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 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

 言いかえるなら:

  (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。

 これが 問い求めの主題です。しかも取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。


 つぎに趣旨説明です。

 (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。

 (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います:

    悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。
   あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した
   ところの観念である《悪魔》のみである。
    世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて
   いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ
   れだけのことだ。

 (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。

 (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。
  それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。
 共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。

 (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。

 (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。


 ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。


 * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。

 (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。
 (毒麦を引き抜かないのは もし引き抜くならそのとき ふつうの麦をもいっしょに引きぬいてしまって だめにしてしまうからだと言われます)。

 (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば主観としてでしょうがきつく言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。

 (κ) 《呼べるかどうか》の答えは人間としては出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。

 (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明が主観的にであれじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。
 (説明というのは 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》を充てます)。

 よろしくどうぞ

A 回答 (13件中1~10件)

 うーん。

難しい話ですねえ。悪。正直に言えば、(η) までは、何とも言えないなあという印象でした。善の欠如が悪である。では善とは何なのだ。書いていない。従って定義不全である。このように思いました。
 
 とはいえ、(θ)を読んだあたりで、何となく意味が分かってきました。要するに、悪を撲滅するのでもなく、悪と共生することはできるか。それをコミュニティ単位で行うことはできるのか。身近な話題で言えば、アラシと共生することはできるのか。これは丁寧に話し合う忍耐力があれば、どうにかこうにかできるのかもしれませんし、できないのかもしれません。ただ話し合いにすべてをかけることはむずかしいと思うんですよねえ。

 (λ)ですが、ぶらじゅろんぬさんみたいに、話術に自信があり、時間も費やしてくれる人なら、話し合いはできるでしょう。しかし大体の人は、そんなに話はできないし、時間もないと来ているのではないでしょうか。私、お金を計算してみましたが、ここで回答している時間って、結構な額ですよねえ。特殊な商売じゃないと、まずここに入って来れない。仕事がある人は、無言や言葉足らずになってしまう。これはネット上だとむずかしいことになってしまうのだと思うんですよねえ。発言しない=存在しないも同じ、ということになってしまいますので。でも顔を合わせて話せば、無言=存在しない、ではないんですよね。黙りこくっている相手の顔がある。限界があるなあと思います。

 私が人間不信に陥ったのは、相手の議論が弱すぎるときでした。いや、それは恋人だったんですけれどもねえ。とても美人の女の子だけれど、喧嘩になると、すぐに私が勝ってしまう。しかしこれは勝ち負けの問題ではないと思いました。お互いの問題を話し合わないとならない。共感しあわないとならない。ところが私の場合、勝つことによって相手を封殺してしまう。勝ち=正しい=善、ではないんですよねえ。単に相手の発言を封じているだけに過ぎないこともあります。しかし私の言葉が武器だとすると、もうどうしようもなくなる。言葉を重ねれば重ねるほど、おかしい事態が生じて行きます。シザーハンズ(手がハサミで、抱きしめようとすると相手をきっと傷つける)とはこのことでしょう。抱きしめるべき手=言葉が武器とは、なかなか悲劇です。相手が弱いのがいけないんだという考え方もあるでしょうし、お前がどうにかせいという考え方もあるでしょう。まあ、私のとても若い頃の思い出ですが、一種のトラウマでもあります。

 前にAさんに、お前の言葉は刀のように切れすぎると言われ、内心、かなりムカッと来ましたが、言葉は武器であってはならないなあと思います。そんな風に丁寧に使っているつもりだったんですが、とってつけたような比喩で言われると、何にも考えていないじいさんに何が分かるか、と思ってしまったことがありました。まあAさんは私が本気モードじゃないことが分かっていたんでしょう。本気になれば、ばさっと切れる刀をもっているだろうなあ、おっかねえなあ、という素直な感想だったのかも知れません(そういえば、最近いなくなっちゃったなあ。まさかお迎えが来たんじゃないだろうな)。

 さて、以上、お答えになっているでしょうか。面白そうな問いだと思って覗いてみたのですが、ちょっと個人的に時間がないので、あまり十全に応答できないかもしれません。では。
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この回答へのお礼

 ★ では善とは何なのだ。書いていない。従って定義不全である。
 ☆ これはしくじりました。

 でぃくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 これは 失礼しました。

 いちおう言い訳も述べますが この質問もリバイバルで 当時は善の定義もしていて 悪がどうだと問い求めていたのだと思います。

 ○ 《善》の定義  ~~~~~
 まづ主観によるとします。
 善とは:

 《ワタシがよきこと・好ましいことと見たもの》 
 《おのが心にさからうことなく意志すること》
 《おのが心にさからう思いは 顔を赤らめるなどのやましさ反応が起きる。このヤマシサ反応が起きない心づもりのこと》
 
 ひとには 共通感覚(センスス・コムニス)があると想定される。(もしくは 強引に想定する。それは 証明抜きで
みとめられている公理としての《良心》にもとづく。またはそれと感性一般とは相い呼応すると見るゆえ そこから想定をみちびく)。

 したがって ひとりの人の主観における善も 必ずしも普遍性に欠けるとは言えない基礎的部分がある。

 この善を傷つけること・そのように心の向きや中身が傷ついた度合いや状態 これらを《負の善》として別様に《悪》とも呼ぶ。

 悪は そう呼ぶだけであって 主観の内に起きる善があって初めてその現象があると見る。
 つまり 悪そのものは 存在しない。善の損傷があるのみ。
 
 (しかもこの悪が 概念化され経験事実から離れた観念としてさえ持たれ 観念が後生大事にいだかれるようになると――なぜなら 現実はきびしいゆえに観念にまでその避けどころを求めるようになる。

 (趣旨説明欄(γ)にしるしましたが 避けどころは善なる観念そしてその観念としての神という場合もあるが そうではなく人びとはしばしばその善神に対抗するようなもうひとつの観念として悪ないし悪魔をも持つに到る。そのほうが ご利益があると踏んだわけのようです。・・・うんぬん・・・)
 ~~~~~~~~~~~~~~




 さて ご回答は こうなりましょうか。

  1. 悪との共生は 互いの話し合いによる。

  2. ★ 丁寧に話し合う忍耐力――☆ これが大事。

  3. けれども ひとによって時間が足りないことがある。

  4. あるいはバーチュアルな場の問題もある。対面していないというマイナスの条件。

  5. ともすればそういった条件のもとでこの《話し合い》が うまく行かない場合がある。

  6. あるいは別様にその一例は むしろ議論として勝負があったという場合に起きることがある。《話し合い》とは 議論としての勝ち負けが問題ではないのだから。

  7. 対話とは 互いの善を活かし合うことである。そのために議論をする。

  8. 話し合いの停滞によって《人間不信》に落ち入ることすらある。

  9. ★ 抱きしめるべき手=言葉が武器とは、なかなか悲劇です。――というようなシザーハンズの問題がある。

  10. といった経過を経て あらためて
    ★ お互いの問題を話し合わないとならない。共感しあわないとならない。
    ☆ というひとつの結論が得られる。


  ・・・
 
 基本解だと思います。





 わたしの目下の問題は――世の中 いろんな場合があるようで―― 《話し合いを捨てている》相手とどう話し合うか これです。



 あっ それが A さんではないのですが そう言えば A さん しばらく見ないなぁ。まぁ しなやかなチカラがあるので ひょっこり顔を見せるでしょう。




 ご回答 ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/15 13:19

こんにちはです。



この質問は難しいです。少なくとも、わたしには超難問です。

質問があまりに難しく、その解決の糸口が見つからなかったので、アナロジーとして如何のモデルケースをについて考えてみました。

 頭のいい人⇔同感派
 普通の人 ⇔共感派
 バカな人 ⇔反感派
 (記号「⇔」は対応する、くらいの意味です)

case1:人は夜、寝るべきである
このことについては、頭のデキにかかわらず、概ね、すべての人が同意の得られるでしょう。人間の自然に基づいているのですから。

case2:大学入試の数学のちょっと難しい問題レベル〔の問い〕
(1)頭のいい人は解けます。自力で解けなくても、解けた人の答えを見れば、「お~」とか「なるほど」となります。
(2)バカな人は、解けません。解けると思うことが間違いです。問題を解けた頭のいい人の説明をいくら聞いてもわかりません。なおもしつこく説明を続けると、「お前はバカか」となります。そして、頭のいい人は「バカの人がわからない」ということがわかりません。ここには、埋めがたい断絶があります。
(3)普通の人も解けません。普通の人には解けないように問題が作ってあるからです。ですが、解けた人の回答を見ると、わかった気分を味わえます。見るだけではそのわかった気分を味わえない人は、丁寧な説明を聞くと、いずれ、わかったような気分に浸れます。つまり、この段階でも、《共感》が成立し得ます。頭の人と普通の人の間では、《共感》は成立し得ます。

case3:文化の香りの高い数学~大学レベル
(1)頭のいい人は、たぶん、わかります。すぐには分からなくても、いつかは分かる。
(2)バカな人は、無理です。日本語で語られていても、それは外国語にしか聞こえません。
(3)普通の人。わかりません。分かったふりをするのが、関の山!!です。このレベルになると、頭のいい人との《共感》は成立し得ない。でも、「自分がバカである」と思われるのはシャクなので、頭のいい人の前では分かったふりをします。さらに、バカの人の前では「理屈ではそうかもしれないけれど、理屈と現実は違う。理屈どおりには、世の中はいかない」と言ったりします。バカな人と《共感》が成立しうる土壌があります。

なので、
1対1の対話は大切だとは思うのですけれども、理を尽くせば分かり合える、そんな生易しいものではない、と考えます。また、わたしは、ヒトはどんなヒトとも絶対に共感し合える、とも考えません。
と同時に、《連帯》は生き残るために必須です。ただし、その連帯は、頭のいい人の連帯、バカなの人の連帯にならざるを得ない、と思います。
問題は、浮動層である普通の人を、どう、己れの陣営に引き入れるかです。どのようにダマす、ペテンにかけるかです。《わかった気》にさせるか、この一点に尽きます。


念のために付け加えますが、
これは《数学の問題》を解く場合の話です。
また、わたしは
「数学のできる人は、頭がいい」とは、まったく考えていません。
頭のよさというのは、人それぞれ違っているのですから。そうあって然るべきだと思います。

学校の生成は良かった、いい大学を出たけれど、
実社会では役立たず、おバカな人が、世の中には、何と多いことか!!
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この回答へのお礼

 ○ 舎衛の三億
 ☆ のパクリぢゃないかと言われるかと思いました。

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 《個人》の問題は 《社会》の問題に直結している。こういった見地を推し出しておられます。

 ◇ ~~~~~~~
 1対1の対話は大切だとは思うのですけれども、理を尽くせば分かり合える、そんな生易しいものではない、と考えます。また、わたしは、ヒトはどんなヒトとも絶対に共感し合える、とも考えません。

 と同時に、《連帯》は生き残るために必須です。ただし、その連帯は、頭のいい人の連帯、バカなの人の連帯にならざるを得ない、と思います。
 
 問題は、浮動層である普通の人を、どう、己れの陣営に引き入れるかです。どのようにダマす、ペテンにかけるかです。《わかった気》にさせるか、この一点に尽きます。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ あたまのいい・わるいというのは 語弊があるかも知れないという点については ことわりがきがありますので もうそれにも触れません。

 これは 現実の政治でしょうね。共同自治の純粋理論としても 一目置いて顧慮せねばならない社会秩序の問題であるようにわたくしも考えます。


 ここから なかなか話を伸ばすのも容易ではなく派生する副主題を持ち出そうとすることも憚られ まづは 応答もここまでです。


 あぁ ひとつ思い浮かびました。反対派の誹謗中傷や妨害工作などなど そういった実際の問題が ひとりの個人にとってはチカラを殺がれる要因になる場合があります。一対一ではなく 一・対・正体不明なる相手 の場合もあるようです。

お礼日時:2013/06/15 13:46

NO3のお礼、ありがとうございます。



自分が投稿した回答を読み直し、「誤字が相変わらず多いな~」と冷や汗をかいています。
これでも、投稿前に何度も読み直しているのですけれどね~、
自分の間違いには気がつかない。
人の間違いはすぐに気がつくのですが(笑)。
そして、
質問に表示された自分の回答を見るとすぐに
「あっ、この漢字間違っている。ここも間違っている。日本語として、これはおかしい」と気がつくのですが(ポリポリ)。
これはも~眠り猫の癖・習性と、諦めてもらうしかないです。

なのですが、
今回のモデルケースは、結構、うまくできているのではないか、他に応用がきくのでは、とチョッピリ思ったりもしています。

NO3の回答では、頭のいい人、普通の人、バカな人と分類しましたけれども、
 同感派⇔組織犯罪者、違法薬物の××
 共感派⇔一般大衆
 反感派⇔警察・検察・弁護士etc
でもいいのかな、と思ったりもしています。
数学の問題ではなく、この場合、オレオレ詐欺や違法薬物とかになりますけれども。問題の難易度は、手口の巧妙さや被害の甚大さ、犯罪の悪質さといったところになるのでしょうか。

ここであげる同感派は、「あっ、オレも」とすぐに互いの手口を真似ますよね~。いろんなダマシの手口を次から次へと考え出します。悪知恵を働かせて、法律の不備をついたりもします。わたしなんぞは、「よくま~、次から次へと巧妙な手口を思いつくモノだ」と半ば感心しています。
「みんなやっている」、「ヤセられる」、「疲れが取れる、気分がハイになる」という言葉で、極々軽い気持ちから薬物を始めちゃうヒトもいます。「この未公開株は市場公開後すぐに数倍の値がつきます」という言葉にダマされちゃう善良なヒトもいます。
そして、
この場合は、同感派と反感派の話し合う余地や共感する余地は残されていないでしょう。譲歩の余地は残されていない。シロかクロか、このいずれしかありえない。

こちらの方が、本質問のテーマに合致してるんでしょうかね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ うろ覚えでしたので あたってみました。
 ▲(ヰキぺ:舎衛城) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E8%A1%9B% …
  
 § 3 舎衛の三億

 仏の説いた法が、遇い難く聞き難きことを表して、舎衛の三億という。なお古代のインドでは10万単位を1億と数えた。したがって3億とは30万のことである。

 これは『大智度論』や『摩訶止観』を出典とする用語である。『大智度論』第9巻には「仏世には遇い難し。優曇波羅樹の華の時々一度有るが如し。説くが如く、舎衛の中に9億の家あり。3億の家は眼に仏を見え、3億の家は仏ありと耳で聞くも眼では見えず、3億の家は聞かず見ず、云々」とある。

 つまり舎衛城には9億の家があったが、これを3億ずつ、釈迦仏を見た家、見たことはないが仏がいると聴いたことがある家、見聞きしたことのない家に3等分される。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この三等分を借りて来ています。


 さて 二等分するしかない場合があるのではないか?
 生えているのは 《麦と毒麦》との二つしかないというような場合。
 すなわち 
 ◇ ~~~~
 この場合は、同感派と反感派の話し合う余地や共感する余地は残されていないでしょう。譲歩の余地は残されていない。シロかクロか、このいずれしかありえない。
 ~~~~~~
 ☆ シロかクロか。逆の順序で 違法薬物など犯罪者か そうでない人びとやそれを取り締まる側か。
 
 例をやはり《麦か毒麦か》にしてみましょうか。
 もっと分かりやすく言うとすれば:

  ○ 根っからの悪人は いるか?

 になるかと思います。アクマは観念だとして じっさいの人間の問題を取り上げることにして そのひとが いつからかは別として《自分の心にさからうことしかしない》という状態の根っからの悪人になることはあるか です。

 すでに悪は存在しないと言っていて その立ち場に立っていますが

  ○ 悪は あたかもそういう《存在するもの》があるのか?

 だと思います。おのれの持って生まれた《善》がすべてマイナスの状態になって――けっきょく例の《第二の死》なる状態でもありますが―― あとはそのような《負の善》しか考えないしおこなわないという人間は現実にいるか? だと思います。自分の子どもに対しても 善はおこなわない。ウソばかりついて いつわりのみをおこなう。そういう人間はいるか?

 


 あるいは それについて考えられることは 《究極の事例》というのは あくまで思考実験であって 現実にいるかどうかは別の問題だというところに落ち着くのではないかとも すでに前もって思われます。

 では どういう問いにすればよいのか?

  ○ 生まれつき《毒麦》として世に出て来て そのように生き切る。こういう人間はいるか?

 でしょうか。ついこのあいだ でぃくべくさんは 小説の中の人物を引き合いに出されたと言って 触れておられました。
  
 ▲ (ヰキぺ:ハンニバル・レクター) ~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3% …

 ハンニバル・レクター(Hannibal Lecter)は、『羊たちの沈黙』等、作家トマス・ハリスの複数の作品に登場する架空の人物。精神科医にして連続猟奇殺人犯。殺害した人間の臓器を食べる異常な行為から「人食いハンニバル」(Hannibal the Cannibal、ハンニバル・ザ・カニバル)と呼ばれる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 何だかひじょうにおそろしい人物像であるようです。

 わたしの提出している事例は 《コミュニケーション不全》という状態 これ一本ではあります。
 対話がうまく行っていないというような問題ではなく 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》というそういう意味での究極の事例です。

 じつは これは わたしの体験しているじっさいの問題です。この質疑応答の場でも経験して来ていますので。(複数です)。


 ◇ こちらの方が、本質問のテーマに合致してるんでしょうかね。
 ☆ いえ。とは言うものの テーマに合致する問題例がどういうかたちなのか これは まだよく分かりません。模索してすすむだけだと思います。

 ただし
 ◇◇(回答No.3) ~~~~~
 1対1の対話は大切だとは思うのですけれども、理を尽くせば分かり合える、そんな生易しいものではない、と考えます。また、わたしは、ヒトはどんなヒトとも絶対に共感し合える、とも考えません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということでしたら どうなんでしょう つまり

  ○ ヒトの中には 絶対に分かり合えないヒトがいる可能性が高い。

 こういうことなのでしょうか? つまり《悪人》とは言わずとも 《コミュニケーション不全》は 現実にありうる。のだから それはあきらめよという答えなのか? そういう問題にもなるかと思います。


 いやぁ だらだらと書いて来ました。これ以上書き連ねるのは 犯罪行為に近づきます。ここらで 切り上げます。

お礼日時:2013/06/15 15:54

こんばんはです。





☆☆☆☆☆☆
○ 生まれつき《毒麦》として世に出て来て そのように生き切る。こういう人間はいるか?
◇ 生まれつき《毒麦》として世に出ることはない、と思います。
 犯罪者家系として名高いジューク家、カリカック家の家系があることはありますが。。。
 日本語サイトにはロクなものがなかったので、英語版Wikipediaのリンク先を以下に記します。

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Jukes_family
http://en.wikipedia.org/wiki/Kallikaks

 例の《サイコパス》についても、まったくの脳の先天的機能異常とは考えにくいです。遺伝的な要因をまったく否定することはできないけれど、
それよりは育った環境などの環境的要因がその人格形成に大きな影響を与えている
と思います。
 サイコパスについては、《共感》を司る脳の活動性の低さは指摘されているようですが、脳の共感機能をまったく有していないというわけではないので、「その発達課程に起因している」と考えるのが、自然であると思います。
 つまり、生まれついての《毒麦》はいない、ということになるかと思います。



~~~~~~~~~
  ○ ヒトの中には 絶対に分かり合えないヒトがいる可能性が高い。
 こういうことなのでしょうか? つまり《悪人》とは言わずとも 《コミュニケーション不全》は 現実にありうる。のだから それはあきらめよという答えなのか?
~~~~~~~~~
う~ん、現実を見ると、YES。《バカの壁》は確かに存在する。これは認めざるを得ない。
しかし、その《バカの壁》の高さが乗り越えられないほどの高さかどうかは、実際に話し合ってみなければわからない。ひょっとしたら乗り越えられる高さかもわからない。だから、コミュニケーションは重要である。
少しずるいですけれども、こういうところで(ポリポリ)。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ところで、Wikipediaのサイコバス・精神病質に、
────────────
エミール・クレペリンによるとサイコパスのひとつに「空想虚言者」という類型がある。

1. 【想像力が異常に旺盛で、空想を現実よりも優先する】
一見才能があり博学で、地理・歴史・技術・医学など、何くれとなく通じていて話題が豊富であるが、よく調べるとその知識は他人の話からの寄せ集めである。

2.【弁舌が淀みなく、当意即妙の応答がうまい】
 好んで難解な外来語や人を脅かす言説をなす。

3.【人の心を操り、人気を集め、注目を浴びることに長けている】
 自己中心の空想に陶酔して、他人の批判を許さない。

自ら嘘をついて、いつのまにかその嘘を自分でも信じ込んでしまうのである。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E% …
────────────
がありまして、
ネコめは、「そうか、オレはサイコパスだったのか」とおもわず苦笑!!
お後がよろしいようで(笑い)。
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この回答へのお礼

 ますますむつかしくなって来ましたね。

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 サイコパス。その他もろもろ。この主題については専門家と同じようにくわしいひとがいるのですけれどね。


 ◇ つまり、生まれついての《毒麦》はいない、ということになるかと思います。
 ☆ これは うっかりしていました。
 ◇ サイコパスについては、《共感》を司る脳の活動性の低さは指摘されているようですが、脳の共感機能をまったく有していないというわけではないので、「その発達課程に起因している」と考えるのが、自然であると思います。

 ◇ 犯罪者家系として名高いジューク家、カリカック家の家系があることはありますが。。。
 ☆ こういうのも知りませんでした。テレビドラマにもなるようなのですかね。



 ◇ ~~~~~
 う~ん、現実を見ると、YES。《バカの壁》は確かに存在する。これは認めざるを得ない。
 しかし、その《バカの壁》の高さが乗り越えられないほどの高さかどうかは、実際に話し合ってみなければわからない。ひょっとしたら乗り越えられる高さかもわからない。だから、コミュニケーションは重要である。
 少しずるいですけれども、こういうところで(ポリポリ)。
 ~~~~~~~
 ☆ これは コミュニケーションが重要である点に留意しておきます。


 

 この場でのコミュニケーション不全の事例を――こちら側からだけの説明になりますが―― さらけ出しておこうかと考えました。資料となるかどうかは分かりません。わたし自身の覚え書きとしてこの場を借りてしるします。

 A1さん: わたしの説明を別の意味に解しつづけそれをとおした。二十回ほどその押し問答を繰り返して 《自分(A1さん)は あなた(ぶらじゅろんぬ)が言うように政治家に向いているようだから そうしてみる》と言って来なくなった。わたしはこの人に政治の話を持ちかけたことなど一回もないのに。

 S1さん: いくらかのやり取りの末わたしが結論らしき見解を出したとき この人は《やっぱりわたし(S1さん)の言った通りになったね》と言い いったいどうした?と尋ね返すと 《またいつでもわたし(S1さん)のアドバイスを聞いてみてください》と言い放ったきり やり取りは途絶えた。

 F1さん: 言語学のことでやり取りをした。この人の提出する話題や見解についてわたしは 自分の考えを述べた。そんなやり取りがつづき ところでわたしの見方についてはどうですかと尋ねてもお茶を濁すのみ。なんで?と問うと 先送りするようなことを答えて もう来なくなった。

 N1さん: 最初のころわたしが要領が分からなかったとき 何のかんの言う投稿をして来た。回答ではないので衝突した。コミュニケーション不全だという意味のことを言ってやったら そのことをわびて撤回せよと言う。それが出来ないなら ゆるさないと言う。これを繰り返して 不通となった。

 K1さん: キリスト教の具体的なありさまについて非難する。教会制度における欠陥などはわたしもむしろ同じく述べている。ただ神の概念が 違っている。いくら指摘しても聞く耳を持たない。百回くらいその押し問答をおこなった。

 I1さん: ズラシの名人。いくら妥当なことをこちらが言っても 自分の考えがマチガイだったということになるなら 絶対に引かない。微妙に論点をズラしてどこまでも攻撃してくる。これをわたしはヒキコモリではなく押し籠もりだと命名した。

 C1さん: アマテラス公民圏‐スサノヲ市民社会から成る二階建て構造を どうしてもみとめない。アマテラシテ(=象徴つまり天皇)についてはしゃべらない。武士が台頭した封建制度の社会で このアマテラシテからは自由な国の体制が出来た。これを現代にも受け継いでいると言い張る。

 M1さん: C1さんの賛同者。

 H1さん: 支離滅裂。

お礼日時:2013/06/15 22:44

移民法(1924)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F% …


DV-2013 移民多様化ビザ抽選プログラム応募要綱
http://travel.state.gov/pdf/DV_2013_Japanese_ins …


アングロ・サクソン族の移住
http://www5d.biglobe.ne.jp/~chick/egu/021-030/ho …
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございます。


 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html

 この嘗ての質問でやり取りしていることがらは 今回の質問にとってたたき台のような内容を持つかと思います。


 いまの問い求めは 個人の具体的な経験が大きく色濃くかかわっていると思うのですが 出来るだけ一般的な捉え方をした場合の見方考え方を なるべくたたき台になるように随意に拾ってみます。

 ○ (【Q:麦と毒麦・・・】No.14お礼欄) 1. 悪魔(* 仮象ですが)に人間が素手で立ち向かっても勝ち目はない。なぜなら 相手は空気のような存在なのだから。

 ○ (同上No.13お礼欄) 悪魔とは 神のごとくあらんとする限りにおいて(* すなわちいかなるもの下にも立つまいと決めた《精神》(?)である限りで) その善の要素も悪の要素も 人に対して見せるそのわざとしては 自由自在にあやつり得て如何ようにも見せることができるまぼろしである。

 ○ (同上同箇所) 〔悪魔は〕おそらく《存在》ではないでしょう。存在ではなくなるのだと考えます。空気のような存在です。わづかにありとあらゆる人間存在をそのたましいにかんして凹ませ沈ませ 自分と同じように無となるようにいざなう。たましいの死者が出ればよろこぶ。そんな空中の権能だと思います。

 ○ (No.9お礼欄) ▲(精確ではありませんが) 悪魔は歳を取っていて 老獪である。こちらが押していると思っていても じつは押されているということがある。(たぶんM.ヱーバーの言葉)

 ○ (No.8お礼欄) ~~~~~~
  ・・・
  わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。

 (* この《存在》は 仮象・現象として採ってください。まぼろしでありながら 《存在》をよそおうことができる。たしかに 何がしかのチカラがある。それはあたかも ふつうの人間がかつてウソ・イツワリを欲しいままにしたことの反動が 世代を経て歴史を経てまだなお名残りとしてただよっているかのごとくに。ルサンチマンと捉えこれを貶め蔑むほどに このまぼろしのアクマ・シンドロームなる反動はさらになお息の長い延長戦のごとくつづくものなのだろうか)。

  それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。

  さらに言いかえると 死そのものです。
  ・・・
  ~~~~~~~~~~~~~

 ○ (No.4お礼欄) ~~~~~
 〔* 毒麦としての〕類型である《ひとを次から次へと貶めようとするたかぶりのたましい》は 〔* 言わば親分としての〕《悪魔》の類型なるたましいにかしづくその家来としての《悪鬼》と呼ぶとよいかも知れません。
 《悪魔》は デビル=ディアーブル(サタン)であり 《悪鬼》はデーモンです。
 (* 文章を少し修正しました)。
 ~~~~~~~~~~~~
 
 ○ (No.6お礼欄)  ~~~~~
 違いは 悪魔はすでに死んでいる。もしくは その生を死から始めている。〔* という想定である〕。

 悪鬼らは その否定の精神に拠ろうとするけれど まだふつうに生きている部分をも持ち合わせている。〔* 悪魔の決してしない反省をおこなうことができる〕。
 ~~~~~~~~~~~~

 ○ (No.2お礼欄) ▲ でも驚くにはあたりません。悪魔も光の天使をよそおうのです。(パウロ)

お礼日時:2013/06/17 10:03

「正体見たり、枯れススキ」




自由にも限界があります。
「自由には、限界は無い」というほうが、むしろ「悪」となります。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ここで
 ★ 自由にも限界があります。
 ☆ という意味は 悪との共生が必然となるから 悪に対する限界のない自由はない。こういう意味でしょうか?

 すなわち言いかえると:
 ☆☆ (趣旨説明欄) (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば 
 ☆ というときの《麦と毒麦との共生》 これは実際には自由に限界があることを意味するのではないかと。



 そういう見方はしようと思えば出来ますが 《自由》ということについては 別の見方があります。そしてこちらのほうが 基本だと考えます。

 すなわち 自由ということは わたしの自由が けっきょくきみの自由であり あの人の自由でもあるということであり――そしてそれが 平等という理念のことですが―― このように《自由》は 人それぞれに同等な理念であって 人は互いに対等であるという含みをすでに初めに持っています。

 すなわち 毒麦とて人であるからには 麦なる人と その自由において・あるいはつまりその存在において 対等であり平等であるとなります。
 すなわちここから 《麦と毒麦との共生》なる命題がみちびかれます。

 言いかえると 《悪との共生》は そもそも《自由》の中身そのものだということです。別に自由に限界があると見て 人それぞれの互いの平等を言うのではないわけです。
 平等であることが そもそも自由だという意味にほかなりません。

 ですから この問題では――この問題でも―― 自由にも限界があるとは見ないのがふつうだと考えます。

補足日時:2013/06/18 08:06
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 「正体見たり、枯れススキ」
 ☆ どういう《正体》ですか?
 どこが それですか?

 ★ 自由にも限界があります。
 ☆ 《限界のないこと》を自由と言います。

 ★ 「自由には、限界は無い」というほうが、むしろ「悪」となります。
 ☆ というように ひとつの命題のその上へ・そしてまたその上へと――自分ひとりとしても相手との問答としても――限界をつねにそのつど越えて 表現し規定していくことが出来ます。これは 《自由》の問題です。

 つまり 自由の問題でないならば その命題の中身の妥当性いかんによってそれぞれの命題がいちおうその是非や当否が判定され もうその先へは進めません。


  自由はただしい。いやマチガイでありうる。
  自由はつよい。いや やはり実際にはよわいものだ。
  自由は よい。いやいや そういう自由は ほんとうの自由ではないかも知れない。
  ・・・・・

 自由にかかわる命題は その最終的な当否や是非が判定されがたい。もしくは判定されても さらにそのつどその判定をも乗り越えて先へ進み得る。これが 《自由》です。

お礼日時:2013/06/18 04:48

B様、おはようございます。




>「ですから この問題では――この問題でも―― 自由にも限界があるとは見ないのがふつうだと考えます。」


>「《悪との共生》は そもそも《自由》の中身そのものだということです。別に自由に限界があると見て 人それぞれの互いの平等を言うのではないわけです。
 平等であることが そもそも自由だという意味にほかなりません。」

なるほど、「自由」にも二種類あるようです。
「限界が無い自由」・・・いつ何時、咎められるか判らない、「悪」?
「限界を前提とした自由」・・・仰る「悪との共生」も、ここに入って来ましょうか。
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この回答へのお礼

 くりなるさん あらためましておはようございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ なるほど、「自由」にも二種類あるようです。
 ☆ 微妙ですが たぶんそうではないはずです。
 二種類あるとすれば それは

  自由意志が意志するその内容に 
  (あ) 妥当性があると考えられ どこまででもそのことを欲し求めてもよいこと
      ・たとえば ひとの病気を直すこと。

  (い) 妥当性が疑われ そのことの実行は考慮が必要となる場合
      ・ひとのからだや心を傷つけようとすること。
      (心は外からのチカラで傷つくことはありませんが
      誹謗中傷によって一時的にでも社会生命を殺がれること
      があり得ますから そういった迷惑をこうむること)。

 です。

 そこで まづ
 (1) その是非や当否などの妥当性を考えるというのは すでに実行された行為についてもおこなわれますがそれはすでに妥当性を疑っているわけですからそれとして措いておいて 事前に妥当性を考えるというのは 行為におよぶより前の思惟の内容についてです。

 (2) この心の内面における思惟の内容については じつは どこまでも《自由》です。つまり 褒めたことではありませんが たとえ人殺しを思惟していてもそれは 自由だとされます。

 (3) 問題は 特には 思惟の内容を実行に移すときに 相手がある場合です。つまり 自由は互いの同等の自由のことですから 相手の自由を侵す行為は 妥当性に欠けます。

 (4) すなわち
 ★ 「限界が無い自由」・・・いつ何時、咎められるか判らない、「悪」?
 ☆ これは たとえ《悪》についてでも 内面において思惟するぶんには どこまでも自由だという自由です。

 (5) そして
 ★ 「限界を前提とした自由」・・・仰る「悪との共生」も、ここに入って来ましょうか。
 ☆ これは もう少しげんみつに言わねばならなりませんでした。
  
 (6) すなわち (い)の《自由意志が意志したことの中で 妥当性に欠ける思惟かつ行為》には 《思惟および行為》についてのみ《制限が加えられる または 限界を前提としている》ことになります。

 (7) 言いかえると 《自由意志の主体である人間 つまり 思惟および行為に対しては存在》 これについては 《自由》がどこまでもよきものとして唱えられます。つまり限界が無い自由を 人間とその存在――あるいはつまり 生きることないし生命――は 言わば欲しいままにします。いのちは どこまでも人は享受してよいとなっています。

 (8) 《悪との共生》は げんみつに言えば 《悪なる思惟や行動との共生》ではなく――結果的にそうならざるを得ないことは現象としてありえますが そのことを目指してはおらず そうではなく―― 《悪なる思惟や行動をおこなうその人間・その存在そのものとの共生》を言います。

 (9) 《わるい考えやおこない》とは すすんで共生することはない。これは 自由なる理念の内容そのものです。
 同時に 《わるいことをする人間》とは 同じ生命存在として 基本的にどこまでも共生する。これも 自由なる理念の内容そのものです。

 (10) こう考えるなら 思考の過程で《限界を置く・置かない》があったかも知れませんが それは誰もにとって共通の考え方を模索する上でそのような経過をたどったということであって 基本的に理論としては 《自由》に制限や限界をもうけているわけではない。こう考えます。

 詭弁ではないと思うのですが どうでしょう。

お礼日時:2013/06/18 10:01

こんにちは。




>「欲しいまま」

そうですね
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 《自由》にとってその制限や限界は その自由という中身そのものだと考えられます。

 いのちをとうとぶことは 
 ★☆ >「欲しいまま」
 ☆ というほど自由です。つまり それは 互いに相手のいのちないし自由をとうとんでいることだと考えられます。

 もし限界があると見られるところにおいてもそれは 自由が自由であることを問い求めていることにほかならないと考えられます。

お礼日時:2013/06/18 11:01

 お礼ありがとうございます。

善の問題は、どうでしょうねえ。主観に関わる問題で、顔をあらかめるような恥がきっとあるはずだとおっしゃるのですよね。まだ具体的に納得できたわけではないのですが、それはそれとして承っておくことにしたいと思います。納得できたわけではないというのは、客観的な意味での善を考える必要があると思うからです。しかしこれは主題とはそれますので、一旦横においてよいと思うのです。

 猫様のお礼欄を見ましたが、結構、ぶらじゅろんぬさんは齟齬が多いのですね。閻魔帳と言うべきか、不和になったユーザーのイニシャルを列挙されたあたりは驚きました。私の個人的な意見ですが、ぶらじゅろんぬさんの会話の間合いはかなり特殊だと思います。だから、慣れない人にとっては、うまくいかないこともあるでしょう。私の感じているのは、次のものです。
 ・一回一回のやり取りが、長い。
 ・しかもそれが延々と続く。
 ・他人の質問欄で、質問者の意図をそれても構わずに自分の論点をぶつけてくる。
 ・既に議論したことがあるという前提条件が多い。

 まあ、私も似たところはありますが、自分のことを棚に上げて言いますと、受け止めるのが難しいところがあると言えますねえ。何か疲れちゃうのと、振り回されちゃうと思う人がいるんじゃないかなと思います。そういう時に一般的にはどうするかと言えば、
 ・冗談でごまかす、
 ・話をそらす、
 ・適当に逃げる、
 ・全くお前は間違っていると言い放って逃げる、
というようなことにならざるをえないかなあと予想します。

 これが対話を放棄したと言えば、そうなんでしょうが、仕方ないことでもあるように思うのですよ。私は自分の恋人との喧嘩を例に出しましたが、案外、ぶらじゅろんぬさんもシザーハンズなのかもしれないなと思っています。はさみでジョキジョキ来られても、傷つかない鋼鉄の体を持っている人を相手にすると、まあよいのかもしれません。逆に、良いところもぶらじゅろんぬさんにはあって、
 ・根気がある、
 ・いろいろと調べてくれる、
 ・何を投げてもお礼が返ってくるという安心感がある、
というところでしょうか。にゅーとらるさんなどは、そういうところを頼りにしているという意味で、「甘えて」いるのだろうなあ、と私は感じましたね。

 まあ、相性というものを無視して考えることはできないのじゃないかと思います。今回は普遍的な話はさておいて、個別のことに反応してみました。こういうところも大切かと思いましたので。
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この回答へのお礼

 写真の顔が変わりましたね。

 でぃくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 気軽にお応えしてまいります。


 ★ 善の問題は、どうでしょうねえ。主観に関わる問題で、顔をあらかめるような恥がきっとあるはずだとおっしゃるのですよね。・・・
 ☆ 裏返せば 《善の真髄といったような正義》はないという見方です。(むろん これも主観としての――あるいは信仰としての――《義》はありえましょうが。つまり神と同じように想定としてあり得ましょうが)。

 あるいはつまり 《存在・生きること・ともに生きること・いのち》 これが 人びとにとっての最大公約数としての善であるかも知れません。その余のすべての善は この《生きる》という善から派生するとすら考えられると思います。

 


 ぶらじゅろんぬ論:
 ★ ・他人の質問欄で、質問者の意図をそれても構わずに自分の論点をぶつけてくる。
 ☆ これは その質問者が パスすることが出来ます。コミュニケーションの問題にはならずにだと思います。その自由度は 質問者にあるのではないかと。

 ★ ・既に議論したことがあるという前提条件が多い。
 ☆ まぁ これは 仕方がないかも知れません。最初のころは そういう言い方はしなかったわけですし いまではだいたいふつうにそういう触れ方になると思いますから。


 ★ ~~~~~
 ・一回一回のやり取りが、長い。
 ・しかもそれが延々と続く。
 ~~~~~~~
 ☆ これは そうですね。その一回のぶんで できるだけ議論を完結させておこうと思うと そう成らざるを得ないのではないかと思うのです。

 それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。



 ★ ~~~~~
 受け止めるのが難しいところがあると言えますねえ。何か疲れちゃうのと、振り回されちゃうと思う人がいるんじゃないかなと思います。そういう時に一般的にはどうするかと言えば、
  ・冗談でごまかす、
  ・話をそらす、
  ・適当に逃げる、
  ・全くお前は間違っていると言い放って逃げる、
 というようなことにならざるをえないかなあと予想します。
 ~~~~~~~
 ☆ この問題はかんたんです。
 たとえば 《ちょっとタンマ》と言えばよいわけです。あるいは 《パスします》と。《一日か二日 あるいは 一年か二年の考える時間をくれ》でもよいわけです。
 と思います。

 気軽に流すかたちにて。

お礼日時:2013/06/19 15:59

 ありがとうございます。

まあ、この顔は、なかなか面白いと思いませんか。頑固な感じがよく出ていて、ちょうど回答の性質にあっているように思うのです。そちらの空もかなり見事なものだとは思いますが。どこなのですか。。。

 善の話は、一本とられましたね。究極的な善ー正義がない。だから全て主観である。なるほどと思いました。しかしそうだとすれば、皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね。つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。

 さて、気軽にお答えになったということですが、敢えて少し聞いてみたいのです。

>これは その質問者が パスすることが出来ます。コミュニケーションの問題にはならずにだと思います。その自由度は 質問者にあるのではないかと。
>たとえば 《ちょっとタンマ》と言えばよいわけです。あるいは 《パスします》と。《一日か二日 あるいは 一年か二年の考える時間をくれ》でもよいわけです。

 まあ、ぶらじゅろんぬをかわす方法を当人が語っているともいえるのですが、これは、そうはいかないんじゃないのー、と思いますねえ。そういう風にしたたかな話をできる人は、案外、少ないと思いますね。例えば私なんかはあらかじめ気を遣って、相手がかわすという労力をとらないでも済むように、話を持っていきますけれどもね。そういう配慮はなさらないということで、これは、ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。

 しかしそれはさておき面白いと思ったことがあります。一年も二年も考えてから返事する。これは普通、できません。むしろ「またいつか=もう終わり」という言い回しと同じ意味だと言えそうです。しかしそうすると沈黙もコミュニケーションの延長にあるということになってしまいます。これはそういう意味で言っているのでしょうか。だとすれば、真面目な話、これはなかなか面白いと感じました。そしてこのように考えれば、断絶もまたコミュニケーションの一形態として納得できるようにも思えます。

>それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。

 そういうのを望んでいる人はいるかもしれませんが、私は特にその方が良いとは言ってはいないつもりです。いまのままでよろしいのではないでしょうか。ただし短いと、全体像を把握するのが容易にはなりますよね。TPOがあるような気がします。細かい話をするべき場面なのか、全体像を伝えるべき場面なのか。それによりけりではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 空は フランス。ひとつ前のは 例のバスク人の地方。内陸。こんどのは ブルターニュの海岸地域です。

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 頑固な感じがよく出ていて、
 ☆ あぁ いま分かった。あの口元がよくない印象をあたえているんです。つまり あからさまに言うと 骸骨の口のイメージがあると言えばあるのです。そうなんです。顎のかたちも そう連想させるのです。いま分かった。(アマエの発言)。


 ★ ・・・しかしそうだとすれば、皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね。つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。
 ☆ 《皆、何かしら善の理想から欠損があることになりますよね》――もちろんです。欠損のないひとはいないでしょう。ウソ――というおのが心へのさからい〔なる負の善 つまり悪〕――は 誰もが持ち合わせています。

 ★ つまり悪はどこにでも転がっているであって、大して責められる問題じゃないということにならないかな、という気がしてきました。
 ☆ まぁ 五十歩百歩ということでしょうけれど 人間はよくしたもので――あるいは逆にやっかいなもので―― その敵前逃亡としての差である五十歩について ああぢゃこうぢゃ持ち出して来てねちねちなじるもののようです。

   慰安所において慰安婦を囲い込むのは 《百歩》に当たる。
   やはりおまえたちがわるい。
   だとしたら おれたちの《五十歩》をめくじら立てて批難するのは
  盗人たけだけしいというものだ。
   おまえたちは 何しろ負けたんだ。おれたちの言うとおりにせよ。

 ということで 《大して責められる問題》であるか無いか? どうなんでしょうね。

 もうひとつは たとえ《悪はどこにでも転がっている》のだとしても その悪を侵したつど《反省する》ということが大事です。
 そしてこの反省は 人間が二人や三人あつまって一体となって 同じひとつの意志行為をおこなったとは見なされないのであって 反省したり責任を負ったりすることは あくまでひとつの自由意志が主体であり単位である。というかたちになっていると思います。




 ★ ~~~~
 ・・・例えば私なんかはあらかじめ気を遣って、相手がかわすという労力をとらないでも済むように、話を持っていきますけれどもね。そういう配慮はなさらないということで、これは、ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。
 ~~~~~~ 
 ☆ 気軽な対話の流儀にたちまち慣れて来て 今回もそうしますが:
 わたしは 《そこまでの配慮》は考えておらず 手間暇はかけないですね。それにくらべ たいへんな作業ではないですか? ご苦労が多いのですね。

 さてわたしの対話の姿勢は ぶっきらぼうであって それは
 ★ ぶらじゅろんぬさんの「甘え」かなという気がします。もう甘えについては論じてあるわけですが。
 ☆ ええ。はっきり言って ぶっきらぼうであり そうありつづけることが たぶんアマエなのだと思います。そう自認します。
 つまりは――ここで《逆襲》することになりますが―― 相手にパスする機会とパスしてもあとで抗弁しうる理由をあたえている。ということにもなります。この場合は アマエの効用といった側面もあるようです。どうでしょう?



 次のお話は 少々《気軽》過ぎた結果反応なさったものと思います。
 ★ ~~~~~~
 しかしそれはさておき面白いと思ったことがあります。一年も二年も考えてから返事する。これは普通、できません。むしろ「またいつか=もう終わり」という言い回しと同じ意味だと言えそうです。しかしそうすると沈黙もコミュニケーションの延長にあるということになってしまいます。これはそういう意味で言っているのでしょうか。だとすれば、真面目な話、これはなかなか面白いと感じました。そしてこのように考えれば、断絶もまたコミュニケーションの一形態として納得できるようにも思えます。
 ~~~~~~~~
 ☆ つまり舌足らずの部分を埋めるとすれば 《その頃には忘れているかも知れないが 一年ないし二年 答えるための時間をあたえたまえ》と言えばよいと思います。

 あるいはもっと簡単に こうです。《あなた(=ぶらじゅろんぬ)の問いかけには 正面から答えにくい。わたし(=話し相手)は自分の持論をやすやすと手放すわけには行かない。いまは 見解の相違としてくれたまえ。つまり 見解の相違ということで 互いに意見の一致を見たと》と言えばよいわけです。

 つまり 《断絶》にはならないわけです。



 ★ ~~~~~~
   >それでも あっさりとやり取りをしたほうが かえってよい効果があるということからおっしゃっているのかも知れません。

 そういうのを望んでいる人はいるかもしれませんが、私は特にその方が良いとは言ってはいないつもりです。いまのままでよろしいのではないでしょうか。ただし短いと、全体像を把握するのが容易にはなりますよね。TPOがあるような気がします。細かい話をするべき場面なのか、全体像を伝えるべき場面なのか。それによりけりではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 了解しました。あらためて あたらしい別の観点などを模索してみます。(そうは変わらないと思いますが)。

 

お礼日時:2013/06/19 17:18

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