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人間というものは罪深いものだと思います

子供の頃は虫やカエルを殺したり いじめをしたり

若い時代には恋の駆け引きで人を傷つけたりします

そして実際には今もアメリカがイラクやシリアを空爆しています

人間が殺戮を繰り返してきた存在だというご意見もありました

そのような罪はどうすれば許されるでしょうか?


私は病気で長文が読めないので 申し訳ありませんが要点を教えてください。

A 回答 (18件中1~10件)

>そのような罪はどうすれば許されるでしょうか?




罪は許されません。

善人なおもて往生する、いわんや悪人おや!
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この回答へのお礼

これは確かに、そういう気がしますねえ

罪深い者と自覚して一生懸命生きるとき

罪人ながら人生を受け止めて生きることが出来るのでしょうね

成る程どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/24 16:32

yuniko99様、こんばんは。




>「そのような罪はどうすれば許されるでしょうか?」

「本人にとって、(どんなに尽くしても)避けようの無かった事由(結果)については、
罪に問わ(れ)ない(「自由」)」
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追加です。


罪って責任の事ですよね。
責任って自己が原因出る場合の事ですよね。
そしてその自己がその行為を回避したり選択しないでいられることですよね。
そしてその自己はそれをする可能性と判断性があることですよね。
にも拘わらず罪なる行為をした場合、自己を完全に創造者に任せることにより創造者がその責任を償うのではないでしょうか。
つまり創造者の中に消えてしまう。創造者として自己を生きていく。
そういうことにより行為の端末者存在であった存在自己はいなくなる。
つまりいなくなることではないですか?
自殺ではなく。自殺は自己の終焉ではありませんからな。
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罪というのは貴方の頭の中の観念です。


よって許されるには「俺は許された!」と思い込めばいいわけです。
それだけですよ。
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>人を殺して罪深くなければ



>唐の昔に人類は滅んでいることでしょう。

それは変ですね。
同族を殺したり食べたりする生き物なんて世の中にいっぱいいますけど滅んでいませんよ。
ザリガニとかカマキリとかトラとかチンパンジーとか。他にもいっぱいいます。
同族を殺す彼らはなぜ滅びないのですか?
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なんで他者を殺したら罪深いのですか?


そういう風な性質を持って存在してるのだから別に罪ではないのでは?
カエルだってハエとかナメクジとかを自分の性質に従って食い殺しているではありませんか。
猫なんか飢えている訳でもないのに楽しそうに虫をなぶり殺しにしてますよね。
ビーバーが作ったダムのせいでどれほどの河川の生き物が死んだことでしょう。
でも野生の動物に罪はあるのでしょうか。
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この回答へのお礼

人を殺して罪深くなければ

唐の昔に人類は滅んでいることでしょう。

ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/24 19:54

なかなか罪が自分で許されません。


では何とかその罪をゆるされるような方法や仕方があるか。
それがありません。
許される罪と許されない罪。つらいですね。
そして自分が許されることになったら、どういう気持ちで生きていくのか。
どんな態度と構えで生きていかれるのか。
人間は決して許されない、善人なおもての木造さんや親鸞のことばが宿命なんでしょうか。
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#10の者です。



>その自己の社会生命性を拡張する事を妨害したり破壊
>したり、のような罪が許されていいのでしょうか?

一般に勘違いされがちですが、罪とは「犯してはいけない
もの」ではなく、犯して得るものと、その罰による損を比較
した上で、トータルで損が大きいから守るだけの話だ。
社会性を阻害する者は、社会性の利便から疎外される。
そのバランスを計算して、「人生を通算した充足量の、
より大きくなる方」を選べば良い。

ちなみに、人を殺す事は必ずしも罪にはならない(そう思う
ならば平和ボケだ)。
戦争などにおいては、殺す事で英雄になるし、逆に殺さな
い事が不名誉になる。
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この回答へのお礼

戦争であっても 人を殺すことは罪なのでは?

死刑は殺す以上の罪をその本人が犯したからです

平和ボケの方は戦争よりはいいのでは?

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/09/24 15:35

生きる目的は「人生を通算した精神的充足量の最大化」で


ある以上、本質的な価値基準は唯一「充足感にプラスか
マイナスか」だけである。
善悪や罪といったものは、人類において発達した組織化・
分業化し社会生命化する上で、そうした自己の生命の社会的
拡張を自覚化して自律的に社会行動をとる(愛による助け合い
としての労働)のではなく、お金や出世といった“馬車馬の
目の前のニンジン”により、自己チューな意識のまま他律的
に社会行動をとらせる方法をとったために、自覚的な行動に
おいて歪み(社会的必要との乖離)が発生し、そうしたアメ
(お金・出世)だけでなく、ムチ(法規・モラル)も必要と
なったのだ。

社会生命でなければ、自己の生存と充足のみが価値基準で
あり、罪など関係ない。
その社会生命性が国家の範囲であれば、国家間の戦争は強者
の選択であり、進化であり、罪でなどない。
「罪を許すかどうか」ではなく、自己の社会生命性をどこ
まで拡張するか、それをどこまで自覚化するかの問題だ。
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この回答へのお礼

罪など関係ないですか

その自己の社会生命性を拡張する事を妨害したり破壊したり

そのような罪が許されていいのでしょうか?

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/09/24 11:01

 はじめから ゆるされています。



 だって 自分のあやまちとその罪は 三日も経てば けろっとしているぢゃないですか。


 えっ? 一年も二年も いやいや死ぬ間際までその罪の意識を持ち続ける人もいるではないかですって?

 たぶんそれは 二通りあります。

 罪の意識を持っていると他人に分からせるためにそうする場合です。なぜ分からせようとするか? 世間受けがよいからです。

 もうひとつには それだけ人間がちいさいということです。


 言いかえると 罪の意識を持ったときには 自分がひとまわり大きくなって行こうとすれば よいことです。それによって 他人の同じようなあやまちに対して 寛く大きな心で捉えることができるようになります。それだけでも 万々歳です。


 既投のご回答とかさなっている部分については ごめんなさい。
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