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この問題については、何度も質問されていますが、ちょっと違った角度から是非質問させてください。
わたしには、アキレスと亀がものすごく不思議です。ですが、不思議だと思わない人のほうが圧倒的に多いことを、もっと不思議に思っています。

わたしたちは実際にはアキレスが亀を追い抜くことを知っていますから、そこを起点に考えるので、ゼノンのいうことには間違いがあるに違いない、というところから発想して、無限級数だのなんだのを持ち出して説明しようとします。
ですが、仮に、このように簡単な事実で検証できないような別の問題があったとして、このレベルの論法で説明されていたのだとすると、私にはそのおかしさを指摘することはぜったいできないです。私には完璧な論法に見えるので、自慢じゃないですが、はい、証明終わり、Q.E.D.とされても、納得してしまう自信があります!(笑)だから、そうした場合にも、みんなすぐにその論法はおかしいなんて指摘できる自信があるのでしょうか?ということをすごく疑いたくなります。逆に言うと、これまでに解決されてきた、数学の多くの証明において、こうした問題が潜んでいないということすら、私は納得してしまっていいのだろうか、とすら思います。

この、ゼノンの論法はどうしてもそんなにいい加減な論法には聞こえません。だから、なぜ多くの人が全然不思議と思わないのか、また、なぜ、多くの人が、自信を持って、ああそれはね、無限級数で云々と説明し始めることに抵抗を感じないのか、そこがまったくわかりません。

皆さんはどうお考えになるでしょうか?これはひょっとすると、数学の問題ではなくて、社会学とか、とかそういう分野の問題なのかもしれませんが、皆さんのお考えをお聞かせください。

A 回答 (56件中51~56件)

貴方は


ゼノンのパラドックスの矛盾をまだ理解していないと思う。
そのものズバリの質問ではなくて、当回しの質問なのは
直接の質問をする事が恥ずかしかったのだろうか?
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この回答へのお礼

興味深いご指摘ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/06 12:13

>誰でもいいから数学の専門家でない近くの人を捕まえて、この話をしてみてください。

きっとほとんどの場合、何馬鹿いってるんだ、追いつくに決まってるだろ、みたいな顔されることの方がほとんどだと思いますよ!それがすごく不思議なんです。こんな完璧なパラドックスなのに!

「アキレスと亀」のハナシは、追いつけるかか否かが焦点じゃなく、追いつく以前に無限点列のあることを論証する狙いがあるらしい。

追いつけるのは自明だから…というつもりなのか、追いつく瞬間および以後の時間を巧みに話題から外してます。

聴く側は、囲みこまれた時間域内での思索にふければよさそう…。

  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/06 12:12

 こういう話はよく「無限論の教室」(野矢茂樹著)を読んで、「そうか、その通り!」と思ってしまった人からよく聞かされます。

同書はその本自体の限界をよく考えて読めば悪い本じゃないんですけれども、本が己が限界を隠すようにして、かつ読者を煽るような書き方であるため、ちょっと問題を起こしがちな気がします。

 例えば、ゼノンの「アキレスと亀」のパラドクスで、アキレスが亀のもといた位置にたどり着くたびに自然数を数えさせてみるという設定を加えています。野矢氏は(そしてゼノンの時代にゼノンにこのパラドクスを問われた哲学者も、さらにはゼノンも)アキレスが亀を有限時間で追い越すことは、当たり前だとしています。

 すると、と野矢氏は言います。アキレスは亀を追い越したとき、アキレスは自然数を数え終わったことになる、と。その後、アキレスに自然数最後の数は奇数か偶数かを尋ねてみると言い出し、そしてそんなことは自然数最後の数が奇数か偶数かなんて馬鹿げていると言う。

 実はその辺りで「無限論の教室」を読むのをやめたくなったんですが(でも、一応は最後まで読んだ)。それ以前にも、質問者様も仰る無限級数の和という数学的な解法について、「愚か」のひところで退けた点もちょっとうんざりだったりしました。自然数を数え終わるということについては、野矢氏は同書の後半で自然数を順に無限個羅列したものでは、自然数の集合にならないという数学では当たり前の話をしており、どうもそれで無限級数の和などを「愚か」と断じた説明になっていると思っているらしい。それなら、さらにうんざりです。

 何がうんざりかと言えば、数学でいい加減に扱っていないことを、いかにもいい加減に扱っているかのごとき言い方をしているからなんですね。数学では無限級数の和は極限値だとしています(いわゆる「その値に限りなく近づいていく」)。実際に存在する値だとは言っていない。

 極限だけでないし、無限大だけではないです。数学はいい加減なことをしません。数学でこんな例を挙げておきましょう。

 (1-x^2)/(1-x)という関数を考えてみましょう(これは物理でときどき出るもの、「^2」は2乗を表し、エクセルでも使える記法)。これはx=1では0/0となるから関数として値を持ちません。しかし変形すれば、

 (1-x^2)/(1-x)=(1-x)(1+x)/(1-x)=1+x

とできますから、x=1で2という値を持ちそうに思えます。でも、それは駄目です。途中の変形で1-xで分母・分子を割っているわけですが、x=1では0なんですから割れないわけです。変形はx≠1でのみ成り立つとしなければなりません。

 もっと単純にはx/xでもいいです。x≠0で1になりますが、x=0では値を持たないということを忘れてはいけないとします。それが数学です。

 数学の微積分学では、関数の極限値ということをきちんと学びます。そのとき関数が、∞-∞、∞/∞、0×∞、0/0になってしまうような場合について、どう扱うかを慎重に学びます。いずれも直接の値が計算できないことは明らかで、極限値と関数の実際の値についても充分注意しなければならないことも学びます。

 そうした場合を含め数学は、例えば昔は「無限小」なる概念で曖昧にやっていたことを、それでは間違う場合もあることを発見して、δ-ε(デルタ-イプシロン)論法という証明法を発明もしています。

 アキレスと亀に戻ります。アキレスが亀を有限時間で追い越すとしているのは、アキレスが亀より速いなら必ず追い越すという、もっと単純な計算があるからです。アキレスの速度をV、亀の速度をv、最初に両者の距離がLだとすれば、L/(V-v)で計算される時間でアキレスは亀に追いつき、追い越します。

 そのことについて、ゼノンの論法通りに従って無限級数の和でも同じ答が出る、ただし極限値で、と数学は言っているわけです。無限級数の和という極限値が実在しているとは一言も言っていない。確実な別解(速度差を使った単純計算)も同じ答なのだから矛盾は出ないよ、その極限値は別解によって存在が保証されているよ、と言っているのです。

 数学はそういう話をしているのです。野矢氏はそのことを無視して(あるいは理解できずに)、愚かと斬り捨てたつもりになっています。野矢氏の論法をよく考えずに信じてしまった人も同じです。無限大や0(ある意味、無限大の逆数のような実在の値である種の鬼門の数)を含む数学を学んだ人なら、野矢氏が無限論の教室で述べる論は、とても受け入れられません。

 それでもゼノンのパラドクスが現代数学に対しても有効であると主張されるのであれば、きちんと論じてもらいたいわけです。大学初年度~2年生くらいの数学を修めた者が聞いてみて、「いや、そこは数学を誤解していて、数学では…」と説明せねばならないような論法を延々を聞かせないで欲しいわけです。なんとなく違うと思うなら、はっきり違うというところまで、昇華したものを聞かせて欲しいわけです。

 それでも、おそらくは未知の問題は出て来ません(※未証明の定理などのことを言っているのではないです、ゼノンのパラドクスの現代版です)。ゲーデルの不完全性定理があるんだから、数学は不完全だ、だから叩けば埃が出るだろう、なんて思うと大間違いです。現在の数学は現在の数学の範囲内では、自らが完全でも無矛盾な理論でもないことを証明してしまうほど、凄いものなのだと受け取るべきです。数学のここが不完全だ、矛盾がある、などと具体的に示せた例はありません(予想ですが、おそらくそれもできない)。

 アキレスと亀については、もっと単純なバージョンがあります(ゼノン自身が考案したとされている)。100メートルの距離を行くのには、まず半分の50メートル地点を通過せねばならない。次には残り50メートルの半分の25メートル。そうして半分、また半分と考えれば、無限の回数が発生します。だから100メートル先にはたどり着けない。

 もちろん、たどり着けますね。やって見れば一目瞭然です。物理で似たような頻出問題があり(テストなどで出たりする)、ある高さから床に落としたらその高さの半分まで跳ね上がるようなボール(反発係数1/2、と表される)が、何秒で床に静止するか、というものです。もちろんですが、ボールがいつまでも細かく跳ね上がっては落ち続けるなんてことは起こりません。

 いずれも有限なものを無限個に分割しただけの話です。そしてゼノンやゼノンに与する人は、無限回の操作だから終わらないと論じているだけです。現在の数学は、もうそんなことを解けない問題などとはしていません。それでも、無限回だから終わらない、と反駁されるなら、「そんなややこしいことを説明したら、聞かないから、分からないと言いだすから割愛しただけじゃないか」と言うしかありません。

 ゼノンのパラドクスは他のものもあります。例えば「動いている矢は止まっている」ですが、物理学を多少学んだ人なら「何を当たり前のことを不思議がるのか?」と言われてしまうようなものでしかありません。長くなったので、これの詳細は割愛します。

 それでもゼノンに学ぶことがあるとすれば、問題を解こうとしたとき、見方次第では解けなくなってしまうこともある、あるいは、どうして解けない問題があったら解くための方法を開発すべき、といったことでしょうか。ゼノンの時代では、まだ彼の論法に沿って解く方法がなく、その後数学が進歩して、ゼノンの論法通りでも解けるようになったわけです。

 ゼノンのパラドクスを「いや、現在の数学でも解けていないんだ」と言われれば、「そんな馬鹿げたことはない」と応じるしかありませんが、その他の点で学ぶべきものがあるということなら「確かにそうですね」と応じることにやぶさかではありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
数学にとても愛着がおありのようですね。

しかし私には、これは半分数学、半分哲学の問題のような印象です。だって、アキレスが追いつくことぐらい誰だって知っていて、そんなの証明するまでも本当はないことですからね。ほとんど公理の世界ですね。だからこそ、この問題では、ゼノンに議論に忠実に乗っ取って、その議論のおかしさを指摘することが求められていて、純粋に追いつけること自体を、無限論を用いて数学的に厳格に証明しようとするのは、ちょっと違うんじゃないの、っていう印象を持ってしまいます。(すみませんが数学を馬鹿にするつもりは全然ありません)

下の方の回答にも書かせていただきましたが、ゼノンは非常にシンプルな論理学を用いているような印象があります。

それに元々私が質問させていただいたことからの延長で考えれば、(私も一応勉強しましたが)δ-ε論法なんて知らない大多数の人たちも、そんなの詭弁だ、追いつくに決まってるじゃん、とこのパラドックスを何らパラドックスとして受け取ることがないという事実は、やはりそこに、何か別の問題が隠れている気がしています。

お礼日時:2014/07/06 12:12

アキレスが亀に近づく話を移動した道のりだけで考えているからです。

時間を引き延ばしたかのような表現で表しているから、永遠に追いつけないように錯覚してしまうのですね。
時間を軸にして考えると、決して永遠(時間経過=無限大)に追いつけないのではなく、一瞬をどんどん細かく分けて見ているに過ぎない事が理解できるはずです。

秒針つきのアナログ時計を見てください。
12時の位置からスタートして、秒針が360度回ってゼロ秒の位置にもどる間に分針は6度回って1分の位置(=1秒の位置)まで進んでいます。そして秒針がその1秒分を追いかける間に分針はまた1/60秒分を先行する。秒針がさらに1/60秒分を追いかける間に分針は1/360秒分先行し・・・と、針の回転角度を見ながら、1秒をどんどん細かく分けて考えて「秒針は決して分針に永遠に追いつけない」なんて考えますか? しませんよね。時計を見るとき、人は針の回転角度でなく時間経過をベースに考えますから。
普通の人は時間の経過は一定速であり、時間を引き延ばすなんてことは出来ないことを承知しているから、刹那の現象を追求することに意義を感じないはずです。秒針や分針の回転角度ではなく、「次に1秒経つ間に、秒針は長針を追い越してしまう」と、時間軸で考え、「永遠」の錯覚の陥ることが無いでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
でも、残念ながらそういう説明はこれまでもたくさんみてきましたが、私には全然すんなり入ってこないんですよね。

やはり、全然不思議でない、という方が圧倒的ですね。そこが不思議だっていうのが、質問なんですけど。。。

お礼日時:2014/07/06 12:01

私もこの質問は数学カテではないように思います。

私が貴方の真意をしっかり捉えきっていないのかもしれませんが、ゼノンの詭弁にはまってしまって抜けられないだけなんじゃないのかと(単純に)思ってしまいます。
私の理解を簡単に言うと、ゼノンは有限の時間(量)を無限の数に切り刻んで「どうだ、無限だから無限(の量)大じゃないか!?」ととぼけて見せた。それにまわりのひとがだまされたということではないのでしょうか。
その有限の量がしっかり確定できるにはちょっと高級な数学が必要なだけで、そのりくつは感覚的には理解できるのではないでしょうか。私が間違っていたらすみません。

>逆に言うと、これまでに解決されてきた、数学の多くの証明において、こうした問題が潜んでいないということすら、私は納得してしまっていいのだろうか

このあたりは私も貴方の感覚に納得できます。感覚的についていけない(たとえば非ユークリッド幾何学やアインシュタインの相対性理論など)もので、光速に近づいたら空間が縮むとかいうのはまだ理解できていません。おそらく現実の中での不思議を理論で説明すれば付帯的にそうなってしまうということなのだろうとは思っているのですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

やはり、基本的にそんなの矛盾でも何でもない、無限論を理解していないだけだ、というスタンスの方が多いようですね。

ちなみに私にはこの問題は、無限論だというのは頭の片隅の方でわからない訳でもないんですが、どうしても簡単な論理学に見えるんですよ。AならばB。BならばC。がともに真で、いまAという前提から出発するとする。ならば必然、Cである。っていう。そこに穴があるように見えない。
まあ私が結局無限論がわかってないだけ、っていうので終わっちゃうんですかね。でもやっぱり、わたしに全然同調する人がいらっしゃらないのは、ほんとに不思議だなあ。

お礼日時:2014/07/06 11:59

これは哲学の無限論の分野なのですが、これには、決着がついていません。

ゼノンは間違っているかどうかよりも、このパラドックスについて、一部の隙もなく反論できた人はいないのです。
講談社現代新書の「無限論の教室」(野矢茂樹)をおススメします。アキレスと亀の話から始まり、自然数と偶数はどちらが多いかなどという奇妙な問い、更には実無限と可能無限というテーマがありますが、見方によって変わるものだ、ということがわかるでしょう。
簡単に言うと、実無限とは、無限に大きい数がある、と考えること。可能無限とは、ある数には、それより一つ大きい数が必ずある。これを延々と続けていけば、大きい数を作ることは無限に可能、というもの。今の数学界では、実無限の方が優勢なのですが、可能無限も負けてはいない。この本を何回も読めば、決着のついていない問題に対し、両方の考え方ができるようになり、パラドックスは否定できないからこそ、今の世にも残っている、ということがわかるでしょう。
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_vie …
アキレスと亀の話では、アキレスが亀に追いつくたびに数を数えていたとすれば、追い抜くときには、無限大の数を数えたことになる、という不思議なことが紹介されています。

この回答への補足

ありがとうございます。私もこの問題にも関連して、無限論には興味があったので、ご指摘の本も読んだことがあります。無限に関しては、ほんとの表面だけですが、対角線論法とか、アレフとかなんとかいう理屈も少しは理解したつもりです。
で、そういう議論もとても興味があるのですが、ここでお話しさせていただきたかったのは、このパラドックスがなぜ不思議なのか、どう考えればいいのかということではなく、なぜこのパラドックスを不思議だと思わない人の方が圧倒的に多いのか、簡単に説明できると思う人が多いのか、ということなんです。

じっさい、誰でもいいから数学の専門家でない近くの人を捕まえて、この話をしてみてください。きっとほとんどの場合、何馬鹿いってるんだ、追いつくに決まってるだろ、みたいな顔されることの方がほとんどだと思いますよ!それがすごく不思議なんです。こんな完璧なパラドックスなのに!

補足日時:2014/07/06 00:41
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