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自己の同一性について質問させていただきます。
前から少し疑問だったのですが、現在の自分と昔の自分は同じ私だったのだろうかということについてです。
5年前としたのは、5年前といえば私は中学2年生の頃であり、その時には自我を持っていると判断して良いと思ったからです。
中学生の私と今の大学生の私では思想や性格が非常に変化していて、精神的には別人と言っていいくらいだと思います。
何を持って自分を同一だとするのか、またはしないのかについて、みなさんの意見を教えてください。
肉体的な観点ではなく精神的な観点から教えていただきたいです。
宜しくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

輪廻思想と言われるものがあります。

過去現在未来を一つの世界、単位、ととらえ。
そこに於ける、縁起による、輪環、を考えようとものです。
二十年前、あなたの両親が、エッチ、した事が縁となり、あなたが誕生しました。
多くの動物種のなかで、体力、知力、ともに、劣る、最低レベルだったのが、当時のあなたなのです。それが変化し現在の貴方になつており。今の貴方が変化して、明日のあるいは五年後の貴方が起こる、白骨や土くれになっている可能性は当然ありますが、小さい可能性でしょうが。論語に。男子三日逢わずば括目して見よ。三日で別人になっている子がある。と言う意味でもあり、それが男の子の成長である、とも言えます。
肉体と精神は一体、肉体×精神=人間 という在り方であり、肉体がなければ精神はありません。
肉体と精神がある、と言うのは。肉体+精神=人間 と言うのは肉体がゼロでも、精神=人間といて、霊魂が残る、という。妄想です。五十年後ぐらいには。当時の私は何も考えてはいなつた。ただ性欲に支配されていただけだった。と思うかも知れません。私も貴方の年頃の時。ボリビアのジャングルで射殺された、ゲバラの写真を見て。人生、歴史への貢献しかないか。と思ったものですが。何の貢献も出来ませんでした。過去の自分と今の自分は同一人、であり、同一人、ではない。当たり前のような事でしょう。輪廻世界は、考え方であり、存在するのは、常に今だけなのです。世界は縁起の輪環である、とは、縁が変化を起こす方向性、つまり「時間」であり、起、が現れている今、つまり「空間」なのです。
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自分が「変わりたい」願うことも、「変わったなぁ」と感じることも、定点観測地としての「自己」があるからです。



逆から見れば、「自己」が存在しなければ、「変わった」ことも、「変えた」ことも、その結果「むかしと違う」ことも知り得ないということです。
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確実にはっきりしていることは、今現在ここに、「過去の自分」という意識を持った意識体である我が存在しているということです。

そしてその「過去の自分」というものが本当に存在したのか、また「過去」というものが本当にあったのかどうかということ、これも実は本当には分からない話なのではないかとも思うわけです。
一つは、時間とは何かという問題が、いま私の中で未解決のままだから、過去や未来というものについて、明確なことを申し上げられないという事情があります。そしてもう一つは、仮に「過去」というものがあったにしても、私の脳が、いつの時点でか、入れ替えられてしまっている可能性もあって、過去の自分は、本当は別の自分であったかもしれないという可能性もあるからです。(頭部移植は、来年だか再来年だかイタリアの脳外科医がロシアの青年に行うことになっています。ただし、これを頭部移植と呼ばず、脳を提供する側にとっては、胴体移植と呼ぶこともできるわけです)
このようなことで、あなたが問いかけられたことは、非常に深淵な内容なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:23

私は20代になって私の師から、古典的名著を読むことを本気で教わりました。

40前までは主にギリシャローマの古典的を主体とした西洋の古典、そして40過ぎてからは主に歴史書を主体にした日本の古典です。

そして20代の時そんな名著に接した結果、今後10年毎に、その10年前と同じ私で居たとしたら恥ずかしいことだと心に決め、一生以前の自分でなく変わり続けていられる人間になろうと決心しました。
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この回答へのお礼

名著は精神を成長させてくれますよね。ありがとうございます。

お礼日時:2016/07/05 02:23

1. 物理法則は時間独立だ、と言われる。


 時間の経過に依存せずに、物理法則は
 成立しているのだ。

2. 光速で運動するものは、時間経過しない。
 ところが、我々認識体(個体)から細胞>
 分子>原子>素粒子>クォーク>超弦
 (量子定常波)と原理的に遡るにつれて
 運動が速くなり、量子に至って光速に
 還元されるのだ。

3. 時間の経過を可能にする非光速性は、
 そうした階層現象性を表面的に(いい
 加減に)捉える事で派生している、
 仮想的なものだと言える。
 我々が真に捉えている感受表面の量子
 相互作用=光速からの、「超光速=
 時間逆行=過去(記憶)」と「光速下=
 =未来(予測)」の相補分化。

4. そうして仮想的に対発生した時・空
 軸は虚数関係にあり、その止揚として
 の時空において、等距離点に0の面
 (界面原点)を形成している。
 それがライトコーン=光量子の描く
 軌跡である時、そうした存在性は、
 仮想的時空への無の射影だと言える。

5. 量子論的な世界像における、無=
 不確定性無限の、潜在的認識可能性
 の変移(異なるプランク定数の時系
 列化=物体収縮=宇宙膨張)として、
 時間軸が得られる時、その異なる
 本質(プランク定数の収束)=異なる
 認識可能性(他人)を、自己同一視す
 るという、ある種の狂気に基づいて
 自我仮説は生じていると言える。
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この回答へのお礼

非常に興味深いです。ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:22

同一ではありません。

一瞬前の自分とも違います

そこにはアイデンティティ(自己同一性)と呼ばれる共通の個性が認められるために

自分と認められるのであって 飽くまで 同一性 であって 同一 ではありません。

この世に同じものは二つとありません。1+1=2何て現実はないのです。

我々は合同の三角形を描く事もできません。直線を引く事も出来ないのです。

全てはアバウトであり、同じと 思えるだけです。

同一なものはありません。
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こんにちは。


自己同一性、または単に同一性を、哲学や論理の用語として使うと、
そこでは、時間で変化するものが含まれません。
すなわち、同一性を持つ「あるもの」は、(常に)存在すると認識されます。
よって、この意味では、5年前のあなたと現在のあなたは同一性を持ちません。
一方、心理学的に自己同一性を使ったとすると、自ら行動できる能動性、自分はただ1人しかいないと思う単一性、時間によって変化しないという連続性、そして我という意識がある自我性、この4つの性質が備わっているとき、人間は自己同一性を感じます。もしあなたが5年前から今まで、この4つの性質をずっと満たしていると思えば、同一です。しかし、昨日寝てから起きるまでの間、私は意識が無かったから、その間、能動性、単一性質、連続性、自我性のいずれも満たしていないと考えれば、昨日のあなたと今日のあなたは同一ではないでしょう。
 問題は、昨日のあなたと今日のあなたが同一であると、何がそう思わせるかだと思います。
 同一性という概念は、ある意味で西洋哲学の根底をなすものですが、それは幾分宗教的、文化的なものです。インド哲学では同一性は主流ではないし、(過去または現在の)日本のように家が個人よりも重要であると考える社会では、家の同一性は重要ですが、個人の同一性は重要ではありません。
 5年前のあなたと現在のあなたが同一であると証明する方法があります。これは、人間(ヒトの方がいい)の本質を人為的に明確に定義することです。たとえば、ヒトのDNAのパターンは連続性、単一性を持っているので、これをヒトの本質とする。この時、5年前のあなたと今のあなたのDNAパターンが一致すれば、同一であると証明できます。(もちろん、能動性と自我性はヒトの本質には含まれません。一卵性双生児ならば単一性も含まれません。また何百億分かの確率で同じパターンがあるかもしれません。)ただし、この場合は、人間を人間ではなく、物として見なしています。
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この回答へのお礼

回答者様の心理学的な4つの性質が、私の問題意識と一番近かったと思います。とても参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:43

一秒後には別人。

体内で、血液は流れているし、髪の毛は伸びています。決して同一じゃない。

質問は、同一性なので、どこまで同じなら同一と言っていいかの話。結論はないでしょう。
せいぜい、どこまでを同一と見なしたら一般的かというところでしょう。

しかし、肉体を離れ、精神的観点ということになると、同一だと感じているものが全て同一。
精神の中での肉体も、常に愛用している物、例えばギターのような楽器も自分と同一化しますし、一方で、肉体も自分ではないと感じている人もいるでしょう。記憶が自分であるとするなら、夢、幻想、錯誤も含めて曖昧なものごとを含めて自分ということになります。

こうして同一性の要素をはがしていくと、何も残りません。確かな記憶?・・・いえいえ、何を見ていたのか曖昧なものです。
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この回答へのお礼

記憶も根拠にはならないですよね。
もっと学ぼうと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:37

客観的にみれば、現在の自分と昔の自分についての同一性というのは、記憶の連続性ということではないかと思います。

そのほかには肉体を構成する物質、思想や性格については何一つ同一と言えるものはありません。
しかし、実存的にみればもっと重要な問題があります。それは、この世界がほかならぬ私自身から開かれているということであります。このことは私秘的なことでありますから、客観的には「同一性」であるとは言いにくいですが、比較を絶しているという意味で「私は私でしかない」というしかないと思います。
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この回答へのお礼

独我論とか意識の超難問の類の話ですね。
それについても非常に興味があります。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:34

独断と偏見で



1)現在の「自分」が、5年前の「自分」と違う?

 仮に、答えが「違う」と仮定すれば、赤ん坊の「自分」と現在の「自分」は「違う」と
 言う事になるし、「昨日の自分」と「今日の自分」も違う事になる。
 1秒前は?

 それを認めた途端、「自分」が存在しなくなる。

2)「子供には無限の可能性が有る。」

 これは、正しいようで、正確には正しくない。

 「子供には、(有限の枠の中で)無限の可能性が有る。」と言う事だと思う。

 人間の成長限界は限られている。(いくら天才でも、トンボにはなれない。)
 しかし、その限界枠の中で、内容を充実させていく事は、無限に可能だ、というように理解している。

 一生をほのぼのと過ごした人と、波乱万丈の人生を過ごした人と、「限界枠」そのものは、変わらない。

 ほのぼのと過ごした人の人生は、波浪は無いが、やさしさに満ちているかも知れない。
 波乱の人の人生は、スリルに満ちているかもしれないが、失っているものも大きい。

 今回の例では、限界は有限であるから、自分が5年前に持っていた物を薄めて(希薄にさせて)
 経験や知識で、限界のある自分の内容を埋めてきた、と考えたら如何でしょうか?

 自分は「何も変わらない。」しかし、「構成要素」の変化が生じている、と言う事です。
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この回答へのお礼

その捉え方は斬新でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/05 02:28

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