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宗教は、迷える子羊を救うこと。
哲学は、迷える自分を救うこと。
では、ないでしょうか?

しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。

哲学は過去の哲学者も、現在の哲学者も、殆どが自分独特の哲学的思想を持っている。

自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか?

ですから、巷の哲学者が何を言っているのか理解できないことが多いのではないでしょうか?

哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?

私のこの考え間違っていますか?


これを読んでいる宗教関係者、哲学関係者の方は例外ですので、該当しません、悪しからず。

A 回答 (37件中11~20件)

2014japan様、こんばんは。




>「世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?」

「主張」は、あるのですか?
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この回答へのお礼

>「世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?」

>「主張」は、あるのですか?
主張はありません。

何度も言いますが「主張」とはなんですか?

あなたが、親に対して、友達に対して、学校、社会に対して考えを言うことですよね。

主張は自分自身にはしませんよね。
おこずかい上げてくれと自分に言いますか?

主張も権利も、相手に自分の考え、権利を求めることです。


なんか、少しも先に進んでないような気がしますが、ご理解いただけましたか?

お礼日時:2014/07/17 23:47

>「世界にたった一人しかいなければ、権利も主張も有りません」




「失言」でしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


学生様でしょうか?

まさか大学生か社会人ということは無いと思いますが、社会の先生に確認されたら、どうでしょう?

私は無学ですから、よほどあなたの納得できる答えが得られますよ。

お礼日時:2014/07/17 22:41

>「しかし、宗教、哲学は無人島でたった一人でも必要な物ですよね、


もちろん必要ない人もいますが。」

法学や福祉が、それを基礎として居ますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>法学や福祉がそれを基礎としていますよ。

それとは何ですか?

基本的人権のことですよね?
個人の権利というものは相手に対しての権利なのです。

世界にたった一人しかいなければ、権利も主張も有りません、したがって法も必要ないのです。

もう少し簡単に言うと法とはルール、規則です。

世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?

お礼日時:2014/07/17 21:53

>「哲学、宗教は、まず個人が基本になります。




法学も、そうですよ。
ついでに言えば、福祉も、そうです。
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この回答へのお礼

法律は一番小さい単位であなたと私の関係で成り立ちます。

無人島にあなた一人で暮していれば法律は必要ありません、あなたを命令する者も、される者もいませんから。
何をしようとも自由なのです。

しかし、宗教、哲学は無人島でたった一人でも必要な物ですよね、
もちろん必要ない人もいますが。

お礼日時:2014/07/17 20:55

法学って、何?

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
質問とは違うかなと思いますが、答えます。

法学とは、法律を学ぶことだと思います。

法律は社会をルールによって、律することだと思います。
社会生活における、人間関係、対もの関係その他決まりごとについての研究、学びであると思います。

哲学、宗教は、まず個人が基本になります。
法学は集団が有って初めて機能する学問かなと思います。

お礼日時:2014/07/17 20:39

 なおもお邪魔します。

長くなりましたが。

 少なくとも 聖書のつたえるキリスト・イエスについては 
 (α) 信仰は どこまでも個人のものである。
 と言っていると思います。
 (β) 個人の主観内面における信仰がその信仰のままで共同化することはない。つまりオシエは要らないし
 (γ) 集団を成して規範をかかげる宗教は要らない。

 こう語ったと見ます。次の質問の趣旨説明のごとく捉えています。



 ○【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html

 聖書の伝えるヤハヱーなる神は

 みづからによるみづからの揚棄をおこなった。

 つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。


 旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に
 その内容を明らかにして予告し
 それがパウロをつうじて
 かれの著わしたと伝えられるヘブル書で

 けっきょくイエスによって
 〔そのイエスが神の子キリストとして世に
 現われたという想定のもとに〕
 成就した

 と語った。

 すなわち:
 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

    見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

    それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

    それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである
    ――と、主は言われる。

    すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
        (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は 次の内容であると捉えます。これを問います。

 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。

 ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。
 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。

 (α‐1)
 ▼ 文字はころし 霊は生かす。
 ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。


 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。

  すなわち
 (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
  ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。
  ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。


 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。

 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

 (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。

 (γ‐3)
 ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。

 (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神もその名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。
 ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ちょっとごちゃごちゃした内容になりましたが。

 (民族ごとにまとまって・しばしば外に対して閉鎖的に生きる社会つまりそういった時代には それとして集団にとっての・つまり民族にとっての神が 必要であったのかも知れません。まとまりを持って秩序をまもろうとします。
 あの島は おれたちに固有のものだと言って 自分たちにとっての一つの神のもとにまとまることが必要であったのかも知れないのだと思います。
 そういうかたちの世界的な〔負の〕共生の時代もあったということで。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
宗教自体が、時代と背景により、宗教自体の意味も受け取り方も変わってくるということですか。

たったひとつの例ですが、イスラム過激派の場合は婦女子でも、天国を約束され、自爆テロをされました、この点を見れば宗教に罪があるように思えましたが、教義ではなく、その時の信仰をする者により、宗教が悪用をされたということですね。

お礼日時:2014/07/17 21:40

No.11です。



宗教についても、ほんのちょびっと、思ってる事を。

哲学はとってもとっても考える。

宗教の大元になるのは体験かなぁ?と。
自分の体験だと、これを大事にするのは普通じゃない?

個人の体験で、感覚的に感じ取った事って、説明するの難しいよね。
それを今は神秘体験とか言うのかも知れないけど。

そいて、それを周りの人に言う人達もいれば、自分の中だけで大切にする人もいるのね。

周りに説いてまわって、賛同者が多くなれば宗教化すると思うんだよね。
で、元々なんかしらの宗教に属してた人達は、どちらを選ぶにしろ、宗教心が強くなると思うんだ。


元々お金目当てで、適当なこと言って騙すのは宗教じゃなくて詐欺だと思う。
本人は多くの人を助けようと思っていても、周りに頭が回る悪い人がいたら利用されたりすると思うんだ。

こういうのは分けて考えた方がいいよ。


あと、嘘も方便。
誰かを救うのに、これが一番いいと思うと嘘を言って助けようと思う事もあると思うんだ。
ここで曲がっちゃうこともあるだろうね。
でもその人は嘘を言ってる事は知ってるけど、助けたいのが本心だったりするんだよね。
これは一概にいいとも悪いともいえない気がする。


追加
感覚的に得たものを説明するのは難しいは、
歩けなく、歩いた事がないひとに、自分が歩いてるのをどうやって歩いてるの?と訊かれたと考えてみたら分かりやすいかな?
歩けるように出来てる体のシステムと、脳での命令系統とか、そもそも意志とは何かまで発展すると、専門の学者でも難しいんじゃないかと思うんだ。
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この回答へのお礼

たびたび、回答ありがとうございます。
哲学はとても範囲が広く、物凄い大変なことで、私の哲学観は微かだと思い知った次第です。

宗教もいろいろな宗教があり、別けて分析しないと判断が誤ってしまうということですね、私は少し単純だったようです。

分かりやすい説明ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/17 01:04

 こんばんは。



 2014ぢゃぱんさん 心配ありません。まったくありません。

 次の質問は わたしのおこなったもののうち まだ一部分です。

 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html

 【Q:組織宗教を 弾劾する。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8087365.html

 【Q:宗教は 百害あって一利なし。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8372936.html

 【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7552652.html

 【Q:創価学会への公開質問です。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8061851.html

 【Q:《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8624415.html



 元気出して!
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この回答へのお礼

ご協力ありがとうございます。

確かに、すさまじい質問です。
すごい、しかしそれなりの知識、理論がしっかりとしているところが、私とは違いますので、やはり、もっと勉強し、レベルを上げなくてはと思います。
頑張ります、応援ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/16 23:47

>決め付けは有ったように思いますので、反省しました



難しいですね。

既に言っていますが、別に間違った内容では無いと私は思いますよ。

むしろ思い込みだけで発言している方ばかりに、私には見えますから。(別にこのカテの話ではなく、世界中でです)

ただ自分を出す行動は、攻撃を招き易いとは思います。

真理を見つける事と、真理を広める事は違います。

しかし今回の質問者様の傷ついた理由は、自身の考えに自身の価値を乗せてしまったから起きた事です。

「理を見つけた事」そのものを自分の存在理由に重ねてしまったので、否定が痛いのです。

真理を見つける事は、様々な要因があるでしょうが、単に「運がいい」だけです。

思考力の強さ・深さも、白雉に生まれていれば出来はしません。

ただのラッキーなのです。

ですから「理を得た」事等は、それほどに自慢する事でも無いのですよ。

努力を認める以上の価値は在りません。


正直、発言される方の多くは真理を見つけたから発言しているのではなく、私を始め自分を発露したいからしているだけの方です。

第一、通常ならば真理を得た者は、本来、わざわざ其れを触れ回る様な行動は取りません。

質問者様の発言内容は問題ありませんよ。

また、仮に間違っていたとしても、其れは発言内容や考えが間違っているのであって、質問者様の人格が間違っているのではないです。

此処を混同しないようにしましょう。
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この回答へのお礼

本当に、何度も気を使っていただき、ありがとうございます。

ネットに書き込みを始めて2カ月もたっていませんので、打たれ弱かったかもしてません、
沢山叩かれて、自分の考えがより良く、進歩するのかも知れません。

あなたのように未熟な者を助けてくれる方もいますので、まだ、勇気を持って質問回答をしていこうと思います。

お礼日時:2014/07/16 21:31

何度もお邪魔します。


私は誰もダメとかいってないですよ。
完璧な人も完璧な世界も
世界の外側から判断できる人っていませんから。

哲学は内(家)なる宇宙の探検です。
暗闇が普遍なら自分が光って照らせばいい。
情報に溢れていても、静寂であっても自分の心は伝えているのか?
囲まれてるもの、着せられてるものを外してみたりすることです。

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この回答へのお礼

わざわざ、ご連絡ありがとうございます。
わたしは、あなたに否定されたように思いました。
しかし、今は確かに、私に傲慢な点が有ったかと思いますし、内容は兎に角、私の質問を考え、答えて頂いたことに感謝をしています。
考えれば、哲学カテにいる方は真剣に宗教、哲学を良い方向で探究している方だと思います。
言い合いに、なったとしても悪意を持って攻撃してはいないと気付きました。
また、質問はさせていただきますので、間違っていたりしましたら、遠慮なく貶して頂いて結構です、そうして、進歩できれば、自分の為になりますので。
また、よろしくお願いします。

お礼日時:2014/07/16 21:50

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