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親が信者だと子供も自動的に信者になる宗教があって、その宗教は、毎日朝晩、読経することが課せられています(仏教系の新興宗教)。
小学生くらいでも朝晩仏壇の前に正座して読経するようですが、読経することは決して悪いことではないと思いますから、この子供達は、慈しみの心を持った、立派な大人になっていくと個人的には思うのですが。
子供に読経させることについて思うことを教えて下さい。
(時間的には、朝晩で計1時間くらいです)

A 回答 (13件中1~10件)

私も、読経している宗教団体に所属していますが、小学生くらいの子ども達に読経を強制しても、中学・高校になれば自我が芽生えてきて、恐らく半数以上がやらなくなってしまうと思います。



そこで、所属する宗教団体の指導者のアドバイスは、高校生位までは、勉強と学校生活を第一に考えて、親が強制するのはなるべくしないこと、ただ信仰心を養うのは大事なことなので、例えば受験とかの人生の節目や悩みにぶつかったときに、その信仰を実践してみてどうかということを体験させることが大事だというように言われています。

ですので、読経することを強制するのではなく、親がここだと思ったときに実践させてみることが、子ども達の将来にとって大切ではないかと思います。そうして、その信仰がよいものだと実感できれば、自発的に実践していくようになります。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/11 19:54

考えさせられる質問だと思いました。


そのせいか、質の高い回答が多いですね。
(ごく一部にそうでない回答も見られるが)
親が信者だと子供も自動的に信者になるのは、
子供の人権という点で、問題があるのではな
いでしょうかね。
多用な価値の中から選択する行為は、きちん
とした判断ができる年代になってからさせるべ
きでしょう。

子供だったら、ゲームで遊ぶ方が遥かに健全
だと思います。(笑)

>この子供達は、慈しみの心を持った、立派
>な大人になっていくと個人的には思うので
>すが。

そうなればいいのですが、その逆のケースも
有り得ると思いますよ。
その宗教を絶対視して、その宗教に僅かでも
批判の匂いのする見解には、条件反射的に
激怒するような、偏った人間になってしまう可
能性もはらんでいると思います。
例えば内部事情の暴露と受け止めて、この
ような質問自体に、いちゃもんをつけるよう
な人間に育つことがないことを、祈ってます。(笑)
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>親が信者だと子供も自動的に信者になるのは、
子供の人権という点で、問題があるのではな
いでしょうかね。

そうかも知れないですね。

お礼日時:2003/05/11 19:57

お答えさせて頂きます。

「どう思うか」と言えば、テレビゲームにうつつを抜かすお子様よりはるかによろしい。人間には色々な価値を持って生きている人々がおります。それで良いでしょう。何を質問するかそれにどう答えるか。時間の経過とともにその価値がはっきりしてきます。
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知り合いが、勤行と称して朝晩お経をあげる新興宗教の会員です。


小学生の二人の子供も、勤行をしているそうです。その宗教も、親が信者だと子供も自動的にという感じのようです。
もちろん、子供達に勤行を強制してはいません。でも、親が勤行をやっていて、親が勤行はいいことだと言えば、親にほめられたいがために子供もそれをすることは、自然の流れですよね。
ですから、その宗教団体では、小学生でも勤行をしている子がかなりいるみたいです。信仰の自由があるからとやかく言う気はないですけど、やはりこれは、ある種の強制だと思うんですよね。
宗教系の学校で、授業でするっていうのならまだしも、日常的に修行の一環としてお経を唱えるようなことを小学生にやらせるのは、非常に疑問に感じます。たとえ本人がそれを納得しているとしても。
親がするのを見れば、意味がわからなくても良いことと思って、マネをしたくなることは有り得ることですから。
ですから、小学生の間は信者にさせないで、中学生くらいになって、多少なりとも自我が芽生えてきた段階で、信者になるかどうかを判断させる方がいいと思えるのですが。
小学生のうちから、意味もわからないで、親がやっているから「良いこと」であると無批判に信じるようなことって、後々、物事の価値を自分の頭で判断できない人間になってしまわないかと、危惧してしまいます。
団体としては、そのような信者が増えてくれることが、願ってもないことなのかも知れないですが。
神とか仏とか、信仰の対象というものが存在することを子供のうちからわからせることは、良いことかも知れないです。
その時に、信仰の対象は必ずしも一つだけとは限らなくて、いろいろな種類があって、いろいろあることが争いごとの原因にもなっていることを説明するべきだと思うのです。
そして、他の人の信仰の対象も尊重しなければいけないことを、教えるべきだと思うのです。けなしたりしないという意味で。
また、己が信仰しているものであっても、信仰は絶対的なものでなく、場合によっては信仰を捨てることも有り得ると、そのくらいの柔軟性を持って捉えられるような教育が必要だと思うのですが。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>ですから、小学生の間は信者にさせないで、中学生くらいになって、多少なりとも自我が芽生えてきた段階で、信者になるかどうかを判断させる方がいいと思えるのですが。

そうかも知れないですね。

>また、己が信仰しているものであっても、信仰は絶対的なものでなく、場合によっては信仰を捨てることも有り得ると、そのくらいの柔軟性を持って捉えられるような教育が必要だと思うのですが。

そうですね。

お礼日時:2003/05/11 19:46

まさに、仏教系の新興宗教と世で言われている宗教団体のものです。


仏様の存在を子どもに教えること自体は悪いことだとは思いません。
ただ、子どもに強制してお経を唱えさせるということにはかなり無理があります。
自分が神や仏の存在を考えるようになってから、自主的に選択することが望ましい気がします。
うちの子なんて、親が毎朝毎晩読経してたって、まったく見向きもしませんし、「たまにはお前もやってみたら?」と言っても「ふふ~ん」ってなもんです。
うちの子は生まれて間もなく信者として洗礼(?)めいたものをしましたが、それが決定的に何かを強制するものにはならないので、そうと承知で我々親も洗礼させたわけです。
お宮参りと同じです。
本人が望まないと自覚したときには「じゃあ、仕方ないね」と言うまでです。
でも、繰り返しになりますが、神や仏のような漠然とした「親以外の絶対的存在」というのを知らしめることは、むしろいいことなのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/11 19:44

夏休みに朝ラジオ体操するとき、その30分前に、お寺のお堂にみんな集まりました。

(つまり6時ですね。)そして、そのラジオ体操集合場所であるお寺で、みんなで読経をしたものでした。

般若心経を中心として、舎利礼文など、いくつも読んだものです。小学校一年生当時でも、夏休みの後半の頃には、完全に暗記して読めるようになっておりました。今でも、かなりのものを覚えています。

地域の活動でして、私はその宗派でもなんでもなかったのですが、どうやらそのあたりのお経はほとんどの宗派で用いられるものらしかったようです。その後も、法事やお葬式などでは、お坊さんと一緒に唱和できることに、不思議な喜び、一体感を感じたものでした。

年齢も上がってくると、それらのお経の本当の意味は何だったのだろうと多少は興味も出てきました。難しいものはわかりませんでしたが、やはり大事な哲学が述べられているのだと感心したものです。

非常に極論として申しますので気分を害されては申し訳ないのですが、私は、読経は、一つの音楽だと思っております。さらにこれが唱和となると、音程云々は抜いておいて、れっきとした一つの合唱であり、場合によってはトランス状態に持っていく、空間作りでもあります。

キリスト教の教会が、声がエコーするようにドーム上になっているのも、似たようなものです。

そうした自分の体験より、読経は、子供にとっては全く意味がわからなくても、ある程度宗教的な境地に子供をいざなうことができるものだと思っておりますし、大人になってから解読して、哲学に目覚めるのもよいことだと思います。

ただし、それによって洗脳に近いところまでもっていこうとするのは大人のエゴですのでやるべきではないと思います。また、当たり前の話ですが、それのみによって「慈しみの心をもった立派な大人になる」などということに直結するとは考えられません。

あくまでも読経は、宗教音楽的な活動。解読は哲学。その上で、子供がその宗教を選ぶかどうかを考えさせないといけません。自動的に信者にさせてしまうとするならば、それは洗脳であり、視野の広いものの考え方は身につかないことでしょう。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>自動的に信者にさせてしまうとするならば、それは洗脳であり、視野の広いものの考え方は身につかないことでしょう。

そうですね。

お礼日時:2003/05/11 19:43

浄土真宗の教えが染み込んだ土地に住んでいる者です。


母や祖母が朝な夕なお経を読む声を聞いて育ちました。

小学校のときはお寺の「日曜学校」というものに通わされました。
日曜学校では子供向けにやさしく仏陀の生涯や親鸞、蓮如などの教えが説かれ、
帰ってからは学校で習ったお経を仏壇の前で披露(?)させられるのが常でした。
おかげで今でも「正信偈(しょうしんげ)」はそらで読めます。

そして6年生の時には京都の東本願寺に行き、
「おかみそり(帰敬式)」を受けて法名もいただきました。

つまり何を言いたいかというと、お経が空念仏になってはいけないということです。
空っぽの心でお経を読むことが直ちに慈しみの心を生むものではありません。
お経の一字一句の意味をわかれとまではいわなくとも、
念仏という行為の拠って立つところを小学生といえどもつかんでもらいたい、
ただそれだけです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>お経の一字一句の意味をわかれとまではいわなくとも、
>念仏という行為の拠って立つところを小学生といえどもつかんでもらいたい、

そう思います。

お礼日時:2003/05/11 19:41

問題は、新興宗教であるところですね。

たとえば、大学生でも、夏季のゼミ合宿よりも、信仰の方を重視して、信仰宗教の青年部の行事を取って、参加しなかったこともあります。生活が、新興宗教よりになり、他宗への寛容さがなくなることもあります。毎日の勤行よりも、他の友だちと遊ぶことが大切です。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>毎日の勤行よりも、他の友だちと遊ぶことが大切です。

そうかも知れないですね。

お礼日時:2003/05/11 19:40

そうですね。

お経の意味が分かっていなければ確かに意味はそれほどないようにも思えますし・・・

私は、通った学校が宗教系の学校だったもので、読経や写経もありましたけどね。般若心経など、お経は意味がある程度つかめてこその物だと考えます。


たとえば、慈しみの心を知るのにお経は大切と言っても、何故大切なのでしょうね?
立派な大人はお経を読めるのでしょうか?

別に読経しなくとも、慈しみの心を育て、立派な大人になることはできますし、逆にお経を読むだけではこれらの心は育まれないでしょう。

大事なのは、お経を読むことより、お経がどういうものかを知り、何故経を読み、どういう心で読むべきかを知ることでしょう。まあ、毎日すればどういうものかある程度分かる場合もありますし、逆につまらない物と思うようになることも子供によってあります。

そのため、まあ子供さんが何故お経を読むのか分かっていて、親もある程度そのことを話して教えているなら一概に悪くはないでしょう。ただ、親が入っている宗教に親が入った時点で入信し尚かつ子供も一緒に経を読みなさいと強制されているのは・・・。個人的にはこういう宗教はどうなのかなと思いますけどね。
否定はしませんけどね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>ただ、親が入っている宗教に親が入った時点で入信し尚かつ子供も一緒に経を読みなさいと強制されているのは・・・。個人的にはこういう宗教はどうなのかなと思いますけどね。

そうですね。

お礼日時:2003/05/11 19:35

宗教の意味もわからないうちに信者にすることは問題があります。



宗教に帰依することは、それなりに覚悟の要ることです。自我が確立し、自らが判断できるようになる以前に宗教に接触させることは危険を伴います。いろいろな宗教を客観的に判断できるようになるまで、特定の宗教を信仰させることは禁止すべきでしょう。

そのためにも義務教育の段階で、各種の宗教を教育することは大切なことだと思います。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

>自我が確立し、自らが判断できるようになる以前に宗教に接触させることは危険を伴います。いろいろな宗教を客観的に判断できるようになるまで、特定の宗教を信仰させることは禁止すべきでしょう。

そうかも知れないですね。

お礼日時:2003/05/11 19:34

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