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親鸞聖人の教えで、平生業成
(人生にはこれ1つなさねばならない目的がある。それは生きている現在完成できると)とのことですが、
私は目的がなんなのか今のところよくわからずにいます。

目的てそのうち見つかるものですか?
どのようにすれば見つけられるものなのでしょうか

A 回答 (11件中1~10件)

座する、あるいは時間流れるままに。


これではとうへんぼくの人間というものに良いものが訪れるのでしょうか。
そうしてみなさい。あなたがそれを体験するでしょう。
ハウツー、まにゅあるを求めて人が賢くなるのでしょうか。
そうしてみなさい。あなたがそれを体験するでしょう。
馬鹿はいつだって自分を慰めて後悔することはない。
分かっている者は私は失敗を体験したくないと思うものです。

高きから低きへ。堅きから安きへ。これが人というものです。
人は背伸びしなければなりません。
背伸びは実に全筋力を使うものですが、通念ではふくらはぎを使います。
ふくらはぎの筋肉を適切な"人の努力"であてがわなければなりません。
そうしなければ私は努力をしているという馬鹿になってしまうものです。
あなたは劣っているが人より劣っていると病むことはない。
実に多くの人が劣っている。
馬鹿にしたい気持ちでは述べていません。とりあえず覚えておきなさい。
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探してるあなた自身は、もう既に完成しています。

他のどこを探そうと、人生には自分しかいないでしょう。あなたと混同されいる全てが、あなた自身を外の世界へ求めるものです。灯台元暗しと言いますが、人に例えれば、灯台自体が自分です。どこも照らす必要がないんです。暗闇から探して当てた目的は、まずあなた自身から照らし出されたものです。自信なくして成し得る物事なし。
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おじさんです。


「目的てそのうち見つかるものですか?」
→人生の目的は立派なことを成し遂げることではなく、自然に静かに平凡に暮らすことだと思います。
つまり、小さな幸せです。
立派なことを成し遂げようと考える人は、自己顕示欲が強いのでしょう。
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この回答へのお礼

皆様沢山のご回答ありがとうございました。隅々まで読んで、参考にさせて頂きます。本当にありがとうございました

お礼日時:2015/07/24 21:58

平生業成。


これは「極端に走らずに天寿を全うするだけで目的とするに値する立派な業である」
ということだと思います。
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物質に「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。
要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
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その人が欲すること。

これ次第である。
聖書に書いてあるではないか。欲せよ。去れば与えられん。
人々は馬鹿の癖に、頭が良いと思っている
欲せよ。去れば与えられん。この言葉を聞いていももちんぷんかんぷんなのである。
知恵が無いから、知恵の言葉が分からない。現実というものはこういうものである。
いくら、私は賢いと思い込んでも賢くはならないのだ。
受け入れがたいのならば、思い込みで賢くなりたまえ。
人生をつぶしてもあなたの自由なのだ。
私はそんなことはしない。私の自由だ。
馬鹿は適切な努力を信じない。これが私を良い方向に磨くという知恵が無い。
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仏教については誤解されている部分も多く、調べたことがあります。



平成業成についても少し知らべてみました。

そう思った経緯を少し。

「人生や人の在り方」というのは、大変人気のあるテーマです。

色んな人が自分の経験により、色んなものを説明しています。

例えば、宗教、例えば教育、例えば自己啓発研修。

これらの元になっている学問があったり、はたまた有名人の格言であったり。

これを解釈して伝えるオッサンがいたり。

これに反発して異を唱える若者がいたり。

自分の日常の幸福から、オウギョウに構えるなと言うオバチャンがいたり。

まさに混沌としています。


そして、こういったことがずっと続いていたんじゃないかと思うのです。

これだけ悩んでいる人が多く、真理と呼ぶような答えが出ていないならば?

真理などなく答えが無いのではないか?

と考えてしまう人もいます。

「人それぞれで答えなど無い」


しかし、これですと投げ出しすぎています。

一定の年齢になりますと、

「あれ、あの人とあの人が同じ事を言っている?」

「ともに立派に見えるし。何か共通するノウハウがあるのかな?」

とか自然に気がつき始めます。


もし本当に真理が存在してて、活用している人が他にいた場合、

無いと信じて生きてしまった自分が間抜けですよね。

今生はやっちゃいました・・・来世にかけます、となります。

ですので、真理があるかどうかは置いておいて、あるとして興味を持続し、

普段から考え続けるほうが安全と思うのです。



多くの立派に見える人が同じ事を言っているように感じられる。

さらに、少し大人になって、自分が立派に成ったと自覚したアタリから、

彼らが同じ事を言っていっていると分かり始める。

これを感じてしまったら、

「人それぞれであり、真理など無い」

としてしまうのは、かえって怖いですね。


そこでパラダイムシフト(発想転換)をします。



「相当大昔に既出であるのに、解釈する人が理解できず、

 誤解釈して伝えているのではないか?」



答えが出ている場合は大変危険です。

出ていない場合は、偶然で見つかる可能性があります。

しかし、出ていて、なおかつ、これが信じられず避け続けてしまうと、

永遠に答えが出ませんよね。

私たちが信望する科学と技術。これの発展した時代。

これらが後退せずに進化してきたのは、

「伝えるものが誤解釈をすると、人類すべてが答えを永遠に得られない」

という危険を知っていたからです。



そこで歴史を調べるわけです。

なるほどと思いました。

仏教の場合は、伝承する内容の改変時期が3回ほどあり、お釈迦様(釈尊)

本来の教えが、インド国内の運営方針で改変されているようです。

これが時期を変えて日本に到達するので、混乱が生じています。

もっとも最初の原典に近いものが、日本の禅が伝える仏教です。

大日如来が登場しているあたりが、中期の仏教。

神話がないと大衆が魅力を感じないという運営側の方針から、

後付でつくられたものだそうです。

日本の伝奇小説で採用されるのがこの中期の仏教ですね。

セックスで悟りが開けると言い出し始めたのが後期の仏教。密教のあたり。



では本来の仏教はどういう性質か?

お釈迦様が説いた、因縁果報や其の他の説法から類推します。

「今の人生で悩みが多いのは、物事の捉え方が現実と違うからだよ。

 我がままを言わずに、目の前のことを良く調べ、法則を見つけて対応するほうがいい。

 それ以前に比べて大分マシに成るし、悩みと言うものも消える。

 そうして生きるのが一番苦しくないよ。

 ただ人の脳の構造には限界があって、目や耳から見たモノを、過去の見たもの

 で代替してしまう習慣があるようだ。

 本当にそこに起きている事じゃないのは仕方が無い。

 しかし、わからないからと言って、何も存在しない、自由にやってよいとしてはいけない。

 さきほどの悩みの原因が消えないからだね。

 私たちには見えていない法則があり、いまは観測できなくても、

 そこにその発端となる因子が内在しており、定められた作用を加えると、

 定められた事象が生じるようになっている。

 これを知らずにいるのと、活用するのとでは結果が違うだろう?

 他の人と同じ結果を得られて、

 それが満足であれば、悩みの殆どが消えるのではないかな?

 まずはそこから始めなさい。

 そして、これらを自分で理解せずに、人からの報告で代用してはいけない。

 目に見えない法則は同じでも、結果を見て人が感じるモノは様々だよね?

 なので報告する内容は様々なんだ。

 これは実は自分では活用できない別の人の感想なんだよ。

 私たちは現象に名前をつけて、何かを知ったように感じる。

 しかしそれは法則の理解と活用という知恵ではなく、知識なのだよ。

 単なる感想を綴ったタイトルでしかない。

 法則の素が単純でも、これを指した言葉が沢山生まれてしまう。

 人と言うのは、自分でやるよりも、人の結果を活用したほうが効率が良いと

 錯覚するものだから、この誘惑に負けて知識を得ようとする。

 ところが、たくさんの言葉が生まれているので、

 知ろうとすればするほど、人の感想ばかりを手にいれることになる。

 これでは時間が掛かりすぎて、悩みが余計に増えてしまうよね。

 最初から、素であった法則というものを、自ら知り活用しようとしたほうが、

 数が少ないし、時間としては短いと思うよ。

 これならば、今生きている間にその成果と喜びを感じることが出来る。

 余った時間こそは、いまあるそこにあるものを、

 見て、聞いて、楽しみなさい。

 子供の頃にもっていた感覚で味わって楽しみなさい。」


という内容でしょうか。

これを因縁果報という4文字で表現しています。

お釈迦様は、法則が間違って伝承されることを恐れていたと想像できます。

相手に合わせて例えばなしを沢山活用したそうです。



さて、ご質問の”平生業成”ですが、こうした釈尊の考えを踏襲しているはずです。


察するに、

時代的な背景として、来世を前提にした神話的な話が伝わってしまったのでは?

因縁果法(科学や文科系の学問ですよ、つまり)への興味が大衆から薄れて、

しまっていたと想像できます。

これでは仏教ではなくなってしまいます。

禅としての思想と、中期仏教の思想を融合させ、矛盾を回避し、

「今を大切にして生きよ」

と伝えたくて、更に再解釈を続けたようです。



合理的に考えれば、

神話的な要素であるものは、社会における事例の置き換え、例えでしょう。

生きている間の悩みをとって、許される制約の中で最大限に楽しみなさい。

これが仏教の教えですから。

許される制約は、因縁果の関係から知り、活用できる範囲を理想としています。

報(他人の報告。権威ある言い伝え)に踊らされて、

想像で悩みを生じさせて、苦しまないようにと注意しています。

活用でできない情報で混乱すると、短い人生がさらに短く感じるからです。



平成業成は、

「来世を歌わずに、今ある人の悩みを解決するように、自分の宗派は教えます。」

という宣言と感じます。


そうしないと、自爆テロみたいなのが出てきちゃいますからね。


お釈迦様が最後に、悩める人に教えた内容は、

仏法僧を大事にしなさいということらしいです。

仏について理解しようとすすめると、色々と難しいのですが、

過去のインドの数学の進展や物理現象への考察をとらえますと、

知的水準が現在に近く、神秘を唱えていたとは思えません。


どうも、仏とは素粒子からなる宇宙の実態であり、法とは大統一理論から派生する、

様々な科学現象と、これから生じる技術、そこから変化する社会や国への影響、

僧とは、こららを研究して伝える者や(仏教を伝える人も同一視)であり、

これらの方々は正直であるし、確かなことを伝えてくるので、

アテに出来る。頼りにしても悩みが増えない。

と教えていたのじゃないかと、思えてしまいます。

国の為政者は、国家的に科学者を擁護しています。

そうしない為政者もいますが、それで発展していると思えません。

そうした国の国民は悩みが多いんじゃないでしょうか。


そして、最後に私が思うこと。

現代人の悩みは何か?

私たちの生活空間を取り巻く色んな便利なもの。

ご先祖様が想像もできなかったもので溢れています。

過去に遡って、自慢をすることが出来たとします。

「わたしたちは、ここまできました。」

「いいなあ。」

そしてこういわれるでしょう。

「どうやって作るんだ?」

こう問われたとき、答えられますでしょうか?

もし、

「私の人生では、これだけですけど、一つだけなら教えれます。」

というものがあれば良いですよね。

今の時代に生きている現代人として誇りがもてます。

もし現代に生きていても、

「自分は、原始時代の人と変わらない」

と感じていたら、悩みが消えないんじゃないでしょうか?


誰かが作ったものを便利に使う人生で、終わって良いのでしょうか?

冒頭述べましたよね。

答えが出ているのに、避けてしまったら永遠に手に入らない。

自分には無理だと諦めた分野が答えでしたら、答えが見つかりませんよね。

平成業成。

ご参考になりましたでしょうか?
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自分を理解したら分かると思います。


釈迦が、最後に残した教えと同じ意味ではないかと思えます。

誰でも、自分の答えは自分の中に持っていますから。
だから親鸞聖人も釈迦もカントも、まず自分を明確にし
理解し、対応していくことで得るものが有るので必要性を説いた。

伝わっているかは、別ですけどね。

無知の知を常に自覚し、自身と向き合い 事と向き合い
日々を丁寧に生きる事で、目的は自ずと見えてくると思います。

見えてきた時は、独り善がりの目的では無く
正統性の有る形になっているでしょうから
懸命に生きながら打ち込む所が、行動を伴っていれば
大丈夫だと思います。

やりたい事に打ち込めばいいって感じだと思います。
響くものに当たる事が出てきますよ。
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「私は目的がなんなのか今のところよくわからずにいます」


→朝起きて、寝るまでの間に楽しいことが少しありますね。
人生というのは、そういう一日を何千回も繰り返していることです。
「目的てそのうち見つかるものですか?」
→その日、その日が目的そのものです。
他には何もありませんね。
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世の中は同じ法則に基づいて出来ています。

人間に言わせれば「真理」というやつですが

兎に角前向きに頑張ってれば何か光るものが見えると思います。それに向かって頑張ってると 目標らしきものが見えるような気がします。しかし目的にたどり着くのはなかなか大変で 何が何だか分からなくなるかもしれません。世界は結構紛らわしく出来ているからです。

もがけばもがく程目的が何なのか分からなくなるかもしれません。しかし長くやってると見えてくるものがあります

天才は早く見えすぎて 見えたつもりで失望して自殺したりしますが。

答えを教えますと 目的は存在する事です。何が存在することか それは人によって違うでしょう。それが本当の価値観の多様化です。

貴方が本当に存在して貰いたいものが存在する事。これが目的です。^^
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