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『新古今和歌集』巻第20 釈教歌 1970番の歌の、(文学の注釈書にあるやうなものではなく)佛教の解説をお願ひします。

[ことばがき]
百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を
[よみびと]
式子内親王
[うた]
静かなる 暁ごとに 見わたせば
まだ深き夜の 夢ぞ悲しき

A 回答 (9件)

よく判らないのに参加~



かなしきって、古文だと愛しいみたいな意味があったような?

暁ごとだから繰り返し何度も~
夜とか夢って悟りが開けてない、今の世界かな~?


仏教に帰依し、何度も目が覚めるような体験をして その度ごとに 周りを見れば まだ深い闇の中にいる。

一歩暁に近づく毎に、更に周りの深き夜が見えてくる
そして今を生きる世界に生きるものへの愛しさがこみあげてくる


なのかな?

解釈大間違いかもしれませんが(汗)
大乗仏教なら、衆生を救うという目的があると思うから 目が見えてくれば見えてくるほど、より愛おしく助けたい気持ちが強くなるのかもと思ったので。

この回答への補足

さて、ベストアンサーです。女性回答者を優先したいのですが、今回は宗教についての私自身の目的がありますので、大乗佛教について興味深い解釈をいただいたfuukakouさんとします。

みなさまのおかげで、この歌の世界が広がりました。ありがたうございました。

補足日時:2014/06/13 19:15
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この回答へのお礼

こんばんは。午後から外出してゐて、お礼が遅くなりました。

宗教カテゴリの質問につづき、御投稿ありがたうございます。回答番号1の「お礼」に書きましたが、宗教上の争ひから離れたところで楽しめたらと思つてゐます。fuukakouさんのやうな心にゆとりのある方のお話が聞けるのは喜びです。

>>よく判らないのに参加~

ご謙遜ですね。必要な古文の知識は、最後の係り結びだけで、あとは現代語で理解できるわかりやすい歌を選びました。

>>かなしきって、古文だと愛しいみたいな意味があったような?

やはり詳しいのですね。「愛しい」の意味は、古今集のころまでかな、と記憶してゐます。時代ごとの用例がおもひだせません。違つてゐたらごめんなさい。

>>暁ごとだから繰り返し何度も~

人の世界は、何度見ても、かはりばえしないものです。

>>仏教に帰依し、何度も目が覚めるような体験をして
>>その度ごとに 周りを見れば まだ深い闇の中にいる。

fuukakouさんらしい謙虚な姿勢ですね。

>>今を生きる世界に生きるものへの愛しさがこみあげてくる

「かなし」の意味をこちらに取つたのが最後で活きてきました。

>>大乗仏教なら、衆生を救うという目的があると思うから
>>目が見えてくれば見えてくるほど、より愛おしく助けたい気持ちが
>>強くなるのかもと思ったので。

日本の佛教は大乗ですから、この解釈は充分なりたつと、おもひます。私は大乗経典はあまり読んでゐなくて、この歌をふくめて、佛教関連の古文が苦手です。

>>解釈大間違いかもしれませんが(汗)

文学なら解釈は自由ですから、「間違い」といふことはないと思ひます。むしろ、個性的な解釈をうかがひたい。宗教といふのは固定観念にとらはれすぎる面があるので、自由な意見を出していただくほうが、このサイトの宗教問題にとつてプラスになります。ありがたうございました。

お礼日時:2014/06/07 20:03

>『新古今和歌集』巻第20 釈教歌 1970番の歌の、(文学の注釈書にあるやうなものではなく)佛教の解説をお願ひします。


静かなる 暁ごとに 見わたせば
まだ深き夜の 夢ぞ悲しき

○どこかで見た構図ですね。親鸞の正信偈の中に、「・・「煩悩障眼雖不見」「大悲無倦常照我」・・」があります。これを逆にすれば、「大悲無倦常照我」「煩悩障眼雖不見」になりますがこの構図ですね。
要約すれば、佛の光は常に我を照らしているのに、我は煩悩の中にいてそれを見ることができない。という意味になります。
この構図を踏まえて、「うた」を見ると、「静かなる 暁ごとに 」が「大悲無倦常照我」に対応して、「見わたせば、まだ深き夜の 夢ぞ悲しき」が「煩悩障眼雖不見」に対応してますね。
仏教的にはその程度の「うた」かなと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。今日は仕事に追はれて、いましがた帰宅したばかりです。お礼が遅れてすみませんでした。佛教の解説ありがたうございます。

>>親鸞の正信偈の中に

我が家は、父方が天理教で、母方が浄土真宗です。親はどちらも熱心ではなく、私も無関心です。子供のころ、「親鸞聖人」の読み方は「しんらんせいじん」だとばかり思つてゐて、「バルタン星人」と同じやうなものだと想像してゐました。今でも不謹慎なことに、我が家では朝のお勤めとして、正信偈のCDを再生してゐるだけです。

正信偈がのつてゐる『教行信証』(岩波文庫)もほとんど読まず、本棚の隅でほこりをかぶつてゐる状態です。宗派として東と西があるらしいのですが、どちらに属するのかも知りません。

さて、私のやうな極悪人は「南無阿弥陀佛」を称へるべし、といふ箇所ですね。CDで横着をしてはいけません。

>>煩悩障眼雖不見

煩悩が目を曇らせる、しかしそれでも

>>大悲無倦常照我

たへず光をあたへてくださる。

これをひつくりかへして、歌にあてはめる。なるほど、ぴつたりはまります。この解釈では、見わたしてゐるのが、阿弥陀佛になるわけですね。

正信偈との対応、興味ぶかいものです。燈台もと暗し、いままで考へもしませんでした。私は浄土真宗にかぎらず、日本の佛教の知識に乏しく、またときどき質問するかもしれません。よろしくお願ひいたします。

お礼日時:2014/06/10 22:11

返詩



   君の名を
   呼べぬで終わる
   恋心

   呼ぶも終わりし
   仮面の夫婦
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この回答へのお礼

おや、どなたかと思ひましたら、大好きなみこさんではありませんか。たびたび質問ページのアラシをして申しわけございません。昔哲学カテゴリで活躍してゐたらしい「ななにす」さん(アンケートカテゴリでの別名多数、zzz222zzzzz, zzz777zzzzz, suikaiko, antikobuta などなど)を呼び戻せないものかと画策してゐるところです。実に惜しい人材です。

「大人は子どもになれるのか」の回答文は、大笑ひしました。

和歌の御趣味がおありなのですね。すてきな歌をありがたうございます。俵万智さんの影響でせうか。そんな趣があります。

私も若いころは、花に和歌をそへて、好きな女性に贈つてゐたのですが、ちかごろは相手をしてくれる人がゐなくて、狂歌ばかり作つてゐます。


呼ぶ声が みこさんならば
暁も
覚めてくれるな 夏の夜の夢


外国語カテゴリでは、恋歌担当として、オペラやミュージカルからの例文をたくさん準備して待つてゐます。(翻訳依頼の質問はおもしろくないので無視してゐます。)特に好きなのはモーツァルトの『フィガロの結婚』『魔笛』です。そちらのほうにもお越しくださいませ。

お礼日時:2014/06/08 20:10

哲学のカテゴリーの回答にはそぐわないかもしれませんが、



式子内親王は、そのかみの小野小町や和泉式部と肩を並べる、女性の情念の深さを正直に和歌にした、勇気のある女性だったようです。和歌の師である俊成や定家が、どんな風に指導したのか、興味の湧くところです。

小町や式部が、奔放な生涯を送ったのに比べると、ご身分の掣肘を受けて、実際の恋愛交渉はなく、清らかな暮らしをしてゆかなくてはならないのに、”忍ぶることのよわりもぞする”激しい想いがほとばしるような言葉になってでてきます。芸術家であるゆえんでしょう。

わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)
  
ねむれない夜を送った高貴な女性が、朝、お勤めをおこないながらも、”夢”が忘れきれない。執着を断ち切ろうとしているのではなくて、秘めた恋と共に生きてゆく、潔い生き方をなさったのではないでしょうか。

以下、夢に生き、恋に生きた先達たちの、ため息のような調べです。

小野小町

思ひつつ寝ぬればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを(古今552)

和泉式部

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺1342)
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この回答へのお礼

こんにちは。美しい画像ですね。

>>哲学のカテゴリーの回答にはそぐわないかもしれません

もしや、アンケートカテゴリの私の投稿文をご覧になつて、ここにおいでくださつたのではありませんか。下記の回答番号5。内容につきましては、ただのお遊び(私が遊ばれてゐるやうな気がします。)ですので、ご心配なく。

http://questionbox.jp.msn.com/qa8627905.html

>>小町や式部が、奔放な生涯を送ったのに比べると

古今集の小町の夢歌3首、私も大好きです。和泉式部にしては拾遺集の歌はおとなしいやうな気がします。私の読みが浅いのかもしれませんが。

>>実際の恋愛交渉はなく、清らかな暮らしをしてゆかなくてはならないのに、
>>”忍ぶることのよわりもぞする”激しい想いがほとばしるような
>>言葉になってでてきます。芸術家であるゆえんでしょう。

たしかに不思議です。この百人一首で知られる歌をはじめとして、よくあれだけ恋歌が作れたものです。これも3首セットですね。せつない気持ちを、「せく床の」と表現するところが巧妙です。

>>ねむれない夜を送った高貴な女性が

地蔵菩薩といふ、佛教的解釈ではなく、ひとりの女性と見るのですね。たしかに、歌そのものを素直に読めば、恋歌です。今回の私の質問は失敗だつたかもしれません。

>>執着を断ち切ろうとしているのではなくて、
>>秘めた恋と共に生きてゆく、潔い生き方をなさったのではないでしょうか。

式子内親王そのものですね。佛教を背景にした恋歌、そんなところがいちばん妥当な解釈なのかもしれません。ありがたうございました。また、御教授くださればさいはひでございます。

お礼日時:2014/06/08 13:12

 夜明けからの理想のヴィジョンは見えている。

しかし、現実は機が熟していない未熟な世の中。見えても実現のしようがない夢のもどかしさという悲しみ。その不条理は諦めなければならない。という感じなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。私の質問ページにおいでいただくのは、2度目ですね。

和歌の前に西洋クラシックについて。私とはずいぶん趣味がちがひます。ベスト10で一致するのは、「ヴィヴァルディ 四季 イムジチ合奏団」くらゐでした。

>>その不条理は諦めなければならない。

といふことは、見てゐるのは、人だといふ、解釈ですね。

>>夜明けからの理想のヴィジョンは見えている。
>>見えても実現のしようがない夢のもどかしさという悲しみ。

佛教の話とか、恋歌のことよりも、どんなことにでもあてはまる人間としての生きる道といふわけですか。何をするにも理想は必要だとおもひます。家族生活においても、仕事においても、このQ&Aサイトにおいても。

あたらしい解釈、ありがたうございました。

お礼日時:2014/06/07 20:45

  


 《かなし》の意味を確認します。

  ・ゆく(行く) > ゆかし(仮字は床し:心が行きたい気持ちである)

  ・のぞむ(望む)> のぞまし(望ましい:のぞみたい気持ち)

  ・をく(招く) > をかし(可笑し:招きたい・招いている気持ち)

  ・かぬ(《出来ない》)> かなし(悲し・哀し:したいが出来ない気持ち)



 うたの意味:
 
   ひとのこころは まだなお深いようだ。
   その深き淵よりわが心の声がとどく。
   そこに見たわがゆめ。

   あぁ あのゆめ。
   日から日へ夜は明け行くが
   よのなかは しづかである。
   しづんでしまっている。

   あくるあさにも沈む日にも
   あくることなく 見わたして行こう。


 
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この回答へのお礼

おはやうございます。bragelonneさんの解釈も、ぜひうかがつてみたいと感じてゐた歌ですので、さつそく拝見いたしました。

>>《かなし》の意味を確認します。

「タガログ」の件もありがたうございました。言葉の歴史をたどるのは楽しいものです。印欧語のやうに多言語で文献が残されてゐれば、もつと確かなことが言へるのでせうけれど。

>>をく(招く) > をかし(可笑し:招きたい・招いている気持ち)

この説はいいですね。

>>かぬ(《出来ない》)> かなし(悲し・哀し:したいが出来ない気持ち)

あるかもしれません。

>>ひとのこころは まだなお深いようだ。

地蔵菩薩から見た「ひと」ですね。

>>その深き淵よりわが心の声がとどく。
>>そこに見たわがゆめ。

地蔵菩薩と人とが一体化されてゐます。煩悩とみなすのが一般的な解釈ですが、ただ「夢」として明るく考へるのが、この歌のスタイルに合致します、恋歌的な。

>>よのなかは しづかである。
>>しづんでしまっている。

このあたりは、「ぶらげろ子分」のねこさんと同じ感性です。

>>あくることなく 見わたして行こう。

「あくる」は、「明」と「飽」ですね。

すてきな解釈をありがたうございました。

お礼日時:2014/06/07 08:10

すいません。


新古今和歌集には、まったく疎いもので。

百人一首が好きです。
恋歌の方が、私には似合いです(笑)

でも、仕事が恋人かも?
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この回答へのお礼

ふたたび、ありがたうございます。

>>百人一首が好きです。恋歌の方が、私には似合いです(笑)

和歌好きには、結構百人一首をおとしめる人が多いのですが、私も好きです。恋歌だらけですから。

>>仕事が恋人かも?

どんなお仕事なのですか。またそのうちゆつくりお聞かせください。

お礼日時:2014/06/06 23:51

朝のお勤めをしているけれど、


わたしは、未だ、無明の深い闇の中にいる。
迷いの世界にいる。
それが悲しい・・・。

暁なので、夜は明けているけれど、
わたしは、未だ闇の中にいる・・・。

夢というのは、浮世のことなんでしょうね。
仏教では、現実の世界を夢によく例えますし。

あるいは、
その儚い、夢のような世界、(自身の)生を無限に愛おしく思っているのかもしれませんね。


まぁ、そんなところではないかと。
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この回答へのお礼

解説、ありがたうございました。注釈書による受け売りではなく、NemurinekoNyaさん独自の感性ですね。犬の十戒のページといひ、こんな面があるのですね。理性最優先の人かと思つてゐました。

いくらか荘子みたいな解釈ですね。

>>無明の深い闇の中にいる。迷いの世界にいる。

いはゆる煩悩といふものですか。

>>暁なので、夜は明けているけれど、
>>わたしは、未だ闇の中にいる・・・。

この対比はいいですね。

>>夢というのは、浮世のことなんでしょうね。
>>仏教では、現実の世界を夢によく例えますし。

煩悩だらけの浮世の夢。

>>儚い、夢のような世界、(自身の)生を
>>無限に愛おしく思っているのかもしれませんね

今日は(も)冴えてゐますね。kanto-iさんの言葉のやうです。

*** *** *** *** ***

犬の十戒のページは、アラシまくつて申し訳ございません。(反省の色もなくて、ますます申し訳ございません。)

お礼日時:2014/06/06 23:44

質問内容が読めません。


経典でも無いものを仏教の解説とは?

とんちですか?
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この回答へのお礼

さつそく御回答ありがたうございました。

kanto-iさんには、誤解があるやうです。私は、不謹慎で不埒な人間ではありません。宗教カテゴリの設置には反対の人が多かつたので、佛教の質問を、堂堂と哲学カテゴリに投稿したまでのことです。教理で言ひあらそひをするよりも、こんな話で優雅に宗教を語る機会も必要だと考へてゐます。

日頃のおこなひのせいですね。オオカミ少年と同じです。

新古今は好きでよく読むのですが、釈教歌(佛教についての和歌)のページはあまり開きません。でも、この式子内親王の歌だけはお気に入りです。歌だけ読めば恋歌みたいです。地蔵菩薩の心になつて詠んだ歌らしい。私はそのあたりの知識に乏しいので、基礎的な話も大歓迎ですし、佛教関係の人の個人的な読み方も聞いてみたいとおもひます。

お礼日時:2014/06/06 23:18

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