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文庫結びは若い娘が結い、大人の女性は太鼓結びを結うのだと思っていました。

しかし時代劇などを見ていると、年齢に関係なく武家の女性は文庫結びを結い、
(ドラマ仁では、咲さんだけでなく、母親も文庫結びでした。)
町人の娘さんなどは貝の口?っぽいのを結んでいる傾向にある気がしました。

そこで質問です。
髪型のように、身分によって帯の結び方というのは決まっていたのでしょうか?
もしそうなのであれば、角だしやふくら雀など、
現代でもよく知られる結び方を身分別に分けて下さると嬉しいです。


もう一つ。こちらはお着物についての質問なんですけど、
ごくたまに着物の裾に綿?みたいのを入れて分厚くしてある着物を見るのですが
(最近はCMで姫様役の方が着ていらっしゃいました)
あのような着物は一般的になんというのでしょう?またどういうときに着るのですか?


合わせて、よろしくお願い致します。

A 回答 (3件)

 安土桃山時代は細帯でした。

今の男性の角帯くらいの太さで長さもそう長くはありません。
 それ以前は紐だけです。

 十二単は帯をしません。紐一本だけです。一番下に着ているものに細い帯を結び、どんどん着ていきます。
 一枚着るごとに前の紐を外して、次の物を着ます。よって、脱ぐのは簡単なんです。

 着物の丈自体が対丈といってくるぶしまでの長さしかありませんでしたので、おはしょりもしませんでした。

 その後に、御公家様が着ていた長い着物を一般庶民も着るようになり、たくし上げておくために腰ひもを使うようになり、その後に帯で綺麗に着飾る時代が来ます。
 
 采女(天皇に奉仕する女性)衣装がこの十二単をもっと豪華にしたものです。
 おびの文化はまだまだです。
 この着物を細くして帯にしたということもあったようです。

 お太鼓は、駒形橋が出来た時に深川の芸者が考案した結び方です。黒羽織を着るのもこの深川芸者の正装でした。
 当時は女性を「酒の奉仕の為」に雇うことを禁じられていたので「奴」という名前をつけて「男羽織」を着せてごまかしたのが由来です。

 それまでは文庫結びというよりも一文字という結び方です。帯揚げ帯締めは使いません。
 いいところのお嬢様や奥様だと文庫になります。また華やかに結ぶ場合は文庫にしました。場所や用事によって変えていたのです。

 町人は金襴・緞子を買えないので、角帯を今の半幅帯と同じように使い、結んでいました。長さもないものです。

 大奥では「縦矢結び」です。だらりの帯だと機敏に動けないためです。徳川時代になる少し前から太く長い帯が考案されました。まだ、大名の奥方か姫あたりが締めていました。それでも、だらりむすびです。何もやる必要がないからで、今の、着物にあたる「小袖」という着物の上に帯をしめ、打掛を羽織ります。これが「お引きずり」と呼ばれる裾に綿が入っているものです。今では花嫁と芸者・芸妓・舞妓さんしか着ません。日本舞踊や歌舞伎、能楽でも使いますが、少数ですね。
 位がしたになるほど、簡素になるのはどこの文化でも同じで、お下がりは綿を抜き普通に端折って着ていました。

 前結びは吉原などの「遊女」が締めた締め方です。
 これは早くに逃げ出さないようにというためです。走れませんものね・・・・。

 丸帯とは全体を円で織っていくもので、両方に柄が出来ます。金襴緞子というのはここから来ています。
 袋帯は表裏と別に織り、二つを合わせて縫ったもの。
 京袋帯は名古屋帯の長さしかありませんが一重太鼓しか出来ない長さの物。
 現代では430センチ以上の物が袋帯として織られている長さになります。

 名古屋帯については諸説ありますが、やはり名古屋女子学校の教諭が締めやすくするために最初から手先部分を折りかがっておく方法にしたとの説が有力です。

 昼夜帯は、引き抜き帯とも呼ばれ、本当に引き抜いてしまうと柄が出ないのですが、一部分だけ柄が出るように町人が工夫して織ってもらった帯です。おびの一部にだけ柄があり、他は無地です。一部分だけでもお洒落をしたかったのでしょうね。

 その後に、今の「全通」などが生まれました。
 ほとんどは六通といって、六回柄が繰り返されているもので、そのほかは無地、そして腹に来る部分と手先だけに柄がでるようにして織ったものです。
 昼夜帯だと無地部分が多いので、町人に人気でした。安いからです。今残っているのはほとんどが織の帯で、染帯は傷みやすかったり汚れてしまったりするので、あまり残されてはいません。

 ちなみに、御止め柄や献上柄というのは、殿様に差し上げたものを町人が使用する際に「高価なものですよ」という意味合いで使われました。今でいうところのブランド品か皇室献上に似ていますね。
 献上柄は博多帯に残っっています。
 御止め柄は江戸小紋などに残されています。

 織とずっと使って回答をしてきましたが、着物は本来は「織り」が先で、染が後です。
 友禅柄などはずっとあとに出来たものではなく、桃山時代からありました。
 当時の絵から小袖見本として現代にも残されています。

 国技館横の日本文化館にいくとみることが出来ます。

 帯の話、その結び方だけでも本一冊になりますから・・・・・この辺で失礼いたします。

 参考になれば幸いです。

 是非、着物を気軽に着てみてくださいね。

 
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最後の着物の種類については、「打掛」(うちかけ)だと思います。



内容はわたしもよく存じませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E6%8E%9B

これは江戸時代より前の、安土桃山時代の打掛だそうです。
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
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お太鼓結びが一般的になったのは明治も後期になってからです。


江戸の末期に深川の芸者さんが考案したようですが、一般女性に広まったのはかなり後の事になります。
従って江戸時代の武家の女性がお太鼓結びをすることは一切ありませんでした。
また使う帯自体が違います。
丸帯という幅広に織られた重さも長さもある豪華な帯が使われていました。
これを文庫または立て矢に結ぶのが武家女性の一般的な帯結びですが、実際は江戸中期頃までは様々な結び方をしていたようです。
後ろに結ぶとも決まっておらず前結びもしたようです。
召使いを従えた武家の姫君や奥方なら装飾性重視で良かったのでしょう。
丸帯を簡略化し締めやすくした形の袋帯が考案されたのも明治になってからでお太鼓結びの歴史と重なります。
さらにそれを簡略化したのが、名古屋の女学校の先生が考案したとされる名古屋帯、これは大正時代のことです。

そして豪華な丸帯を町の女性は締めません。もっと質素で軽く動きやすい帯を締めました。
何でも自分で作った時代ですからいろいろな帯があった事でしょう。
そんな中で江戸時代に流行したのが昼夜帯と言われる裏が無地の帯です。
時代劇ではこれを角だしに結んだ姿が江戸の町人の女性として登場します。
現代の名古屋帯の角だし(銀座結び)とちがって帯締めは使わずに引き抜き角だし(本角だし)に結びます。

ふくら雀に至っては昭和に入ってからのもので江戸時代にはなかったものです。
今は数限りなくある振袖の創作帯結びの元祖です。
ふくら雀を古典的な帯結びととる感覚に私はちょっと齟齬を感じますね。

さて着物の裾の綿ですが、これは厚みを出して豪華に見せる装飾的な意図で施された着物デザインの一つです。
ふき綿をする、綿をふく、等と言います。
現代では花嫁衣裳のほか舞台衣裳などに施されています。(歌舞伎の衣裳しかり)
また留袖や振袖、豪華な訪問着などには薄いふき綿を入れてあります。
これは江戸時代には冬場の時期に着る着物を綿入れに仕立てた歴史の名残です。
現代で言うところの袷(あわせ)の時期に重なりますが、空調のなかった時代の防寒の目的です。
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