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従うことは自由を放棄することですか? 哲学の知識で詳しく教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

875yamadaさんのご質問は他のも含めて


愚息の大学の後期試験の主題と全く同一でした。
驚きました。
尋ねっぱなしで放置することなく、
回答者の皆さんにお礼を差し上げて下さいよ。
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875yamada様、おはようございます。




考えてみたら、「「自由を放棄」とは、有り得ない」と思いました。

仮に「他者に「委ねる」」ということがあるとしても、
その限られた範囲の中で、まさに「お任せする」ということが、あるだけです。
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仮に自己の意志と自由からこの創造界とかいうものを創造した存在があるとします。


そういう存在としては自己の自由と意識で創造した界のどんなことにも従ったり、従わなかったりする事ができます。
「自由奔放」を認めてもそれはそういう存在にはやはりでしょうが、そうではない被創造の存在が「自由奔放」であるには相当の訓練と節度、思索というか叡智が必要です。
これは私が中学地代の65年前に実験生活しました。「自由奔放」は難しいです。
しかし創造した主格たる存在には可能です。
そうでなければ単に恣意やわがまま、或いは欲望や弱さに翻弄され、従わされているだけになります。
これは自由とは相当距離がある。

言いたい事は、どんな風に自己になり、自己で生きていくかです。
私は小学校や中学入学時には、下村湖人や阿部次郎、倉田百三、出隆にのめっていましたが、大学で一心発起して法律に進んだのですが、結局法哲学や社会思想ににのめりました。
ラートブルッフからカントと溯り、やがて曹洞、臨済からここ40年ほどはヒンドゥのYogaです。
ご質問のようなことを、Paramahansa YoganandaのSelf-Realization Fellowshipが教えています。
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人間の自由は『生と死』によって、自由を束縛されています。

この牢獄と言っても良い人生に自由はあるのか?と言う質問が貴方の真意と思います。

この束縛や有限の壁を越えて、人の魂は自由を獲得出来るのか?と言う貴方の疑問にお答えします。

可能性は沢山あると思います。ですが哲学の範疇では解決出来る人は、限られた頭脳の持ち主でないと、不可能に近いと思います。人間の知性や知識では乗り越える壁が高過ぎるからです。知性や知識の壁で人間の『死に対する不安』を乗り越える事が哲学の本質を指しているからです。

人間の知性や知識が、人間の苦しむ原因を作っているからです。以前『「キルケゴールは、人間の実在を美的実在・論理的実在・宗教的実在の三つの段階に展開させ、人間は、宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」とあるのですが、調べても意味がよく分かりませんでした。
簡単でいいので意味を教えてください。
よろしくお願いします。』

この中に答えがあると思いますので、その時に答えた事を載せてみますが、最後に人間の脳に質問の答えがある事を補足したいと思います。


「宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」
と言う事を説明したいと思います。

「真の自己」の反対語は「仮の自分、或いはみせかけの自己、或いはかりそめの自己、或いは自分じゃない自己」と言うことになるかも知れません。或いは自分と思っているのは「自分と勘違いしているかも知れない」と言う意味合いかもしれません。

是は脳の機能の関係からです。子供時代には『疑いはありません』自分が何者かは分っていたからです。そうして親とかおじいさんとかの関係もおぼろげながら分かっていました。心の奥底からの疑いはなかったという意味です。

心底、分ったつもりでした。処が思春期頃から『人生とは何だろうか?或いは自分は何処から来て、何処へ行くのだろうか』といった疑問が湧いてきます。

自分で謎をかけて、自分の罠にはまってしまう場合の事です。この事を『失楽園』と言うものと思います。この事が二元論の始まりとなって『謎の悪循環』に落ちてゆく事になります。出口がなさそうな『問い』に悩まされると言う意味になります。

意識が抱え込む疑問や、悩みとは、本当は『分っている自分自身が』問いかける問いかけと言えます。何故ならば、他人では答えられないからです。他人の答えを聞いたところで、何にもならないからです。

自分自身で問いかけて、自分自身で答えを出します。その事を『宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復する』と言います。

その訳を言います。人間の自我意識は左脳に存在する意識の事です。言葉を持っている意識の事です。処が右脳にも意識が在ります。右脳の意識は『無意識の意識として、或いは命を働かせている意識として、或いは目の前の事実を事実として見ている者として、或いは仏性として、或いは神として、すなわち現実を全て肯定している者』と言えます。

全てが見えている者として、自我意識には明確には、その存在を実感できなくとも確かに存在しています。自我意識には『言葉ではない情報で』伝えて来ています。

例えば高い所に上がった時に自我意識に伝えています。或いはスピードを出し過ぎた時にもです、或いは恋人に会う時などにもです。その恋人を本当に好きなのか?或いは体裁だけなのかも自我意識に教えています。この人と結婚をしても良いのか?と言う時にもです。

自我意識の機能は『分別』で出来ていますので、論理で割り切れない事は、計算でき難くなっています。従って明日の事が分からないのに論理では答えは出ないようになっています。それは機能的に『入れていないソフト』に関連する問いを出す事に相当します。

明日の事が分からないのに結婚をして幸せになれる、と思わせるものが『自我意識に』言葉によらないもので、教えているからです。

脳はコンピュータと同じ機能があります。計算する能力です。この計算式は論理的に割り切れる事が条件となっています。つまり自我意識の機能とは割り切れる問題のみのソフトが入っている事になります。そうして割り切れる問題には有限と言う名が付いています。従って自我意識には矛盾する問題や、永遠に関する問題は機能的には『ソフト』が入っていない、という事になります。

此処からが人間としての苦しみが付きまとうと言う事です。人生には矛盾が付きまとっているからです。自我意識には有限と言うソフトしかないと言いました。つまり『永遠』を理解するソフトが自我意識にはないという意味になります。

有限の命、永遠が欲しいと言う願望。この二つの意識の落差が人間の苦しみとなっています。この事を『心の矛盾』とも言います。右脳は『永遠や、宗教』で出来ているからです。有限の命も自分の事実ですが、永遠や、宗教も自分の右脳の中に『無意識の意識として、或いは仏性として』内在しているからです。

この二つの意識の落差を人間は、原罪として、或いは業として、或いは苦しみとして受け取ってきたわけです。この苦しみからの解放を『宗教文化の発展として』人間は後押しをしてきたわけです。

そうして苦しみからの解放を伝えて来ています。キリスト教においては『神に会って和解する』という事になります。禅宗であれば『禅問答を解いて』生死の問題を解決すると言う事になります。

この禅問答こそが右脳の意識に出会うためのテキストという事になります。左脳の自我意識の働きではこの問題は解けないように出来ているからです。脳の機能の問題です。言葉の無い思考方法、言葉の無い考え方の中に、解くカギが在ります。分別脳の働きが及ばない思考方法で無いと、思考できないからです。

言葉を持たない意識が出した問題が『禅問答』と言う事になります。右脳の働きが分る事を『自分自身が分かった』と言います。つまり悟りが開いたと言う事になります。


なお人間の悩みや疑問と『脳の機能の関係性が良く示された動画がありますので』載せて置きます。この動画で示された『右脳と左脳』の関係性が『宗教体験』を示していると思います。

右脳の機能は、永遠からやって来て、又永遠に還ってゆく存在です。出会う時初めて人間は『永遠の意味』を知る事が出来ます。この体験を有限の壁を越えた、或いは永遠の命を持っていると体感出来ます。

従って、生きながら永遠の壁を越える事が出来る方法が『禅』の中にあるとも云えます。『父母未生以前本来の面目は?』と言う答えが分った時、私の場合では有限の壁を越える事が出来ました。

右脳の人格は『無意識の自分』を支配している意識です。出会う様子は動画に在るとおりです。
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因みに、人は本来「自由奔放」を好む人が多いです。

しかし、社会・組織としては従わせると言う名の「拘束」が必要不可欠です。

「自由奔放」と「拘束」は、相反します。
その問題解決は、二種類あります。

「その事に従う事」=「本人がやりたい事」と学問の力でそう思わせる方法。
その学問を「教育」と呼び、これをマインドコントロールと呼びます。


もう一種類は、体罰や恐怖により強制的に本人を「そのことに従う事」=「本人がやりたい事」と思わせる方法。
これを「洗脳」と呼びます。
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自由の定義によりますが、フリーダムではなく自由奔放と言う意味なら、そう言えると思います。




従うと言う事は、一種の拘束行為です。自由奔放の概念からは反します。
(偶然、その拘束行為と自分の自由な行動願望が一致する場合はある)


資本主義的に言えば、その「拘束」は「お金」という数値でやり取りされます。
社会主義的に言えば、その「拘束」は「大儀」と言う名の抽象的なイデオロギーでやり取りされます。
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どこでもウンコする、気に入らない相手はすかさず殴る、


世の女は全てどこでも姦淫する、銀行の金は俺のもの、
意見する奴は死刑・・・

これを自由と定義するなら、「従うこと」の定義は

  =社会性   ということです。

哲学ではないけれど、常識です。
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支配も従属も、どちらに取っても自由はこの世の何処にも無い。



わがままを理解せねば、役割も理解出来ない。

先ずは自分の主人に成らずば自分も判らない。
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哲学と言うならば、質問者の言う自由を定義してください。

それすらできなければ、中二病の戯言です。
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自由といっても、深い認識もなく衝動や即物的利益のために


短絡的に欲求を発露させる事は、環境の抵抗を生じるだけで
なく、自分自身の長期的な延長において対立する欲求により
充足を減じ、あるいはその低い認識=希薄な意識によって
得られる充足感そのものが小さくなる。

ひるがえって「認識」とは、決して欲求を抑えるものではなく、
長期的に最大限に欲求を充たすように、コントロールして
発露するものである。
その意味で、低い認識レベルにおいて、自己の短絡的欲求の
発露を抑えるべく、自己の内面や外面の指針に「従う」事が
人生を通算した精神的充足量の最大化(生きる目的=本質的
自由(自らに由る))である場合もある。
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