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宗教は、迷える子羊を救うこと。
哲学は、迷える自分を救うこと。
では、ないでしょうか?

しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。

哲学は過去の哲学者も、現在の哲学者も、殆どが自分独特の哲学的思想を持っている。

自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか?

ですから、巷の哲学者が何を言っているのか理解できないことが多いのではないでしょうか?

哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?

私のこの考え間違っていますか?


これを読んでいる宗教関係者、哲学関係者の方は例外ですので、該当しません、悪しからず。

A 回答 (37件中21~30件)

なるほど、他の方への回答を読んで見ましたが、騙されたと言う経緯がある訳ですね。



確かに妄信はしない方がいいと思います。


宗教は団体を作ってしまうと、もう駄目です。

団体の為の教義が出来てしまいます。

矛盾を包括して生きていく方向性が出来てしまいますので、時間と共に腐敗が進行します。


哲学は・・、宗教と不可分のところが多いのですが、違いは団体(永続的な教団)を構成していない所と、「神」を持ち出さない事です。

神を持ち出した場合は「神学」になります。

>哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?

其の通りですw

ただし此れは西洋哲学での話ですが。

一つ一つの事象に対する分析の積み重ねと対応ですから、「都合」によって答えは変わってしまいます。

この「都合」は唱える人の人生によって違います。


質問者様の発言は至極全うですから、何の問題も無いです。

是非、其の先を求めて下さい。楽しいですよ。


ちなみに無知は罪でも非でも無いです。

それを振り回す「行動」が「迷惑行為」なだけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとう画材ます。
今回の質問で、私は、人格を疑われたり、嘘つき呼ばわりしました、これには非常にショックでした。
質問も回答もする気が無くなりました、というよりできないですよね。
私は、宗教にしても、哲学にしても真剣に学ぼうとしているものです、そのため途中の障害、幻滅が混乱をきたし強引な質問になってしまったように感じます。
確かに、知らないことに私の個人的な想像、決め付けは有ったように思いますので、反省しました。

今回の回答をいただき、救われました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/16 20:17

お礼、ありがとうございます。



>わたしは、信じやすい人間です、馬鹿と言えばそれまでですが、宗教にも、他にも騙されました。
>常ずね、何故人は騙すのか?騙す人は許せないと思うのです。

私も騙されたことは、何度もあります。
同じように許せない思いを、私はとても強く持っていました。

騙すつもりはなく、結果騙すことをやっている人もいます。
盲目的は、見えていませんからね。

私にとって大切なのは、人を騙さないことであり
騙されたことで騙す・騙されることが明確になったことです。

相手の過ちより自らの失敗を認めることで、学べたこともあったし
繰り返さないためにも対応を考えられるようになりました。

一番良かったと思う自分で得たものは、人を許すことです。
恨みを延々と一生持ち続けるという荷物を降ろすことができました。

騙されたことで身を滅ぼすほどのことはありませんでしたが
恨みで身を滅ぼす可能性の方が、はるかに高いことも知りました。
恨みは、自らを戦いに駆り出すか人を遠ざけるに至ります。

いずれにせよ戦いは孤独になって行きます。
孤独より騙された方がいい。
騙されるより、それを見極められる自分になった方がいい。

求めるものを得る力も、明確にするということで
自分のものとなっていくと思います。

哲学によって明らかにできることが、自分の生きていく力となり得ると思うところです。

騙されるより騙す方が、後で大きなツケを払うでしょう。
ご自分を馬鹿と責めるより、勉強代を先払いした自分を許していいのではないでしょうか。

自分を許せばもっと楽に歩けるのと、より対応力は上がりますから。
人を責めるより、事の対応に力を注ぐことが未来は向上させることができる。
そんな考えもあるということで終わりにします。

ネガティブな体験で、ご自分の目を曇らせないことを願います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
今回の質問で、回答していた方々には、納得できないのも有りましたが、無知な私の為に答えてくれたことには感謝しています。

回答者の方の考えがそれぞれ違うということも、良く分かりました。
アドバイス、ありがとうございます、くじけずに努力いたします。

お礼日時:2014/07/16 20:39

 No.8です。

ご返答をいただきました。


 ★ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
   >「信じる つまり わが心なる非思考の庭ーそれは動態ー」

 宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、毎日、毎日、集会、会合、教義の勉強をさせて、単なる思考の感覚のオシエを、信じ、寄付と布教をし、挙句に他宗教と殺し合いしている、これは動態ですよね。
 これは、オシエによって思考も、無思考の庭も全て影響を受けている、ということではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっと まづ《信仰――非思考の庭なる動態――》について 不案内のまま出していますので これの説明をおこないます。次の図式で 捉えていただきたいのですが どうでしょう。


  ○ 信仰とは わが心なる《非思考の庭》なり ~~~~~

    信仰:非思考の庭:ヒラメキ(直観)
    ----------------
    宗教:思考の緑野:思考・想像
    知覚:感性の原野:直感

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神は 《非経験の場》です。ナゾです。そういう想定であり 仮りの理解としては 絶対・無限という概念が補助線になります。二で割っても三で割っても商がやはり無限であるというナゾです。

 2. この神は 有る神と無い神とに分かれます。ナゾですから 人間が有ると言っても無いと言っても 神そのものに変化はありません。有る神について ヤハヱーと言おうが アッラーフと言おうが あるいは ブラフマンにしろアミターバ・ブッダにしろ 神に変わりはなく その呼び名が違うのみとなります。名前で神のチカラに変わりが出るのなら それは神ではないとなるわけですから。

 3. この神をおのが心にいだくとき――という意味は その名を心に受け容れるとき―― わが心に《非思考の庭》が成ります。受け容れたという意志行為の実績が成ります。キリストの神ならキリストの神としての名を受け容れるとき その対象たる神は《非経験の場》であり それを受け容れるというのは 人間の経験行為です。

 4. この非思考の庭が わたしの生きる道にあって動態であるというのは たとえば次の事例で理解されます。アブラハムがわが子を神にいけにえをして捧げよという命題を受け取ったとき 精神が錯乱するかに迷いに迷った挙句 かれは ヒラメキを得ました。《ひとは おのれをにしろ他人(ひと)をにしろ ひとをころすことはないものだ》と。生きるという動態にあって このこたえを得ました。

 5. ところが モーセについては かれも個人としては同じ信仰を得ていたのですが 民衆のあいだの(社会としての)秩序を考慮したとき アブラハムの命題を 《なんぢ ころすなかれ》というオシエとして持つようになりました。これが 宗教の始めです。

 6. アブラハムにあっても ヒラメキないし直観は すでに知覚としての直感でもあって それは 大きく言えば 思考の緑野と同じ経験世界に属しているではないか? おそらくそうだと思われます。
 
 7. しかも ひとりの人間の主観内面における信仰の命題と 人びとの集団にとってのその文化(文章化・規範化)なるオシエとは 別だと考えられます。

 8. 社会にとってその秩序のためには 《思考の緑野》なる次元に即した規範が必要ではないかという向きには おのづからと言うかのごとく 人びとのあいだの――思考をつうじての――《取り決め》があります。法律です。

 9. つまり 信仰と法律があればよいのであって 宗教としてのオシエは とどのつまり 要らない。こう成ると考えられます。
 

 10. シュウキョウも オシエをあたかも神としていただき 聖性を帯びさせた権限の体系としてのヒエラルキアなる組織として活動するなら 《動態》であるかも分かりませんが これは 経験世界(思考の緑野)にあって 何を思ったか 非思考の庭へとわが手を伸ばし その手で観念の神を自由自在に扱おうかという精神錯乱に落ち入っています。この世に 神の代理がいるというオシエの基礎があります。妄想です。

 11. シュウキョウは オシエによって 哲学としての《思考の緑野》を省みずむしろ思考停止に落ち入り 信仰としての《非思考の庭》を懐柔し得たとうそぶく《人間停止なる状態》に落ち入っています。


 こんな感じだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私の無知、無学を痛感いたしました。

勉強になりました。

お礼日時:2014/07/15 23:58

宗教について、質問者さんはあまりにも偏見にみちているようであるから、ひとつ社会的に善である宗教教義の例を出しますよ:



つぎのような教義だけをもつ宗教を考える
教義:自分の所有物で、余った物を、それが必要な他人に分け与えたら、神様は喜び分け与えた人が天国にいける可能性をふやしてくれる

交換経済において(つまり生産活動は既に終わって、その配分の段階のこと)、このこの宗教が信じられることは社会的に善であることの証明:
この教義を真剣に信じる物は、余った財を、必要な人に配分する可能性が高まる。よってパレート改善の可能性を高めるのであるから、ある人によってこの宗教が信じられることは社会的に善である。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに、私は一部の宗教だけで、殆どの宗教、哲学さえも、勝手な妄想を加え、否定してしまいました。

恐ろしいことをしました。

間違いに気づかせていただきました。

お礼日時:2014/07/16 00:05

少し、質問者さんの回答を考えてみましょう:



>宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、

またでたらめを書いていますな。日本だけでも30万あるという宗教組織ですべて洗脳がおこなわれているのかな?
自分の経験から言えば自分の祖先のお墓を管理するお寺から、洗脳されたことは一度もないですな。


>挙句に他宗教と殺し合いしている

宗教信者とそうでない人の、殺人を含む騒動での犯罪率の統計比較に基付いているの?


>キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
>嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
>であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

これって、まったく論理的ではないですね。
「教義を信じれば天国に行く」の否定は「教義を信じても天国に行かない人がいる」
でしょ。

>嘘であるなら宗教の存在自体が悪

これは正しいが、嘘である証明はできないのであるから、表現しても無駄。
ある宗教を信じて、他人を迷惑をかけず自分がより幸せになるなら、信じることは、パレートの意味で善ですよ。
つまり、宗教を信じることは社会的に善でありうるんだよ。


>哲学においても、個人個人自分の思想を主張して、間違えている可能性は無いのか?
>間違えていればどんなに高等なことを言っても価値は有りません

自然科学では一般に反証可能性が問題にされるが、哲学オンリーでは問題にされることないでしょ。
反証可能性が問題にされれば、科学の分野になるんだから。


>宗教は神とか、仏を説いているのです、これはどんな出鱈目を言っても、誰も反論も証明も、できないのです。
ですから、次から次へと如何わしい宗教ができるのです。

そうだろうか? 君は「如何わしい」と判断できているではないのかね?その根拠は、オウムの悪を警察が証明したと表現している。反社会的かどうかは、犯罪と結びつくかどうか、人に迷惑をかけるかどうかで、判断できるじゃん。
反社会的出ない限り、何を信じようと、自由なんだよ。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私の表現の仕方に問題が有ることが分かりました。
まだ、まだ宗教、哲学を語るには無学すぎました。

また疑問が出てきたら質問させていただきます。

お礼日時:2014/07/15 23:46

No.9です。


お礼、ありがとうございます。

>例えば、キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
>宗教が嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
>であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

自己解釈で教義を歪める可能性は、どの宗教にもあり
それは、どの哲学・どの思想でも、たとえそれ以外のことでも
あらゆることに言えると思います。

解釈を自己都合に合わせるのは、一般庶民の日常でも十分にあり得ます。

ですから、何に対しても盲目的にならず簡単に騙されず
自分であることを維持し自分の足で立って自分の足で歩く人生を
送りたいと思うのであれば、自分で見る目を養う必要がありますよね。

考えずについて行くだけで、幸せになりたいと望むなら
笛吹きに踊らされても、レミングの群れよろしく沈もうとも
他者が止めるのは至難の技です。

自分の思いを深く汲み取らなければ、簡単に踊らされても
不思議ではないように思います。

自身の真意を汲み取って行かなければ、教義やそれ以外のことも
精査して、どのように対応して行くのかは導き出すことは困難でしょう。

自分の根底が自分としての基準であり考えと判断の元ですから
自分という基準値がなければ、なすがまま・流されるままに
他者の基準で翻弄されます。

自分がどうありたいのか。
行き先を見て歩く道を決めないと、自己都合の美味しい話しや
我や欲のつっぱりの先は、日常誰しも落とし穴の連続ですよね。

自己責任といえばそうでもあり、たやすく片付けられそうですが
自分の人生の責任は、最終誰でも自分しか背負えない自覚だと思います。

蒔いた種を刈り取るのは、いつの世も変わることではないでしょう。

日本の今の状況責任も、1/大人人口は私にもあると思います。
そういう自覚で、日々どう生きてかかわって行くのか。

そのような自分なりの何かを持って生きれば
間違いは気がつけば訂正し、大きく逸れず
巻き込まれないように気をつけることも可能のように思います。

間違えない人は見たことがないですし、誰でもいつでも
自分でも間違える可能性は十分にある。
なおかつ万全は無くても、それなりにできる範囲はある。

そのような事ではないかと、考えています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
わたしは、信じやすい人間です、馬鹿と言えばそれまでですが、宗教にも、他にも騙されました。
常ずね、何故人は騙すのか?騙す人は許せないと思うのです。
しかし、おっしゃる通り、自分でよく精査して、判断しないと、良い結果は出ないということですね。

馬鹿を治す努力をしたいと思います。

お礼日時:2014/07/16 00:30

宗教についてはよく判らないんで置いといて。


なんとなく、ぽやぽやと思ってる事ですが、

「考えて、いろいろ知って、更に考えて、自分なりの答えを探す」

のが哲学じゃないかなぁ?と。


ここで重要なのは、自分なりだから、時代や環境が変われば変わるよ。その自分がいる社会がどんなものかでも。

西洋哲学と東洋哲学が違う事で、哲学そのものを糾弾する人って滅多にいないと思う。時代と環境と社会が違うんだから。


自分内部で考えて、わしはこー思う。と言い合ってる。
それを聞いて更に考えて、わしはそれをこー思う。と続いてくのが哲学なのかな?


Aの意見とBの意見は違う。
でも、Bが生まれてからずっとAと全く同じ環境にいたらAの意見になって、AもずっとBと同じ環境で生きてたらBの意見になったんじゃないかなぁ、と思わなくもないんですよ、私。
意見がかみ合わないのは普通にある事で、その環境等を考慮しないと相手が言ってる事が判らんのも当然かなぁ…って。
昔は、同じコミュニティや、似た世界観の人同士で、哲学を話し合ってたけど、現代はいろんな環境や世界観の人がいて話してるから、現代は自分だけにあったものが多いと感じるのかな?と思いました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も全くあなた様と同じに考えています。

私が感じたことは
宗教は神とか、仏を説いているのです、これはどんな出鱈目を言っても、誰も反論も証明も、できないのです。
ですから、次から次へと如何わしい宗教ができるのです。

哲学においても、錯覚、勘違い、妄想、こういうものがはいる可能性がとても多いです、宗教ほどは他人の人生を左右しませんから、もっと軽い気持ちで哲学論を主張できるのではないでしょうか?

そこに大きな疑問を感じました。

お礼日時:2014/07/15 21:39

宗教は寄付金を集めるビジネス。


哲学は授業料を集めるビジネス。

似て非なるものですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 
宗教は 寄付金(これは殆ど強制)を集めるビジネス。
哲学は    授業料金     を集めるビジネス。

どう考えても同じに思えるんですが?

お礼日時:2014/07/15 21:27

宗教の教義は、本来は思想であり


思想は、哲学になると思います。
哲学は、明確にするためにあると個人的には考えています。

明確にするために手法や、明確にして考えてみたことに思想と言う名があり
哲学全体に明確にする(した)・明らかにする(した)ことが主眼となっていると
私には見えます。

そのために哲学は科学にも採用されているのではないでしょうか。


ただ、今の日本で宗教と言う言葉は一人歩きして
盲目的に信じる対象を持つものとしてのイメージがあるように思えます。

科学信奉や個人信奉や団体信奉が
熱心な信者を満足させるために存在しているような
そんな状況が時流としてなってきているように感じますね。

数学者が、一つの公式で一つの法則性を表すように
哲学者もまた、一つの論文や一つの本で一つの物事を深く
掘り下げて表してあるのかと思います。

一つの切り口で、全体をすべて表せるほど世の中の仕組みは単純ではなく
全体を表そうとすれば、細部の明確さは犠牲になると思います。

大見出し、小見出し、記事みたいに
何段階か踏んで、理解していかないと
人間の頭はついてこないのかもしれません。

学問の学びも、いきなり詳細をやらずに
小・中・高・大・院とだんだんと詳細になって行きます。
人間は徐々に高めていくしかないのかもと思う次第です。
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この回答へのお礼

回答ありがようございます。
例えば、キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
宗教が嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

哲学においても、個人個人自分の思想を主張して、間違えている可能性は無いのか?
もし、間違えていればどんなに高等なことを言っても価値は有りませんし、信じた誰かが被害をこうむります。

もちろん私の無知が原因の質問かもしれません。

お礼日時:2014/07/15 21:18

 こんにちは。



 宗教と哲学とは 同じ次元にありますよ。

 宗教は オシエですから。たとえ 信じなさいと言ったとしても それ(その発言)は ただの人間の思考や想像および感覚の世界のことです。

 つまり 《信じる》というのは 個人の内面におけるそれとしての行為ないし状態ですが それは オシエではありませんし オシエによってああだこうだとか どうせよこうせよとかと言われても 何の関係もありませんから。

 つまりわれわれ人間にとって 信じるを 他人がいかに強要したとしても 強制されることはありません。

 仮りにその強要に屈したとすれば そのオシエの押しつけに従っただけのことです。《信じる つまりは わが心なる非思考の庭――それは動態――》は 何の影響も受けません。受け得ません。

 その信じる対象は かたちあるものではないからです。神は 理念における概念としてのかたちすらありません。もし何らかの意味やイメージのある観念を神として信じるの対象にしているのならば それは 人間の想像によってつくった神でしかありません。観念の神であり その意味での偶像崇拝です。



 オシエは 信じるの対象にはなり得ません。想像の産物であり思考の対象です。つまり このオシエということがらを扱うぶんには 宗教と哲学とは同じ次元にあります。

 いまおこなっているように宗教とは何かを明らかにするかたちで オシエにも哲学はかかわります。

 オシエは信じるものではなく それにもかかわらず信じる(つまり 心に神として受け容れる)なら おのれの想像した神を信じ込むに過ぎない。偶像つまりアイドルを後生大事に胸にいだいている。

 すなわち もしこのことを知らず オシエを信じなさいと言い続けるのなら シュウキョウは 人間にとってよろしくない心的および社会的な現象である。というところまで 哲学は食い込みます。

 これは
 ★ しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。
 ☆ と分析なさったところですね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~
 宗教は、迷える子羊を救うこと。
 哲学は、迷える自分を救うこと。

 では、ないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ シュウキョウについては そのように看板をかかげているということでしょうね。イツハリの看板を。

 哲学は 《迷える自分をすくう》のは いかなるチカラであるか? これを明らかにする問い求めでしょうね。
 哲学だけで自分を救い得たならば それに越したことはないとは思います。もう言うことはありません。





 ★ 哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?
 ☆ 神とは何かについては 普遍なる共通の理解があると考えます。名前がさまざまに違っていても・あるいは有る神のほかに無い神を――想定として――立てていたとしても すべて神は 同じひとつなるナゾであると考えられます。そうでないというのは 神ではないことになるはずです。から。

 同じひとつの神を それぞれがいだきながら・あるいはそれに反抗をさまざまに企てながら・あるいはさらにそこから離反しえたと思い込みながら 人は生きているものと思われます。

 その一端は
 ★ 自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか?
 ☆ に現われているように思われます。




 ちょっとカッコウつけすぎたでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
せっかくですが、反論させてください。

>「信じる つまり わが心なる非思考の庭ーそれは動態ー」

宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、毎日、毎日、集会、会合、教義の勉強をさせて、単なる思考の感覚のオシエを、信じ、寄付と布教をし、挙句に他宗教と殺し合いしている、これは動態ですよね。
これは、オシエによって思考も、無思考の庭も全て影響を受けている、ということではないでしょうか?

わたしは、哲学をこれから学ぼうとする者ですので、理解不足かもしれませんが、ここが引っかかります。

>ちょっとカッコウをつけすぎたでしょうか?
いいえ、とても考えさせられ、勉強になります。

お礼日時:2014/07/15 22:28

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