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どこに投稿すべきなのか迷ったので、ここにしました。

人生の目的って何ですか?

あなたが死ぬ5分前に、
私が全財産も地位も名誉も全てを捨てて、血反吐を吐いて両手両足を失って
極限の苦痛に苦しみあえいででも人生でやりたかった事は何かと聞かれたら、
何と答えますか?

それが人生の目的に近いと思うんです。

家族ですか?偉業ですか?

わたしはそれを見失っています。
どなたかヒントを下さい。

A 回答 (18件中1~10件)

フランクルという人は


「人生の目的とは何か?」という問いを立てること自体が、実は間違っている。と言いました。

彼はそうではなく、むしろ
「人生が自分に何を問いかけているのか?」を問えと言ったのです。

つまり、人生とは「生き方」が問題だったのです。

質問者さんに対する回答としては、まさしくこのことに尽きます。



――ちなみに、
私はフランクルの考え方を自分なりにこう展開させてみました。

私の一生というものを「私の歴史」ととらえる。
この歴史の終着点は“死”です。(なんとなく質問者さんの問題意識と似ています)
この“死”の直前に、「いったい自分はどんな人間になっているのか?」を絶えず問いながらそういう人間になることを目指すのが人生です。
私自身はこれを「人間の完成」と自分で呼んでいます。

この「人間の完成」は人それぞれです。
お金持ちに魅力を感じるなら、それがその人にとって「こんな人間になりたいなあ」という衝動につながるでしょう。
お金がどうこうよりも偉業を成し遂げることに魅力を感じるならまたそれもそう。
他にも、異性にモテる人、優しい人、芸術に優れている人、ずしりと構えている人、またはどこか不器用だけど深みのある人…
その人によって「こういう人間ってかっこいいなあ!」と思う点というのは違ってくるでしょう。
「死ぬ直前に自分がどんな人間になっているか?」が問題なのですから、そういう人間になるのを目指して生きていくのが人生ではないでしょうか。


そして実はこれが、フランクルの「人生が自分に何を問いかけているかを問え」という言葉につながってきます。

というのは、
「こういう人間に魅力を感じるんだよなあ」と思うその“感性”こそ、その人自身の心の目・心の耳によるからです。
つまり、心の目や心の耳という“感性”は、その人が人生を生きていく上での様々な体験をもとに、何を感じたか、何を考えたかといった「人生の問いかけに対して自分はどう応えたか?」によって変わってくるのです。


「人間の完成」に向けて“感性”を磨くというのが、私なりの人生観です(笑)。
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別に無理に血反吐を吐く事はありませんよ



人生の目的は 一つは幸せになることです

カントが死ぬときに「これでよし」と満足して死んだか「もう沢山だ」と嫌気が射したかと

いう話もありますが。人生は幸せになることが大事です

その幸せは人それぞれです。価値観の多様化で色んな幸せがあります。

もう一つは未来に何かを実現する事です。

実現すると言うのは何かを存在させる事です。子供でも孫でも子孫でもいいし

今まで無かった新しい発明品でもいいです。

ただ一つ言えるのは 遠い未来に実現すべきは「永遠への存在」だと言う事です

人間は永遠まで存在を目指します。存在する事が全てだからです。

永遠居は何時まで経っても到達しませんが 永遠を目指す事は出来るのです

その先に何が在るのかは分かりませんが 人類が滅びてしまったら

意識も人間性も永遠への存在も実現しなくなります。

詰まり答えは 人生の目的は幸せになることと、永遠への存在を目指して未来に何かを実願する事です。

どうでしょう?
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この回答へのお礼

幸せになることと、何かを後世に残すことは人生の目的に近いと思います。
福沢諭吉やエジソンのような人が私の理想に近いのかもしれません。

お礼日時:2013/04/22 22:06

(1)生物の一種としては「生命を維持して子孫を残すこと」。

(2)社会的動物としては「文化遺伝子の維持・継承・発展への寄与」。(3)個人としては「センスを出すこと」。人間が生きる目的は大まかにこのいずれかに類型化できると思います。そして自然にフェアに消費生活を送るだけでこのどれかの目的に沿って生きていることになります。(1)(2)(3)のための具体的な目的をあなたに提示することはできませんが、きっかけはどこにでも転がっています。きっかけをつかむために肝心なのは‘心の目を開いて行動すること‘だと思います。
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この回答へのお礼

心の目を開いて行動することですか。
自分の心に正直に生きるっていうことでしょうか。

お礼日時:2013/04/22 22:04

誰もが自分の中に自分の答えを持っている。



見失ってるのは目の前にあることじゃなく自分自身。
自分が何をしたいのか、自分を見つめていく時ではないでしょうか。

納得できそうな他の人の価値観より、自分に問い続ける方が自分を見つけられます。
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この回答へのお礼

自分が納得するまで考えてみます。

お礼日時:2013/04/22 22:03

物質に「目的」はありません。


しかし、本質的に目的はなくとも、それゆえに二次的に生じる目的、というものもあるのです。

「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(意志の強さ×その達成度×それを把握する認識力×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×寿命)に収束します。

たとえ死に瀕していても、その残りの時間の中で、最大限に喜びを感じる(あるいは苦痛を少なくする)方策を目指すものです。
とはいえ先の関数に認識の深まりが複数表れている事から分かるように、「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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この回答へのお礼

とても難しいですね。
私もできることなら苦痛からは逃げたいです。
本物の愛を知りたいです。

お礼日時:2013/04/22 22:03

・・・まずその前にこの死ぬ5分前という逼迫した状況を何とかしろ。



話はそれからだ。

いや、話はそれだ。
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この回答へのお礼

実際にそのような状況になったら何とかすることに全神経を使うのでしょうね。

お礼日時:2013/04/22 22:01

極限の苦しみ、死ぬ前に、親父が、私の手を握りしめ、言った事は、母ちゃんを頼むぞ、と


もういい、俺の首を絞めろ、でした。
人間が死ぬ苦しみの中で思う事は、死にたくない、と、楽にしてくれ、でしょう。
それが人生の目的に近いとおもうなら。人生の目的は、生きる事、と死ぬ事、でしょう。
 
若い頃の、私のお気に入り?。の一節は
 
安心していてはいけませんよ。自分を眠らせてしまってはいけませんよ。
幸せなんてものはありません、またある筈がないのです。
もし人生に意義や目的というようなものがあるとしたら。
それは私たちの幸せ、などの中ににあるのではなく。何かもっと合理的なもの、偉大なもの、の
中にこそあるのです。チェ-ホフ、「桜の園」

人生の目的は、支配権の獲得、であるとは、現代人の、口には出さない常識、みたいですが。
元は、カントが、
幸せとは、自分の周囲が自分に都合よく回転している状態、と定義したため。

幸せとは、周囲を自分に都合良く回転させる事。との解釈になったようでしょうか?
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この回答へのお礼

お父様は壮絶な最期を遂げられたのですね。
合理的で偉大なものの中に目的があるのだとしたら、教えて欲しいです。

お礼日時:2013/04/22 22:00

参考にならないかもしれませんが。



「家族」も「偉業」も、「見失っている」という文意がいまひとつ曖昧です。

――家族にも裏切られた、仕事の先も見えた、


ということなのでしょうか。

ふつう、

――好きでもない仕事もやっているうちに、そこそこ仕事というものの奥行きに思い当たりつつ、
――働き、家族を育て、心身ぼろぼろになり、そのとき
――人生の目的とはなんぞや、とおもう瞬間もあるかもしれません、

でも、それは「人生の偉業」(それ以上のなにをやるというのでしょう)をやりとげたあとの感傷というものです。


質問者さまの問いは、

人生に春秋の富む人の、未来への不安、というふにも読めます。
(妻にも子にも見捨てられ、仕事にも先が見えない、世捨て人になる一歩手前の人の問いとは思われないですから)

もじどおり、老いさらばえて絶望のはての問いであるならば、

――目の前にあること、目に映っていることそのものが、人生の目的だったのだなあという結論に達するのではないでしょうか。

――いま感じていること、その先には何もありません、それが惨めな敗北感でああろうと、それはいわば「恩寵」のようなものであり、
それが人生の目的そのものであると納得されると思われます。

いずれにせよ、「目的」とはいまそこにあるのであって、どこか遠くにあるはずもなく、ただ目をこらすほかはないです。

以上です。、
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この回答へのお礼

目的は目の前にあるのですか。
気づいていないだけなのかもしれません。

お礼日時:2013/04/22 21:57

とりあえず寿命をまっとうすることじゃないでしょうか。


私らが子どもの頃は、ノストラダムスの大予言というのがはやってまして、自分は30までしか生きられないんだと思ってました。それがすぎると就職氷河期で、自分はどこへも就職できず野たれ死ぬんだと思っていました。
自殺願望もあったかもしれない。
しかし今、気づけば40すぎまでなっており、そこそこ安定した仕事につけており、それなりの家庭も持つことができている。
夢のようです。
80まで生きて死ねたら最高。そう思いませんか。
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この回答へのお礼

いい人生送っているんですね。
うらやましいです。

お礼日時:2013/04/22 21:56

プロテスタントのクリスチャンで、モルモン教、エホバの証人、統一教会とは関係ございません。

しいて言えば、昔、聖書に帰ろうという運動をした、マルチン・ルターの思想の流れの中にいるものです。

>人生の目的って何ですか?
単刀直入に述べますと、自分がこれが自分の目的だとおもえばそれがその人の目的だと言う他ございません。誰でも自由気ままにご自分の目的を設定して、社会に対して害を与えることが無ければ社会は許容して呉れると思います。

ただしどのような目的であれ、聖書的な観点からすれば、無意味なもので、風の前に飛んでゆくチリのようなものだと述べられています。

>あなたが死ぬ5分前に、
>私が全財産も地位も名誉も全てを捨てて、血反吐を吐いて両手両足を失って
>極限の苦痛に苦しみあえいででも人生でやりたかった事は何かと聞かれたら、
>何と答えますか?

そのような激しい目的意識があったとしたら、5分前と言わず、はるか以前にそのために行動を起こしていたと思います。ただし回答者にはそのような激しい目的意識やこの世で達成したいことはございません。死の5分前には恐れと期待を持って、死を待つことになると思います。

しかしどのような目的であれ、ふと気が付くとむなしいと思わされることが多いのではないでしょうか。

>それが人生の目的に近いと思うんです。
ご推察の通りと思います。いま生きていることがすでに合目的的であり、また死んでゆくことも合目的と理解しておりますので、これ以上の事を望んでおりません。

>家族ですか?偉業ですか?
確かに身近な人々と別れることはさびしいことに違いないとは思います、また人生において偉業等と呼べるような業績もなく、ひとえに家族の生活のために働いてきただけですが、それもまた自分にとっては最善の道であったと納得しております。

>わたしはそれを見失っています。
>どなたかヒントを下さい。
人は誰でも自分を作った作り主のところに帰ることなしにはご自分の作られた理由、つまり人生の目的を知ることはできません。回答者の個人的な経験でいえば、自分の創造者の元に帰った時から、自分はそのままの状態で受け入れられているという確信を与えられましたので、すでに目的の中にあたかも住んでいるような人生を歩むことになりました。

子供が砂場で遊んでいるのを眺めることがよくあったのですが、実は自分がこの人生の砂場で遊んでいるということを意識することがあります。明日のことを思いわずらうことなく、砂を積み上げたり、小石を拾ったりしているわけですが、他の人の目から見ればほとんど有意義と言う存在とは程遠いものですが、それを神はよしとされていると思います。

またなにを着ようか、なにを食べようかと考えることなく、砂遊びに熱中し、ときどき公園の外に出ようとすると、私が子供を抱き上げてまた公園の真ん中に連れてくるように、神はこの者が危険に会いそうになると、いつの間にか安全な場所に移動してくれたように思います。

>どなたかヒントを下さい。
お近くのプロテスタント教会に足を運んでみてください。通常日本では教会に牧師が寝泊まりしておりまして、人生の問題などに悩んでいる方々のお話しをきいてくれるような体勢になっているはずです。
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この回答へのお礼

私も以前は教会に通っていましたが、何かちょっと違うなと思って
行くのを辞めてしまいました。神様のために生きると言われても
ピンとこなかったので。

お礼日時:2013/04/22 21:55

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