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どのカテゴリで質問しようか迷いましたが哲学にさせて頂きます。

質問ですが、キリスト教は誰にでもわかるように絵画なども交えて、他国の人に伝わらなければ聖書も外国語に翻訳するなど非常な努力を重ねてきました。その教えの内容も、例えばキリスト教を全く知らない人であっても「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます。

その一方で仏教は、キリスト教に比べるとひどく閉鎖的に見えて、ちゃんとその教えを学ばないと意味すら理解できない、日常の文化と乖離していますよね。キリスト教は日常の文化に根ざして日々の生活文化の基礎も担っていますが、なぜ仏教は大乗仏教のように多くの人の救いを説きながら、普通の人には理解できない、特別に勉強して奥義を極めて初めてその真意を会得するといったような閉鎖性を持つのでしょうか。
仏教の経典は日本には中国から伝わったとはいえ、日本人が日本語で理解しやすいように内容を翻訳しようという大々的な動きもなく、基本は漢文です。

例えば南無阿弥陀仏も、これって普通のお経が難しすぎて理解できない人たちに「これなら簡単だからやりやすいでしょ?」ってことで普及したわけですよね。とにかくこれを唱えればいいと。でも南無阿弥陀仏の意味ですら、ちゃんとその意味を教わらないと日本語として理解不能ですよね。
つまり仏教は多くの人の救いを説きながら、その実キリスト教と比べればずいぶん階層が二極化していて、なおかつ潜在的な権威主義も含まれていて、「内輪でしか理解できない思想体系を構築した閉鎖的なエリートたち(全体の一部)が、圧倒的多数の無知な人たち(下層階級)」を支配するという構造になっている気もします。

繰り返しになりますが、仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点で、教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており、本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました。

皆様の考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

こんにちは。



 私も質問者さんと同様の疑問を持っていました。(もっとも私も本当にご質問の趣旨を理解できているかどうか・・・笑)

 いろいろ回答が出ていますので組み合わせると疑問が解けているかもしれませんが、質問の趣旨と回答がちょっとかみ合っていない感じもしていますので次のような回答ではいかがでしょう。

 私からのポイントは、「結局は、多国語に翻訳する行為を早期に認めたかどうかの些細な分かれ道」

次のような点は質問者さんの認識に合っているでしょうか。
(宗教関係者や深く考察されている皆さんごめんなさい。また、知識にもうろ覚えが・・・)

(1) 教義は複雑
 どのような宗教であれ、教義は多岐、複雑ですね。聞いた後に直ちに納得できる単純な(といっても行動に移すのは単純ではない)ものもあれば、じっくりと長く考え、あるいは討議してやっと理解できる複雑なものもある。いずれにしてもある程度の数を知り、ある程度深く理解するためには説教・礼拝・修行などに長期に加わる必要もあり、容易ではないでしょう

(2) 聖域・神秘性が必要
 信仰には「尊厳」「神秘性」が必要であり、そのためにはどうしても「非日常」を演出するのが近道になります。きらびやかな像や寺院、複雑な儀式などとともに、経典を特殊な言語・文体に限るのはその手段のひとつです。
例を挙げると
仏教;経典は日常語に翻訳させない(サンスクリット語を基礎とし、一部は漢文まで)、複雑・豪華な寺院・仏像、複雑な儀式、難解な呪文
イスラム教;コーランは翻訳させない(解説書はあっても、コーランの翻訳ではない。)、大規模・豪華なモスク
キリスト教(特にカトリック);複雑な儀式(一時期は、聖書のラテン語依存)、豪華な教会建築、荘厳な教会音楽
 このような傾向は確かに指導者側の科学的根拠のない無駄な権威につながる事態と言えますが、他方で、少なくとも科学が発達していない段階においては、民衆にとってはやはり日常を超えた「神秘性」や「尊厳」は安心感や信頼感につながりますので、あながち悪とはいえないと思います。

(3) あまりにも理解しにくくなるので・・・
 まあ上記の結果、これらを理解し、濃厚に接することができるのは一握りの集団(質問者さんはエリートという単語を使っておられますが)に限られ、どうしても一般民衆から離れてしまう。その対策(民衆にとっても充実感を与える)のために「信仰を象徴する単純な行為」を提示する必要があります。
例を挙げると
イスラム教;信仰告白等「五行」
仏教;南無阿弥陀仏等(いわば呪文)の連唱、マニ車、写経
キリスト教;「主の祈り」の暗唱、聖歌・賛美歌
(なお、これらの「単純な象徴的行為の無我的な繰り返し」は、宗教による解決が最も期待される「死の恐怖」への対処法としても大変に有効です。)

 さて、この中でやはりキリスト教に特記されるのは「翻訳」に対する寛大さですね。
 基本的には最初はアラム語(ユダヤ語)で書かれたはずですが、ユダヤが多くの文化(ギリシャ・ローマ・エジプトなど異なる言語を持つ大国)の接点地域にあり、早期から弟子たちが広く周辺国へ布教を進めたことにより他国語への翻訳は美徳とされたようで、中世のカトリックにおいてラテン語(古ローマ語)が尊重されたことを除けば(ルターの宗教改革なども経て)どんどん翻訳され、日本語の現代語訳も繰り返し行われています。(確か、聖書の相当部分を書いた弟子の一人のルカはそもそもギリシャ人だったかと)

 他方、仏教・イスラムの地域も多くの言語が接していた可能性はありますが、多くが少数民族言語や方言だったのでしょうし、布教活動が大国の言語を超える形で国際的になったのが相当に遅く、仏典については中国語などへの翻訳は一時は積極的に行われていますがいささか不調で、コーランに至っては、アラビア語の韻(リズム)まで尊重する形で確立してしまったために、他言語の公式訳は未だに存在しません(もしあるようならちょっと教えてください)。

・・・ということで、多くの宗教にもある程度の共通性がありつつ、質問者さん(ほか多くのひと)の感じている「キリスト教の開放性」(比して他の宗教の閉鎖性)は、やはり聖典が日常語で書かれているかどうかの要素が大きく、結局それは大国にはさまれつつ早期に布教に回ったことの「偶然」がきっかけと思いますが、いかがでしょう。
(異国・異民族への寛容もありますが、キリスト教のユダヤ選民型の考えはとり方によれば他の宗教よりも異民族不寛容になったとしてもおかしくないので、もともとの本質が寛容だったとは思えなくて。)

 もっとも、このような翻訳の寛大さにも欠点があります。(利欠点で論じる失礼はご容赦ください。)
 キリスト教におけるルターの宗教改革は、いわば、「儀式・象徴的行為への依存を減らし、一般民衆でも教義のある程度深い意図に近づけるよう」という意味もあると言えるでしょうがそれをきっかけとしたラテン語からのさらなる翻訳の拡大は、「社会的な威厳」を低下させて政治等への影響力の低下や、さらに、その教義を自主的に深めようという意思や哲学的な探求意欲を減らしてしまったとも思われます。
(幸いなことにキリスト教における学問的な意義については「歴史・文化的意義」が高いので助かっていますが)

 やはり、聖典は非日常言語で書かれた方が「ありがたみ」があるので・・・。

 まあ、キリスト教でも現代語より古語が尊ばれるのは現在も同様でしょう。「あなたの敵でも愛しましょう」より「汝の敵を愛せよ」のほうが好まれるのは、短く覚えやすく、非日常の尊厳が感じられるほかに、脳の集中の効果もあるでしょう。(「昔のことを勉強すると将来の参考になります」の文章は”するっと抜けて”しまいますが、「温故知新」と言われると、それを理解・認識するのにいったん集中が必要なのでより味わえるという効果がありますね。)

さてさて、ちょっと長くなってしまいましたがいかがでしょうか
お役に立てば幸いです。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。頂いた回答は全て拝見しましたがお礼の順番が前後しており申し訳ないです。

No2の回答者様の御礼にも書いたのですが、以下コピーです。ちょっと長いです。
>>「「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます>因果応報→悪いことをするとバチが当たるよって子供の頃言われなかった? 悪いことをすると地獄に落ちて良い行いをした人は天国に行けるとか 仏教の教えも子供にも理解できると思う」」

私が質問させてもらった意図もここにあるんですけど、因果応報は世間にも浸透している言葉なので多くの人が知っている言葉ですよね。意味は回答者様もおっしゃる通り「悪いことをするとバチがあたる」ということなんですが、私が言いたいのもここの部分なんです。
悪いことをするとバチがあたるというのを、なぜその通りに表現しないで「因果応報」なんていう書き方をするのか。
これはつまり因果応報の意味を知らない人は永遠にその言葉の意味を自分では理解できないですよね。
私が閉鎖的だと言ったのはこういうことです。その点キリスト教なら「汝の隣人を愛せ」は誰もが読んだままに意味を理解できるからわかりやすいですよね、ということで、あくまでその対比のためにキリスト教のこの一節を引用しただけで、誤解をしてほしくないのは、今他の回答者様の答えも見つつ書いているのですが、私は仏教とキリスト教どちらが優れているかなんて議論をしようとは思っていません。

上記のとおりですが、回答者様は私の質問の趣旨を読み取ってくれたようで、回答もとても参考になりました。
予想以上に多くの方々から色々な回答を頂いてどれも参考にさせてもらっていますが、私はキリスト教と仏教の優劣や、その歴史的な功罪を比較しようという意図はありません。おそらく私の書き方が悪かったのだろうと思いますが、すでにページ数も二つになってしまったので、ここでまとめの意味でも私の意図を書かせていただきました。

お礼日時:2013/04/18 00:31

まぁそうともいえるのだろうけど?、、


秘教以外のキリスト教・仏教というのは、勿論いい面をもたらしも
したのだろうけど、やはり色々と大きな問題を抱えている物だろうと

一般的な人々にも分かり易いように、というよりも、、そもそも
一般の人々(の自己意識)というのは、霊的な素養が与えられて
いない、という不条理があり、、

また秘教家の立場からすると、その素養が与えられていない事に対して、
積極的に関わる事などを厳しく戒めている面がある、という所が問題
なのだろうと(それは私は過ちだと感じるのだけれど)

巷では、素養が与えられていない人達に向けて、低い段階のスピ系
のビジネスが行われているけれど、、素養がない場合、道を反れる
(遠回りしたまま軌道修正が難しい)か、万が一にも?(運よく?)
道を反れる事がなくとも、せいぜい学校教育でいうと、小1~3の
段階に止まってしまう事になるようで

スタートラインの悟り・解脱の秘教家ではなく(勿論、一般的に優れて
いると思われている霊能者などでは勿論なく、それ以下のスピ系でもなく)、
第2の悟り・解脱の秘教家達が、不条理に関わるべきだろうと

第2の悟り・解脱の秘教家達以外の、低い段階者達は、排除されるか、
厳しく行動や表現を制限されるべきだろうと、、

それから?、十分な霊的能力も経験もなく、宗教哲学・思考のみに拠る段階
(探求ともいないような)でしかないにも拘らず、確信・断定的に、宗教家
気取りのような悠然とした物言いをばら撒いている人達は、完全に排除
されるべきだろうとも
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お礼に気づくのが遅くてすいませんでした(;´・ω・`)ゞ



他の方へのお礼も読ませていただきましたが
単純に漢字とアルファベットの違いだと考えたらダメですか?

ヘブライ語や英語はそのまま書かれたら日本人には何を書いてあるやら???ですが漢字はある程度意味が通じます 事実仕事で中国人関わることがありますが言葉は通じなくても書くと通じちゃったりします

他の回答者様も書いておりますが仏教からの言葉は日常用語として溶け込んでいるし 因果応報と故事から来る塞翁が馬などを分けて考えることはないと思うんだけど塞翁失馬・塞翁之馬などの4字熟語だって意味を知らない人には何を言ってるのだかわからないわざと難しく書いて特権階級が・・・などと思いますか?論語は?中庸・大学など朝鮮も日本も漢文で学びます

前回も書きましたが 子供や字の読めない人にもわかりやすく教えてるのも普通に有り ただ単に漢字が日本に浸透していたので 4字熟語のように原文がそのまま残っているものもあるってだけでしょ 

私は詳しくありませんがアラビア語圏や英語圏なら旧約聖書も古代ヘブライ語の言い回しや書き方なども残っていて解説をつけなければ現代人には理解できなかったりするのではないでしょうか?

あとほかの方の回答にもあって 気になったので もう一度

実際今の仏教は葬式の時だけと考えてる方が多く 何の布教活動もしていないお寺が多いのは確かですが 前回書いたように毎週のように説法をしておられるお寺も数多くあります

また奈良京都鎌倉等など日本の観光地の多くでお寺を巡るのはごく普通の風景ですし

四国のお遍路さんも数多くの方が行います 山登りも信仰と密着していることが多いですし仏教や神教の番組は数多く流れています やはり日本は神教と仏教の国で深く浸透していると思います

その教えが 諸外国を驚かせた大震災のあとの日本人の行動の源であり
多くの人を物質的にも精神的にも救済した証ではないでしょうか?
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こんにちは。



先頃、東京国立博物館で飛騨の円空の仏像展を観てきました。

館内に並べられているそれらはあまりに荒削りで稚拙な印象さえ受けました。
ところが、間仕切り用の、ある緑色の大きなシルクスクリーン(森林をモチーフにした)を背にした巨木を観た瞬間、
「うわっ!」と驚かされたのでした。

その幹には形状を巧みに活かして大きな仏の像が彫られていたのです。
木の化け物か?といった奇妙な迫力がありました。
そして、あれらの彫刻群が飛騨の奥深い山々に実際に地に足つけて存在しているとするなら、
木の生命力と山の霊力とで、まるで別物のように生き生きとして、また厳かなれど親しみやすく映るに違いないと確信しました。

実際、円空が彫った仏像を代々大事に受け継いでいる民家は今なお少なくないそうです。
また、博物館に置かれた三十三観音立像のうちの本来あるべき数体は、かつて病気治癒祈願のためにその都度村の家々へ貸し出されてそのまま行方知れずとのことでした。

日本の気候風土からして、ごくごく下々の民衆にとっては、神仏習合その土地ならではの信仰の形をとるのが最も馴染みやすく、今の時代からは想像もつかぬほど彼等の日常生活に深く根ざしていたのではないでしょうか。
言い換えれば民衆は自らの信心においてそこまで難しい仏教教義自体を必要とし欲していなかったのかもしれませんし。
この点につき、何も仏教だけがわざと他の人にはわかりにくくしていたとまではあまり考え難いのです。

なおかつ、他の回答者の方々もご指摘ですが、現代日本に生きる私達は、ある種の断絶というか、恐ろしいまでに古文、漢文、古筆の教養を質量ともにかつてほどには受け継いでおらず、また慣れ親しんでもおりません。
このような現状をもやはり割り引いて考える必要があると思います。

字面的に一見わかりやすいのと宗教の孕む閉鎖性とはちょっと指し示す意味が異なるのではないでしょうか。
たしかに「汝の隣人を愛せ」はスッキリとした口語体で素直に「わかりやすい」ですよね。
この点において、質問者様の仰せのことは十分理解できます。

でも、なぜ愛さなくてはならないのか、とか、隣人とは誰を指すのかとか、該当しない人々などいるのだろうかなどと疑問が次から次へと生まれ出でて来るのです。
察しの悪い私にとっては、この一文のみでは「わかる」けれどもなかなか理解しづらいというのが正直なところなのです。
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こんばんは。




>「仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点で、教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており、本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました」

いやいや、それだけ「判り難い」ということかと思います。

「「判り難い」のを良い事に」てえのは、論外と思いますけれど、
本人たちも判ってない、という事情もありそうなんだね。
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こんばんはです。



キリスト教も似たようなものなのではないですか。
と、へそ曲がりなわたしは、ついついそんなことを考えてしまいます。
別に仏教の肩をもつわけではないのですけれども、あえて反論させていただきます。


☆☆☆☆☆☆
─────────
キリスト教は誰にでもわかるように絵画なども交えて、他国の人に伝わらなければ聖書も外国語に翻訳するなど非常な努力を重ねてきました。
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歴史的に言えば、キリスト教内でそのような動きが起きたのは、宗教革命、ルター以後のことでしょう。それ以前は、一部の知識人・知的エリートにしか理解できないラテン語で聖書は書かれていました。つまり、キリストの教えは、無知で蒙昧な大衆には無関係な知的エリートだけの独占物であった。
で、キリスト教の異教徒への布教が大々的に始まったのは、
 1 新大陸(アメリカ)の発見
 2 新教(プロテスタント)の出現により多くの信者を失った旧教・カトリックが、失地回復、勢力拡大のために、新大陸・アメリカの先住民をキリスト教に改宗させようとした。
 3 キリスト教の布教が植民地支配の政治的な道具として利用された。そして、これは新大陸やアジアetcで布教を目論んでいたカトリック側の思惑と、植民地の先住諸民族をうまく支配しようとしていたスペイン、ポルトガルの思惑とも合致していた。
からですよ。
キリスト教の宣教師(とくにイエズス会)の宗教的情熱、宗教的義務感からこのような動きが生まれたわけではない。
人類や人種の平等をうたうはずのキリスト教の宣教師たちなどが、新大陸でのキリスト教の布教のために、どれだけ非人間的なことを行ったか。大虐殺を行ったか。
ということで、歴史を忘れてはいけないのではないでしょうか。
当時のキリスト教徒(のちの時代のUSAも含む)にとって、異教を信じる先住諸民族は人間ではなかったのですよ。なので、いくらヒドいことをしたり、いくら殺しても良心がちっとも痛まない。先住諸民族は、動物であって人ではなかったので、「汝の敵(or隣人)を愛せよ」の適用外だったから。。。というのは、少し極論に過ぎるかな。


─────────
その教えの内容も、例えばキリスト教を全く知らない人であっても「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます。
─────────
仏教のオキテ、「人を殺してはいけない」、「盗みをしてはいけない」、「(配偶者以外の)異性に対して邪な考えをもってはいけない」、「真実ではないこと(つまり嘘)を言ってはいけない」などなど、仏教の教義をまったくわからない人でもちゃんと理解できる教えは、仏教にもおりますよ。仏教の《慈悲》なんて、まさしく、キリスト教の隣人愛でしょ。
と同時に、いわゆるキリスト教徒の多くの人は、キリスト教の教義やキリスト教の神学について、どれほど知っているのですかね~。
質問者は、宗教と、その教(義)学や神学を、混同しているのではないですか。
質問者の批判は、仏教を仏教学や宗派内の教義学(教学)を混同しているところから起きているのはないですか。この両者は、不可分な関係にありますけれども、まったく別物ですよ。



☆☆☆☆☆☆
─────────
その一方で仏教は、キリスト教に比べるとひどく閉鎖的に見えて、ちゃんとその教えを学ばないと意味すら理解できない、日常の文化と乖離していますよね。
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仏教に限らず、キリスト教の教義や神学も非常に難解ですよ。その教えをちゃんと学ばなければ、あるいは独自で研究しなければ、教えの上っ面の部分、しかもその極一部分しか理解できないのではないですか。
仏教は日常の文化と乖離していますかね~。仏教は、日本人の文化的遺伝子に組み込まれているので、日本人の心性や文化、生活の隅々にまで浸透していることに、われわれ日本人が気づいていないだけなんじゃないですか。
「ビミョ~(微妙?)」って言葉、仏教の用語ですよ。この新しい言葉なんて、「真実は言葉で伝えることはできない」という仏教本来の意味を、教えとしてではなく、その文化的背景から自然と理解して生まれたんじゃないですかね~。


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なぜ仏教は大乗仏教のように多くの人の救いを説きながら、普通の人には理解できない、特別に勉強して奥義を極めて初めてその真意を会得するといったような閉鎖性を持つのでしょうか。
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この質問には、宗教とその教義学(or神学)との違い、ということで答えていますよね。



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仏教の経典は日本には中国から伝わったとはいえ、日本人が日本語で理解しやすいように内容を翻訳しようという大々的な動きもなく、基本は漢文です。
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毎年のように、日本大乗仏教の根本経典ともいえる『般若心経』の本が新たに何冊も発表して、結構、売れていますよ。また、主要な経典のほとんどは、漢訳経典からだけではなく、サンスクリットやチベット語から、日本語に翻訳されており、岩波文庫をはじめに色々な出版社から文庫本で発売されています。ネットですこし検索すれば、誰でもタダで日本語に翻訳された経典を入手可能であり、読むこともできます。
また、漢文は昔の中国語ですけれども、漢文読み下し文は日本語───文語の一種───ですよ。日本語、日本語!!
わたしを含めて現代の日本人は、中学と高校で漢文をすこし習うだけで、日頃、漢文に慣れ親しんでいないから分からないだけなんじゃないですかね。
質問者は、文語文の聖書って読んだことがありますか?
まぁ、文語文に慣れ親しんでいない現代の日本人の多くは、読んでも、分からないんじゃないですか。
さらに付け加えると、仏教の経典の数は、聖書に比べて、膨大ですからね~。般若経をすべて日本語に訳して出版するとなると、文学全集のようなモノになってしまう(笑い)。


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例えば南無阿弥陀仏も、これって普通のお経が難しすぎて理解できない人たちに「これなら簡単だからやりやすいでしょ?」ってことで普及したわけですよね。とにかくこれを唱えればいいと。でも南無阿弥陀仏の意味ですら、ちゃんとその意味を教わらないと日本語として理解不能ですよね。
─────────
「これなら簡単だからわかりやすいでしょう?」はすこし語弊がありますが、まぁ、そうですね。
ではありますが、昔の人をバカにしてはいけませんって。いくら何でも「南無」の意味くらいは知っていたでしょう。それに、これは呪文や《おまじない》のようなものですからね~。意味、ほとんどないし、おまじないのままでも構わないんじゃないですか。



─────────
つまり仏教は多くの人の救いを説きながら、その実キリスト教と比べればずいぶん階層が二極化していて、なおかつ潜在的な権威主義も含まれていて、「内輪でしか理解できない思想体系を構築した閉鎖的なエリートたち(全体の一部)が、圧倒的多数の無知な人たち(下層階級)」を支配するという構造になっている気もします。
─────────
これは、権威主義のカトリックも同じことでしょう。カトリックなんぞは、教義や聖書の文言の解釈は教会(バチカンだわさ)の専権事項であり、信者は、それをしてはならない。教会からいただいたものを無批判で受け入れなければならない。閉鎖的、知的エリートの占有物と言う観点からならば、カトリックの閉鎖的かもしれませんね。




☆☆☆☆☆☆
─────────
仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点で、教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており、本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました。
─────────
「仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしている」のではなく、真理や真実を知的・哲学的に追求しようとした真摯な活動だったと思います。
それはそれとして、仏教、わかりにくいですかぁ~?
仏教の教えは、畢竟、
「諸悪莫作 聚善奉行 自浄其意 是諸仏教」(悪いことをしないで、善いことをおこないさい。自分の心をきよめなさい。この三点が、つまるところ、諸々の仏さんの教えです)
に尽きると思うのですが。。。。。。

「空とはなんぞ」なんて未解決な超難問から仏教を始めるから、仏教がわからなくなるんじゃないですかね~。
キリスト者が「神の愛とは?」「イエスの十字架とは何か?」と自らに生涯をかけて問いかけるように、
「空とは何か」は大乗ブディストが永遠に問い続ける問いかけなんじゃないですか。
経典やその解説書をちょこっと読んだくらいでわかろうとすること自体に、土台、無理がある、と思います。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。只今お礼をつける順番が前後しております。

No12でも書かせてもらったのですが、キリスト教が過去に行った原住人に対する虐殺など、確かに事実でしょうが残念ながら私の質問の意図とは外れてしまいます。私はキリスト教や仏教の優劣、功罪について論じようとは思っていません。単純な疑問から発した問いに答えてもらおうと思っただけです。

>>「「諸悪莫作 聚善奉行 自浄其意 是諸仏教」(悪いことをしないで、善いことをおこないさい。自分の心をきよめなさい。この三点が、つまるところ、諸々の仏さんの教えです)」
これを(悪いことをしないで、善いことをおこないさい。自分の心をきよめなさい)というカッコ無しで意味を理解できる人がどれだけいるのでしょうか。私が言いたいのもこの部分です。

聖書ですと(ちなみに文語体の聖書は良く読んでます)死海文書や過去の記録から比較すると、聖書の内容は過去から現代に至るまで極めて同一性を保持していると言えます。
ちなみに文語体の聖書は確かに難しいですが意味が理解できないわけではありません。しかし、なんの本か忘れましたが以前仏教の本を読んだ時は、何が言いたいのかも理解できませんでした。これは私の知識が足りないせいなのでしょうか。そういった経験をしたことが本質問をしたことにも影響しています。

回答者様の言う通り仏教なら新しい本が毎年多数出版されており、中には現代語訳版とか超訳版とかもありますよね。
諸悪莫作...などの四字熟語調の原経典を知識ある人が読んで理解した場合と、現代語訳版を読んだ人の理解は同一のものでしょうか?

アマゾンのレビューを見たら、しょせん現代語訳版ではちゃんとした意味、元の意味は理解できないみたいなことを言っている人もいました。
ですが、私はこの問いの答えを知りませんが、この二つのバージョンの理解は同一にならなければおかしいですよね。
同一にならないのなら、その点が「仲間内でしか理解できない教え」だという意味で閉鎖的という言葉を使いました。

他の方のお礼でも書きましたが、私が「汝の隣人を愛せ」という聖書の一節を引用したのは、この言葉なら誰が読んでも文字通りに理解できますよね、と比較するために置いただけでそれ以上の意味はありません。

お礼日時:2013/04/18 00:58

それはかなりムチャクチャな話じゃないかな?(笑)



仏教だって仏像を作っているでしょ?。日本の仏教は、貴族のものだった訳だし、仏教徒が荘園を作って民から搾取してきた歴史もあり、反発があって鎌倉仏教が生まれているが、鎌倉仏教になると、もう仏教とは言えないもので新興宗教と言ったほうが良い程度だと思いますね。釈迦が説いているのは、『修行しろ!』ってことでして、彼は生涯、その実践者だった訳です。その後は、権力とつるんで私服を肥やした歴史もあり、衰退していく訳ですよ。

現代でも、仏教徒の偉い『らしい』人が、お布施を運用して大損してニュースになっていましたが、お布施で博打するのが、仏教の指導者ですから、どうでも良いのですよ。葬式やってれば問題ないし、そろそろ葬式も坊さんに頼む必要は無い時代に突入してきていると思えます。民の為に活躍した宗教者達が、現代に生きていれば、坊さんになどならず、医者にでもなっていることでしょう。

キリスト教は、確かに布教の名人ですね。彼らの生み出した芸術作品は、実に見事だと思います。だからといってキリスト教を信じる気にもなりませんが、キリスト教を信仰している『らしい』国のマンハッタンのビルに飛行機が突っ込んだ時、『左のほほを出す』のかと思ったら!『目には目を!』って態度なので、結局は、『信じていることと、行動していることが違うのでは?』となるので、やはり釈迦の言ってることが正しいことになりますね。

知行合一でないものはどうでも良いのです。
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>キリスト教でも司祭はミサのときにラテン語でとなえます。

これもまた特権でもあります。
結婚式や葬式(終油)は司祭、或いは将校、船長など限られた階級でしか挙げられません。

これは、どこの国の話でしょうか。日本ではラテン語のミサは、あまり見かけませんが。
また、一般のカトリック信者であっても、ラテン語で祈る自由はあります。

>でも南無阿弥陀仏の意味ですら、ちゃんとその意味を教わらないと日本語として理解不能ですよね。

これも、サンスクリット語ですからね。

>教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており

というより、そもそもキリスト教のように教えを説こうとはせずに
葬式しかしていないように感じますが。(仏教徒で、そうではないという人には
謝らないといけないですね)
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確かに現代人が読むには読みにくいと思います。



紀元前の古典哲学ともいえる内容をパーリー語からサンスクリット、のち漢訳してありますから。
想像するに近い内容では、イマニエル・カントの三大批判が古くのパーリー語であったのが
漢訳に至り、手元にあるのがそれだったら渋い気持ちはでますね。

翻訳は、回数を重ねるほど内容はより変容してしまいます。

現代文に変えたから、読みやすいのか?って内容ですので
二千数百年の間に何度もその時の現代文に変更されて内容がますます本来と離れていくなら
漢文でもしかたがないことかなとも思います。

日本では、同時期は縄文時代や弥生時代の文献ってことになりますからね。

現代文が読みたければ本屋に行かれると、あれだこれだと好きに翻訳されて出ています。
そのあたりを読まれて、ご自分なりの全体像を捉えることが入りやすいかもしれません。
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キリスト教の元であるユダヤ教は司祭という一部の権力者によって支配・統治されている国家であり宗教でした。


キリストはそこから本来の人間対神という二極の生き方としてのユダヤ教に戻そうとした人であり、別に新しい宗教を起こしたのではありません。
しかしキリスト教も支配者によって広められました。その先方がイエズス会です。そしてキリスト教もまた裏の国家と言えるような中世における支配者になったわけです。その精神は『キリスト教に従え』というものですから判りやすさも何もありません。
この影響は今でも同じで、聖書解釈は基本的に司祭だけが正しいとされています。ユダヤ教では司祭以外は民衆に説くことすら出来ません。
イスラムやユダヤでは今でも言語で唱えられますが、これは一部の階級だけが権威主義にほかなりません。キリスト教でも司祭はミサのときにラテン語でとなえます。これもまた特権でもあります。
結婚式や葬式(終油)は司祭、或いは将校、船長など限られた階級でしか挙げられません。

一方で仏教は大乗仏教になり、日本に伝わって広く民衆に広まりました。
カトリックやイスラム、ユダヤが特権階級かエリートのみが成れるのに対し、仏教は現在でもタイなどがそうであるように貧しい農民でもなることができます。要するに中で育てばいいんです。
仏教は基本的に支配者が宣教したのではなく、教えだけが広まっています。仏教がインドから中国に渡ったからと言って中国がインド領になったわけではありません。

医者が専門用語を使っているからと言って医学会が閉鎖されているなどという人は居ません。医者はわかりやすい言葉に変えて民衆に予防や知識を広めれば言いだけです。
仏教も難解な・・というか要するに漢訳というだけですが・・ものですが、判り易い教えそのものを民衆に広めてきました。

それに江戸時代ですら、人々は草書や漢文を普通に読んでいたのです。現代人が読めないような文字を江戸時代や明治初期には「子守り女でも書を読んでいる」(ハリスだったか、フェロノサだったか忘れました)と驚くほど日本人は知識が高かったのです。大体日本は元から儒学などを漢文で読んでるではありませんか。
だからエリート階級の独占ではなく、現代人が江戸時代以前の人より識字力が落ちているだけともいえるわけです。国語力が劣っているから経文が読めないだけかもしれません。
漢文で書かれているから傲慢だというなら、そう感じるのは愚者の論理とも言えるわけです。

言語が良いのかわかりやすいのがよいのかという問題は難しいです。
実際に聖書では言語と和訳ではかなりの誤差があることがわかっています。判りやすくすることで教えそのものが間違っているということです。それを考えると、わかり易くして誤差があっても広めるほうが良いのか。難解でもそのまま表示して解説で説いていくほうが良いのかということには簡単な結論は出ないと思います。
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