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廃仏毀釈の嵐が、全国にわたって一時ふきあれた状況はよく分かるのですが、廃仏毀釈が収まっていく過程が分かりません。
「やがて収まっていった」という説明が多いようです。

「やがて収まっていった」主因は何ですか。
寺院、仏像、仏具、経典などを破壊するような蛮行を、止めさせようと尽力した人はいましたか。
当時日本にいた外国人は、この件に関して何か発言していますか。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

廃仏毀釈は明治政府の命令では無く、民衆運動として起こったものでした。



ですので統制の取れた命令系統は無く、其の為に終わりもハッキリとはその期日を決められる性質のモノではありません。

また、廃仏毀釈への反対運動も有り、その一つの現れとして「大浜騒動」が起きています。

ですので収束は「やがて収まっていった」という説明になる訳です。

敢えて収束の理由を説明するとなると、恐らくですが「壊しつくした」が大きいのではないでしょうか。

取り合えず「壊したい寺は気が済むまで壊したから、気が済んだ」でしょう。


外国からは廃仏毀釈よりも「耶蘇教禁止令」(キリスト教禁止令)の方が重要だったみたいです。

邪教徒(神道?)が邪教(仏教)を否定しても、彼等にはどうでもいい事でしょう。

仮に寺を壊して教会を立てようという運動だったら、彼らは手放しで絶賛したでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「壊しつくした」という一面もあるでしょうね。
それにしても、皆でやれば怖くないとばかりに、信仰の対象として拝んでいた仏像をよく壊したものです。
それでも大勢の逮捕者が出たとも聞きません。
どうも理解できない騒動です。
大浜騒動については参考になりました。

お礼日時:2014/01/29 20:40

僕はこの件は全くのド素人ですが。

明治の初めの廃仏毀釈の動きと、大政奉還など勤王派の動きは、矛盾が内在しているため長くは続かない矛盾を含んでいたのではないかと思います。

    すなわち、天皇家は仏教と深い関係を持ってきたわけですから、天皇を政治の中心に置いて、その歴史を遡れば、片方では壊そうとしている仏教が、実は新しい政治の中心のよって来るところとなる訳です。

    だから、長くは続かない性格を含んでいたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど! そんな矛盾を内包していますね。 参考になりました。
門跡寺院も多いですし、上野寛永寺は皇室から座主を迎えていますし。

外国人に指摘されて止めたのかな、と思っていました。

お礼日時:2014/01/29 20:58

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