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江戸時代、有能と言われた将軍は数えるほどで、多くの将軍は凡庸な能力しかなかったと思いますが、全般的に平和な時代だったと言われています。
例えば中国の皇帝であれば、皇帝に能力が無ければ国の乱れに直結しますから、平和な時代を築き上げればそれだけで名君と呼ばれていたはずです。だとしたら歴代の徳川将軍は稀に見る名君揃いだったとも言えるわけです。

将軍が無能でも平和を謳歌できた理由として考えられるのは、
①日本は大陸から離れた島国であり、外敵から襲われる機会も少なく、また国民も大方が平和を望んでおり、将軍に取って変わろうという者も少なかった。

②徳川将軍は権威を持つだけで実務は老中以下の臣下が行っており、第二の天皇化していた。そのため誰が行っても実際のところ問題がなかった。

③歴代の将軍のほとんどが世界的に見ればそれなりに有能だったが、家康や吉宗などの能力が飛び抜けていたため霞んで見えるだけ。海外の評判の悪い皇帝や王は苛政や殺戮を行ったが、徳川将軍の中には暴君として知られる者はいない。

理由として考えられるのはこの辺りだと思いますが、どうでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 外敵に隣接する大陸国家に比べたら侵略される機会は少なかったでしょう。多少危なかったのは離島のみで、本土は安全だったはずです。
    西欧諸国も日本を植民地化しようとしている国はなかったでしょう。オランダは通商していただけ、イギリスは自主的に撤退、アメリカも開国を求めただけです。
    まあ、多少の利権は狙っていたでしょうが。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/09 19:22
  • 官僚制度がしっかりしていれば誰が将軍になっても問題ないというのはすごいですね。他の国では考えられないことです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/10 21:01

A 回答 (3件)

反乱を起こしにくい道徳的支配体制と制度的支配体制が両輪と


なって存在していたことが最大の理由でしょう。

中国の場合、皇帝が有能か無能かに関係なく、天変地異、飢饉
などをきっかけに農民反乱、宗教反乱などが一旦起こると、
反乱が地方全体を巻き込んで大勢力となって、やがて国の存亡
に関わる危険性が常に存在していました。領土の広大さと統治
人口の多さは、それ自体が支配統治にとって障害となるのです。

更に中国では儒教が形骸化していたため、ヨーロッパのキリスト
教道徳のような精神道徳的支配というものが存在しておらず、
下層民にモラルの通用しない人たちが非常に多かっただけでなく、
臣下に寝首をかかれる危険が常に存在していたことが統治を更に
困難なものとしていました。地方官僚の汚職や地方将軍・武官の
謀反の危険などは、まさに中国の伝統です。従って、中国の場合、
皇帝に最も必要な能力は、危機管理能力と、臣下が信頼できるか
どうかを見抜く目でした。この二つを兼ね備えていれば、名君と
して君臨できたのです。

日本でも幕藩体制初期には、島原の乱に代表される反乱の危機
を迎えますし、慶安の変のような幕府転覆計画も起こりました。
しかし、日本の場合、中国と違って領土が広大ではなく、監視
の目が行き届くコンパクトな領土であったことから、この時期
に起こった事件を教訓として策定された浪人や農民一揆への対策、
諸藩への統制が非常にしっかりと根付き、行われ続けました。
また、モラル的には儒教的道徳観、武士道がしっかりと根付いて
いたために、赤穂浪士が人気となるような世情となります。こう
いう社会では反乱は心理的にも非常に起こしにくいものです。
ですから、一揆などを起こす場合でも、責任者、首謀者が分から
ないような唐傘連判状のようなものができるのです。つまり、
一揆を起こす側が自分たちの行動に後ろめたさを持つような社会
だったのです。これは世界的に見て異例なことでした。

幕末期に密貿易により薩摩・長州などが力を持つようになるまで、
つまり外国の影響が内政に及ぶまでは、この両輪の統治支配体制
がうまくいっていたので、将軍に特別な能力は不要だったのです。
官僚体制に関していえば日本も中国も似たようなものでした。
官僚体制がモラルで支えられているかどうかが大きな違いだった
のです。
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1:老中を筆頭に幕府の官僚組織がしっかりしていた。


2:参勤交替と生類憐みの令があったから。
  参勤交替は大名の財力を削ぐ目的でしたが、街道筋に、お金が落ちて、
  富の分散に、なりました、富が集中すると不平、不満が沸き上がり、
  国や組織の崩壊に繋がります。
  生類憐みの令は世界では奴隷制度が当たり前でした、その時代に置いて
  画期的な法律です。
  施行後、庶民への扱いが変わりました、例えば、行き倒れなどの死体は、
  匂いを発するまで放置され、渋々町方の役人が河原などの空き地に埋葬
  してましたが、火葬の前に死人の人相を書き残し、所持品は保管して、
  身元が判明出来る様にしてました。
  武士も庶民の前で刀を抜くと、厳しく咎められました。
  戦が無く平和で優しい江戸時代になった、大きな要因の一つになった、
  法律だと思ってます。

ついでに、五代将軍綱吉公の事を・・・
幕府の財政を破綻させたので、評価が低いですが、金の産出が底を尽くのを見通して
取った政策は、現在の貨幣制度に似た物でした。
紙幣など、当然の事ながら、受け入れられる筈がなく、幕府の財政が悪化しました。
400年、生まれるのが早かったのです。
  
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2の家来がしっかりと実務をしていた。

がダントツで一番でしょう。
第二の天皇化は、ちょっと言いすぎというより、その時期、天皇をはじめとする朝廷はかなり軽く見られていました。

1、蝦夷(北海道)や本土から離れた無人島はかなり危ない状況でした。

3、暴君とはニュアンスが違いますが、生類あわれみの令の綱吉さんのような困った将軍もいましたね。政治体制がしっかり確立していれば、トップに立つのは誰でもいい時代だったのでしょう。
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