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私は経済学徒です。
経済学を演繹すると
実態の経済になるはずです。
理論的には。

しかしほとんどの実態経済は
経済学の理論と異なります。

ここで経済学徒は悩みます。
で、結局は経済理論は、学者内のゲーム
に終わってしまいます。

最近、全く経済とは異なる宗教に
興味を持ち、実際の寺や教会に
行ってみました。実際の宗教には
全く面白くないものでしたが、
私の大学時代「宗教学」の授業が
あったのを思い出しました。

そこで質問です。宗教学は科学的
学問ですか。宗教学を演繹すると
実際の宗教の実態を現しますか。



ゲームに終わってしまいます

A 回答 (7件)

日本語がおかしいか、あるいは全く誤解しています。


「経済学を演繹すると実態の経済になるはずです。理論的には。」
経済理論をベースに演繹導出したものは経済理論の一部であって、実態経済ではないです。
「経済学徒」とはなんのことでしょうか。理論経済学を学び研究しているということを言いたいのでしょうか。経済問題に対する理解を深める、経済問題を抽象的に考える能力を付ける、統計学・計量経済学で学べる分析手法を習得するなどの目的やただ単に卒業したというレーベルを得たいと努力しているということでしょうか。哲学のサイトに投稿するなら、少しは考えましょう。

「宗教学を演繹すると 実際の宗教の実態を現しますか。」
日本語を学び直すか、「演繹」とはなにを差すのかを考えてください。
宗教学とか法学、工学、社会心理学、土木工学、経営学、服飾学、歴史学、行政学、薬学、医学(医療ではないです)、文学、哲学とかは、何を目指しているのか考えてみてください。 どの「学」も幅はかなり広くなっていることは間違いないですが、「○○学は、実際の○○の実態を顕そう(顕現させよう)」というものではないことくらいはわかってください。
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比較文化論でしょう。

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おじさんです。


「宗教学は科学的学問ですか」
→日本の学校で教えているものは全て科学です。
科学でないものは学校教育には含まれません。
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結局は経済理論は、学者内のゲーム


に終わってしまいます。
   ↑
そうですね。経済学ほどいい加減な学問はありません。
自然科学なら、理論が正しければ、飛行機は空を飛び、
電脳はエロ動画を配信します。
しかし、経済学の理論は実際の経済とは違います。
理論化は予想の為に行われるはずですが、経済学の
理論は説得力はありますが外れます。
そして外れた時の理論的説明は更に説得力があります。


宗教学は科学的学問ですか。
   ↑
宗教学にも色々あります。

宗教を科学的に考察する学問は科学的学問です。
例えば、なぜ人は神を信じるのか、
宗教の存在は、本当に治安維持に役に立っているのか、
プロテスタントの登場は、資本主義成功の原因
なのか、などは科学的探求が可能です。

全知全能の神がいるはずなのに、現実はどうして
悪がはびこり、矛盾が生じるのか。
これを説明するのも宗教学ですが、これは科学と
言えるか疑問です。

聖書には2000年前にキリストが誕生した
とあるから、それ以前には人類は存在しなかった、
なんてのは科学と対立します。
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宗教とは 乱暴に言ってしまえば 倫理思想です。



宇宙論や人間学を含むにしても すべては 人間関係としての
規範に向かいます。

倫理学は ひろくは経験世界を扱う哲学ですが 先ほどの乱暴
さをあらためるならば 宗教とは この経験科学であろうとし
つつも 基本としては その経験合理性という物指しにのみは
禁欲しない行き方を採っています。

つまり 超経験・超自然の世界へと手を伸ばします。あるいは
つまり形而上の何ものかの世界を 主要な場とする視点を す
でに絶対的に打ち据えています。





超経験世界というのは むしろ非経験の場と言ったほうが適切
だと考えますが 要するに≪知り得るか知り得ないかが知り得
ないナゾ として非知≫のことです。一般に 神とも言います。


問題は 神とわれとの関係は――非知ゆえに 経験思考を超え
ているからには――非思考となります。これが 世に言う≪信
仰≫です。


倫理規範としてのオシヘを 宗教は このあくまで個人のその
≪固有の時≫とも言うべき信仰なる非思考の庭から ふつう ヒ
ラメキをとおして得て来る観想ないしそれとしての命題にもと
づいて形成するものです。

≪なんぢ ころすなかれ≫というオシヘは 非経験の場にかかわ
るわが非思考の庭から ヒラメキをとおして 得て来たもので
ある。と同時に そのヒラメキ命題を あくまで思考をとおし
て形成したものです。



早い話が オシヘは 神ではありません。
あるいはつまり ひとはオシヘを信じるのではありません。


ところが――議論をすでに端折っていますが―― 宗教は この
オシヘを神とし オシヘを信じなさいと説く無効の行為です。

神を信じる信仰を蝉としたら その蝉の抜け殻が 宗教のオシヘ
です。


オシヘは だいたいは 倫理思想ですから それとして捉えるな
ら 一般に哲学として探究すればよい。ただし問題は この経験
思想なるオシヘを すでに哲学を超えた神そのものとして信じな
さいと説くこと これです。

よく言えば オシヘは 神という正解を問い求めるときの補助線
ではある。せいぜい ここまででしょうね 弁護するとすれば。

つまり 補助線を正解とするわけには行きません。





★ 宗教学は科学的学問ですか。
☆ 宗教という――無効の行為ながら 社会力学じょう有力とな
って現象する――社会事象について研究する宗教学は むろん科
学です。哲学あるいは社会学の中の一分野として位置づけられま
す。

(もっとも 無効の行為にもとづいていますから その現象を拾
い集めるといった味気ない内容になりがちです。むしろ そこに
うごめく人間たちについての心理学になるかも分かりません)。


★ 宗教学を演繹すると実際の宗教の実態を現しますか。
☆ 実態の拾い集めのようなものです。

形而上の場を除いた倫理思想の部分のみを扱うならば それは
思想であり哲学であると言える部分があります。

ということは そのような学問は けっきょく宗教学というよ
りは 哲学ないし倫理学の問題です。

要するに シュウキョウは 宗教である限り 百害あって一利
なしです。
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宗教は暮らしやすさにつながる道徳的知恵を


実態の方から追求していく人文科学的分野で
その土台を哲学的に詰めていくのが宗教学なのではないでしょうか。
そこにはその時点での認識の限界を越えた要素が内包されるのが宗教の本質ゆえの必然で
(宗教の本質を認識の限界を越えた部分に対する拠り所とすれば)
それゆえにその地点からの演繹からは実態に到達できないという確率が圧倒的に高いと言えそうです。

ではなぜその哲学的に詰めた説明が必要かと言えば
直観的に正しいと思われる道徳的価値観に
その時代なりの未熟な科学による常識の中で
説得力を持たせる必要性が社会的動物に過ぎない存在としての
人間に厳として存在したからだと思います。
暮らしやすさを求めるために。

そうするとむしろ
自然科学を進歩させて普遍性に近づいたその成果から演繹することで
宗教学を詰めていくことが可能になり
より普遍性に近づいた宗教学からの演繹により
実態への相関の高さを高めていくというのが
自然なやり方になるという結論に至るのだろうと思います。
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科学である以上、宗教の形而上の問題に関しては触れる事は出来ないですよね?


つまり、宗教の本質が形而上の問題にあるとしたら、それを解析する事は不能だと思いますよ。
あくまで、心理学・社会学・歴史学・比較文化学などの分野と共同で、どのように宗教が成立したのか、何故人は宗教を必要としたかを明らかにする事しか出来ません。(明らかにできないかもしれませんけどね)
それをゲームだと言えば、ゲームかもしれませんが、人間と宗教の関わりの端緒はわかるかもしれませんね。
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