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 私は、人を愛していると感じたことはありますが、逆に自分が人から愛されていると感じたことはありません。女性からは尊敬される場合はあっても、愛されているとは感じたことがありません。
 今、大好きな後輩が居て、いつも何かとやさしくしているつもりなのですが(酔って帰れなくなったと電話をかけてきたので迎えに行ったり、私の手料理を作ってあげたり)、まったく私の好意に気付いてくれていないんだろうなあと寂しく思っています。私は、自分が人から愛されていると感じたことが無い人間だから、その後輩が私のことをどういうふうに受け止めているか(ただの便利な先輩かな?)全く自信が無いんです。人に何かをしてあげる時は、いつも迷惑じゃないかな、うっとおしくないかなということしか考えられなくて、その後輩からも「被害妄想」を持っていると言われる始末です。自分が愛されていると感じることができたら、素直に自分の気持ちが伝えられると思うのですが、でも愛されていると生まれてからこのかた全然感じたことが無いので、余計自信が無くなって何も言えなくなっているんです。私の心は冷徹なのでしょうか?それとも鈍感なのか…(鈍感と言われた事がある)。ある意味心がどこか歪んでいるんでしょうね…。

A 回答 (22件中21~22件)

お礼をいただいたのでお返事です♪


私の友人の場合は、israfilさんのようにキャリアがあるから責任を感じる、とかではなかったです。その友人が海外へ行くのはそれがはじめてでした。おそらく、誰にも気を使わずに、自分のしたいことをしたいと思ったのだろうと思います。ダリのよさを誰かにわかってもらいたいとか、そういう気持ちではなく、彼女の趣味を極めたい、追求したい、そういう感じだったように思います。旅行というものは、誰かと一緒に何かを見たり感じたり、同じ時間を共有することでの共感みたいなものが良い時と、ひとりで出かけたい時と、あるのかもしれません。そういう意味で、israfilさんは『自立』されているように思いました。ひとりで過ごすこと、自分の嗜好を高めることに喜びを感じやすいのかな、という感じに思いました。『共感』というのは、誰かと同じような気持ちになることだと思います。愛していること、愛されていること、愛されていることの喜び、愛していることの喜び、そういった気持ちを、お互いに持ち合うことというか…

私の友達の感じた『責任』は、おそらく、自分の趣味につきあわせてしまうのではないか、という『遠慮』だったと思います。もしもダリに私が興味を持たなかったら私に迷惑かもしれない、そう思ったのだろうと思います。それは彼女の性格からの推測です。もしも、私が誰かと旅行に行くと決めた時、私はその人に全てを依存するわけではありません。楽しませて欲しいと受身に動くことはしないと思います。私には私なりの楽しみ方があるし、彼女も楽しんで欲しいと思うし、二人にとってステキな時間になれば、予想外のハプニングも思い出になるだろうと思います。私が友人を旅に誘う時は、二人でプランを考えますが、私が一方的に考えたり、『私にまかせて』とか言ってしまう場合には、責任を感じてしまいます。

『愛』や『やさしさ』は押し付けではなく、そうすることに自分も喜びを感じたり、相手が喜ぶ姿に共感することでしあわせを感じるようなものではないかなぁと私は思っています。

相手に依存することについてですが、それは、こちらのやさしさや提案にたいして、迷惑だと感じられることがあったとしたらごめんなさいね、という気持ちです。相手の『許し』についての依存や期待です。今のisrafilさんはもう少し誰かに甘えても良さそうに思えました。

この回答への補足

 すいません。usapさん。レスポンスが遅れて。
共感ですか…。私は、独りでも独りではなくてもよいのですが、たぶん相手優先に考えると思います。基本的に、相手が何も言わなかったり、相手が私の意見を聞きたいと言う場合、私は自己主張をします。幸い好奇心旺盛な性格なので、何を見ようが退屈しないでしょう。私が相手にあわせて我慢するわけではありません。それに私はどうせまた行く機会がありそうなので。
 私は、結局甘え下手ですよ。直しようがないのかなあ…。それにお節介が大好きなもので。自分では、いいかげん、お節介な性格も困りものだと思っているんですが。たまには自分の事をするほうが大事かもしれませんね。さらに人を甘やかすのは良くないとも考えています。「自分に厳しく、他人にも厳しく」、そうありたいなあと思っていますが、なかなかそのようにはいきませんね。
 私は、どうも誰かに甘えている自分というのを許せないんですよね。そう考えてみると自分を許せない人間が他人を許せるのかなあとか考え込んでしまいます。
 相手が喜ぶ姿を見るのは私だって嬉しいですよ。でも他人を喜ばすということは難しい…。何をすると他人は喜ぶのかなんてわからないものですね。そういうのってusapさんはどうやって考えていますか?

補足日時:2001/07/27 21:01
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補足をいただいたので・・・


人を喜ばそうということですが、私は人を喜ばすためだけに何かをすることはあんまりないかもしれません。相手のためにってよりも、自分がそうしたくてしてることが多いように思います。たとえば、プレゼントをあげるとしても、私がプレゼントを選ぶことが楽しいし、それをあげた時喜んでくれるかな?って思いながら、そういう時間が楽しいなって思います。私が誰かにプレゼントをもらう時も、その人が私がプレゼントを選んだ時みたいな気持ちでこれを選んでくれたかな?と思うとうれしさ倍増という感じです。だから、私の場合は「~してあげたのに」とは、あまり思わないかも知れません。

相手の気持ちは本人以外の人がわかろうとする時は、想像でしかないと思います。「うれしいよ」「ありがとう」その言葉の意味が本当はどうなのかは、わからないと思います。たぶん、自分が感じるように、人も感じるだろうと思うのだろうと思います。自分の感じ方でしか、人の気持ちの感じ方を考えるのは難しいと思います。今回の質問のように、愛することはできる、でも、愛されるのはわからない、愛されるってどういうことなんだろう、そう思うのなら、相手に愛が伝わってるかどうかはおそらくisrafilさんにはわからないかもしれないと思います。感受性を豊かにする、それはそういうことではないかな、と思います。愛のある映画や本を読んだ時、愛されることがわからない、それだと共感することは難しいと思います。「こういうことが愛されることなのか」と思うことができれば、相手がどうしたら愛を感じたり喜んだりするかはわかりやすいかもしれません。

israfilさんは優しい人だと思います。でも、相手のことを考えている、それは相手が本当に感じる気持ちをわかってることとは別です。自分が相手に対して好意的な何かをする時は、その行動の目的の半分以上が自己満足だ、私はそう思います。相手の行為に愛を感じるのは、それが相手の自己満足だと思うからです。そうしたかったからそうしたんだな、そう思うからです。私が誰かに何かをしてあげるとき、相手が喜んでくれれば、私の自己満足だけじゃなくなる、そのように思っています。自己満足することが悪いことだとは思わないし、その好意で相手が喜んでくれればラッキーくらいに思っています。

私は今まで割と接客業やサービス業をしてきました。お客様の満足、それはお客さんの立場になってみないとわからないから、私は自分がサービスを受ける立場になるような機会があると、いい勉強になる、と思っていました。そうすると、サービスをしてくれる人の心もわかりました。この人はマニュアル的にやってる、この人は仕事に誇りを持ってやってる、こちらの気持ちというか、お客様のことを考えてやってる、そういうのも、わかるようになりました。人の気持ちを感じることができるのは、そういうことではないのかな、と思います。
人と人でも同じだと思います。お店はお金をいただくから、サービスをします。それでも、お客さんはお金を払ってるのに、「ありがとう」そう言います。私はウエイトレスをしてたのですが、「ありがとう」そう言われる事がすごくうれしかったです。「客だから当たり前だ」「お金を払ってるから当たり前だ」お客さんがそう感じているとは私はあんまり考えなかったし、「仕事だから当たり前だ」そう思いながらサービスするのはおもしろくないとも思っていました。愛情もそんな感じじゃないかなって思います。ありがとうって言ってくれなくても、そうしていることで満足するし、それにたいしてありがとうって態度や言葉を示してくれれば、なおうれしい、そんな感じです。ここの質問に対しての回答と同じような感じです。回答するのは、私がしたくてしてることだけど、それに対してお礼がもらえればうれしいし、もらえなかったら、さみしいけど、それはそれでいい、そんな感じです。

もしも、israfilさんに対して、誰かが愛していてくれているとしても、israfilさんはそれをひとつも感じたことがないというのは、少しさみしいなと思いました。israfilさんが、あまり喜ぶことがないから、ささいなことで人は喜ぶものではないものだと思っているのかなと思いました。小さなことで「うれしい」「愛されているのかな」そう思うことが、人を喜ばせることをするこつだと、私は思います。

この回答への補足

 あなたは御親切な方ですね。私の補足を読んで下さるなんて。
 私もプレゼント選ぶときは楽しいですよ。去年の誕生日に私は自分が好きな人にプレゼントを贈りました。もともとあげることを約束していたので一生懸命考えました。
 それで昨日、そういう誕生日に関連する話題が出て、その子が言ってました。「Tさん(かなり年上のOBちなみに妻子持ち)からもらったプレゼントはすごく
うれしかったです。本当に意外だったのでうれしかったんですよ」と。すごくニコニコして話していました。
 私がプレゼントを渡した時は、一言「ありがとうございました」だけでした。そこで私は少し思い返してみました。彼女が私と接している時の事を。何人かの先輩、同輩に対しては、すごく楽しそうに話しているのに、私と接している時はあまり楽しそうではありません。二人でどこかに行った時もそうでした。
 酒の席で彼女が楽しそうに話していました。私は傍から黙ってそれを眺めていました。彼女があやまってお酒をこぼしてしまって、それを見て私は黙ってハンカチを差し出しました。すると彼女は今までニコニコしていたのに急に酒気が醒めたようなような顔をして「ありがとうございます」と言いました。私は余計なことをやったのか?と昨日の事ながらもまだ考えています。
 それに彼女が他の先輩G君(私にとっては後輩)に膝枕をしてもらっているのを私は見ていました。G君には、ステディがいると彼女の口から聞いたことがあったのですが、私の心境は複雑でした。一言で言えば「嫉妬」ですね。彼女はG君とステディとの関係を「幸せそうだ」と私に教えてくれましたが、今考えてみるとその心境はどうだったのでしょう…。
 自分は今まで「嫉妬」とかそういう感情を持ち合わせていなかったので、なんでこんな醜い気持ちを自分は抱いているんだろうと困ってしまいます。でも「嫉妬」を抱いたとしても、それは私の内面だけなので誰かが罰してくれるわけでもありません。だから私は自分で自分を罰しようと思います。私の「人間」ができていないから「嫉妬」を抱いてしまうんでしょうね。
 私は別に優しい人間ではありませんよ。私は、心の闇が深い人間だからせめて自分が何かしてあげたいと思うことだけは実際やってみたいと思うだけです。
 私も接客は、アルバイトですがやってました。寿司屋なのでマニュアルとかは無く、全部自分で考えなければなりませんでした。確かにお客さんに喜んでもらえるのはすごく嬉しかったです。でも基本的に私はお金をいただいている以上、しっかり働かなければならないとそれだけを考えています。お客さんに喜んでいただくのも仕事のうちですから。でもそうやって自分がやっていた時の事を思い出すと、やる気が無い店員が居る店とかに行った時は、すごく腹が立ってしまいますね。そういうところが私の心の狭さかもしれません。世の中にはいろいろな人がいるのが当たり前ですから。
 私は人から何かされるよりも、人に甘えてもらうことを喜ぶ人間です。人から何かしてもらっても、今度は私が何かを返さないとなと思うので、ある意味気が重いのです。でも人に甘えられるのはそれが無いので、私としては甘えられるほうが気が楽です。小さなことっていったいどんなことなんでしょう。そういうのに気付かない事が多いのかなあ?
 

補足日時:2001/07/29 15:46
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