つか運動してください。

お礼37行>あなた様方は、今後どのような・・・・・望んでいるのでしょうか?
指導者の基本姿勢 -山本五十六-
【やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ】
言葉で納得させられる技術を持ち、目標に対しPlan・Do・Check・Actionを回し、常に努力を怠らないプロ意識に徹する人。
↑ビジネスマンや社会人としては当然の事、後は子供の手本となるよう法は勿論規則を守る事は最低限の事です。

お礼38.39行>体罰を用いる教師は愚か・・・・おりません。
欧米ではすでに確立しているスポーツ科学では「スポーツが強くなり進歩することと暴力、体罰は全く関連性がない。」「かりに即効的に効果が上がっても、その効果は持続しない」「体罰を加えるのは言葉で納得させられない指導者の未熟さを表す以外の何物でもない」。

お礼44行>絶対服従しなく・・・・・良い時もあるでしょう。
有りません。軍隊で上官の命令に従わなければ軍法会議にかけられます。場合によっては死刑です。

お礼45.46行>「未発達、抵抗できない子供」・・・でしょう?
高校生までは子供で、自立していなければ未発達です。

お礼47~50行>子供を、大人の都合・・・だと自分は思いますよ。
万引きを取り締まっても、泥棒や強盗が発生するから万引きを取り締まらないと言っているのと同じです。
万引き・泥棒・強盗は取り締まるべきです。
無能な体罰を振るわない指導者が存在する事が、禁止されている体罰を正当化する理由には成りえない。

虐待をする親はかつて自分も親から虐待を受けている事が多いのをご存知ですか?
前回も述べましたが、自己欺瞞から抜け出せず、暴力支配された自分の過去を正当化するために無能な暴力教師を尊敬する愚かしさから、指導者になった時自分も体罰が有効と思い体罰を行う→負の連鎖は続くのです。
作業を行うとき、子供に褒美として物を与え続けると褒美は次第に大きくないと成果が得られなくるのと同じで、体罰もエスカレートさせないと効果が得られなくなります。

近代日本が軍国主義に傾いてから極端に増えた「体罰」は、自衛隊を軍隊にしても、たとえ有効性が認められても、指導者の質の向上・管理の透明化・「体罰」に対する明確な基準が出来ない限り、少なくとも教育の場では無くす努力を怠っては成らないのです。
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この回答へのお礼

再度ご回答頂きまして、誠に有難うございます!

>「活」と「愛情」は無関係です。どこをどう解釈されたのでしょう???

あ、いや、「そう聞いて、説明を受けなければ分からない」と言う点では、「活」も「愛情」も同じでは?と思ったもので。。。

質問では、あえて「血が出た」「竹刀で叩かれた」と言った、いかにも厳しい例を挙げて「体罰」としましたが、大抵、怪我などしない体罰の方が多かったです。

それは「活」に入るのでしょうか。

>虐待をする親はかつて自分も親から虐待を受けている事が多いのをご存知ですか?

知っておりますが、虐待など受けていない、ましてや親から叩かれた事のない子供もまた、他者に対して自己と「快楽の為に」暴力を振るうと聞きます。
滋賀、大津のいじめの加害者生徒は、少なくとも親から虐待など受けていない生徒達です。

これもまた、だからと言って虐待の無い家庭や体罰を行わない指導者を否定している訳ではありません。
ただ、あえて例に挙げさせて頂いたのは、片方の一部を否定する事は、何ももう片方の全てを肯定、正当化している訳ではないと言う事を言いたかったのです。

今、このような問題があり、体罰は暴力だ、暴力は悪だと言う風潮が広がっておりますが、その大津の教育委員長が襲撃された時、それが世間に賞賛された事も事実。
相手を病院送りにまでしたその暴力は、世間では「天罰」とされるようです。
「都合」によってその主張が変わる世間の風潮が、自分には全く理解出来ませんが。。。

>暴力支配された自分の過去を正当化するために無能な暴力教師を尊敬する愚かしさから~

自分は愚かな人間ですが、「自身の愚かさを認めていない、気付いていない」人間を尊敬できる程、自分の過去を正当化している訳ではありません。

>指導者の質の向上・管理の透明化・「体罰」に対する明確な基準が出来ない限り、少なくとも教育の場では無くす努力を怠っては成らないのです。

非常に同意します。
何も、全ての体罰を正当化している訳ではありませんし、認めている訳ではありません。
使わないで良いのなら、使わないに越した事は無いと思います。
自分がいくら体罰を受けたと言っても、常に日常的にそういった暴力を振るわれていた訳ではありませんから。

ご回答頂きましたこと、自身に対する戒めとし、今後の参考にしたいと思います。
本当に有難うございました。

お礼日時:2013/01/13 22:25

No.16です。


コメント、ありがとうございます。ただ、内容は、単なる堂々巡りに陥っているように感じました。

>「悪い事をすれば叩かれて当然」
>例えそこに痛みや恐怖が伴ったとしても、「それだけで終わらせる」事が、一番愚かな事なのではないでしょうか?

と書かれているわけですが、さて、「悪いこと」とは何ですか?
誰が、どのように判断するのでしょうか?
今回の体罰騒動の発端となった桜宮高校の生徒。この生徒は、報道で知る限り、犯罪行為をしたわけではありません。校則違反などをしたわけでもありません。ただ、普通に生活をし、部活動をしていただけです。
部活動、スポーツをしている以上、ミスをすることはあるでしょう。それが原因で負けることもあるでしょう。それは、チーム全体にとってはよくないことかも知れません。大きな大会などで勝てなかったことで、スポーツ推薦などの形で進学が出来なくなることもあるかも知れません。しかし、それはスポーツをしている以上、仕方が無いことです。ミスなどについて注意をするのは別に構わないでしょうが、暴力行為という形でなければ是正できないことではないでしょう。そもそも、ミスしようとしてミスする選手はいませんから。
結局、「悪いことをしたら暴力を振るってよい」などと曖昧な言葉による抜け穴を作ってしまうと、何でも理由を作って暴力を振るうことが可能になるだけです。
イジメ事件などでもありますよね。「やられた方に落ち度があるからだ」と言い訳する加害者。それと同じことが出来るようになります。

無論、人間は欲にまみれた存在ですから、どんなことをしても私利私欲で動く存在が出ることでしょう。
しかし、体罰は何があっても禁止、となれば、最低限、生徒に対して教師が理不尽な理由で肉体的にダメージを与える、という行為は防げます。実際問題として、体罰によって、生徒が大怪我をした、というケースは沢山あるのですから。


そのイジメ関連で、大津のイジメ事件にも触れておられますが……

>「体罰を行えば保護者からクレームが来る」「面倒だから関わらないのが一番」
>滋賀のいじめの問題の時に、いじめをする生徒を見過ごした教師は、体罰を行う教師ではありませんでしたが、保身に走る教師でありました。

というのもおかしな話です。
体罰が認められていなければ、イジメ事件は解決できないのでしょうか? 体罰があれば防げたのでしょうか? 違いますね。
体罰が認められていても、面倒ごとに関わりたくない、という教師は沢山います。体罰をせずとも、解決を目指し、動いている教師も沢山います。体罰の有無と、指導が出来るかどうかは、別の問題です。

そもそも、学校内で犯罪行為が起きていることが明らかなら、教師がするべきことは、暴力を振るうのではなく、警察を介入させることです。
「犯罪行為をしたら、警察に捕まる」
これは、小学生どころか、幼稚園児でも知っている法治国家の基本です。
そして、これは、「悪いことをしている生徒」にとって、体罰などよりもよほど厳しい制裁となります。だって、学校内で悪事を働いて、教師に暴力を振るわれても、停学などの処分を受けても、結局、学校という組織の中での処分でしかありません。しかし、警察に突き出されれば、社会的にその処分は認知されるわけですから、厳しさは段違いです。


ちょっと話が逸れてしまいましたが、前回の回答で書いたように「愛情があれば」なんていうのは、却ってエスカレートさせてしまう危険性がある。
また、「悪いことをしたら」なんていうのも、悪いこと、の意味が曖昧で抜け道を用意しているに過ぎない。

その上で、教師が生徒に対して暴行を加え、大怪我をさせるなどという最悪の事態を防ぐためにも、理由に関わらず、体罰は禁止すべきことです。
説教や停学、退学などの方法により、教師は指導をすることが仕事であり、それを越えて、例えば、犯罪行為などが行われているのであれば、それは教師の仕事ではなく、司法の手に問題を委ねるべきことです。
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この回答へのお礼

再度ご回答頂き、誠に有難うございます!

>「悪いことをしたら」なんていうのも、悪いこと、の意味が曖昧で抜け道を用意しているに過ぎない。

そうですね。
仰られている事の意味は分かります。

「悪い事をしたら叩かれて当然」と言ったのは、昔は当然のように使われてきた言葉でしたので、あえて挙げさせて頂いたのですが、恐らくご回答者様は、自分が「悪い事をしたから叩かれた」と言っているのは、「叩かれたから悪い事だった」と思い込んでいるのではないか?と言う事を言いたいのではないかと思います。

>前回の回答で書いたように「愛情があれば」なんていうのは、却ってエスカレートさせてしまう危険性がある。

例えば、自分が体罰を受けた時、その監督や教師は、当然のように「これはお前の為だ」とか「お前の事を思って叩いたんだ」とか「愛のムチだ(死語)」などと言った「愛情」を押し付けるような言葉は発していません。

>さて、「悪いこと」とは何ですか?
>誰が、どのように判断するのでしょうか?
>部活動、スポーツをしている以上、ミスをすることはあるでしょう~そもそも、ミスしようとしてミスする選手はいませんから。

自分が、先に「仰られている事の意味は分かります」と言ったのは、ご回答者様が仰った、ここの部分に凝縮されると思います。

確かに、スポーツをしている以上、ミスをする事は当然のようにあります。
それも、誰も好きでミスをしている訳ではありません。
そのせいで負ける事もあるかも知れませんし、そのせいで誰かのスポーツ推薦が取り消されるなど、他に迷惑をかける事もあるかも知れません。
でも、それは結果として本当に「仕方の無い事」で、決して「悪い事」ではありません。
それは、その通りだと思います。

自分は、夏の甲子園を見るのが好きです。
一戦一戦を命がけで、必死になって頑張っている姿に毎年感動させられます。
でも、中にはミスをして、そのせいで負けてしまう試合もありますね。
試合の結果を決めたそのミスは、決して悪い事ではありませんし、本当に仕方の無い事でもあると思います。
でも大抵、そのミスをした子は「自分のせいで」と責任を感じて泣きますよね。
それを見て、周りのチームメイトにその事を責める生徒はいないとも思います。
むしろ、そのミスがあっても、それを補う事が出来なかった、それをカバーする事が出来なかった。
そう思うのだと思います。

自分の言っている「悪かった事」とは、それと同じようなものです。
「犯罪など犯していない事は分かっている」分、何も曖昧な事はありません。
ただ、それは、同じ場所に居た者、同じ時間を同じ結果を求めて過ごして来た者にしか、恐らく分からない事だとも思います。

曖昧な愛情を盾に、体罰を用いる監督や指導者でも、「最後の試合」で体罰を振るう者は滅多におりませんよ。

しかしながら、そんな事を言っては見た所で、現実にある法や仕組みを利用する程、利口な手は無いとも思います。

ただ、これだけは分かって頂きたい。
仮にも、本当に愛情を持って生徒に接している教師や指導者達に、生徒の問題をすぐに警察に介入させようと思う者はいないと思います。
今の愚かな教育者のように、自分の保身や学校の評判を気にする者は別として、例え学校側が警察に介入依頼をしても気にならないような環境が、社会に整備されたとしても、です。

「体罰は禁止にすべき」と考えるご回答者様のご意見、ご意思は、尊重し参考とさせて頂きます。
再度長文になり本当に申し訳ございませんでした。
とても有意義な時間を過ごせましたこと、感謝します。
有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 20:58

外の人とは意見が違いますが。

きっとスポーツ業界関係と公務員にお金が絡む
からでしょう。見返りがなかったら人を叩いてまでも指導しないと思います。就職でイジメのような面接があったり、職場でパワハラがあったり金が絡むと人間性が失われる現場を見ました。体罰とは人間性のエゴそのものだと思います。体罰やハラスメントで、社会復帰できない人がたくさんいます今回の事件をきっかけに体罰やパワハラ、イジメ被害者を救済する法律が出来ればいいとさえ感じます。 
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!

>きっとスポーツ業界関係と公務員にお金が絡む
からでしょう。

お金ですか。。。

なんと言いますか。。。
自分が体罰を受けた事に、お金が絡んでいたと思えば、なんとも言えないものがありますね。

金や利権の問題は、自分にはよく分かりませんが、少なくとも自分に体罰を与えた指導者の中に「人間性を失った」と思える指導者はおりませんでしたが。。。

有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 19:51

体罰に意味はありません。

体罰は暴力であり、現在の日本の公立学校では禁止されています。体罰を振るわなければ生徒を指導できないほど能力の低い先生にも困ったものです。

こういう先生は学力が低いのに、運動部の実績や賄賂で採用された教師である場合も少なくありません。教員採用にはわいろやコネが横行しており、時々ばれて問題になっています。

★教員採用試験で一人当たり200万円のワイロ、教委幹部・校長を収賄容疑で逮捕
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/oita_educa …

★教委の元高官(61)が講師の採用で便宜、見返りにわいろ・30万円の高級スーツ
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1139648067/


ただ体罰(暴力)で練習を強制すれば一定程度強くなるのも事実で、強豪校で体罰が黙認される場合も少なくありません。しかし指導する教師が体罰で指導すれば、その生徒は後輩にも体罰で接します。その悪循環は断ち切るべきです。

「法律違反の体罰で指導し優勝しても意味はない」と、世間の人たちも厳しい目で見つめるべきでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!
お礼が遅れ、大変申し訳ございませんでした。

ふむ、

>「法律違反の体罰で指導し優勝しても意味はない」と、世間の人たちも厳しい目で見つめるべきでしょう。

そのような考え方もあるのだな、と思いました。
ただ、自分は「体罰があったから強くなった」とは思っていません。

また、

>指導する教師が体罰で指導すれば、その生徒は後輩にも体罰で接します。その悪循環は断ち切るべきです。

とありますが、自分は体罰を受けましたが、一度も同じような体罰、暴力を後輩に振るった事はありません。
「なぜか?」と聞かれれば、すぐに答える事は出来ませんが。。。
そうですね、改めて考えれば、自分がその時に監督から受けた体罰と、万が一自分が後輩に振るったとする体罰とでは、その質が「同じものだとは思えないから」とでも言いましょうか。

恐らく、回答者様は、自分より上の権力者から体罰を受けた者は、「(自分は下だから上の者から)体罰を受けても当然」と言う根底があるのだから、自分が受けた体罰と同じように、それを正当化しては自分よりも立場が下の者に対してその力を使うだろう、と考えているのですかね?

失礼ですが、そのような経験がおありなんでしょうか?
だとすれば、そう仰る事の意味も分かります。
確かにそのような悪循環は、どこかで断ち切らなくてはいけません。

ご回答者様には、自分が問題にしている事の本質を、どうか理解して頂きたいのです。

本来、人間の持つ感情で「最も根源的な感情」とは何か?
ご回答者様はご存知でしょうか?

人には喜怒哀楽と言った代表的な感情がありますが、その中で最も強く、一番原始的かつ本能的な感情は「怒り」とされるようです。
それを、人間だけが持っている「理性」によって制御しているそうです。

確かに何をどう言い訳しても、体罰は暴力以外の何者でもありません。
そして、今の日本社会では「体罰」は原則禁止され、犯罪とされています。

体罰を行う教師、指導者の全てが、本当に「体罰を振るわなければ生徒を指導できない能力の低い教師」とお思いですか?

今のような風潮の社会の中で、一番スマートに波風を立てないように過ごすには「その風潮に合わせた指導をすればいいだけ」です。
それで良いと思うのであれば、それ以上の事は何も望んだりしないでしょう。

通常、強豪校と呼ばれる学校がなぜ強いのか?
それは、必ず体罰があるからでも、法律違反をしているからでも何でもありません。
「チーム全体の目指す志が非常に高いから」
これに尽きます。

自分が体罰を受けたからと後輩に対しても体罰を振るうような輩は、そもそもそのような志など持っていないか何も理解などしていないのでしょう。
元から殴る値もない人間。

学生時代、教師が生徒に対して目標を達成するために力を貸したり、その為の指導をしたりする時間は非常に短いのです。
その中で、「犯罪だから」「問題になっちゃうから」と言う理由で、一人の生徒に対してそれを教える為に、一体どれだけの時間を費やす事が出来るのか?
また、その間に他の生徒に対する対処やフォローはどうするのか?

どんなに理想を掲げても、その理想を実現する為の具体的な現実対策が、全く議論されていないのはなぜでしょうか?

自分には、そこが分からないのです。

ご回答、本当に有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 19:33

ご質問の答えにはなっていないかも知れませんが、興味を惹かれたので少しだけ書かせて下さい。



私は中学の頃、ある一人の教師から指導による暴力を受けました。

それは、教師の側から見れば、私(生徒)が悪い事をしたから叩いたのでしょう。

しかし、自分自身には、自分の中での理屈なのですが、筋の通ったものをしっかりと持っており、叩かれたことに納得出来ずにいました。

当時、その教師の事はとても嫌いでしたが、月日が流れればその気持ちも変わるのかと思いきや、10年以上経った今でも、その教師のことが大嫌いで、恨みに思っています。「よくも殴りやがったな」というような気持ちです。

指導による暴力を受けた子供の中には、その事で成長でき、素晴らしい人間へと成長していく人もいるのかも知れません。

しかしそれは、私のエピソードで書かせて頂いた通り、全ての人間が「先生、殴ってくれてありがとう。おかげで成長できました。」とはならないという事を、頭に置いておいて欲しいと思うのです。

仮に、教師から指導による暴力を受けた人間のうち、90%が成長して教師に感謝し、9.99%が嫌な思い出になったり、恨みを持ったりし、0.01%の子供が自殺してしまうとします。

「指導による暴力は、悪い面もあるけれど、それで成長出来ることもあるんだし、完璧に目指して危険性のあることを排除するんじゃなくて、これからも使って行こうよ」と、もし言われたら、残りの9.99%の人間や、0.01%の人間からすれば、「ふざけるな」という気持ちがあると思います。

自分は、指導による暴力が、良いか、悪いかはわかりません。

ただ、人に、嫌な思い出、恨み、として残ってしまう場合もあるのだ、という事を頭に置いておいて欲しいというのが、私の願いです。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!
お礼が遅れ、大変申し訳ございませんでした。

なんと言いますか。。。
今までのご回答に対する自分のお礼をざっと見ても分かるように、自分はどうしても長文になってしまう傾向があります。
以前、違う事で質問させて頂いた時も、それを指摘された経緯があり、今回はあえて質問を手短に簡略的に書いてしまった部分があります。

あなた様のご意見、お気持ちは、実際とてもよく分かります。
あなたのすぐ後に投稿されたご回答者様も仰っておりますが、それで良い、それが普通だと、自分もそう思います。
例え、悪い思い出や感情が残ってしまったとしても、あなたは今生きているのだから、それを「次に生かす」事は出来る。
今のあなたが、自身の経験から「体罰は良いか悪いか分からない」と言う考えを持った故に、あなたは「次の自分の行動の意味」を考える事が出来るのではないでしょうか?
それが、「あなたの本当の答え」なのだとしたら、その体罰の意味はあなたに取って間違いなく存在したのだと思います。

まぁ、聖人君子のような事を書いていますが、元々自分は根が粗暴な人間です。
実際、あなたと同じように思う教師も中にはおりますよ。
「なんで悪い事なんかしていないのに、自分が叩かれなくてはいけなかったんだ?」
「理不尽すぎる、いつか殺してやる、糞野郎」
そう思った教師もおりますし、未だにそれは嫌いな教師のままですしね。

「教師に感謝」している?
違いますよ(笑
別に「叩いてくれた」事に感謝している訳でもありませんし、別にこれと言ってそう言った教師を尊敬している訳でもありません。

感謝しているのは「そういった環境に自分が身を置いた」こと、尊敬しているのは「それを乗り越えた自分に対して」なんですよね。

「体罰を受けて良かった」と思ったのは自分であって、だからと言ってそれを全ての体罰を受ける子供に対して押し付けるつもりは、始めから毛頭ないのです。

「答えを出すのはいつも自分自身」でしょう?
それは、体罰を受ける方も、体罰を与える方も、それを見ている方も、全てに取っていえる事ではないでしょうか?
別にいいんですよ、体罰を良いと思おうが悪いと思おうが。。。
その答えに「自分の責任が伴っていれば」ね。

自分が懸念しているのは、そういった責任も考えず、始めから全てのその可能性を奪おうとする今の風潮です。

包丁は、食べ物を切る為に使うのであって、人を殺す為に使うのではありません。
物には全てに正しい使い方が存在するのに、それを使う全ての者がみな正しい使い方をするとは限りません。
では、元から包丁を全て規制してしまえば良いのか?となれば、それは果たして正しい決断なのでしょうか?

例えが極端過ぎましたね(笑

ただ、その規制が広まる事で、滋賀のいじめで見ないふりをした保身に走る教師ような指導者が、今後も増えなければ良いのですがね。

余談ですが、たまにふと考える事があります。
昔自分を叩いていた教師は、今の教育現場でどのような指導をしているのだろうと。。。
変わらざるを得ない事は今の風潮を見れば分かりますが、もし変わっていないのであれば、その時こそ心の底から尊敬すると思います。

案の定、長文になり失礼致しました。
親切で誠意のあるご回答頂けました事、本当に感謝致します。
有難うございました!

お礼日時:2013/01/13 01:24

戦後生まれだから、軍隊のこと知りませんが、映画などで見る軍曹が威張り腐って、新入隊員を殴っているシーンを思い出しました。

でも、その軍曹、下士官には、ぺこぺこしてます。これと、一緒でしょう。未だに、その風潮が続いて居るみたいです。
 逃げられないから、逃げられないようにして、殴る、蹴る、これは、人間の世界ではありません。教育界であれば、なおさらです。教師とは、何か、もう一度、教師は考えるべきです。それよりも、教師は、それを理解している者がなる職業です。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!
お礼が遅くなり、大変申し訳ございませんでした。

他のご回答者様の中にも、「上官の命令に対し絶対服従が原則の軍隊のようだ」とのご回答を下さる方がおりましたが、あなた様は、ではなぜ「上官の命令に絶対服従しなくてはいけないのか」と言う事が分かりますか?

仮にも軍隊です。
上官の命令に逆らう奴が一人でもいれば「隊全体の命が危険に晒されるから」です。
それでは、本来の任務が遂行できない。

もし、あなたが上官ならば、その意味も分からずヘラヘラしている新入隊員がいたら、どう指導するのでしょうか?
それを理解してくれるまで、とことんその隊員に愛情を持って話をして教えますか?
それでも分からないような相手ならば、ここには必要ないと切り捨てますか?
それとも「自分は上官ではないから分からない」と答えますか?

>教師とは、何か、もう一度、教師は考えるべきです。それよりも、教師は、それを理解している者がなる職業です。

体罰を行わない教師であれば、それらを全て理解しているのでしょうか?
自分には、それが分かりません。

今回の質問で、自分は自身が受けた体罰の件で、あえて今回の問題と同じ部活動内での体罰を例に挙げました。
それをあなたは「軍隊のようだ」「人間の世界ではない」と仰る。

よくこの手の話をする際に、「昔は違った」という表現をします。
それに対し、「今と昔とでは時代が違う」との回答を頂く事があります。

例えば、昔からいじめはありますが、昔はいじめを見つけた教師が、いじめていた生徒をぶん殴るという事が多く見られました。
「人を殴れば痛いんだ、これで分かったか!」
そう言って叱り飛ばしていたものです。

滋賀のいじめの件では、いじめに気付いても知らないふりをしていた教師は、体罰を用いる教師ではありませんでした。

今回の問題で、その結果として体罰を加えた指導者を庇うつもりは一切ありません。

ただ、元々目には見えない「愛情」と言うものに対し、「それを教師なんだから考えて表現しろ」と言ったようなご意見は、あまりに漠然とし過ぎて無責任なように思えます。

全ての責任を他の者に押し付け、自身の責任を考えようとしない今の風潮は、指導者達の逃げ場を狭め、いずれ滋賀のような保身に走る指導者を増やしていく事でしょう。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/13 00:36

体罰は、禁止されねばならない犯罪行為である、と認識しています。


よく「愛情があれば」と擁護する人がいるのですが、愛情がある、というのは却って歯止めの利かない暴力への加速装置となりかねないからです。

というのは、例えば、「あいつを痛めつけてやろう」とか、そういう悪意による暴力と言うのは二つの歯止めが存在します。
一つ目が良心の呵責。よほどの悪人でもない限り、「悪いこと」と認識してやっているうちにそれを感じるものです。
もう一つが、利害の計算です。相手が見るだけでわかるような大怪我をする、とか、死んでしまう、というところまでいくと、凶悪犯罪となってしまいます。そうなったら、相手も自分に対してとことん対抗してくるでしょう。それでは損です。ですので、利害計算により歯止めが掛かります。

しかし、「愛情」などという自己正当化の理由がある場合はそうなりません。
相手に暴力を振るうことが、「愛情表現」となってしまうのですから。
しかも、ここまでは純粋に「愛情」だけ、という前提で書いてきましたが、指導者も人間です。欲やらなにやらもあるでしょう。
部活動で好成績を残す。これは確かに、その部活で食べて生きたい、というような生徒のためになっています。しかし、同時に、指導者自身の利益にもなっています。単純に「名監督」などと呼ばれる、というだけでも名誉欲を満たしてくれるでしょう。でも、それだけでなく、そういう形で指導者として名を残せば、現在の職場を定年などで去ったとしても、私立校などから「指導者としてきて欲しい」と誘いが来るようになります。金銭的にも大いなる利益があります。
そういう欲もごちゃ混ぜになるはずですが、しかし、「生徒のためになっている」「生徒への愛情だ」という自己正当化の理由があれば、自分自身への利益は無かったこととして話を進めることが出来ますから、歯止めがきかなくなります。



しかも、強豪の運動部、なんていうのは、さらに歯止めが利きづらい環境が揃っています。

まず、運動部員たち、です。今回の桜宮高校バスケ部というのは、全国大会の常連です。学校自体が、体育科を儲けるなど、スポーツで名を売っている学校であると言って良いでしょう。
当然、部員の方も、将来、バスケットボール(スポーツ)で食べていきたい、というスポーツエリートが揃います。そうすると、指導者にとっては、「勝つこと」が選手に対する最大の愛情表現ということになり、そのためには何でもあり、という錯覚に陥ることがあります。

次に、指導者というのが絶対権力者である、ということです。
部活動で試合に出ることが出来るのは、限られた選手だけです。それを決めるのは指導者です。つまり、選手の生与奪権を握っているわけです。
指導者の機嫌を損ねたら試合に出ることが出来なくなるかもしれません。そうしたら、全てが無駄になります。そのため、文句などが言えなくなります。
また、学校としても、部活動の活躍が、学校そのものの宣伝になるわけですから、指導者に対して及び腰になってしまいます。結果、まともな調査が出来ない、などという状況を作り上げます。

同様に、連帯責任制度、という現在の学校スポーツで採られている制度も、隠蔽を促します。
部活動で何か問題があると、学校そのものが試合に出ることが出来なくなります。被害者が、自分の受けた被害を公表すると、被害者自身が試合に出られなくなる、という矛盾した状況が出来ているのです。
そうすると、被害者が被害を訴えることができません。犯罪行為が行われていても、試合に出るためには我慢を強いられるからです。結果、取り返しのつかない状況までエスカレートすることになります。今回のような教師による暴力事件だけでなく、上級生の下級生に対する暴力事件なども同じ構図です。


そういう状況が揃った中で、これはおきるべくしておきた事件である、と考えます。
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この回答へのお礼

ご回答頂き、誠に有難うございます!
お礼が遅れ、本当に申し訳ございませんでした。

とても冷静で客観的、かつ細部に渡って実に的確な分析であると思います。

ご回答者様は、どこかの強豪校で部活をされていたご経験のある方でしょうか?

質問にも書きましたが、自分自身もある程度名の知れた強豪校の部活動に所属していた経験があります。
実は、質問で自分は、血が出るなどの体罰を受けたと記載しましたが、実際体罰を主に受けていたのは、その当時は自分だけであります。
自分以外の他の部員に対して、監督が体罰を振るうなどと言う行為はほぼありませんでしたね。

狙われていたのでしょうか(笑

ま、あながち冗談でもありませんが、ご回答者様が分析してくださったような事は、強豪校に所属していた経験のある生徒の大半は、恐らく分かっている事なのではないかと思います。

例えば、自分が小学生の頃の部活動は、それ程有名ではなくどちらかといえば弱小と呼ばれる所であったと思います。
そこでは、チームワークの大切さ、努力する事の大切さ、成功する喜びや失敗する事の悔しさなど、基礎的な事を学んだように思うのは、「全ての部員を平等に扱った」事によるものだと思います。
上手い人でも下手な人でも、最高学年になればほぼ平等にユニホームはもらえる。
いつか努力は報われる。

そこには、もちろん表面的な試合の勝ち負けは存在しますが、それでもあまりそれに対する「こだわり」は強くなかったような気がします。

中学の頃は、練習内容も厳しく、時代の流れで体罰こそあったものの、結果を残せるようなチームではありませんでした。
そこでは、俄然厳しくなった指導内容と練習内容に対し、耐える、我慢すると言う事を経験し「続けていく事の大切さ」を学んだと思います。

高校ではどうでしょう?
その道での強豪校。厳しい、つらい、苦しい、大変なのは当たり前。
そこで自分は、部活を始める前に「それを選択するかどうか」と言う事を経験しました。

小、中学校のように学校区が決まっている義務教育と違い、高校からは自分自身で物事を選択する事が出来る。
つまり、今までのように「与えられた」環境とは違う。
それは、自分の考えていた想像よりも、もっと厳しかったと言う「現実」を知る事で初めて感じた「自己の責任、立場」だったのかも知れません。
そこで改めて、自分はその環境を選んだ。
それだけの話です。

あなた様が仰った、体罰を行う指導者の卑怯で愚かで計算高い部分。
自分には分かりますが、それでも「それは体罰を行う指導者に限った事ではない」のではないでしょうか?

「体罰を行えば保護者からクレームが来る」「面倒だから関わらないのが一番」
滋賀のいじめの問題の時に、いじめをする生徒を見過ごした教師は、体罰を行う教師ではありませんでしたが、保身に走る教師でありました。

「悪い事をすれば叩かれて当然」

例えそこに痛みや恐怖が伴ったとしても、「それだけで終わらせる」事が、一番愚かな事なのではないでしょうか?

子供は大人が考えている以上に、色んなものを見ていますよ。

長文になり本当に申し訳ございませんでした。
ご回答頂き、ありがとうございました!

お礼日時:2013/01/12 23:49

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