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自殺することは悪いことですか?
また、自殺と他殺の相違点は何ですか?

せっかくの命を無駄にしてはいけない、などの意見をよく耳にしますが、誰にも迷惑をかけずに死ぬのなら、個人の自由な気もしますし、、

わたしの意見は、「悪とは言えない」です。

例えば、この世を1つの学校だとして、
入学=誕生 卒業=80歳まで生きて死ぬ
いじめで不登校=他殺 自主退学=自殺
転校=火星へ移住(冗談です!)

などと定義して妄想してたのですが、
自主退学することを、いけないことだ、とは誰も言えないと思います。「いってしまったな」と、残された人達全体が、さみしい気持ちになったりするのは確かですが、
本人が、学校の外に何かを見出してやめていくことや、学校が嫌いだから行かないことは、本人の自由な気がします。

わかりづらい例えですみません。。わたしのなかの、自殺のイメージです。

こんな感じで、みなさんの自殺に対するイメージとか、ご意見などを聞きたいです。どうぞよろしくお願いします!

※ちなみに、私が自殺願望があるとかでは全くありません。

A 回答 (16件中1~10件)

ふたたびこんばんは。



回答とは言えない意見を述べさせてください。聞き流してください(苦笑)

「自殺」は「悪いこと」であるか?という設問の立て方よりも、「自殺」についての個々の考えを問うた方が、より広い意見を聞くことが出来ると思います。というのも、既に古代から、自分の意志による「自死」というものは存在しているのですから、人間存在と自死とは不可分のものと言っていいはずです。であるならば、「悪」とか「善」といった「価値判断」は後に何らかの理由で事後的に付けられたものでしかありません。

また先にも書きましたが、「自殺」という「緊急避難」の場があるという意識が人を救っているという事実があり、「いつでも死ねるのだ」という「自由の意識」が「生かしている」というパラドクスが存在する以上、自殺を悪であると断ずることは誤りでしょう。

「自殺」というのは、この一回限りの自己の存在を永遠に放擲してしまうという判断ですから、何故人はそのような判断をするのか?どのような時にそのような思いに立ち至るのか?という、自殺者の内面を推し量ることなしに、「公共の迷惑」であるかないかという、「自殺」の本質から外れた議論は無意味だと思います。

極端なことを言えば、その人がこれまで生きてきたために使われた人の労力・時間、或いは自殺で蒙った様々な損害・被害をすべて金額に換算して、その分を充分な補償金として支払えば何の問題もない。という結果が生まれそうです。しかしそれでは「自死」の問題をすべて「ぜにかね」というような、世俗的な価値に還元・回収して事足れりとしてしまうことになる。

哲学であれば、何故人は自ら死を選ぶのかを考えなければならないし、身近な人の死であれば、その死を悼みつつ、何故彼は、彼女は、死を選んだのかをそれぞれの胸の内で、われもまた、病むこと、悩むこと、貧すること、窮することを避け得ない、自死し得る存在として深く身に引き受けること、を思うべきではないのかと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。おっしゃるとおりですね。哲学ならば、なぜ人は自ら死を選ぶのか。という設問をたてるべきでした。究極の問いなので、倫理的に問うてみたほうが回答者も答えやすいし矛盾がみつけやすいかな?と思ってこういう設問をたてました。しかし、思った以上に鋭いご指摘、ご意見が多く、勉強になりました。自死の自由の意識が生かしているというパラドクスがある以上、倫理学では自殺について議論する余地はないということになるのですかね?


本題に戻って、なぜ人間は死を選べるのでしょうね。生は選べないのに、死は選べる、というのは不思議です。
自死の自由をもっているというのは、いま生きている人間は、自死を選んでいないということを選んでいる状態ということですね。
死や自殺の概念を理解するのっていつごろなのでしょうね?自分は、2歳の頃に身内の死があったとき、まわりが泣いているのが不思議だった記憶がありますが、、。
誕生は選べないけれど、誕生したあと、自我が芽生え、死を理解したときから、私たちは生きることを選んでいる状態になる。死を理解したときこそ、人間としての覚醒前であり、試練のはじまりであり、人間としての自由を手にする瞬間なのかな。

それ以前は、生まれることも、死ぬことものぞんでいない、覚醒前の、宙吊りの状態にあるのかもしれませんね。

お礼日時:2016/06/16 14:50

そもそも自分の体を殺していい権利などないが、「自殺はいけない」というより「自殺という手段はいけない」というのが正しいのだろう。


自殺は目的ではなく手段だから。

何か問題が発生したときそれを解決するにはtrial and error(試行錯誤)が基本だ。
色々なことを試しながらようやく何かしらの成果ににたどり着くのが通常のやり方。
この世界は正解の数より間違いの数の方が圧倒的に多いのだからこれは仕方がない。

すると、問題解決のための手段として自殺は良い方法と言えるだろうか。
体が死んでしまえば人は何もできなくなるのは自明である。
自殺という手法を使うと次が続かない。
つまり試行錯誤ができない。
故に問題解決の手法として自殺は悪手と言える。

もとより当人は問題解決を諦めたから自殺を選択するのだろう。
故に自殺は、問題に対する姿勢と手法とが非難されるのだ。
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こんにちは。

お礼をありがとうございます。

>倫理学では自殺について議論する余地はないということになるのですかね?

そうではないと思います。善・悪という議論もあっていいと思いますが、「公共の迷惑」ということでは、そもそも「倫理学」ですらないのでは、という疑問があります。

自殺を否定する意見には「自殺を保留しておくことによって生きてゆける」という視点が欠けているように思います。

「一切れのパン」というお話をご存知ですか?
第二次大戦中、脱走したユダヤ人が、ある人から「一切れのパン」が入っているという小さなハンカチの包みをもらった。逃亡の路は険しく、飢えに苛まれたが、逃げる途中、このパンをくれたひとが、「どうしてもそれを食べなければ生きてゆけないというところまで食べてはいけない。」と言われたことを思い出して、まだ開けまい、もう少しがんばろう、と、最後にようやく故郷の街にたどり着きます。やっと自分の家に帰り安心した男は、もらったハンカチの包みを開いてみると、そこには一片の木片が入っていました。

これは「今少ないけれども手の中に食べ物がある」という気持ちが彼を勇気づけ、故郷に帰る力を与えたのだと思います。

永遠に行使されないかもしれない「自由」「死を選ぶ」という自由はこの「一切れのパン」のようなものではないかと思います。


>自死の自由をもっているというのは、いま生きている人間は、自死を選んでいないということを選んでいる状態ということですね。

そう思います。日々、生きることを選んでいるのだと。

思い出したエピソードがあります。キャロリン・G・ハイルブランという女性作家の本の中のこんな文章です。

『19世紀の女の運命に幽閉されていた、アリス・ジェイムスの有名なエピソードを紹介しよう。
 
 まだ若いころ、彼女は父に自殺の許可を求めた。賢明な父はそれを許した。

 その後彼女は生を選んだ。

 ・・・自分自身に同じことを許したわたしも、やはり、暫くは、生を選ぶ...』

 アリスの父とは作家ヘンリ・ジェイムスです。とても印象に残っているエピソードです。  


>私たちは生きることを選んでいる状態になる。死を理解したときこそ、人間としての覚醒前であり、試練のはじまりであり、人間としての自由を手にする瞬間なのかな。

そう思います。「死」という自由からの「生」の選択です。とはいいながら、わたしもふくめ、人は日々、惰性でいきているのが現実なのでしょうけれど、それから目覚めさせるのが、「病」であり「老い」であり「苦しみ」であり「貧窮」などであるのでしょう。
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追記



これは全く「反論」の意図はなく、No.10さんの意見に対する個人的な「感想」ですが、

わたしがこれまで生きてきた間にわたしの周囲で、わたしを有形無形に支えてくれた人の「おもい」は、その時点で、「わたし」が、「あなた」が、「彼」、「彼女」が、「そこにいた」。という事実によって、既に回収されていると考えます。

もしそう考えなければ、子が親に反抗すること、親の期待に背くこと、親を悲しませるようなことをすること、つまり子供の頃の「あの子」から避けようもなく変わってしまうこと、或いは恋人の、夫婦の間で、愛情が冷めてしまうことなど、「人は同じではない」「ひとは変わるのだ」という、哀しいけれど当然の事実に眼を背けていることになるのではないでしょうか?
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遺伝子には、細胞分裂回数を制限する配列(テロメア)があり、


決まった回数分裂すると、それ以上新陳代謝ができなくなり、
それが老化~死を招くのです。
つまし、多くの生物は本質的に自殺し、その事によって交配に
よる生殖&世代交代を可能にしているのです。
戦争では殺人によって英雄になれるし、歴史的に老人を捨てたり
生きたまま墓に入って入滅する文化が存在した。
家族や仲間のために役に立つ殺人や自殺は、社会進化において
排除されない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。生物にとって、種の繁栄が最高善であり、老死する遺伝子になっていて、戦争も繰り返されるようになっている。まるでなにかに動かされているようです。

お礼日時:2016/06/16 13:27

自殺することは悪いことですか?


    ↑
例えば、大切な人の為にとか、国家、人類の
為とか、武士の切腹のように、己の名誉を
守る為、とかいう自殺は良い自殺だと
思います。

しかし、いじめられて、おいつめられて、
なんて自殺は情けない自殺で、悪い自殺です。


自殺と他殺の相違点は何ですか?
    ↑
攻撃本能が他人に向くか、自分に向くか
の違いです。

だから、戦争をやっている間は自殺が減ります。
平和になると、自殺が増えます。


わたしの意見は、「悪とは言えない」です。
   ↑
善悪という概念は、人間が勝手に創った概念です。
人間にとって都合の良いモノを善、と定め、
都合の悪いモノを悪、と定めただけです。
だから自殺は、原則悪なのです。
悪だ、として自殺を抑制しているのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。切腹をどう捉えるべきかはむずかしい問題ですね。自殺時代に善悪があるわけではなく、自殺する本人の心の側に善悪があるということになりますね。 なるほど、都合が悪いから悪と設定している って感じで自殺の本質とは関係がないのですね。

お礼日時:2016/06/16 13:21

自殺は悪、というのが私の意見です。


神様から(親から)もらった命を粗末にするのはいけないこと、親や知り合いを悲しませるからいけないことという分かりきった点は省いて、そのほかに私が思っている悪の根拠を書かせていただきます。

「誰にも迷惑をかけずに死ぬのなら、個人の自由な気もしますし」と書かれていますが、自殺をする人(仮に私)がその場では誰にも迷惑をかけないとしても、私がこの年齢まで生きてきた時間の中で、私のために自分の持っている時間やお金や労力を使ってくれたBさん、Cさんがいるはずです。
その私が途中で自殺をするということは、BさんCさんが使ってくれた時間や労力、親切心を無かったことにしてしまうことだと思うのです。
つまりは、私に対して何も悪いことをしていないBさんCさんの人生の一部を私は傷つけ奪ってしまうということなのではないでしょうか。
(BさんCさんが私の自殺によって本当に心が傷つくかどうかはまた別の話で、あくまでも私の視点から見て、です)
なんの罪もない人を何の理由もなく傷つけることは悪いことなのだから、自殺も悪いことなんだと私は思っています。
誰かを傷つける、誰かの時間を奪ってしまうという点では自殺も他殺と同じです(もちろん、自殺と他殺は全く違うものですが)。
過ぎた時間は取り戻せないのだから、自殺した私が何をどうしてもBさん、Cさんに対して償いはできない。だから、私は自殺してはいけない。
他殺は他者の未来を奪う犯罪で、自殺は他者の過去を奪う犯罪だというのが私の考え方です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。今まで支えてきてくれた人達の愛情や苦労で形成されきた自分。その自分の首を自分でしめるというのは、たしかに、他者の過去のおもかげも一緒に殺してることになるのかもしれませんね。自殺もある意味では間接的な、他殺かもしれません。

お礼日時:2016/06/16 13:15

≪ひとごろし≫は 人間はしないことになっています。



神代のむかしから。

良し悪しの問題ではなく。また理屈でもなくです。



そのあと そのような倫理や道徳の問題が接ぎ木としての
ようについて来ました。

そして この接ぎ木の問題に関係なく ≪しないことにな
っている≫ことを おれはやるのだという自由度をもわれ
われ人間は持っている。そのように生まれつきの自然本性
にあって意志自由がそなわっているようです。

ただそれだけのことだと思います。

自殺も ひとごろしですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。しないことになっていながら、それを行う自由度ももっている。 善悪の問題ではない。確かに、そうかもしれないと思いました。

お礼日時:2016/06/16 13:10

家族、知人の自殺は悪いことであるので、その反射で本人にとっても良いとは言えない。

一般的にも自殺はよくないこと。なぜなら、悪じゃないからと言って、本人の自由に任せ社会的に自殺を容認し自殺幇助も悪でないとするなら、命の尊厳が低下し、殺人が増加すると考えられる。

自分の死を想定してしまえば、死ぬも殺すも自由だから、第一に自殺したいという人は、心優しいだろう。他人を犠牲にして、他人を殺して生きようとしていない。いいも悪いもない地点なのにもかかわらず、自分が生きようとしない。他人を殺してから自殺する人もいるが・・

自分がこの世から消え去る、自分の死後に自分がいなくなるんだという視点、辛い今の自分をやめたいという感じ方は、今を鮮烈に生きている証し。その人の死後、その人がいなくなったり、その辛さがとまるのは、他人の視点であって、本人は自分の死を体験することはない。その辛さが止まるというのは他人の視点。生きている本人の証し。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。自殺による死後の視点があるからこそ背理法的に生を肯定できる考え方が興味深いです。 世界の側を殺すのではなく、自分が世界から居なくなることを選ぶ、というのは、どこかちいさな良心が働いているのかもしれませんね。

お礼日時:2016/06/16 13:07

こんばんは。



"There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide."
『「自殺」こそもっとも哲学的な命題である。』といったのはカミュです。

個人的な意見としては自殺とは人間に与えられた権利であり自由です。

「人生が我々に与えた最大の贈り物は、いつでもそこから出てゆく自由である」というブルトンの言葉のように、

>誰にも迷惑をかけずに死ぬのなら、個人の自由な気もしますし、、

ということは、あなたは、(或いはわたしたち人間は)「誰にも迷惑をかけずに生きている」ということを前提しているわけですが、そのようなことがありうるのでしょうか?
「わたしは誰にも迷惑をかけずに生きている!」と言える人ってどんな人でしょうか?

逆に考えて、自殺という最終手段があるからこそ生きていけるということもあるでしょう。

ルーマニアのある哲学者は、「もし自殺という逃げ道がなかったら、わたしはとうに死んでいただろう」と言っています。

>自殺と他殺の相違点は何ですか?

本人の意志によるのかどうかでしょう。

古今東西、様々な文学者や哲学者、思想家が「自死」について考え、それについて述べています。

カミュのことばをもう一度よくかみしめてください。

答はここにはありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。自殺が権利であり自由であるという発想はありませんでした。自殺という最終手段は誰にでも選べることのできる平等なものですね。

お礼日時:2016/06/16 13:03

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