A 回答 (11件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
補足を受けて。
禅定に至った人、心の動揺や乱れを根本から治めるに至った人は即ち仏ですから、補足によると、この質問には覚った人しか答えられないという事になる。
また覚りは不退転のものであるから、瞑想によって一時的に入定出来たとしても、日常においても禅定が保たれていないのであるなら、それは覚りではないという事になる。静けさの境地に出たり入ったりするのは、覚りとは言えない。覚りは常に静かであるからです。
私も個人的には空住に至ったことはあるが、無住に至ったことはない。無住なる心の発露が菩提心であり、空住はそれを擬似的に体験したものに過ぎない。
あらゆる宇宙時期を知り抜いているのが如来であると言われているが、その事から、仏が宇宙真理云々であるような気がしてしまうのは、仕方のない事のようにも思われる。幾ら衆生が想像を巡らしても、仏の真実を理解することはできないでしょう。年端もいかぬ子どもが幾ら大人の世界について思い巡らしても、それのわずかの部分さえ知ることができないように。
しかし、子どもはいつか大人になるものだし、衆生もまた、覚りの流れの中にあると言われるのだから、覚れば事の真相も明らかになる。
ここで、質問に答えるために、敢えて私の瞑想体験から仏とは何かについて言うならば、それは純粋であったり、或いは清浄であったり、自由であったり、平らかであったり、静けさであったり、明るさであったりと、これらの様な形容が出来るものです。
しかしここで注意せねばならぬのは、六祖壇経にもある様に、清浄と言うものを押し立てる故にかえってその清浄と言うものに囚われてしまうのでは、それは清浄ではないということなのであり、空住によって覚りの境地を語ると、どうしても不全感が残るものとならざるを得ません。
そこには、功徳とか、徳とか、悲しみとか、苦とか言った仏道における重要な要素を語る余地が無いのです。一切の苦からの解脱とは解決を意味するのであって、それらを単純に空じる事ではないのです。ここら辺のことについては維摩経の中で、病める菩薩の在り方において、維摩と文殊による問答の中に説かれています。
出世間とは、衆生じみた世間を脱しているという事であり、例えば人が思春期において子供時代を卒業するような事です。
衆生じみた世間とは、喜怒哀楽や好悪、生老病死に溢れた世間と言っても良いでしょう。一方出世間の境地とは、静けさと安らぎ、また明らかな智慧のあることです。世間と出世間では、この様に雲泥以上に差異のあるものです。仏の世界は、人の言葉では中々表し難いものなのではないでしょうか。
<幾ら衆生が想像を巡らしても、仏の真実を理解することはできないでしょう・・・・・衆生もまた、覚りの流れの中にあると言われるのだから、覚れば事の真相も明らかになる。
世間と出世間では、この様に雲泥以上に差異のある・・・仏の世界は、人の言葉では中々表し難いものなのではないでしょうか。>
以上確かにそうとしか、表現_説明、言葉では言いようもないのかも知れず毎度、私のどこかやはりはっきり捉えがたい、当然いわゆる「悟り・覚醒」に達していない限界だろうから来る不可思議、不可解、不快な心情なのでしょうが、こうして真摯に色々と丁寧なお話をしていただきありがとうございます。
とは申せだから、やはり、「仏とは何か、仏性があるとは」についての不思議、懐疑は、未だ見つかる、或いは、未だ会得出来るはずもない、ということの様に思いますし、
まあそれでも同時に、やはり「仏の様な想い」にはありたい、とは常々想ってそれなりのつもりでやってる、のではありますが。。。
ともあれ、仏の教えを学べば学ぶほど、所詮、「不安」も「怒り」も、そして「苦しみ」や「喜怒哀楽」自体が、人の、感覚・感情・思念・意思・意志・意欲という、生体「反応」なる自己<妄想>でもあったという<気づき>は、感じます。
まあ、仏とか、仏性、空、とかの概念すらも含め、できるだけ囚われすぎて反応する事なき様、過ごして生きようかとは改めて思っております。
ふと日頃感じた<仏の世界>がやはり衆生では捉える事のできない不満というか<囚われ>である、私の我儘傲慢なつぶやきに、こうして多くの方々のご配慮あった事が一番の、「仏」を感じれた事も間違いなく、皆様には心より、私の失礼へのお詫びと皆様のご好意への感謝を最後記させていただきます。
No.10
- 回答日時:
仏というのは、やさしさの究極の相であると聞いたことがあります。
しかし、そのやさしさは、衆生(人々)に見られる情愛や博愛のことではありません。それら人智を超えたもの故に衆生(人々)にはそれが理解できない。人がそのような本当のやさしさに触れる機会を得たならば、人は発心するか解脱すると言われます。
縛るのが上手い人は縄を使わずに縛るので、誰も解くことが出来ない。
隠すのが上手い人は全てを明らかにするので、誰も見つけることが出来ない。
しかしながら、そんな情の縛目を解き解し、本当の真実を見出すならば、きっとその人は目覚めるのでしょう。
上手くやろうとするのではなく、直き心で接するゆえに期せずしてそれを知ることになる、と。
No.9
- 回答日時:
「私は高貴な生まれであり、有力者であり、支配者である。
」創価学会員は、このように思っているだろう。
一党独裁なら・・・、
「治安維持法」を復活させ、他宗教者を「思想犯」として弾圧し、投獄することが出来るのかもしれない。
「文化大革命」を起こし、他宗教の仏像などを破壊することが出来るのかもしれない。
「キリシタン狩り」をすることが出来るのかもしれない。
「革命」とは、そういうことを意味しているのかもしれない。
創価学会の集会や会合では、「軍歌」と雰囲気のよく似た「学会歌」を合唱します。
「威風堂々の歌」の歌詞では、
「濁悪の此の世」
「学会の 行く手を阻むは 何奴なるぞ」
「折伏の 行軍進めば 血は湧き上がる」
「北山南河(京都のこと)は 邪宗の都」
と歌っており、
つまり、他宗教者は「邪悪」「邪宗教」「敵」なのです。
いや、他宗教者だけではなく、非学会員はすべて「悪」「邪宗教」「敵」なのでしょう。
(「創価学会公式サイト」の「学会歌」のページや、youtubeで、聴くことができます。)
中国政府は「中国軍が帝国主義からチベットを守る」というウソの大義名分で、チベットを侵略し、
さらには、チベット仏教の根絶をもくろんでおり、「拷問」を行っている。
創価学会員は「創価学会が邪宗教から日本を救う」と言っており・・・、
そして、「脱会者は自殺に追い込め」との、「拷問」的な発言をしているらしい・・・。
もしかすると、「尖閣諸島問題」のような領土問題に似ているのかもしれない。
中国はおそらく、「大勝利」しか考えていないだろう。
「他宗教者(または非学会員)の不幸は蜜の味」と思っているのかもしれない。
「バレなければ悪事にはならない」と考えている可能性が有る。
「威風堂々の歌」(歌詞つき)は、こちらで聴けます。
「軍歌」にしか聞こえません。
また、聖教新聞には「野たれ死ぬまで攻め抜け」との発言も見られます。
No.8
- 回答日時:
#7関連で。
仏性とは創造的営みに宿るのか、既知の物を勉強すれば宿るのか、という問題の関連で、#7の説明についての感想を書かせてもらいます。
かつても創価学会の教義とも呼ぶべきものを伺ったことがあるのですが、ここの説明も本質的に同じでした。多分、ks5510さんの説明が創価学会の公式な見解と考えて良いようです。
そのことから見えてくる創価学会員として生き残れる方の特徴は、
1)懐疑を思索の中心に据えて居られない。
2)先人たちの教えと自分独自の経験した事柄を契機にして思索を深め、自分独自の世界なり宇宙を自分自身の中に再構築しようという発想がない。
3)先人ないし現在の指導者は真理なり正しいものを既に完成させている。一人ひとりが出来ることはそれを勉強し理解し実践することであり、世界や思索に対して一人ひとりが今まで誰も思いもつかなかった全く新しい側面を見出す創造的な営みに参加することではない。
ある意味、この特徴はマルクス主義の信奉者に親和する特徴と見ました。改めてマルクス主義も一種の宗教なんだなぁと思わされました。
ところで、上記1)2)3)の世界では、新しい世界を見つけ出すのではなく、既知のものを効率良く、微に入り細に渡って徹底的に勉強したものが評価されます。これは官僚に託された特徴的能力であり、受験型の能力とも言えます。多分、このことと創価学会政治部出身者の多い公明党の幹部に東大出が多いことが無関係ではないように思えました。
ところで、官僚が一々新しいことを創造しそれに基づいて行動されたら、世の中が大混乱してしまいます。ですから先人たちは三権分立という知恵を出し、創造的営みを国会を構成する政治家にまかせ、行政を司る官僚と分離したのですね。そんなことから、公明党の政治家さんたちって、本来なら官僚になるべき人たちだったのかな、ってな感想も持ちました。
No.7
- 回答日時:
創価学会 壮年部の者です。
『仏』と言っても、何か遠くにあるものだとか、現実世界を超越してあるものでもなく、何かおとぎ話の世界の中に登場するようなものではない。
基本的には質問者様仰るように、『仏性の開き』という事です。
さて、この『仏性』ですが、どこにあるかと言えば私達一人一人の生命(念心)の中に存在します。
ですが、人間の生命(念心)の中にあっても、人間の生命(念心)は何かの縁に触れて瞬間瞬間に変化していくものなのです。
その『生命(念心)状態』を説きあらわしたものに中国天台宗の開祖:天台大師の『一念三千法門』というものがあります。
一念三千法門は瞬間の人間生命の状態を三千に建て分けたもので、ここでその三千を説明するとたいへんなので、そのペースとなる『十界』についてお話します。
【十界】
・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。⇒以上、四悪種
・人界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天界・・・喜びの境涯。
⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁楽界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。⇒声聞、縁楽二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。
これら十種の境涯が、一つも欠ける事なく一念に具わり、瞬間瞬間に現れてくるのです。
この十界の一番最高位の境涯に『仏界』があるのです。先にも書きましたが、どのような人間にもこの十種の境涯は等しく具わっているのです。
仏教では、この生命(念心)の事を正法、心法とも言います。
そしてこの生命(念心)の状態は、私達人間の意識や言葉や表情、態度、体の動きなどを通して心の中だけではなく外にも現れてきます。さらには、置かれている社会環境や自然環境などにも影響してくるものなのです。以上の境涯を良く意識して見ると、その生命状態の現れも見えてくるというものなのです。ただ先にも書きましたように、何かの縁に触れ瞬時に変化していきますので一つだけの状態を長くキープするといったものではありません。
そしてこの生命状態が肉体(色法や依法)や地域社会、環境(依法)に影響し関係してくる事を『依正不二』と言います。
さて、『仏』の生命と一言で言いますが、一言でいえば『真理を悟り全てを備えた最高の人格者』の境涯と言えるでしょう。
そうした全てを備えた『仏』ですが、実は仏にも悩みというものはあるのです。それは、『妙法蓮華経 如来寿量品第十六』の最後にあるのですが、『毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛心』といって“いかにして 衆生らを 仏の道に 導いたら良いか”という悩みです。そして、釈迦滅後末法において仏に成る『法』を上行菩薩に託し、流布する事を命ぜられたのです。
末法の衆生は、この『法』に縁することで自身の生命の中から、仏界を引き出す事が出来るのです。
No.6
- 回答日時:
古代インドにおいて先覚者が死後知ある者にになっている。
これを仏陀や霊視が効く僧が見たのです。
以前生きていた者、これが仏です。
仏陀は死後に仏ではなく、生きている間に仏になることができると、
立証する責を負ったのです。
また、仏陀の仏は本物です。何が本物かは馬鹿にはわからない。
仏は、絶対真理に到達するものではありません。
本物の仏陀さえも分かりません。
No.5
- 回答日時:
辞書によると、‘弗‘には動作や状態を否定する意味があるということです。
それに人偏がついているということは
通常の人間の状態ではない状態になっているということで、
例えば真理に類することを目から鱗が取れるように腑に落ちる形で理解した状態なども
日常を外れた体感としてその範疇に入るんだと思います。
No.4
- 回答日時:
「仏になる」は「ブツになる」とは読まない。
「ホトケになる」と読みますね。だから、ここの仏は佛教の伝わる以前からあった日本語のホトケを表している。柳田國男の分析で、ホトケとは、もとホトキの意味で、ご飯を盛る容器のことです。そして、佛教伝来以前から、日本では死人の枕元にご飯を盛ったホトキを置く習慣があった。だから、「ホトケになる」は、もともと「亡くなった」を意味しています。また、乞食はしばしばホトキを持って訪れた。だから、今でも乞食をホトキとかホトイさんと呼ぶ地方もあるそうです。
日本の昔の村では、しばしば知恵遅れの人を村全体で面倒をみて育てていたそうです。彼等にも重要な役割があって。村で利害関係が絡んだ重要な決定に関してもめたときに、最終的に知恵遅の人に決めてもらったそうです。知恵遅に人なら、悪知恵を使った回答を出さず、公正な回答が出せると考えていたからです。たまたま知恵遅の人がいなかった場合には四歳児に決定させたりもしていた。日本人は、知恵遅れの人や幼児には純粋な神の心が宿り、神の意志が実現できると考えていたからです。日本には昔から弱者に対する社会保障の制度があったのですね。
また、鎌倉時代貞永式目などの条項を13人の評議委員で決めるにあたって意見が分かれたときには多数決で決めていた。当時の人は、多数決をとることで神の意志が反映すると考えていたらしいのです。
以上から、「仏になる」に対する日本人の理解は、佛教などの異国風の文化による理解ではなく、ホトケを、死人や乞食や知恵遅れや幼児など、日本の神々の意志を純粋に表現できる者のようになったという深層の感覚を表しているのではないでしょうか。
No.3
- 回答日時:
業、の重さ故に、もがけばもがくほど落ちて行く、地獄への坂道。
そんな坂道を苦もなく横切ってゆく、目覚めた人、ブッダ、に一人の亡者が、「私は運が悪かった。もっと早くあなたに出会っていたなら。こんな事にはならなかった。」と言った。ブッダが「そなたは、本当に仏(ブッ :導くもの)に出会った事がないのか」と問うと、亡者は「ただの一度もなかった」と言います。「そなたは、怪我や病に苦しむ者、そして死んでゆく者、またそなたを苦しめること、などに、出会う事もなかったのか」とのブッダ、の問いに、男は「そんな事なら幾らでもあった」と答えます。
すると、ブッダは「それが、仏、だったのだ。そなたは何故その時、自分も同じ在り方である事を悟らなかったのだ」 と言った。
神ではなく、仏、(悟りに導くもの)を奉じ、求める事を指針とせよ。が釈迦の哲学、ブッ、デイズム(佛教)なのです。質問者さんが、言っている、仏、は、佛教を吸収した。ヒンズ-教の源祖神の6番目か9番目かの転身(生まれ変わり)となっている。蓮の台座に座った、神様、仏様、のことです。
No.2
- 回答日時:
チャチャを入れるような投稿内容になるかも分かりませんが。
:★ 絶対普遍な存在
☆ については
★ 疑問
☆ は通用しません。いくら考えても埒が開きません。
《絶対》とは そういうものとしてわれわれが想定しているのですから。
《永遠》と言ったって 誰もそれを生きたというひとは一人もいません。
ですが この言葉を持っていますし 結構しょっちゅう使っています。
《仏》もそのようなものだと思いますよ。
★ 仏になる
☆ というのは 死んだら神さんの仲間入りといったような通念と関係
しているかと思うんですが 問題は 《絶対普遍》へのあこがれのよう
なものが 現実となるという事態をも織り込んでおきたいという思いに
あるのだと考えます。
(ダメだとも言えないでしょうね。信仰の問題だとすれば)。
★ 仏性などの、仏の種がある
☆ ですから これも あこがれや夢の実現可能性をやはり織り込んだ
内容なのだと思われます。生まれつきその可能性はそなわっているのだ
と言っています。
《永遠》という言葉を使いこなしているかぎりでは このような《仏や
神》とそれについての《神学》は――心の内面にとどまる信仰に関する
かぎりで―― あり なのだと思います。
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できれば、今の世界(ローカ)での考えた自分の思い、思念、思考、答え或い人の説法や話ではなく、出世間というか、戒定慧の三学の、「定」(禅定、サマディ、concentration)の修習や、気づき(サティ)の瞑想による入定体験のある方の、正直な、感じられた仏や仏性についてのお話が聞きたいのですが。。。